蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2003年11月28日(金) ニシノくんの人生

川上弘美の『ニシノユキヒコの恋と冒険』(新潮社)を読み終える。

どういうわけだか体調の悪いときは、たいてい川上弘美のうそばなしを読んでいる。前に風邪をひいたときは『パレード』を読んでいたし、その前は確か『椰子・椰子』を読んでいたはずだ。ぼんやりとした頭で読むのがちょうどいいとでも言うのか、あんまり難しいことを考えなくてすむ。

今日もまだカコキュウの余韻を引きずっていて、自分の体が思うように動かない。自分の意志とは関係なしに体が暴走しそうな恐さがどこかにある。しかし川上弘美のうそばなしを読んでいる間は、そのことを少し忘れている。なんというのか、床から1㎝ほど浮かんでいるようなそんな気分なのだ。フワフワとした感じは気持ちよくもあり気持ち悪くもある。

さて、『ニシノユキヒコの恋と冒険』の話だけれど、これはニシノユキヒコというモテ男とつきあったことがある10人の女性の連作集になっている。10個のキラキラのビーズをニシノユキヒコという糸(ヒモ?)が通っている。それが実にうまくつなぎ合わされている。

ニシノユキヒコはただ通過していくだけなのだ。誰かの元にとどまったことがない。仮にとどまりたいと願ってもとどまることができない。それがニシノユキヒコの持って生まれた素質というか、きっとニシノユキヒコ自身どうしようもないことなのだろう。哀愁ただようモテ男、ニシノユキヒコ。

はっきり言ってしまうと、一度読んだだけではこの話がどのようにおもしろかったのかよくわからない。おそらくは1話読んではしばらく時間をおいて、登場人物(ニシノユキヒコとある女性)が心の中に住み着くのを待つのがいいだろう。なにしろ『ニシノユキヒコの恋と冒険』は、ニシノくんの幼少の頃から死んだ後までの、長い長い話なのだから。


2003年11月25日(火) カコキュウ?

連休明け。少し風邪ぎみなのを除けば、いたって普通の日。いつも通りの時間に家を出て職場へ向かう。電車の中ではドアの横に立ち、ときどき外を眺め、ときどき本を読む。

と、何となくめまい。本を閉じて、車内が暑いのかと思いマフラーをはずす。みるみるうちにドキドキが激しくなり、気分も悪い。のどに何か詰まっているようで息苦しい。さあっと血の気が引く。ひっくり返ったらまずいと思ってその場にしゃがむ。

しばらくして親切なお姉さんが、だいじょうぶ?そこ座りなよ、と席を譲ってくれたが、立ち上がったものの一歩も歩けない。結局、次の停車駅で電車を降りてホームのベンチに座り込む。手足は痺れ、はあはあと荒い息ばかりが目立つ。

すぐに治るかと思ったら、そのまま北風吹くホームのベンチに座ること40分。仕事に行くのは諦め、職場に「途中で具合悪くなったので休みます」の連絡をして、母に電話をし、相方にメールを送る。数分後、意を決して立ち上がり、反対側のホームへ行く。

それは過呼吸だよ。何人かに話すとそう言われた。あれが過呼吸(過換気症候群)。まさか自分がなるとは思っていなかった。20~30代の女性に多いらしい。

電車に乗るのが少しこわくなった。逃げ場のない感じ。いやだなあ、電車に乗らなきゃ仕事に行けないのに。


2003年11月21日(金) 生活を考える

昨日は雑誌ku:nel創刊2号の発売日。今号も川上弘美の短編と、江國香織姉妹の往復書簡はちゃんとある。このふたつはどうしたって欠かせない。

表紙ku:nelの下にちっちゃく「ストーリーのあるモノと暮らし」と書いてある。そういうコンセプトで作ってますよ、ということだろうか。言うまでもなく、誰の生活にもストーリーはあって、ただ生活者がそれを意識しているかどうかが、話の分かれ道なのだと思う。あえて言われなくても、本当は毎日が「ストーリーのあるモノと暮らし」なんじゃないのかな。必要なのは、いま目の前にある生活を楽しむ力、なにか面白いことを見つけようとする気持ち。

忙しくて時間に追われたり、嫌なことがあって気持ちがふさいだり、そんなことが重なると、私はだんだん視野が狭くなって、疲れた疲れたばかり繰り返すようになる。何も見てない。見ようともしない。

ちょっと待って。そういう日にもストーリーってあるんじゃない?

何も特別なことじゃない。おいしい。楽しい。うれしい。心地いい。自分がそういう気持ちになれるものを探すことだ。そして、見つけたら大事にすることだ。そうすれば今日も、ストーリーのあるモノと暮らし。


2003年11月20日(木) 大事におし

ふってわいた休日。午前中は美容院へ。のばしかけの髪が肩ではねるのでパーマをかける。ついでに前髪も短く切る。(その後、妹にはこの前髪が不評で、お姉ちゃんは前髪は似合わない、前の髪型の方が良かった、と歯に衣着せぬ物言い。妹はいつも手厳しい。いいじゃん、そのうちまたのびるんだから。仕方なく前髪は横に流してピンで留めてごまかす。)

小雨の降る中を吉祥寺へ移動。向田邦子原作の映画『阿修羅のごとく』を観る。映画館で映画を観るのは何か月ぶりだろう。4姉妹が父親の浮気疑惑をきっかけに、それぞれの愛の形を見つめる話。

長女・綱子(45歳)大竹しのぶ 
次女・巻子(41歳)黒木瞳
三女・滝子(29歳)深津絵里
四女・咲子(25歳)深田恭子

深津絵里の黒目がちな瞳を楽しみに見に行ったようなものなのに、意外にも私の関心は黒木瞳の演技に向かう。上手。とても自然で、それでいて印象深い。

「阿修羅」とは、言い争いの象徴とされるインドの神のこと。表面的には仁義礼智信をかかげながら、実は猜疑心が強く、互いに事実を曲げ、他人の悪口を言い合う…。(映画『阿修羅のごとく』公式ホームページより)

巻子の夫・鷹男が「女は、阿修羅だよなあ・・・」とつぶやく場面がある。女は表向き涼しい顔をしていても、心の内では何を考えているかわからない。亭主の浮気に気づいていても気づかぬ振りをして、満ちたりた様子で毎日を過ごしている。なんとも恐ろしい生き物だ。問いつめたり、わめき散らしたりする方がまだわかり易い。

そんな、阿修羅のような巻子が、母・ふじに向かって「結婚(生活)って難しい。」と、愚痴とも諦めともつかないことをぽつりと言う。ふじは微笑んで「おまえ、いくつになる?」と聞く。巻子は「しじゅういち」と答える。それに対して母の言った言葉がとても含みのあるいい言葉だった。もしもこの先、私が巻子と同じ立場になったなら(もちろん、ならないに越したことはないけれど)、この時ふじが言った言葉を思い出せるように、ちゃんと覚えておこう。

向田邦子作品はわりと好きで、今までに『あ・うん』『思い出トランプ』『せい子・宙太郎』『寺内貫太郎一家』『夜中の薔薇』『父の詫び状』『眠る盃』などを読んだ。『阿修羅のごとく』も気に入ったので、これを機に他の作品も読んでみようかと思う。


2003年11月19日(水) 所有-喪失

江國香織の新刊『号泣する準備はできていた』(新潮社)を購入。めまいをおして一気に読む。読み倒す。ひさしぶりに江國ワールドを満喫した。

『号泣する準備はできていた』は、小説新潮に掲載された6編とサントリークォータリーに掲載された6編の、合わせて12編からなる短編集だ。それぞれのタイトルは、こう。

前進、もしくは前進のように思われるもの
じゃこじゃこのビスケット
熱帯夜
煙草配りガール

こまつま
洋一も来られればよかったのにね
住宅地
どこでもない場所

号泣する準備はできていた
そこなう

自由奔放な言葉の並び。タイトルからして既に江國香織の雰囲気を感じる。「じゃこじゃこのビスケット」や「そこなう」なんて特に。発売日は明日なので、これから読むのを楽しみにしている方も大勢いるだろうから、内容にはなるべく触れないようにしたいのだけれど、ほんの少しだけ。

読みながら、過去の作品をいくつも思い出す。それぞれのお話に出てきた言葉とか情景とか。たとえば、『冷静と情熱のあいだ』であおいが言った「持ちたいわけじゃなくて、読みたいだけなの」とか、フェデリカの指輪をしている手とか、『ホリー・ガーデン』の果歩の眼鏡とか、詩集『すみれの花の砂糖づけ』にあった「失う」ことについての詩とか。それらはまるで暗闇にぽっと灯りがともるように、何かの目印のように、次から次へと思い出された。

12編の物語は全て「所有-喪失」の大きな流れの中にある。図らずも大切なものを手に入れてしまったら、あとはもうそれを失うしか前に進む道はない。意識しているしていないに関わらず、みんなそのことをとても恐れている。だから、うっかり大切なものを失ったりしないように、息をひそめて注意深く毎日を過ごしている。それでも喪失を避けて通ることはできないのだ。たとえ大切な誰かが今、現に、目の前にいても。江國香織の描く「喪失」はある意味とても厳しく、容赦ない。

ざっとひと通り読んだ限りでいえば、2番目に好きなのは「熱帯夜」。「熱帯夜」は気に入ったけれど、でも1番じゃない。1番はとても決めきれない。


2003年11月18日(火) こびと化

11月も半ばを過ぎ、昨日は木枯らし一号が吹いた。季節は着々と冬に向かっている。

乱視のせいか電車の中で本を読むとめまいがするので、最近は読書力が急激に失速している。今月に入ってからまだ1冊も読み終えていない。(読みかけの本は内田百閒『贋作吾輩は猫である』と中条省平『文章読本』の2冊。)

通勤時間は片道約2時間、往復で4時間近くかかる。この行き帰りが一日の中で私の自由になる時間の大部分を占めいている。家に帰ったらお風呂に入って電話して寝るだけ。朝もご飯を食べてお弁当作ってお化粧して出かけるだけ。だから電車で本が読めないのはとてもつまらないことなのだ。家が遠いのは不便なことよ。本が読めなくなってからしみじみそう思う。

今朝はいつもより早い時間にすっきり目覚めたはずが、朝ごはんを食べているとみるみるうちにテンションが下がり、晴れた空とは反対にどんよりと落ち込んだ気分。いったいどうしたいんだ、自分。

やっぱりきちんと本が読めているときというのは心も体も調子がいい。自分の中に新しいものが流れ込んでくる手ごたえを感じる。映画を見たり、美術館に行ったりするのも同じこと。もっと些細なことでもいい。丁寧に心を尽くすこと。対象に気持ちを傾けること。そういうひとつひとつが、少しでも心豊かに生きるための栄養になっていた気がする。

今、何もしていない自分に嫌気がさしている。ただ仕事に行って帰ってくる、それだけのことで疲れてしまい、ほかのことに目を向けられない自分に苛立ちを感じる。自分がどんどん小さくなっていくようだ。

----------------------------------------

11月上旬もいろんなことがありました。思い出しながら少しずつ書いていきます。


2003年11月02日(日) ベンジャミンの日

ちょうど4年前の今日、ベンジャミンがうちの庭に来た。文化の日の前日だから、なんとなく毎年思い出す。知らず知らずのうちに、ベンジャミンとも長い付き合いになった。

今日もベンジャミンは昼前にはうちにやって来て、玄関の横の塀にこま犬みたいに(猫だからこま猫か)ちんまりと座る。家族が出かけたり帰ってきたりして、横を通るたびに、にゃ、と短く鳴く。夕方には、お腹すいたよ~と甘えた声で鳴き、母からお魚ミックスのカリカリをもらい、食べ終わると階段をとっとっとっと、と降りてどこかへいく。

はじめのうち、猫はあまり好きではない、と言っていた父も、今ではすっかりベンジャミンのことを気に入り、姿を見せない日などは窓から、ベンジャ、ベンジャと名前を呼んだりするくらいだ。

失踪してみたり、けんかをして傷だらけになってきたり、どこをほっつき歩いたのか泥まみれになったり、忙しいベンジャミンだけれど、来年もまた元気な姿を見られるといい。


2003年11月01日(土) 重大発表

大学時代の友人10人くらいで飲み会。年に数回は会って近況報告をする私たちだけれど、今回の重大発表には驚いた。近々結婚する人3人。いきなり3人、である。

私たちもそんな年齢になったのだなあ、としみじみ思いつつ、私はいったいどうするんだ?どうしたいんだ?私にもこんな決断が本当にできるのか?などと、頭の中を焦りや不安や何ともいえない思いがぐるぐる駆け巡る。お酒もぐるぐるまわる。

素直に、おめでとうよかったねお幸せに、と言えばいいものを、嘘でしょ!えーっ!?あんた騙されてんじゃないの?などとひどいことを言ってしまった。申し訳ない。別に祝福していないわけじゃなくて、なんとなく結婚すると友達が遠く手の届かない人になってしまうような、さびしい気持ちがあったから。

素敵な人と出会えてよかったと思います。「意地でも」幸せになってください。


蜜白玉 |MAILHomePage