Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2004年03月31日(水) 子供を守るということ


都会には、「 田舎にない危険 」 というものが、たしかに存在する。

事故や犯罪の犠牲になることから子供を守るのは、はたして誰の責任か。


周囲の大人に迷惑をかけつつ、無邪気に走り回る子供は、転んだり、何かにぶつかったりしながら、「 たまには怪我をしたほうがいい 」 ように思う。

しかし、死んでしまっては取り返しがつかない。

今回の 「 六本木ヒルズにおける回転扉の事故 」 では、6歳の児童が首を挟まれて死亡するという最悪の事態に至り、大きな問題となっている。

あと僅かで小学校に入学できるという矢先の事故に、遺族や、周囲の人々の悲しみというものは、いかばかりなものであろうか。

葬儀の祭壇に置かれた真新しいランドセルからも、痛々しい印象を受ける。


この件についての報道は、一貫してビルの管理責任や、機器の製造責任、あるいは自動回転扉そのものの危険性について言及しているようだ。

事実、まだオープンして日が浅い同施設においては、30回以上も回転扉の事故が発生しており、なかには救急車の出動に至った事例もあるという。

いくら人気の施設で、膨大な人数の出入りがあったとはいえ、公共の建物を管理する責任を鑑みれば、過去の事故を見過ごした罪は重い。

それだけ多くの事例がありながら、効果的な対策を講じなかったビル側に、今後は賠償責任や、改善命令が下されることは間違いなさそうだ。

ただ、いくら多額の賠償をし、施設の改善をしたところで、幼くしてこの世を去った尊い生命を取り戻すことは叶わない。


個人的な本音を述べると、ビルや扉の問題もあるけれど、「 親の不注意 」 ということのほうが、事故の直接的な原因に思えてしまう。

先日も、百貨店のエレベーターに乗ったとき、小さな子供を扉の前に立たせたまま、母親は奥のほうで、友達との会話に興じている光景を目にした。

僅かな時間ではあったが、扉が開閉する度、子供の手が扉に挟まれないかと、近くにいた私のほうが気になるという状態であった。

電車、バスなども同様で、扉付近に幼い子供を放置することは危険である。

それぞれに安全対策や、怪我を防止するための施策は施されているだろうが、それは 「 最後の手段 」 であり、そこに依存することは望ましくない。


落胆している遺族を責める必要などないし、公共性の高い施設を運営する企業に対し、安全を確保する責任を求めていく主旨は間違っていない。

だから、メディアとして 「 親の不注意 」 には触れずに、あくまでも企業側の責任を問い続ける姿勢は、そのスタンスのままでよいと思う。

ただ、幼い子供を擁する親御さんたちには、都市の建物や乗り物に潜在的な危険があって、「 自らの手で子供を守る 」 ことを忘れないでほしい。

おそらく、あらゆる法律を厳格に改め、どんなに企業側が努力したところで、すべての危険を排除することなど、できないというのも事実である。

子供を危険から守る作業は、もちろん社会全体の責任ではあるけれども、それぞれの親に最大の責任があることを、再認識することも必要であろう。






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2004年03月29日(月) メジャー対日本


高校野球と、プロ野球と、メジャーの試合が同時期に鑑賞できる。

子供の頃の私みたいな野球少年には、楽しくてたまらない話であろう。


大人になっても野球が大好きで、頻繁に球場へと足を運んだり、あるいは自宅でビール片手に、テレビを観て一喜一憂する人たちがいる。

自分も野球は好きだけど、子供の頃のように 「 生活の一部 」 であったり、それが 「 最大の関心事 」 だったりすることはなくなった。

テレビ相手に、届くことの無い声援を、贔屓のチームに送ったり、敵チームを野次りまくる楽しさを、いつのまにか忘れてしまったようだ。

それについては、「 大人になり成長した 」 というよりも、「 情熱を失った 」 ような気がして、なんとなく淋しい感じである。

別に 「 どうでもいいこと 」 と言う人もいるが、その観点から突き詰めると、スポーツや芸術のすべてが、まるで 「 どうでもいいこと 」 になってしまう。


日米の野球交流である 「 親善試合 」 は、過去に二度、球場で観た記憶があるのだが、最初は大阪で 万博 が開かれた 1970年の話である。

サンフランシスコ・ジャイアンツが来日し、甲子園でも試合が行われるというので、家族揃って観にいった。

なにぶん10歳の話なので、試合の詳細 ( どっちが勝ったとか ) は覚えていないが、阪神電車、百貨店に張り出されたポスターの記憶は強い。

二度目は 1998年で、さほど野球に興味は無かったのだけれど、当時交際していた女性と、「 たまには変わったデート 」 と思い、チケットを取った。

このときは大リーグ選抜チームという豪華版で、マグワイアと本塁打王争いを演じた サミー・ソーサ が、来日メンバーの中心となっていた。


専門家じゃないので詳しくはわからないが、昨日の阪神対デビルレイズ戦、巨人対ヤンキース戦などを観ると、昔ほどの実力差はないように感じる。

これは、日本の選手がメジャーで活躍していることでも証明されているし、鳴り物入りのメジャーリーガーを招聘して、通用しない例もある。

ただ、選手の風貌や、振る舞いを見ると、メジャーの大物選手というのは、どこか余裕があるというか、日本人選手にはないオーラが出ている。

これは多分、もらっているギャラの違いで、ヤンキースの全選手の年棒を合わせると、なんと 200億円を超えるのだという。

ちなみに、広島カープの全選手の年棒合計は約 20億円で、その点からみると、技術より経済の部分で、日本はまだ 「 野球後進国 」 なのかと思う。






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2004年03月25日(木) 教育者の理性


子供の頃、将来の自分はどんな大人になるのか、あれこれ想像した。

中でも、「 おバカなままだったら、どうしよう 」 という不安は的中した。


体育会系だったので、学校の体育教師になる道もあったが、仲間の中では教職を選んだ者が、意外と少なかった。

こんな不況の世の中では、公務員は安定しているように感じるけれど、当時の感覚では、なんだかつまらないようにしか思えなかったのである。

それに、不謹慎な振る舞い、特に女子生徒に手を出すなどという不祥事を起こしてしまうのではないかという心配も、少なからず頭にはあった。

ひょっとして自分が、「 不謹慎でスケベなロリコン野郎 」 になってしまうと、それは大変なことだという不安が、教師という仕事から自分を遠ざけた。

結果的には、「 不謹慎でスケベだが、ロリコンではないね 」 という、まことに立派な大人へと成長したので、危惧するほどのことではなかった。


自他ともに認める硬派集団だった我々は、けして性的な欲求をあからさまにしない、専門用語でいうところの 「 むっつりスケベ 」 であった。

事実、女子と気軽に会話するのもためらうほどの状態で、暴発しそうな下心を抑え込むために、毎日が葛藤の日々を過ごしていたのである。

そんな中で、ただ一人 「 Y 君 」 だけは、異質の存在であった。

東京から転校してきた彼は、体力、根性ともに充実し、性格も良いという 「 ナイスガイ 」 であるうえに、女子にも臆することなく気軽に話ができた。

そんな彼をみて、我々は 「 チャラチャラしている 」 とか、軟派な奴だという陰口を叩きながら、内心では実にうらやましく憧れていたのである。


それは中傷めいた非難ではあったけれど、実際に彼は 「 女好き 」 であり、しかも浮気性の気質が強い 「 プレイボーイ 」 的な一面をもっていた。

その彼が、女子高の体育教師になるという話を知ったとき我々は、いつか彼が新聞紙上を賑わすのではないかという心配を、本気でしたのである。

何年か経ってから彼に会ったけれど、早々と結婚して ( 教え子ではない )、子供もでき、平凡だが幸せそうな家庭を築き、仕事も順調に続けていた。

彼の話だけではなく、偶然に、かつて彼の教え子であった女性の証言を聞くことができたのだが、どうも 「 評判の良い先生 」 のようであった。

生徒に人気があり、モテモテだが節度を乱さず、優しいという評判を知り、我々はなんだか安心したような、少し悔しいような、そんな気分だった。


セクハラの問題については、厚生労働省なども施策を進めてきたけれど、日本など 「 男女感 」 の固定概念が強い社会では、泣き寝入りが多い。

学校など教育現場でのセクハラは、アカハラ ( アカデミックハラスメント ) と呼ばれるが、これも閉鎖的、封建的な背景から、被害者が相談をし難い。

異性に魅力を感じるのは自然なことであり、たとえ相手が教え子であっても、恋心を抱く可能性は、まったく無いと言い切れるものでもない。

ただ大部分の人は、職業的倫理観や、自らの理性に基づいて行動するだろうし、他の生徒と平等に接することの妨げになる行為を、慎もうとする。

だから、そのような行為に走る人間は、特殊嗜好が強いとか、性欲が異常に強いというより、「 自らをコントロールする力 」 が脆弱なのではないか。


このところ、有名な演出家の 和田勉が女子大生にセクハラ行為をした事件が裁判沙汰に発展し、大きな話題となっている。

詳しくは知らないが、それは 「 女房と別れるから、一緒になってくれ 」 というほどの恋心ではなく、単なる 「 つまみ食い 」 の類なのだろう。

この件に関しても、加害者は理性を抑制する力が弱く、本来は社会の模範であるべき著名人としての責任に背く行為に及んだという見方もできる。

著名人という理由だけで、その人間性、良識などについて疑うことなく招聘した大学側も、安易に同道した被害者も、あまり理性的とはいえない。

損害賠償を払えという判決が下されたそうだが、けしからんので、苗字を 「 下利 」 に改名させるぐらいの刑事罰を与えてはどうか。
( お食事中の方、申し訳ございません )


最近、セクハラに関する実際の訴訟件数は増えているけれど、過去は被害を受けていても、明るみに出ないことが多かったのではないだろうか。

処罰を強化する手段もあるが、日本の場合は、性に対する意識や、文化的な風土を変えることで、被害が減少するように努めることが効果的だろう。

とかく日本人というのは、個人が強い精神力をもって、明確な意思表示をするということが苦手な一方、世間の風潮というものには影響を受けやすい。

日米間で比較すると、ご承知のように日本人というのは、特に前例のない案件などで個人が訴訟を起こすケースが極端に少ないのも事実だ。

理性を忘れて犯行に及ぶ加害者や、訴訟などの強行策をとり難い被害者もいるなかで、刑法を確立すれば問題が未然に解決するとは考え難い。


言葉の印象付けるイメージと、それを評価する社会の影響も大きい。

もっと、「 セクハラ 」 とか 「 ロリコン 」 という言葉に対して、世間の一般的な意識で 「 かっこ悪い 」 という印象が強くなれば、事件も減ると思う。

逆に昔と比べ、「 俺って、ロリコンだから 」 みたいに、堂々と言えて市民権を獲得してしまえている風潮も、テレビなどで耳にする機会が多い。

若者のドラッグなども、それが 「 格好いい 」 と思うか、逆に思うかの差で、世の中に蔓延してしまう危険をはらむように、これは大きな問題だろう。

それらの嗜好を全て 「 俗悪だから 」 という理由で禁止する必要はないが、人に知られたら格好悪いものだとは、印象付けたほうが望ましいと思う。






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2004年03月23日(火) 今後の予定


この日記を立ち上げて、二年と一ヶ月が経過した。

今後は、どのようなサイトを目指していくのか、思案中である。


まず、しばらく日記は続けるが、諸事情により、頻度的にみて 「 毎日更新 」 というのは難しくなるので、たぶん二日に一度ぐらいのペースになるだろう。

それと、『 深夜戯話 ( この日記を含むサイトの入り口 ) 』 については終了し、つまり、この日記以外のコンテンツはやめてしまう予定である。

今も、掲示板ぐらいしか更新していないし、それを利用する人自体も少ないので、あまり影響はないだろう。

もし、『 深夜戯話 』 の表紙などをブックマークしている方があれば、接続が出来なくなる前に、対象を日記の頁に変えていただければ幸いである。

ちょっと、個人的な状況に大きな変化が起きる可能性もあり、場合によっては日記の継続すら危うくなるかもしれないが、当面はこれで続けていく。


二年一ヶ月を振り返ると ( 本来なら、キリのよい二周年で振り返るのだろうが、スッカリ忘れていた )、楽しい思い出も多く、続けてきてよかったと思う。

人によっては、「 この日の日記が面白いよ 」 と、過去の日記から選り抜きのものを自薦されるサイトなどもあるが、そういう作業はしないつもりだ。

面倒だし、それに、この日記は 「 エッセイ 」 とか 「 コラム 」 みたいに整理されたものではなく、タイトルが示すとおり 「 その日の気分 」 にすぎない。

だから、ときどき 「 発信 」 という語句を使うが、自分の気持ちをぶちまけているだけなので、「 発散 」 と表したほうが、本当は相応しいのだろう。

最初の一年は、ほぼ毎日、更新を怠っていなかったので、おそらく 600回以上ぐらいは、「 気分 」 を発散させてきたことになるようだ。


書き始めた頃と違ってきたのは、日記を書く速度である。

その日の文字量にもよるが、当初は一日の日記を 30分前後で書き上げていたように記憶している。

滅多にメモなどはとらないが、書く前には 「 下書き 」 を頭に思い浮かべ、それを基にパソコンのキーを叩くことが多かった。

きちんと座り、ちゃんと 「 書くこと 」 に集中をしていたのだ。

それが何時の間にか、下準備もないままに書くようになり、途中でテレビを観たり、何か食べたりしつつ、ダラダラするようになってきた。


そういうわけで、最近は 一時間前後かかることが多く、内容はちっとも向上しない ( むしろ退化しているかも ) のに、作業効率が悪くなっている。

けして飽きてきたわけでもないが、たぶん正直なところ、最初の頃に比べると 「 書きたい 」 という気持ちが、あまり湧いてこなくなったのだろう。

もちろん、よほど書きたくないときは何も書かずに過ごすし、義務的に書いたことなど無いのだが、書きたいときも含め、最近は集中力を欠いている。

日記以外の私生活が、書き始めた頃に比べると複雑化しており、日記を規則的に生活のリズムへ組み込むことが難しくなっているせいもある。

いづれにしても、「 毎日、決まって行うこと 」 に時間をとられるのは、それが本来は楽しいことのはずなのに、負担に変わる危険もあり、改善したい。


どちらも 「 クダラナイ内容 」 には変わりないが、日によって、ちょっと深刻な社会問題に触れてみたり、昔話や、下ネタまがいの話も書いている。

堅い話を書いたり、少し攻撃的な語句を並べると、なんだか真剣に書いているような、気合が入っているような印象を与えているかもしれない。

実際は、あまり気乗りしなくて、「 今日は書こうか、どうしようか 」 というときほど、お堅い文章に終始していることが多い。

私の中では 「 ネタに困ったら、時事問題 」 というスタイルが定着していて、お堅い話ほど、横になって鼻毛抜きつつ、適当に書いていたりする。

もちろん、そこで書いている内容は、嘘の気持ちでも、社交辞令でもなくて、それは紛れも無い本心なのだが、あまり頭脳も労力も使ってはいない。


いちばん真剣に書いているのは、むしろ下ネタや、笑える話である。

他人を笑わせるために労苦を惜しまないのは、大阪人という生き物の習性であり、そういうときほど襟を正して、机に向かっていたりするのだ。

ちなみに、素人の面白さと、漫才師など 「 プロ 」 の面白さは異質である。

プロは、フィクションや芸で他人を楽しませるものだが、素人の面白さというのは、無意識な日常の風景や、存在そのものにある。

すなわち、素人が意図的に 「 面白がらせよう 」 とするのは、意外と難しい作業で、政治や経済の解説なんぞに比べれば、ずっと頭を使うのである。


面白いという感覚にも個人差があるし、様々な面白さのタイプがある。

他人を皮肉ったり、中傷することで生まれる笑いや、人の失敗を嘲笑するのも笑いの一部で、よくないと思っていても、思わず笑ってしまったりする。

それが極端に差別的だったりすると、傷つけられた立場でなくとも嫌な気分になるので、毒のある笑いは 「 さじ加減 」 というものが難しい。

強引に面白い話をしようとすると、素人はどうしても 「 毒 」 に走りがちなものだが、それは読者層を狭くするし、失敗すると敵に回しかねない。

そんなわけで、なるべく穏やかに、日常の面白いと感じたトピックスや、意見などを、これからは文字にしていければいいなと思ったりしている。






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2004年03月22日(月) 難問への回答


誰に読ませたい日記でもないけれど、他人の反応も少しは気になる。

だから、メールや、掲示板への書き込みは、欠かさずチェックしている。


星の数ほどあるホームページの中から、こんなしがないサイトを発見され、しかもご意見までくださる読者の方は、筆者にとって貴重な存在である。

当然、ご意見は真摯な態度で受け止め、ご質問に対しては、なるべく迅速に、可能な限り誤りの無いように返答しなければならないと心得ている。

通常なら、メールへの返答はメールで、掲示板への書き込みは掲示板で、返事をさせていただくし、原則として個人的な内容は第三者に公開しない。

ただ、中には 「 日記のネタ 」 にしたいと思うものも含まれる。

そういうのは大抵、投稿者のみならず、多くの方が興味を持っていただけるであろうと思える内容で、ちょっと返事に 「 行数を要する 」 ものである。


今回は、掲示板にいただいた 『 テヨテヨさん 』 からのご質問である。

ご質問内容は、『 これからは商売をするのに、何が必要でしょうか 』 だ。

彼は、山口県在住の大学生で、このサイトを通じて知り合ったのだが、出身地の大阪に帰省されたとき、一度、実際にお会いしたことがある。

ちょっと昔気質で純朴なところがあり、たぶん、いまどきの大学生で、こんな 「 直球の質問 」 をしてくるのは、彼ぐらいのものだろう。

同じ質問を薄汚れた大人から受けたら、「 そんなことがわかったら、自分でボロ儲けしとるわい 」 と答えるところだが、真面目に考えてみようと思う。


質問文に 「 事業 」 ではなく、「 商売 」 と書いておられたし、基本そのものが業態によって異なる部分もあるので、ここでは小売業に絞ってみる。

取り扱う商品を何にするかという問題もあるが、各種小売店全般に共通しそうな項目を抽出して、「 必要なこと 」 を考えてみる。

実際、繁盛している店舗にはそれぞれ別の特徴があったり、それを誰かが真似しても流行らなかったりで、すべてが理詰めでは解明できない。

ただ、だからといって 「 運まかせ 」 と答えるわけにもいかないので、ここでは私の思う 『 理想的な店舗運営 』 について、説明したいと思う。

ここらへんを武装していたら、はたして、儲かるかどうかまでは保証できないけれど、「 いい店 」 の条件は揃えられるのではないだろうか。


まず、頭の中に「 5つの縦軸と、3つの横軸 」 を思い浮かべてほしい。

縦軸は、① 商品の品質 [ Quality ]、② 接客サービス [ Service ]、③ 清潔さ [ Cleanliness ]、④ 雰囲気 [ Atomosphere ] 、⑤ 経営管理 [ Management ] だ。

この5つの要素を実現するにあたり、「 ハードウエア 」、「 ソフトウエア 」、「 ヒューマンウエア 」 という3つの側面を、各々、密接に関連付けていく。

ここでいう ハードウエア とは、建物、設備、備品など 「 物の類 」 であって、ソフトウエア とは、マニュアル、技術、技能など 「 ノウハウの類 」 である。

ヒューマンウエア とは、参加する従業員の力であり、具体的にいうと、店長のリーダーシップ、組織のチームワーク、士気など 「 人間関係 」 を指す。


こうやって、「 5つの縦 」 と 「 3つの横 」 を結ぶ 「 15の線 」 を描き、それぞれに明文化したマニュアルを作って、「 メインシステム 」 を構築する。

当然、「 自己満足のメインシステム 」 を決めたぐらいで商売は繁盛しないから、組織をスムーズに稼動させる 「 サブシステム 」 が必要となる。

それは、業務分担とか、教育訓練とか、評価制度とか、組織を十分に動かすための “ 補助的な仕組み ” で、業務遂行レベルを向上させるものだ。

このように、科学的な経営手法に裏打ちされた 「 テクノロジー 」 を持った人間が、体系的、相互関係的に、システムで店舗運営を行う。

理論としての 『 商売に何が必要か 』 については、だいたい、このあたりが基本ではないかと思うのだが、参考になったであろうか。


ただ、こんな理屈は、経済をかじった人間なら誰でも言えるし、そこそこの企業でマネジメントに携わった人間は、百も承知の話である。

私の本音的には、「 企業文化の成熟度 」 という点が、もっと重要だと思う。

それは、言葉や数字だけでは理論的に説明できない概念で、具体的には、社風、伝統、創業者の経営哲学、経営方針、組織力、人材の質などだ。

そして、なにより大切なことは、経営者自身のリーダーシップとか、能力や、資質、性格などを総合した 「 人間力 」 が、最後には成功の決め手となる。

もしも、自分の問題として 『 商売に何が必要か 』 を考えておられるのなら、昨日の自分に誇れる 「 今の自分 」 を磨くことこそ、最も必要なことだろう。






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2004年03月20日(土) 接客のスキル


昔、商談後の宴席で、某大手紳士服チェーンの社長と話す機会があった。

そこでは少し、お酒の効果もあって、普段とは違う 「 本音 」 を伺えた。


当時は、現在ほどではなかったものの、バブル崩壊による販売不振が深刻な問題となり始めていた頃で、「 右肩上がり 」 に急ブレーキがかかった。

そこで、冷え込んだ消費者の購買意欲を取り戻すため、各企業がこぞって行ったのが 「 低価格路線 」 への切り替えである。

それは、今日の 「 デフレスパイラル 」 に繋がる分岐点で、価格を下げるためなら、多少の品質低下もやむなしという風潮が、徐々に広がりだした。

ただ、すべての企業が同じ手法に走ったわけではなく、中には、最低限の品質と価格を保ちながら、ブランドイメージの向上に努める企業もあった。

そういったお互いの企業が持つ 「 政策とポリシー 」 の違いから、私のいた企業と彼らは、自然と取引の規模を縮小せざるを得ない状況であった。


商談中の彼らは、「 高い商品が売れなくなった理由 」 を、バブル崩壊後の経済情勢によるもので、それは 「 不可効力 」 であるが如く主張した。

たぶん、そういった主張を繰り返していた人の大半は、それ以外に考えられないといった様子で、その論拠を信じきっていたようである。

しかし、その社長は、各店舗の実態を見極め、違う意見を持たれていた。

彼は、真の理由を、「 各売場に配置した店員の、接客能力の低下 」 によるものだと考えていたのである。

ただし、それに対する効果的な改善策がとれない以上、企業のスタンスを低価格路線にシフトするしかないというのが、偽らざる心境であったようだ。


バブル期は人々の消費行動を活発にし、その影響は、衣・食・住 あらゆる分野に興味をもたらす結果となった。

当時、ビジネスの世界では 「 最近の消費者は賢くなった 」 という言葉が、まるで流行語のように飛び交っていたことを記憶している。

メーカー側も、競って自社ブランドの優位性と付加価値をアピールすべく、各種メディアを利用して、製品の細かいディテールなどを伝えた。

そのため、本来なら知るはずのない詳細な知識を、一部の消費者が蓄え、誇らしげに 「 ウンチク 」 を語ることが、一大ブームとなったのである。

80年代の グルメブーム や、DCブランド の隆盛などは、まさにそういった部分から端を発しており、それが文化を形成していったのだ。


では、消費者が製品知識を武装すると、どういうことが起きるのか。

それまでは ショップの店員 から、意味のわからないセールスポイントを推され、薦められるままに買っていたという状況が一変する。

店頭販売員の大部分は “ 素人に毛の生えたような ” アルバイト店員なので、もはや知識を武装した消費者は、購入時の選択を頼らなくなっていく。

実際、勉強不足の店員がウカウカしていると、顧客のほうが商品の特性について詳しかったりするため、「 店員への信頼性、依存性 」 は急落する。

最近の例でいうと、たとえば PC に詳しい人が、町の小さな電気屋さんよりも知識が豊富だったりすることも、まったく珍しい話ではない。


それだけが原因ではないが、時代は百貨店などの 「 接客販売型 」 から、量販店などの 「 セルフセレクション型 」 へと、変貌を遂げたのである。

名目上 「 ファッション・アドバイザー 」 などの肩書きを持った店頭販売員を置く大型紳士服量販店なども、昔ほど、店員がしつこく接してこない。

そんな中で、バブル期に売れた商品は 「 メディアで取り上げられた商品 」 や、巷で噂の商品などが売れ、知名度の低い商品は売れなかった。

衣料品でいうなら、おそらく ユニクロ が台頭してくる以前は、知名度の高い安物が存在しなかったので、「 高くてもブランドが売れる 」 時代であった。

未曾有の好景気に支えられて、メーカーは溢れるばかりの情報を発信し、消費者は潤沢な商品知識と豊かな可処分所得をもって、買い物に走った。


やがてバブルは崩壊し、今度は消費が低迷する 「 平成不況 」 が訪れた。

不況期に、企業が真っ先に予算を削減するのが 「 広告宣伝費 」 である。

また、経費の中で大きな構成比を占める 「 人件費 」 については、たえず売上の進捗に応じて見直されることになる。

つまり、メーカーからの情報発信が無くなり、店舗人員の人配率が低下するという状況が、徐々に広がっていくのである。

セルフ販売への流れは、バブル期は、消費者の知識が豊かなため、店員の必要性が減少して進み、今は人件費の削減から、やはり進んでいる。


よく考えればわかる話だが、バブル期に商品の情報量が多かったといっても、それは所詮、メーカーに都合のいい情報に過ぎないのである。

それぞれ、「 うちの製品は、ここが優れている 」 という主張はするが、粗悪な商品の見分け方や、本当に有意義な特徴かどうかは、あまり伝えない。

その情報すらも途絶えた今、消費者に 「 価値のある付加価値 」 を見極める術などなく、しだいに高額商品は売れ難くなっていったのである。

品物を見極められない消費者でも、指標にしやすいのが 「 価格 」 である。

その商品が良いか悪いかは判断し難くても、値段が高いか安いかは素人でもわかるし、折りしも不況の影響を受け、低価格路線に火がついたのだ。


長くなったが、セルフ化が浸透した時代だからこそ 「 接客 」 というポイントは、競争に勝ち抜く重要な鍵になっているような気がする。

人件費を削減しつつ、接客のスキルを向上させるというのも至難の技だが、たとえば飲食店などは、欧米のような 「 チップ制 」 の導入はどうか。

賃金は高くないが、顧客の満足度によって従業員へ直に報奨が与えられるという仕組みは、経営の負担を軽くし、顧客の印象を高め、従業員が潤う。

国内で実施する場合に、税制や、法務上の問題があるのかもしれないが、接客販売業に携わる人たちのスキルが上がるなら、試す価値はある。

欧米並みに習慣化して、義務的に支払われるようになっては意味も薄いが、愛想の良い店員が増えたら、少しは社会も明るくなるように思う。






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2004年03月19日(金) 素人の限界


日本の諺に、「 百聞は一見にしかず 」 というものがある。

欧米の諺にも、「 Seeing is believing. { 見ることは信じること } 」 がある。


ほぼ同じような意味で使われるが、たしかに、いろんな情報を集めて、知恵を絞って分析したところで、実際に体験しないとわからないことがある。

世の中の森羅万象すべてに精通している人などいないので、皆それぞれに、得意な分野というか、馴染みの深い分野というものもあるだろう。

だから、あまり馴染みのない不得意な話を、断定的な口調でコメントしたりすると、専門家とか、その道に精通している人の失笑をかったりもする。

この日記もそうだが、最近はインターネットの普及により、誰もが全世界に向けて、まるで評論家のような気分で 「 持論 」 を発信できる時代だ。

プロの評論家と違うのは、たとえば、間違った自己主張を述べても、大抵は 「 読み手の暖かい思いやり 」 によって、許してもらえるところだろう。


もちろん、自由な個人日記なんだから、得意なことを書けばいいというものでもないし、不得意な話題に触れてはいけないというものでもない。

ただ、こんな 「 らくがき帳 」 みたいな日記でも、丸二年 ( 気付かないうちに二年経ってた ) も続けていると、それなりに閲覧者はいる。

読者がすべて 「 また、いい加減なことを書いてるなア 」 と、訝しげに読まれているのなら問題ないが、もっと “ ピュアな精神 ” の方もいるだろう。

もし、自分が間違った知識や、偏った意見を述べていたとすれば、それは健全な読者に対する 「 冒涜 」 であり、ちょっとした 「 罪悪 」 でもある。

当然、意図的に 「 嘘 」 を書くつもりはないが、自分勝手な 「 思い込み 」 を堂々と発信しているのではないかと、ときには不安を感じたりもするのだ。


特に最近は、「 白黒ハッキリしない問題 」 も多い。

たとえば、マラソンの高橋選手が五輪候補から落選したことなどは、それが正しい決断なのか、間違った選択なのか、世論も五分五分である。

なかには、もっともらしく 「 高橋選手が名古屋に出なかったのが悪い 」 という意見を述べる人もいるが、それは 「 陸連 」 を知らない人の意見だろう。

以前にも述べたが、この問題は選考基準の 「 本来、あるべき姿 」 に問題があり、現体制での 「 結論 」 については、良いも悪いもないのだ。

つまり、最初から 「 このレースに出て結果を出さなければ合格させない 」 という指標を、そのレースが “ 行われる前に ” 明示すべきだった。


戦争の是非も同じで、世の中が 「 本来、あるべき姿 」 であれば何の問題もないはずが、一部の不届き者によって、そうではなくなっている。

あるべき姿を失った範囲では、正しい選択などあり得ないのではないか。

つまり、戦争に反対でも、賛成でも、イラクに自衛隊が行こうが、行くまいが、それは 「 善と悪 」 ではなく、「 悪と最悪 」 ぐらいの選択なのである。

これを、「 善と悪 」 というスタンスでしか考えないと、「 戦争 → 人が死ぬ → 悪 」 か、「 戦争 → 正義の我が軍 → 善 」 程度の思考に留まり易い。

こういうことは、「 悪と最悪 」 で考えるほうが正しく、無理に正当化しようとすれば、どうしてもそこに矛盾が生じてしまう。


それでも誰もが、「 どっちがマシか 」 という答えを求めていて、苦労をして他人が出した苦肉の策に、ある者は共感し、ある者はケチをつける。

また、よほどの暴君でもないかぎり、大部分は 「 こうします 」 と語りつつ、周囲の反応をみて、審判や評価を仰いでいるのではないだろうか。

そう考えると、素人が限られた条件下で、知り得る僅かな情報を元に時事問題を外野から揶揄しても、ちょっと茶番のような気がしないでもない。

実際、時間があるときに過去の日記 ( 自分の書いたもの ) を読み返してみたが、時事問題について書いたものは、大抵どれも不出来である。

他の人の日記もそうだが、中身の無い意見で天下国家を論じるより、些細でも実体験に基づく話題のほうが、なんとなく読んでみて面白い気がする。






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2004年03月18日(木) 今季最後の ふぐ


阪は 「 ふぐ の消費量 」 が、全国一多いそうである。

そろそろ、鍋も食べ納めということで、友達と ふぐ を食べに行ってきた。


たとえば、東京で ふぐ を食べようと思っても、大阪に比べると、取り扱っている飲食店が少ないような気がする。

一口に ふぐ と言っても、品質はさまざまなようで、価格も ピンからキリまで 存在するのが実態だ。

どうも、物価の問題と言うよりは、東京では 「 ピン 」 の ふぐ を扱う高級店が集中していて、「 キリ 」 を庶民的な価格で提供する店が少ないらしい。

その点、大阪は 「 大衆食堂 」 のような店構えのところでも、“ 価格なりの ” ふぐ を食べさせる店が多く、日常的に食べる習慣も多いようだ。

逆に言うと、大阪でも 「 とびきり美味しい ふぐ 」 が食べたければ、ちょっと “ 清水の舞台から飛び降りる ” ぐらいの覚悟が必要となる。


今回お邪魔したのは、古くから通っている天満の名店で、当然、味に関しては期待を裏切られることがない。

出費に関しても、覚悟を裏切られることはなく、食べて溜息、支払うときにはまた、別の意味で溜息が出る。

最初は接待に使っていたのだけれど、最近は個人利用ばかりである。

経済的な問題もあるが、いくらお金があっても、こういう店をプライベートで使うには 「 年季 」 が必要で、あまり若い人には似合わない気がする。

店内は、いつも年輩の粋人で賑わっているが、もしも 20代のカップルなどが目についたら、たぶん “ 首を絞めたい ” ほど、生意気に感じるだろう。


こういう店は、デートに使うべきでなく、食通の男友達と行くのが正解だ。

二人分を負担するには費用がかさむし、同じ出費なら、食事以外にも空間を楽しめるような 「 フランス料理 」 みたいなほうが、デートには相応しい。

女性と ふぐ を食べたこともあるけれど、それは 「 それなりの店 」 で、今回のような 「 とっておきの店 」 とは異なる。

自分の名誉のために付け加えると、「 ケチっている 」 わけではなく、「 美味しいモノを食べる気合 」 と、「 美味しい思いをする気合 」 は違うのだ。

かえって 「 好感度を下げる言い訳 」 をしたところで、話を先に進める。


魚を使った鍋料理にも様々な種類があるけれど、なぜかしら ふぐ の場合は、刺身、唐揚、白子のポン酢和えなど、「 ふぐ づくし 」 を食べたくなる。

ふぐ の刺身 ( てっさ ) などを肴にして熱燗を呑むのだが、日本酒はキレのよいスッキリしたタイプが好みなので、めったに 「 ひれ酒 」 は頼まない。

白子は、ポン酢で食べるのが一般的だが、この店は ( 高いだけあって ) 贅沢なことに、ふぐ鍋の中にもドーンと大量に入る。

そして、唐揚の骨をひたすらしゃぶりながらチューチューしている頃、本日の主役である 「 ふぐ鍋 」 が、芳香とともに煮立ってくる。

きっと毎回、同じものを同じように頼むので、「 唐揚のチューチュー 」 と鍋の蓋を開けるタイミングは絶妙に合い、時期を逸することはないのだ。


美味い ふぐ の鍋を食べると、出汁が良いせいか、一緒に炊いている野菜や、葛きりなども美味く、どんどん箸が進む。

店主いわく、長年使い続けた鍋には旨味が染み込んでいて、洗浄はするのだけれど、新しい鍋とは味が違うのだそうである。

だから、たとえばこの鍋を自宅に持ち帰って、ふぐ にかぎらず、いろんな鍋料理をしても、白米を炊いたりしても、やっぱり美味しいのだという。

たしかに他店に比べると、かなり古い、年季の入った鍋である。

ふと頭に、「 料理の下手な人が長年使った鍋 」 を一流の調理人が使うと、「 おやっ? 」 となる駄作ができるのかなどと考えつつ、さらに食べ進む。


あらかた鍋を食べ尽くすと、雑炊の準備にかかる。

いろんな鍋で雑炊を試みたが、ふぐ鍋の後の雑炊ほど美味いものはない。

正直に言うと、魚の味そのものは 「 あんこう 」 や 「 クエ 」 のほうが美味しいようにも思うのだが、雑炊だけは他の追随を許さない。

言い換えると、この雑炊が食べたいからこそ、高い出費をしているようなもので、本当の主役は 「 ふぐ雑炊 」 だと言っても過言ではない。

ご飯と葱を入れ、煮立ったら卵を流し入れて蓋をし、火を止めたら出来上がるのだが、食べるときに少量のポン酢を入れるのが、私の好みである。


一度の食事に費用をかけても、「 満腹になったら、なんでも同じ 」 だという人も多く、たしかに翌日には、すっかり忘れてしまうものかもしれない。

ただ、たまには思い切って贅沢をし、「 また来年も、これを食べれるように頑張ろう 」 と思うのも、自分に対する励みにはなるだろう。

そういう食事には、なんらかの 「 儀式 」 とか 「 作法 」 みたいなものを感じられるものが相応しく、そうでないと記憶に残りにくい。

そこで一緒に食事をする相手は、自分と同じような境遇で、同様に頑張っている友達がよいと思うし、彼も同じような気持ちで参加しているようだ。

これは、高級料理を毎日食べられるような金持ちには解らない心境だろうから、ひょっとすると 「 贅沢とは、貧乏人の快楽 」 なのかもしれない。






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2004年03月17日(水) テロに共鳴する連中


スペインで鉄道テロが発生し、多くの尊い人命が犠牲になった。

日本でも同様の事態が懸念されるのではないかと、物議をかもしている。


テロ直後、スペインでは、イラク派兵に合意した政府与党が選挙で敗退し、野党に政権を奪取される形となった。

小泉首相いわく、「 日本とスペインでは事情が違う 」 とのことだし、それに、多くの人が支持政党を変えた背景には、テロ以外の理由もあっただろう。

ただ、このようなタイミングで政権が変わり、新しい指導者が派兵をとりやめたりすると、ちょっと 「 テロリストの思惑どおり 」 のような気がする。

日本政界でも、民主党の代表あたりは早速、それを政治利用しようと画策しているようで、どうも感心しない発言が出始めている。

事情はともあれ、他人の不幸を自分達の利益に結びつけるような手法は、倫理観に欠けているような気がするのだが、どうなのだろうか。


事件の後、スペインでは大規模なデモが、立て続けに行われた。

個人的に 「 デモ 」 は大嫌いなのだが、スペインでのデモは、「 テロに反対する抗議デモ 」 であり、人々の平和に対する祈念というものが感じられた。

日本で繰り広げられるデモに辟易するのは、真実の敵であり加害者であるテロ組織を糾弾せず、政府与党や、アメリカ政府を標的にするところだ。

その姿は、「 外で不良にイジメられた子供が、相手には怖くて逆らえないので、お母ちゃんに泣きながら文句を言う 」 様子にそっくりである。

支離滅裂なことを泣きながら叫び、母親の胸を小さな拳で叩くことが自分の使命であると思い込み、本来の敵と対峙することなど、思いも及ばない。


日本政府にケチをつけたり、アメリカ大使館に嫌がらせをするのは、相手がけして自分に対して 「 危害を与えない 」 と知っての甘えである。

口先では 「 アメリカは冷酷な乱暴者である 」 と叫ぶ片方で、アメリカ人は嫌がらせや悪口に対しても、良識的に反応してくれることを知っている。

そんな 「 幼稚で馬鹿馬鹿しい自己満足 」 のために、道路を渋滞させたり、騒音を発したり、海外に恥を晒す連中は、まことに愚の骨頂である。

日本でも、たとえば広島で原爆の犠牲になった方々への慰霊会など、本当に犠牲者の冥福と、未来の平和を祈ることを目的とした厳粛な集いもある。

実際に米軍の攻撃によって肉親を失った遺族のほうが、アメリカへの恨みつらみではなく、死者を弔うことに専念しているというのも皮肉な話だ。


どこの党に投票しようが、デモやら集会に参加しようが、それは個人の自由なのだが、動機や目的を誤らないようにしたほうがいいだろう。

個人のサイト等でも、イラク派兵に関して反対したり、それを理由として小泉政権に難癖をつける人たちの文章には、かなり危険な兆候がみられる。

たとえば、「 ブッシュは犯罪者だ 」 とか、「 アメリカを支持する日本政府も同罪だ 」 とか、そういった記述が目立つのだ。

それは、どこかで見たことのある台詞だなあと思い、よく考えみると 「 テロ組織が犯行声明に使っている言葉 」 と、そっくり同じなのである。

彼らにはテロ活動を行う度胸などないので、そういう心配はしていないけれど、性根がひねくれてしまったせいで、犯罪者の思想に傾注しているのだ。


一部の狂人を除けば、平和を願う気持ちは誰しも同じであろう。

ただ、「 今の世の中は平和なので、じっとしていましょう 」 と考える層の人たちは、憲法が変わったり、自衛隊が動くことに反発しやすい。

彼らにとっては、その活動が、飲み水を浄化したり、病院や学校をつくることを目的としていても、あまり気休めにはならない。

反対する意見は、戦争への加担なのか、奉仕的な活動かということよりも、発端が 「 自発的な善意か、同盟国への協力か 」 に主眼を置いている。

一方では、「 今の世の中は平和でないので、対策が必要 」 と感じている層もあり、現状から目を逸らさないならば、そちらが正しいように自分は思う。






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2004年03月16日(火) 旧友の訃報


私の予測は見事に外れ、高橋選手は 「 アテネ行きの切符 」 を失った。

個人的な気持ちとしては、応援していただけに、この結果を残念に思う。


夕方、駅のスタンドに並ぶタブロイド誌の早刷りは、「 高橋 落選 」 の大きな文字が一面を飾り、衝撃的なニュースといった扱いであった。

たぶん、海外のメディアや、陸上関係者にも、興味深い話題となるだろう。

陸連でも、かなり考えて ( 自分達の立場など ) 出した結論のはずだ。

たぶん私を含め多くの人にとって 「 納得はし難いが、理解は及ぶ 」 結果であり、残念ではあるが、受け入れざるをえないものだ。

今でも、「 実力は断然上 」 という意見に変わりないが、こうなったら選ばれた三人の選手に期待し、頑張ってもらう以外に道はない。


人の評価というものは、「 機会は均等に与え、結果は公正に判断する 」 というのが、私の思う最善策である。

ここでいう 「 公正 」 は、「 公平 」 とは似て非なるものだ。

今回の判断は、たしかに 「 公平 」 ではあるが、はたして 「 公正 」 かどうかについては、少し疑問の余地がある。

このあたりは結果論によって左右されるもので、たとえば、今回の三人から 「 金 」 を制する者が出れば、それは正論として歴史に残されるであろう。

そういう結果に至らなければ、それは永遠に 「 謎 」 のまま、真理の見えない迷宮の中で、ああでもない、こうでもないと、議論が続くだろう。


ハッキリしているのは、「 メダリストといえども、例外は認めず 」 という強硬な態度を陸連が示したことで、陸連の権威については力強さを増した。

それでもいいのだが、今後は 「 最初に確固たる選択のルールを示す 」 といった態度を明確にとるべきで、密室の審査会などは廃止すべきだ。

今回の例でいうと、もし、審査会での評議は無く、選考レースの結果のみが問われることが明確なら、高橋選手は名古屋に出場した可能性が高い。

今になって語っても仕方ないが、そのあたりの曖昧さが、選考レースの舞台に彼女が姿を見せなかった理由であることは、どうやら間違いない。

大事なことは、過ぎてしまったことより、今後、このような事態で、真に実力のある者がエントリーの選択を誤らないように、正しく指導することである。


この件もショックだったが、昨日は、もっと衝撃的なニュースに遭遇した。

他校だが、自分と同じ学年で陸上部の主将をしていた友人が、先月、癌によって亡くなったという訃報を、共通の知人から伝え聞いたのである。

彼とは、一時期同じ職場で働いたことがあるのだが、自分も陸上部の主将をしていたので、当時の話に花が咲き、すぐに仲良くなった。

しかも、よくよく昔の記憶を辿ってみると、お互いに顔や名前を覚えてはいなかったが、学生時代にも、会っていたはずであることがわかった。

この二年ほど会ってはいなかったけれど、癌で入院し療養中であることは知人から聞いて知っていたので、以前から容態を気にかけていた。


よく、「 昨日の敵は今日の友 」 などというが、二十年以上も昔のライバルは、たしかに時を経ると “ 戦友 ” のような存在に感じる。

まだ年寄りというほどではないが、同級生の誰かが死んでも、さほど不思議には感じない年齢になったけれど、いささか無念である。

彼には、奥さんと、二人の息子がいて、下の子はまだ小学生のはずだ。

子供達は二人とも野球が好きで、「 陸上競技には、興味がないらしい 」 と苦笑いしていたことを思い出し、懐かしさがこみあげてきた。

謹んで、彼の冥福を祈りたいと思う。






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2004年03月15日(月) 明確な指針と、フェアな裁定


本日、日本陸連は男女各3人の 「 アテネ五輪マラソン代表 」 を選出する。

今回は、男女ともに “ 誰を選ぶのか ” で難航しそうな気配だ。


特に女子は、前回シドニーで金メダルを獲得した 高橋 尚子選手 の出場がかかっているので、その去就については興味深い。

本来なら、満場一致で選抜されてもおかしくないはずが、いくつかの大会を 「 五輪選考レース 」 などと位置付けたがために、状況が変わってきた。

世界選手権で銀メダルを獲得した 野口 みづき選手 は既に内定しており、大阪国際優勝の 坂本 直子 選手も、合格とみて間違いないだろう。

問題は残る一つの枠だが、高橋選手 の対抗馬として、名古屋国際で優勝した 土佐 礼子 選手 の名前が急浮上し、ちょっとわからなくなってきた。

あと数時間後には答えが出るだろうが、とても気になるところである。


昔、自分も陸上競技を長くやった経験から、過去の 「 陸連 」 の対応には不信感をもっているし、その “ 悪しき習慣 ” は今も変わっていない。

今回も、選考会という名のもとに、「 どちらとも解釈できる基準 」 を自分達でつくっていて、最終的に誰が選ばれるのか曖昧で、ちっとも明確でない。

選考会が、たとえばサッカーなどでいう 「 予選 」 のような位置付けであるとするならば、これはどう考えても 土佐選手 が選ばれるべきだ。

しかし、実際には陸連の中の 「 理事会、評議員会 」 によって、過去の実績や、大会に出場した場合の勝算など、多角的に検証されることとなる。

それが悪いのではなく、むしろ 「 メダル獲得の可能性が高い選手 」 を選ぶのは良いことだが、それならば 「 選考レース 」 の意味合いが薄くなる。


つまりは、「 どういう結果を出せば、五輪に出場できるのか 」 ということが、最初から決まっているようで、実はハッキリしていないのだ。

談合によって決めるのが悪いとは言わないが、それならば最初から各選手や、彼らを応援する一般市民に対し、態度を明確にしておくべきだろう。

今回の場合などまさにそうで、どちらの選手が選ばれたとしても、落選した側の選手の気持ちとして、ちょっと心情的に納得し難いだろう。

私の予測としては、おそらく 高橋選手 が選ばれるのではないかと思う。

もし、そうなったら、土佐選手 にはとても気の毒で、あまり 「 フェアな結論 」 とは言えないような気もするが、それもこれも陸連のせいである。


たぶん、高橋選手 が出場したほうが、アテネでメダルを獲得できる可能性は高いだろうし、そういう意味では彼女が選ばれたほうが良いと思う。

シドニーを制覇したときに比べ、体調がどうなのかにもよるが、アウエーで海外の列強と闘う場面を想定すれば、経験と実績は大きな糧になる。

それに、彼女には 「 ニ大会連続制覇 」 という、他人には成し遂げることのできない夢も掛かっており、そういう意味でも、多くの国民が期待している。

陸連もそれはわかっていて、彼女が具体的な 「 選考基準 」 を満たさなかったので、後になって慌て出したようなところだろう。

土佐選手 が優勝すると、過去の選考レースにおける 高橋選手 の不調について、「 気象条件の違い、競合選手の質 」 などを強調しだしたようだ。


高野連 ( 高校野球連盟 ) も同じく、「 ○○連 」 というアマチュアスポーツの団体には、ときおり納得のいかない不信感を抱くことがある。

彼らの多くは、過去にその競技に携わっていた者も多いはずだが、どういうわけか 「 スポーツマインド 」 を忘れているかのような印象を受けやすい。

アマチュアスポーツの世界で最も大事なことは、「 フェアで、潔い 」 ということなのに、“ 年寄りが密室で相談して決めた ” ような話が多すぎる。

後に遺恨を残さず、選出された者は誇りをもって全力を投じ、惜しくも選に漏れた者は次の機会に挑戦する意欲をもつことが、なにより重要である。

高橋選手 クラスの話ではないが、陸連には個人的にちょっと “ 遺恨 ” があるので、こういう事態は早く無くなって欲しいと望む。






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2004年03月13日(土) ちょっと先の日本


21世紀、国内の最重要課題は 「 少子高齢社会への対応 」 となるだろう。

総人口に占める 65歳以上の割合は、ついに 19.0% を突破した。


この 「 19.0% 」 という数字は、これから先も伸び続ける。

国立社会保障・人口問題研究所の発表によると、日本の総人口は2006年にピークへ達したのち減少に転じるが、高齢人口は増えつづけるそうだ。

高齢人口は、2025年には総人口の 28.7% ( 3.5人に1人 )、2050年には 35,7% ( 3人に1人以上 ) になるという予測をされている。

これは、医療技術の発達等により 「 年寄りが死なない 」 ということよりも、次代を形成する子供たちが生まれないことに大きな原因がある。

一年間の出生人口は、25年前に比べると 870万人以上、率にして 10% 以上も減少しているというのが、日本における少子化の実態なのだ。


少子化の直接的な原因としては、未婚化、晩婚化の傾向に加え、既婚夫婦がもつ子供数の減少が挙げられる。

これに対処するには、就業、保育、教育などの面で安心して子供を産んで、育てられる環境条件の整備が、最も重要な課題となるだろう。

あるいは、若い世代の 「 子供や家族に対する価値観 」 が、過去に比べて揺らいできたことへの対応も、必要とされる可能性が考えられる。

たぶん何をやっても、少子化の流れそのものは変わらないだろうが、その動きを加速するのは得策でないし、経済や社会に与える影響が大きい。

ちなみに日本の少子高齢化を世界レベルでみると、ヨーロッパで高齢化の進んでいるスエーデンと、ほぼ同じ水準になっている。


少子高齢化で頭を悩ましているのは 「 先進国 」 だけで、地球上の人口は増え続けており、地域によっては食糧難など、別の問題が深刻化している。

それを思うと、どちらが良いとも言えない状況ではないだろうか。

経済効率優先の現代社会において、高齢化はとにかく否定的にか、あるいはその反動として過剰に肯定的にか、偏った意見を述べる人が多い。

ここに至っては、それを 「 必然的な結果 」 として受け入れ、それに対応のできる社会基盤の整備や、個人の意識改革を行うしかないだろう。

つまりは、世界トップクラスの高齢社会に適した 「 経済と社会のありかた 」 に向けて、国家レベルの改革を推進することが急務となる。


近代国家の宰相による演説を要約すると、「 若者には十分な教育を施し、老人の世話をさせる 」 という点で、ほぼ一致している。

若者にとっては、それこそ迷惑な話なのだが、国家を存続させ、生産性の低い高齢者を 「 生かしておく 」 ためには、それが避けられない論理だ。

高齢者はそれぞれ、その人なりの生活と心情を、長年積み重ねている。

そうやって、多様な 「 老い 」 を生きる一人ひとりを、かけがえのない個人として尊厳をもって受け入れる価値観を、社会の中に形成してゆく。

たぶん、そういった 「 儒教的な思想 」 でも浸透させなければ成立しにくい 「 面倒臭い世の中 」 に、未来は変わっていくような気がしている。






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2004年03月12日(金) 新社会人へのメッセージ


一雨ごとに 「 暖 」 と 「 寒 」 を繰り返し、季節は本格的な春へと向かう。

若葉、新緑のイメージは、街に溢れるフレッシュマンの姿にも重なる。


日本経済新聞のコラムに、ちょっと印象深い話が載っていた。

このところ、北海道警察の 「 裏金問題 」 が、内部告発によって明らかとなり、疑惑を究明する舞台は、国会まで波及する可能性が強くなった。

原因が、警察組織の体質的な部分にあるという見方から、他の自治体における警察に対しても、同様の疑惑が持たれており、かなり深刻な問題だ。

コラムでは、この不正を告発した者が 「 引退後のOB 」 であることを、やや遺憾に思うといった旨のことが書かれていた。

たしかに、組織のモラルは現役の力によって自浄されるべきもので、現場を離れた者が懐古的に告白するのとは、少し意味合いが違ってくる。


自らの身体を賭して社会秩序を守る警察官でさえ、その現場に居る者が、組織の不条理を正すための行動をとれないというのは、悲しい話である。

その体質にどっぷりと浸かった中高年者はともかく、血気盛んな若手、新人の警察官から、なぜ、今までに内部告発者が現れなかったのだろう。

組織の論理に疑問を感じ、「 青臭い正義感 」 を振りかざしたのは、若者ではなく、引退後の OB だったというのは、なんとも皮肉な話である。

コラムからは、これから社会人になる若者達に対して、誤った組織の方針や論理に流されず、真っ直ぐに生きて欲しいと願う思いが伝わってきた。

それは、たしかに勇気の要る生き方だが、全員がそうすることによって、「 それが当たり前の時代 」 に変えていくことが、とても大事なのである。


自分の人生において、さまざまな場面で 「 競争 」 に遭遇した。

学生時代の競争というのは、部活動のスポーツであったり、受験であったり、あるいは意中の女性を射止めるための行動であったりしただろう。

社会人になってからは、社内、社外のライバルに対し、より精力的、情熱的に仕事をこなすことで、ささやかだが評価と報酬を手に入れたと思う。

オリンピックのように 「 参加することに意義がある 」 などとキレイ事を言うつもりはないが、人生において 「 勝つこと 」 がすべてではない。

本当に重要なのは、結果としての勝ち負けではなく、「 自分は正しい方法で、常に勝とうとして努力してきた 」 ということではないかと思う。


私の ( 特にビジネスに対する ) 信念は、「 Winning through Integrity = 正しい方法で成功する 」 ということであり、それ以外には考えられない。

過去を振り返ると、早く昇進したことで天狗になってみたり、手を抜いた作業で仕事を楽に処理する者を見て、羨ましく思ったりした時期もあった。

しかし、これは尊敬する上司や、同僚と共に働けたおかげだが、その度に反省をする機会が与えられ、「 何が正しいのか 」 を常に考え直してきた。

一部の企業が 「 企業の存亡に関わる不祥事 」 で崩壊していく様を見るまでもなく、正しい方法で成功することこそが、長期戦では重要になる。

正しくない方法でも一時的な勝機を掴むことはあるし、そういう人を何人も見てはきたが、その中に 「 いまも勝ちつづけている人 」 は一人もいない。


以前にも述べたが、私は 「 勝ち組、負け組 」 という言葉が嫌いだけれど、しいて 「 勝ち組 」 の条件を挙げるなら、正しい方法で成功することだ。

ただ、私のように恵まれた環境ではなく、腐敗した組織構造の中に身を投じてしまった社会人も、気の毒だけれど存在するだろう。

もしも新社会人や、若年層の中にそういう人がいるのなら、できるだけ若いうちに、情熱をもって組織の不正に立ち向かってもらいたいと思う。

年をとってから生き方を変えようとするのは難しいし、間違った倫理感に長く浸ったあとでは、何が正しいのかさえ、判らなくなってしまうだろう。

なかには、「 そんなことをすると、居づらくなる 」 と仰る方もいるだろうが、そんな腐った組織からは早く足を洗うほうが、貴方の将来のためになる。






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2004年03月11日(木) マック の新商品戦略


ヨーロッパ旅行を計画される人が、イギリスを加えることに反対はしない。

ただ、留学とか、長期滞在を検討されているなら、忠告したい点がある。


それは、「 食べ物が美味しくない 」 という点である。

最初に訪問した際は、たまたま美味しくない店ばかりに遭遇したのだろうかとも思ったが、どうやらイギリス料理というのは、世界的に不評のようだ。

かの有名な作家 サマセット・モーム も、次のような言葉を残している。

「 イギリスで満足のいく食事がしたいなら、朝食を一日三回とることだな。 」
To eat well in England, you should have a breakfast three times a day.

欧米の朝食というのは、だいたい似かよっているので、朝食だけがなんとか食事の体をなしていると、イギリス食を皮肉った名言 ( 迷言? ) である。


その中にあって、『 Fish & Chips 』 という食べ物だけは、個人的な嗜好かもしれないが、けっこう気に入って食べていた。

とにかくこれはイギリス人にとって “ 国民食 ” みたいなもので、どこの街角でも売られているし、どこのパブに入ってもメニューに存在する。

いわゆる白身魚 ( fish ) のフライと、フライドポテト ( chips ) のセットだが、塩味か、ワインビネガー ( ワイン酢 ) などをつけて食べる。

フライにする “ 衣 ” は、小麦粉と卵をビールで溶くという一工夫があって、揚げたあとのサクサクとした食感は、その効果によるものだという。

使用する魚は、タラかヒラメみたいな淡白な白身魚だと思うが、食べやすいように骨は取り除いてくれているので、歩きながらでも食べられる。


このところ、牛の BSE 問題、鶏のインフルエンザ問題などが相次ぎ、食品の安全性については、なにかと心配事が多い。

魚に関しても、「 鯉ヘルペス 」 などの騒ぎは発生しているけれども、いまのところ海水魚に対する心配は、あまり無さそうな気配だ。

だから、鶏肉加工品などを主たるメニューにしているファーストフード店などは、この 『 Fish & Chips 』 を採用してはどうかと思っていた。

ケンタッキーフライドチキン各店では、従来からメニューに含まれていたが、あまり積極的に “ 前面に押し出す商品 ” としては扱われていなかった。

それに、何度か食べたこともあるのだが、本場のソレとは味も食感も程遠く、ひどいときには中まで火が通っていなかったりして、イマイチであった。


昨日、久しぶりに マクドナルド へ寄ったら、『 フィッシュ マックディッパー 』 なる新商品が目に留まったので、試しに食べてみることにした。

こちらも、本場の 『 Fish & Chips 』 とは似て非なる商品だが、なんとなく魚の鮮度が保たれていて、まあまあ美味しいような感じがした。

いづれのチェーンも冷凍の素材を使っているのだろうが、やはり売れている店の商品のほうが、回転が早いため、品質の劣化が遅いのかもしれない。

マクドナルド の サイト を観ると、これは単純に 「 魚のフライ 」 ということではなく、「 特製ソース ( dip ) につけて食べる 」 ことを特徴としている。

消費者に、「 鶏がダメなので、魚にしました 」 という説明ではなく、食べ方の新提案として発信する手法が、牛丼チェーンとは違って優れている。


揚げ物なのでカロリーが低いとは思えないが、お子様がスナックとして食べるには、きっと魚のほうがヘルシーだし、良いのではないかと思う。

最近の日本人は魚を食べない傾向にあるので、これが流行って、家庭でも作る人が増えたりなんかすると、それも結構なことだろう。

若い衆が “ キレやすい ” というのも、一説には カルシウム が足りないせいであるともいわれているし、鶏から魚への移行による効能は多い。

ソースは二種類から選べるようになっていて、私は 「 タルタル 」 を選んだのだが、ピクルスも入っていて、なかなか、ちゃんとしたものである。

マクドナルド には飽きてしまい、最近はあまり利用する機会も少なかったのだが、これを目当てに、少しは行く機会が増えるかもしれない。






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2004年03月09日(火) 映画 『 THE HOTEL VENUS 』 評


大阪の劇場で、映画 『 THE HOTEL VENUS 』 を観た。

この作品は、様々な点において、エポックメーキングな作品といえるだろう。


物語の骨子は、うらぶれた安宿 『 VENUS 』 に、それぞれ異なる絶望や、諸事情を抱えながら集う人々の、人生模様を描いたものである。

この映画は、いろいろな面で 「 かつてない試み 」 がふんだんに織り込まれた日本映画として評価できるが、最初に 「 ダメな点 」 から説明しよう。

私自身、この映画はたいへん気に入っているし、けなすつもりなど毛頭ないのだが、欠点をはじめに述べたほうが、信憑性の高い解説になるはずだ。

それは、「 物語が陳腐 」 ということなのだが、全体の雰囲気や、革新的な映像など、総合した出来の良さを鑑みると、まるで問題にならない。

ハリウッド全盛期のミュージカル映画でも、物語自体は陳腐な “ 名作 ” が多く含まれるのと同様に、この作品には物語以外に傑出した点が多い。


個人的に一番好きなのは、冒頭の 「 タイトルクレジット 」 である。

それは、主演の 「 草なぎ 剛 氏 」 が、寄ってたかってコテンパンに殴られる映像に、「 LOVE PSYCHEDELICO 」 の主題歌が覆い被される。

この曲は、宣伝用のテレビスポットなどでも頻繁に流されているが、邦画のタイトルバックとしては、過去最高のものではないだろうか。

もともと彼らの楽曲は好きな部類なのだが、迫力あるサウンドと、耳に馴染みやすい滑らかな旋律が心地良く、硬派な映像とも見事にマッチしている。

冒頭から、イキナリ凄い印象を与えるので、「 つかみはOK 」 なのである。


原作を読まずに観たので、この 「 何かを期待させる冒頭のインパクト 」 が逆に、最初に申し上げた 「 物語の陳腐さ 」 につながっていく。

まぁ、この程度の脚本でも感動する人はするだろうし、泣く人は泣くのかもしれないが、その後の物語はどちらかというと 「 ありがち 」 な設定である。

欲を言えば、最後に 「 あっと驚くような秘密 」 とか、予測不能なオチなどがあれば嬉しいのだが、それほどの “ 仕掛け ” は用意されていない。

それでも、キャストに個性的な日本の俳優陣、韓国の俳優陣を配し、舞台劇のような展開が続くので、観ていて飽きるということはない。

ご覧になれば解ると思うが、「 日本映画史上、かつてない革新的な映像 」 が繰り広げられ、物語の精度が低いことなど、さほど気にならないのだ。


一番に革新的なのは、「 全編韓国語 」 というところだろう。

ご存知の方も多いだろうが、草なぎ氏は韓国語会話の達人で、この作品においては、語気を荒げるような台詞でも、見事に感情を込めて流暢に話す。

もちろん、市村正親氏をはじめ、他の日本人俳優も皆、韓国語で話す。

撮影が行われた舞台は韓国ではなく、ロシア領のウラジオストックなのだが、この街の持つ独特な雰囲気が、個性的な世界観を醸し出している。

それが、「 二番目の革新 」 である 「 パートカラーのモノクロ映像 」 にあいまって、懐かしいような、新鮮なような、不思議な世界へ引き込むのだ。


結論的にお伝えしたいことは、「 観るべし 」 ということである。

この映画は韓国でも上映されるそうだが、おそらくは現地でも、大きな話題となり、関心を集めるだろうと思う。

トム・クルーズに侍の格好をさせるのも悪くないが、邦画の新しい試みとしての国際交流を考えると、こちらのほうがより 「 画期的な作品 」 といえる。

映画よりも楽しめるかもしれないが、物語的に特筆すべきものがみられないので、「 原作を買ってまで読むことは・・・ 」 あまりオススメしない。

だから、「 本は読まず、物語は深追いせず、作品の世界観にだけ浸る 」 というスタンスをもって、ぜひ、劇場でご覧いただきたいと思う作品である。






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2004年03月08日(月) 牛より鶏

その昔、「 一歩先の未来が読める人間になれ 」 と、よく言われたものだ。

しかし、「 悪い予感が的中する 」 なんてことは、ぜんぜん嬉しくない。


最近の社会情勢でいうと、「 鳥インフルエンザ 」 がまさにそれで、この問題がまだ初期の段階から、これはひょっとすると大事に至る気がしていた。

当時は、アメリカ牛によるBSEの疑いが強いとして輸入禁止措置がとられ、大手牛丼チェーンらが 「 牛丼 → 鶏丼 」 へのシフトを行いはじめた。

この頃すでに巷では、鳥インフルエンザの危険をはじめ、どうも感染ルートは渡り鳥にあることなどが、マスコミによって取りざたされていたはずだ。

だから私としては、「 アメリカの牛よりも、身近な鶏肉のほうが危ない 」 と、BSE の話題などが出るたびに、友人らには警告を発していた。

ここにきて、どうやらそれは現実の問題となってきたようだ。


ちなみに、「 警告を発する 」 と言えば大業に聞こえるかもしれないけれど、それは 「 食べるな 」 ということではない。

実際、いまでも私自身、鶏であろうが牛であろうが、原産国など気にせず、従来とまったく同じように、食べたいときに食べるようにしている。

つまり、「 警告を発する相手 」 というのは、「 その問題を気にする人々 」 なのであって、気にしない私にとっては無縁の話なのだ。

私がなぜ 「 気にしない 」 のかというと、様々な観点から検証して、食品に関する安全性に関しては、いくら警戒し続けても キリが無い からである。

だから、「 気にしない 」 というよりも、「 気にしてもはじまらない 」 のが適切なところで、「 同じアホなら、気にしちゃ損、損 」 みたいな感じである。


どんな動物でも病気はするし、突発的に奇形が生まれることもある。

そういう意味では、何千、何万という牛の群れに一頭だけ、BSE感染牛がいたとしても、それは過剰に驚くようなことでもない。

感染源を突き止めたり、それが流通しないようにさえ気をつければ、さして人体に被害が及ぶわけでもなく、たいした問題でもないだろう。

しかし、「 20万羽の鶏が、一斉に死んでいる 」 というのは、尋常な光景ではないし、その周囲にはウイルスが飛来しているというのも恐ろしい話だ。

そう考えても、「 牛より鳥が危険 」 と考えるのは自然だろう。


昔、ヒッチコックの映画 『 鳥 ( 1963米 ) 』 では、ある日突然、鳥の大群が人間を襲う恐怖が描かれたけれども、まるで逆の恐怖もあり得る。

ある朝目覚めたら、いつもと同じような光景だが、何かが足りない。

そういえば、スズメなど野鳥のさえずりが聞こえず、どこまで見渡しても鳩やカラスが飛んでいる様子はない。

生態系というのは、歴史と共に徐々に様相を変えていくものだが、たとえば鳥類に関してだけ、瞬間的に伝染病で死滅してしまうとどうなるだろう。

SFっぽいミステリーだが、数十万羽が一斉に死んだり、病気の伝播を危惧して処分されるというのは 「 種の保存 」 に関する大問題である。


人間も、最後は 「 伝染病 」 によって絶滅する可能性がある。

抗体の見つからぬウイルスが短期間に伝播すれば、核戦争や、天変地異が無かったとしても、それが 「 一巻の終わり 」 とあいなる。

ちなみに、これを書くと 「 一部の方 」 はご不快な思いをされるかもしれないが、「 ペットを飼う習慣 」 は、伝染病の拡大に多大な影響があり得る。

従来の犬や猫ならさほど問題はないが、最近は イタチ やら、ネズミ やら、ウサギ やら、ウイルスの媒体になりやすい動物を飼う人も多い。

他人から見れば病原菌のメッセンジャーでも、飼い主にとっては、愛らしい 「 うちの○○ちゃん 」 で、そこに危険が介在することすら認識されにくい。


それでも私は、鶏肉が食べたければ食べ、牛肉が食べたければ食べる。

たぶん、地球の食料資源を思えば、「 ○○が危ない 」 などと悠長なことを言っていられるのも今のうちで、将来には風化するような気がしている。

未来は明るいものと考えたいが、現実的な問題として、全世界的な食料難が訪れる可能性は高く、食料を味や安全性で選り好みできなくなる。

こんなことを書くと、「 悲観的 」 だと思われるかもしれないが、実は、そうでもない。

なぜかというと、牛にしても、鶏にしても、たぶん消費者が過剰に騒ぎすぎているだけで、たぶん食べても 「 どうってことない 」 と思うからである。



2004年03月06日(土) 日本映画のDVDは少ない


昨夜は、映画 『 たそがれ清兵衛 』 をテレビで観た。

劇場でも観た作品だが、最近の時代劇では秀逸といえるだろう。


外国人の視点で描いた 『 ラストサムライ 』 と比較するのもナンセンスな話だが、“ 日本製 ” のほうがずっと良い仕上がりになっていると思う。

侍をテーマにした映画では、「 武士道 」 というものにスポットが当てられがちだが、名作と呼ばれる時代劇には、別の要素も織り込まれている。

それは 「 土着性 」 であり、家族や、故郷に対する敬愛である。

武士道の世界では、藩主、城主に対する忠誠心が美学として描かれやすいが、実際には、それは生まれた土地を守り、家を守ることに通じている。

この映画の主人公が、心ならずも果し合いに参加する背景には、上司への服従とか、忠誠の念ではなく、家族や組織の存亡を担うところにある。


アメリカの西部劇と日本の時代劇には、土地を愛する気持ち、守ろうとする決意などに、とても似かよった部分がある。

たとえば、不朽の名作 『 シェーン ( 1953米 ) 』 では、開拓者が自分たちの土地を地元のならず者から守るということが、物語の骨子になっている。

異なるのは、アメリカは建国の歴史が浅い故、それが 「 先祖伝来の土地 」 ではないというところだろうか。

西部劇でも時代劇でも、アクションに主眼をおいた娯楽作品では、土地は農民のものであって、ガンマンや侍は 「 手段 」 として扱われることが多い。

しかし実際には、流浪のガンマンやら浪人を除けば、大半の者は定住する土地があったはずで、そこには確固たるコミュニティが存在したのである。


基本的に、どのジャンルの映画でも、住居を構えない 「 流れ者 」 の主人公が登場する作品は、うそ臭いというか、現実味に欠ける部分がある。

また、現実には、いくら剣術に長けていても、仕える主や、定住する土地を持たない者を 「 侍 」 と呼ぶことへの矛盾もある。

そういう意味では、日本映画史上に燦然と輝く 『 七人の侍 ( 1954東宝 ) 』 も、正しくは 『 七人の浪人 』 といったほうが適切かもしれない。

もちろん、どこからともなく現れる流れ者のヒーローが大活躍する作品も、ひとつのエンターティメントとしては楽しめる。

ただ、『 たそがれ清兵衛 』 のように、普段の生活背景なども描かれていると、より、リアリティが増して、感情移入がしやすい作品となる。


昨今、過去に公開された名作のほとんどが DVD化 されており、観たいときにいつでも観れるようになっている。

これは映画好きにとって、我々が子供の頃には考えられなかった幸運とはいえるが、それでも、すべてが網羅されているわけではない。

特に、往年の日本映画については、商業的な成果が見込めないためなのか、あるいは他の諸事情によってか、まだまだ発売本数が少ない。

時代劇では、『 人斬り ( 1969大映 ) 』 という作品など、もう一度観たい。

出演者の顔ぶれは、勝 新太郎、仲代 達也、石原 裕次郎、三島 由紀夫 という豪華さだが、実に、仲代氏を除く全員が、若くしてこの世を去っている。


物語は、勝 新太郎氏が演じる 「 岡田 以蔵 」 を中心に描かれる。

彼は “ 人斬り以蔵 ” という別名を持つ、実在する土佐の藩士で、この作品では、少し頭が弱いけれども、剣の達人という設定になっている。

同じ土佐藩の 「 武市 半平太 ( 仲代 達也氏 ) 」 の指令で数々の殺戮を行うのだが、この作品での武市は、実に悪い奴なのだ。

石原 裕次郎氏は 「 坂本 竜馬 」 役で出ており、同郷の以蔵を助けてやろうと、こちらは “ いい人 ” を演じている。

作家の三島 由紀夫氏は、武市の謀略によって切腹を迫られる役柄だが、皮肉なことに、この映画の翌年には、実際に割腹自殺を遂げたのである。


私は公開当時に劇場で観て、数年前にテレビの深夜枠で観たことがある。

たまに、「 時代劇でオススメの映画は? 」 などと尋ねられることがあるのだが、もしもこの作品が DVD化 されていたら、きっと薦めることだろう。

新しい作品に心血を注ぐことはもちろん大事だが、ハリウッドと同じく、日本映画にも過去の偉大な財産があるのだから、積極的にリリースして欲しい。

歌やファッションの世界では、60年代の復刻仕様が活発に再現されているが、映画については、どうも不十分なようだ。

日本映画復興のためにも、過去の名作を若い世代に紹介する手だてを、関係各所にお願いしたい気持ちである。



2004年03月03日(水) 人生は、ひなあられ (?! )


3月3日が 「 何の日 」 だったか、ふと思い出すまでに時間が掛かる。

これだけでも、ちょっとボケてきた証拠なのかもしれない。


同じ節句でも、5月5日は祝日にあたるが、3月3日はそのような扱いにならないので、縁の無い人にとっては忘れてしまいがちだ。

これを、女の子の節句は祝日に相当しないと解釈すれば、男女差別の問題にも発展しかねない話だが、実際には、そういうことではないという。

つまり、5月5日は 「 子供の ( 男女ともに ) 日 」 であって、男の子だけのものではなく、3月3日は、女の子のためだけの節句だという説だ。

なるほど、そう考えると 「 女の子は二度、お祝いをしてもらえる 」 ということにつながるが、それならば逆に、男の子が損なふうにも思える。

雛人形は、男女のペアが飾られるのに、なぜか雛祭りというと女子の行事ということになっていて、男子は 「 蚊帳の外 」 という決まりだ。


妹が生まれる前までは、我が家に雛人形は無かった。

男兄弟しかいなかったので当然の話なのだが、それまでにも、女友達や、女兄弟のいる友達の家に遊びに行ったときに、眺めたことはあった。

幼少期の記憶なので曖昧だが、友人の家で催される 「 雛祭りパーティ 」 なるものに招かれ、そのときはずいぶん退屈したような気がする。

女の子の着物やら、雛飾りなどを、汚したり、壊したりしてはいけないのだと、さんざん注意されていたので、どうも窮屈だったように思う。

甘酒は嫌いだった ( 今でも嫌い ) けど、雛祭りといえば 「 ちらし寿司 」 がつきもので、それを食べるぐらいしか楽しみはなかった。


大人になってから知ったのだが、関西と関東では 「 ちらし寿司 」 の内容が異なり、関西風は、寿司飯にいろんな具材を細かく混ぜて供される。

関東のは、寿司飯の上に刺身などが並べてあるタイプなので、たぶん子供が食べるのなら、関西風のほうが食しやすかったろうと思う。

庶民的な家庭のちらし寿司は好きなのだが、お寿司屋さんなどで頼むと、彩りを良くするためか、ピンク色の 「 桜でんぶ 」 が上に散らしてある。

この、なんとも甘ったるい 「 桜でんぶ 」 というものが嫌い ( たぶん今でも嫌い ) だったので、どうもちらし寿司だけは、高級品のほうが苦手だった。

だから、友達の家でちらし寿司をご馳走になるとき、桜でんぶが無ければ 「 おばちゃん家は、庶民的なので良かったよ 」 と安心したのである。


幼児の頃というのは、男女の体格差もそれほどなく、腕力に訴えて争っても男子が勝つとはかぎらないので、頻繁に 「 男子対女子 」 で喧嘩をした。

今思えば、本当は女の子と仲良く遊びたかったのだが、照れ臭かったり、他の男子の視線を気にして、上手く交われなかったのだと思う。

雛祭りなんぞは、まさに 「 男子対女子 」 の決戦場であり、女子だけが賑々しく祝い事をするなんてイベントは、抵抗勢力にとって実に面白くない。

かといって、暴れて雛人形を壊すと取り返しがつかないので、お供えの餅を奪ったり、ひなあられを失敬したりと、ささやかな嫌がらせに走るのだ。

女子の方も、着慣れない晴れ着で楚々としているため、自由に反撃することもできず、睨みつけるだけで我慢していたようだ。


とてもぎこちない形で、とても曖昧ではあるが、「 男女の性 」 について最初に意識する場面が、あるいは雛祭りだったのかもしれない。

一家総出で雛人形を飾り、ご馳走を用意して女の子の節句を祝う。

普段は同じように泥だらけで遊んでいる女子が、晴れ着を着て大人しく座っているのを、幼い私は、遠くから普段どおりに鼻をたらして眺めている。

話は変わるが、ひなあられの中に 「 チョコレートコーティングしたあられ 」 が少し混ざっていて、塩辛いあられの中で味のアクセントになっている。

たぶん人生と同じで、甘いあられだけだと美味しく感じないが、辛さの中でひときわ印象深い 「 甘い記憶 」 が、味わいを深めているような気がする。






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2004年03月02日(火) 母音に濁点


以前に書いた通り、「 ローマ字教育は、英語教育に弊害がある 」 と思う。

しかし、日本語キーボードを叩くのには、ローマ字変換が重宝する。


ちなみに、日本語の文字で、昔から理解に苦しむのが 「 ヴ 」 である。

基本的に、アルファベットの 「 V 」 で始まる言葉をカナにする場合に使われることが多く、日本語キーボードの 「 V 」 と、母音を押すと変換される。

例を挙げると、「 ヴィクトリー [ victory ] = 勝利 」 とか、「 ヴィレッジ [ village ] = 村 」 や、「 ヴァイオレンス [ violence ] = 暴力 」 などがある。

しかしながら、これは必ずしも 「 法則化 」 されているわけではない。

ネットで検索すると、「 VOLVO 」 という外国車については、「 ヴォルヴォ 」 でも届け出があるが、正規ディーラーは 「 ボルボ 」 と表記している。


最初に 「 ヴ 」 という文字を考えた人は、誰なんだろう。

推測であるが、下唇を噛む 「 V 」 の発音を表現する手段として、なんとなく 「 ウ 」 に濁点を付けてみたのではないだろうか。

ただ、これは徹底されてなくて、「 ヴァ、ヴィ、ヴゥ、ヴェ、ヴォ 」 の表記法については 「 バァ、ビィ、ブゥ、べェ、ボォ 」 でも十分に通用する。

たとえ 「 ヴ 」 という文字があったところで、五十音でアルファベットの発音をすべて表すことなど不可能だし、ほとんど意味がないように思う。

つまりは、「 バァ、ビィ、ブゥ、ベェ、ボォ 」 で支障はなく、「 ヴィーナス 」 は 「 ビィーナス 」 でいいじゃないかという話である。


どうせ、「 ヴ 」 を使うのなら、もっと違うことに使う提案をしたい。

他の母音にも濁点をつけて、「 ア”、イ”、ウ”、エ”、オ”」 も作ってみる。

たとえば、「 声にならない声 」 を表すときなど、この 「 母音に濁点 」 を当てはめてみると面白いのではないか。

クリスマスなので早めに帰宅し、「 ただいま 」 と玄関のドアを開ける。

ここで、子供の顔を見て、約束していたケーキを買って帰るのを忘れたことに気付いたときの心の声が 「 ア に濁点 」 である。


目覚めると、会社に遅刻しそうな時間で、顔面蒼白になる。

いつになく慌てて裸足でバタバタしていると、タンスの角で右足の小指を思いっきりぶつけ、もんどり打って苦しむときの声が 「 イ に濁点 」 である。

休みの日に、交際して間もない彼女とハイキングに出かける。

そろそろ昼時になるし 「 お腹が空いてきたな 」 と思えば、彼女がニッコリと微笑み、お弁当を作ってきてくれたのだと言う。

草原にビニールシートを広げ、有頂天で箸をつけると、これがもう、この世のモノとは思えないほど不味かった心の叫びは 「 ウ に濁点 」 である。


同じ大学を、かなり偏差値の低い同級生と共に受験する。

俺は大丈夫だろうけど、彼はどうかなと思いつつ、合格発表を見に行くと、友達は通ったのに、自分は落ちたときの心の声が 「 エ に濁点 」 だ。

自分には愛する彼女がいるので、そんな気はなかったのだが 「 つきあい 」 で仕方なく、コンパに参加する。

女子の中で一番の美人に惚れられ、「 据え膳食わぬは男の恥 」 と悪魔の囁きを放つ悪友にそそのかされ、その夜のうちにホテルへ・・・。

うしろめたい気分でホテルから出ると、そこへバッタリと彼女に遭遇、しかも信じていた彼女も向かいのホテルから出てきた・・・ 「 オ に濁点 」 である。


とまぁ、こんなふうに 「 母音に濁点 」 の使い方は考えられる。

母音に濁点をつけて読むなどということは出来ないので、「 声なき声 」 だとか 「 心の声 」 に用いるのが、本来は正しい使い方ではないだろうか。

だって、「 ウ 」 を濁らせて発生してみろといっても、「 V 」 になるというわけでもなく、「 グ 」 とか 「 ヅ 」 に近い音を発する人もいるだろう。

そういうわけで、日本語に 「 従来の ヴ 」 は不要と思われ、代わりに、心の声として 「 母音に濁点 」 の制度を導入することを提言する。

これを読んで、「 また今夜も、クダラナイことを書いてるな 」 と、馬鹿にしている貴方への、私の気分は 「 ム”」 である。






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