Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2005年03月31日(木) 北朝鮮の抗議



「 勝つことが、すべてじゃない。 勝つしかないんだ 」

                  ヴァンス・ロンバルディ ( フットボール監督 )

Winning isn't everything, it's the only thing.

                              VINCE LOMBARDI



オウンゴールとはいえ、なんとか勝ててよかった。

勝ち点3が欲しいホームゲームを、予定通り乗り切ったことは大きい。


平壌では 「 北朝鮮 VS イラン 」 の試合が行われたが、試合中、北朝鮮の選手が退場になるという波乱があったようだ。

主将、監督らが猛抗議し、試合後は観客の一部が暴徒化し、イラン選手や審判に詰め寄ろうとした 「 危ない場面 」 もあったらしい。

6月には日本チームが平壌で試合をする予定だが、勝敗もさることながら、不測の事態に巻き込まれないように願いたいものだ。

スポーツのよいところは、本来、政治やら宗教などの垣根を越えて、実力をぶつけあえる点にあるが、そのような共通認識が薄い人もいる。

あまり酷いようなら、「 国際試合に参加する資格 」 さえ疑問となる。


北朝鮮の選手が、「 必死に抗議する 」 という気持ちはわかる。

小泉総理を 「 悪人扱い 」 して批判する人もいるが、日本チームが予選で敗退したとしても、彼は代表選手たちを 「 強制収容所 」 には投獄しない。

ブッシュ大統領も、ノムヒョン大統領も同じである。

なにぶん情報が少ない国なので定かではないが、どうやら北朝鮮の宰相に関しては、それを 「 実行した 」 経緯があるらしい。

そのような脅威があり、しかも戦績からみて 「 予選敗退 」 が濃厚となった現在、彼らは文字通り 「 命がけ 」 で試合に臨んでいるのだろう。


日本人であることを、あるいは日本という国を、批判し、憂いてばかりいる人もいるようだが、北朝鮮の選手達は、それをどう感じるのだろうか。

実力さえ認められれば、好きなチームでプレイし、あるいは海外に活躍の場を求めて、自由に契約を交わすこともできる。

同じ努力をしながら、「 生まれた土地が違う 」 というだけの理由で、人並みの暮らしを手に入れるために 「 命がけのリスク 」 を背負う選手もいる。

日本という国も、もちろん 「 完璧 」 ではないので、人によっては不平不満を抱くこともあるだろうけれど、けして 「 最悪 」 ではないはずだ。

批判ばかりで 「 感謝 」 することのない人たちは、きっと永久に 「 幸福 」 という境地には辿り着けないのだろうと思う。






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2005年03月30日(水) 批判社会に浸るダメな人



「 人は常に、現在の自分がこうなったのは、自分の置かれた環境のせい

  だとする。

  私は、環境などを信じない。

  この世で成功する人は、自ら自分の望む環境を探す人であり、もしも

  見つけられなければ、自分でそれを作り出す人である 」

             ジョージ・バーナード・ショー ( 劇作家、エッセイスト )

People are always blaming their circumstances for what they are.
I don't believe in circumstances.
The people who get on in the world are the people who get up and look for
the circunstances they want, and if they can't find them, make them.

                        GEORGE.BERNARD.SHAW



現代の日本は、マスコミをはじめとする歪んだ 「 批判社会 」 である。

他人や政府や環境の、悪口だけは一人前に唱える人が多い。


本人は 「 問題提起 」 しているつもりかもしれないが、自ら問題を解決しようとする行動力が伴わないと、それはただの 「 悪口 」 である。

すべてを他人や環境のせいにし、自分の至らなさを真摯に受け止められない 「 被害者意識 」 の塊のような人は、「 問題解決能力 」 が乏しい。

企業では、そのような 「 有言不実行 」 な人は、徐々に居心地が悪くなる。

インターネットの普及は、そのような立場の人たちに、実生活では成し得なかった自己満足的な発言の機会を与え、珍妙なサイトも増殖させた。

歪んだ人間の発信する文章は、やはり 「 歪んだ批判 」 に満ちている。


政治について言うと、たとえば、一部のマイナス面だけをことさらに取り上げて、政治を無思想に批判する人が、今の日本人には多いようだ。

これでは 「 フェア 」 とは言えず、もっと現実をよく見て、冷静に過不足なく評価を下すことが望ましいだろう。

ただ、これらの人物には 「 教養に乏しく、被害妄想が強い 」 という実態があり、自分の妄想や固定概念と、「 知識 」 との判別がし難いことが多い。

つまり、自分が 「 こうであるはずだ 」 という思い込みが、事実を湾曲して脳に伝えているため、誤った知識に基づいて暴論を展開するのである。

実際は、政治をシニカルに笑う人が考えるほど、デタラメでもなければ汚くもないのだが、それでは彼らの自己満足上 「 不都合 」 なのだろう。


かといって、もちろん 「 完璧 」 でもない。

外交でも内政面でも、なんらかの 「 利害 」 が絡んでいたり、複数の課題を同時に解決できないために、何かを犠牲にしなければならないこともある。

ただ、その多くは一個人にとって 「 どうでもいいさ 」 とまでは言わなくても、本音でいうと 「 大したことじゃない 」 ことが多いはずだ。

むしろ、政治の問題よりも、自分自身がどのような生き方を目指すかということのほうが、ずっと重要で、個人の責任に帰結する問題だといえる。

人間は困難なことにぶつかり、それを打破することによって、打たれ強さや抵抗力を身につけるもので、常に環境のせいにしていては磨かれない。






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2005年03月29日(火) 酔えない酒は得か損か



「 朝に想い、昼に行動し、夕に食し、夜に眠れ 」

                       ウイリアム・ブレイク ( 詩人、画家 )

Think in the morning. Act in the noon. Eat in the evening.
Sleep in the night.

                               WILLIAM BLAKE



それが、「 お利口さん 」 の正しい生活なのかもしれない。

年甲斐もなく盛り上がって、千鳥足で朝帰りする生活は感心しない。


しかしながら、「 たまには 」 許されるような気がする。

せっかく楽しい時間を過ごしているのに、まだ見ぬ明日のことや、先の心配などして切り上げるのも、もったいないではないか。

己の体力、寝不足状態での力量を鑑み、さほど他人様に迷惑が及ばないと判断すれば、楽しい夜を満喫するほうがいい。

そのうえ、若いメンバーに囲まれ、「 TAKA さんって、若いですねェ 」 などとおだてられれば、「 明日に響くから 」 なんて断り難い。

青二才みたいな遊び方だが、老けることや、大人になることは、いつだって簡単に出来るわけで、それよりは無邪気さを失いたくないものだ。


厳密に言うと、今回は 「 今夜の気分 」 ではなく、「 今朝の気分 」 である。

若い人と同じ飲み物を頼んだら、これが 「 カルピス酎ハイ 」 という初体験の代物で、たいして旨くもないが、いくら飲んでも酔わない。

席を外し、オシッコをすると 「 酒臭い 」 ので、ちゃんとアルコールは入っているのだろうが、飲んでも飲んでも酔えないのである。

始発で帰って千鳥足なのは、お酒のせいではなく 「 単に疲れている 」 だけのことで、この日記を書き、風呂を浴びると、シラフで仕事に出かけられる。

朝に帰り、昼に行動し、夕に遊び、夜に飲む・・・ けして毎日ではない。






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2005年03月28日(月) 心と行動



「 コミュニケーションが病気でなくてよかった。

  それについて私たちは知らなすぎるから 」

            ウイリアム・A・マーステラ ( アメリカの広告会社重役 )

Thank God communication isn't a disease because we know
so little about it.

                        WILLIAM.A.MARSTELLER



昨夜は外泊し、久々に 「 豪遊 」 してきた。

4月上旬はかなり忙しくなるので、英気を養うのも今のうちである。


さて、世の中は相変わらず 「 ライブドア 」 の話題で持ちきりである。

そろそろ 「 どっちでもいいや 」 と思い始めた私にとって、この件は日記のネタにするのも面倒なぐらいだ。

しかしながら、どこへ行っても、誰と会っても、この話題を提供されることが多いので、なんとなく 「 耳年増 」 みたいになってしまっている。

興味も無ければ、自分に影響も少ないのだけれど、あーでもない、こうでもないと聞かされているうちに、自然と情報が集まってしまうのだ。

そんな私と 「 同じような思い 」 をしている方も、いらっしゃるだろう。


世論は 「 堀江氏を支持する派 」 と、支持しない派で二分している。

私からみて、彼の良いところ、評価すべきところは、まず 「 行動力 」 という点で、その大胆なチャレンジ精神は賞賛に値するだろう。

たとえば 「 やるべきことをやらず、へ理屈ばかり並べ立てる 」 という人や、「 やる前から諦めて、簡単にギブアップする 」 人に比べると優秀である。

強大な敵に立ち向かうとき、「 負ける理由、戦わない理由 」 を考えるのは楽だが、そこで行動を起こすこと、可能性に賭けることは勇気がいる。

もちろん、その勇気も思慮に欠けると 「 無謀 」 でしかないが、それなりの勝算を根拠にしていることは明白で、そう決め付けるのは妥当でない。


別に、とりたてて 「 彼の悪いところ 」 はない。

礼節に欠けるとか、品性がどうとか言うのは客観的でなく、あくまでも個人的な感情の域を出ない話だろう。

方法論に問題があれば司法が判断するが、今のところその様子も無い。

アメリカでは、「 放送局等を外資によって買収できない 」 というシステムが安全保障上の観点から構築されているが、日本にはその制度も無い。

だから、彼のような 「 投資家 」 が、敵対的買収をされる余地を残していた 「 危機管理の甘い企業 」 を買収することに、何の異論もない。


だからといって 「 支持するか 」 と尋ねられると、返答は 「 NO 」 である。

マスコミは 「 マス・コミュニケーション 」 の略であり、彼のように無手勝流で他人との 「 コミュニケーション 」 を軽視する者に、資格は与え難い。

つまり、企業を買収することに異論はないが、経営に参画することにより、彼の構想する新しい 「 マスコミ像 」 を構築することには期待していない。

だいたい、アウトローには 「 アウトローの生き方 」 というものがある。

卓越した大胆な行動力、実行力は認めるが、それだけで全てを支配できるわけではなく、「 コミュニケーションの要 」 になるには不十分な点もある。


社会や、企業というものは、例えて言うなら 「 大樹 」 のようなものだ。

花は枝に支えられ、枝は幹に支えられ、幹は根に支えられている。

この根は地中に 「 たしかに在る 」 のだが、花や枝や幹と違って、外側からは見えないようになっているものだ。

美しい花や、枝ぶりの見事さに惚れて大樹を買っても、根の重要さに気付かず、そこを大事にしなければ、立派な大樹もすぐに枯れてしまう。

コミュニケーションの 「 要 」 とは、まさにそういうことで、お金では買えない 「 心 」 と 「 行動 」 を理解しなければ、それを管理することは難しい。






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2005年03月26日(土) シンデレラボーイ



「 一夜にして成功するには、二十年の歳月を要する 」

                エディ・カンター ( アメリカのエンターティナー )

It takes twenty years to make an overnight success.

                                EDDIE CANTOR



残念ながら、日本は 「 2-1 」 で負けてしまった。

選手諸君には、次回の健闘を期待したい。


どうしても、ラフプレイを伴うハードなアウェー戦には、苦戦するようだ。

日本チームは小兵が多いし、これを欠点とは言いたくないがフェアプレイを貫徹するので、体格面で差が大きいと不利になる。

いくら技術面が進化しても、それだけでは勝てないのがスポーツだ。

ただし、味方の大観衆が声援し、見守ってくれるホーム戦なら状況は違う。

次回、同じ相手と戦うとき ( ホーム戦 ) には、必ずや好結果を出してくれるものと信じ、これからも応援していきたいと思う。


今夜は負けたが、最新のFIFAランキングによると日本は 「 18位 」 なのだそうで、前回のワールドカップで活躍した韓国よりも上位になっている。

今から12年前に 「 Jリーグ 」 が発足するまでは、サッカー選手の名前なぞ知る人も少なく、多くの国民はサッカーに関心が無かった。

他のスポーツも同様だが、ファンの期待に応える熱意が選手を磨くもので、日本のサッカーが強くなった背景には、サポーターの存在が切り離せない。

また、多くの選手は小さい頃からサッカーに情熱を持ち、類稀な努力と鍛錬を重ねてきて試合に臨んでいる。

無名の選手が抜擢され、思わぬ好結果を出すこともあるが、それは観客の多くが知らないだけで、本人にとっては 「 必然 」 の結果なのである。


彗星の如く現れ、活躍する選手を 「 シンデレラボーイ 」 などという。

実際には、血の滲むような練習に耐え、万全の準備を整えた若者が、その成果を発揮する機会に出会ったと考えるほうが正しいようだ。

なかには、華々しいデビューを飾りながらも、周りの反応が極端に変化したことに対応できず、鍛錬を忘れて失速してしまう選手もいる。

ビジネスの世界も同じで、過去の栄光にしがみつかず、継続して己を鍛錬し続けないと、実力は養われず、長く働いても成長が期待できない。

信頼を得たり、実力をつけるには時間が掛かるもので、いざという時に力を発揮するためには、日頃から能力を鍛えておくことが肝要なのである。






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2005年03月25日(金) 二流の人


「 私は生涯を通じて一流か三流で通すよ。 二流には決してならないね 」

                            ノエル・カワード ( 劇作家 )

I'll go through life either first class or third, but never in second.

                                NOEL COWARD



ちょっと説明しないとわかり難いが、この考えには多いに共感できる。

誇り高いことは素晴らしいが、中途半端なプライドなら無いほうがマシだ。


「 どこの大学を出たの? 」

開口一番、すぐに聞きたがる人がいる。

出身校が人生を左右するとしたら、それは官僚の世界がもっとも著しくて、キャリアかノンキャリアかで、その後の出世も収入も決まることが多い。

しかし、民間企業の場合はそうとも言い切れず、一流大学を出て一流企業に入社し、安泰だと思ったところが倒産したり、リストラされることもある。

一般社会では、「 出身校そのものが重要ではない 」 ことなど、バブル崩壊後の日本をみれば明らかといえよう。


まるでバブル時代を引きずるように、「 大学はどこ? 」 と聞きたがる人物は、出身校という 「 見せかけの権威 」 に、まだ意味があると考えている。

本当にその人物を評価するつもりならば、人柄をきちんと判断するべきで、言葉遣いや立ち居振舞いのほうが、よほど手がかりになるはずである。

それなのに中身より外見や経歴に気をとられ、しかもその判断基準でさえ、自分のものではなく、世間や既成概念から、もたらされたものでしかない。

企業の面接官など、必要があって出身校を尋ねる機会の多い人は別として、誰の周りにも、口癖のように大学名を聞きたがる人がいる。

あるいは、「 彼は○○大学の出身者だから優秀だ 」 という発言の多い人も含めて、心理学的には 「 中身を見ない権威主義者 」 と分析される。


こうしたタイプの特徴は、外からもたらされる情報に対し、無条件に信頼をおきがちで、ちょっと気をつけたほうがいい。

大新聞に書いてあったからとか、大学教授が言っていたからとか、そういうことだけで簡単に信用してしまう傾向がある。

また、本人自身の出身校は 「 二流 」 であることが多い。

自分より上の価値も、下の価値も知ったうえで、「 そこそこ 」 の自分という存在に地位を求め、上にへつらい、下を小ばかにする。

ちなみに、「 一流 」 の人は他人の位置など気にしないし、「 三流 」 の人も地位に関する競争意識はないので、他人の経歴に特別な関心などない。


ちなみに、どの大学が 「 一流 」 で、どこが 「 二流 」 なのかというと、それを決める物差しは、「 卒業した自分自身 」 が持っているものだ。

どこにも、明確に 「 一流 」、「 二流 」、「 三流 」 を定めた基準などない。

自分の出身校に誇りを持っていれば、堂々と 「 一流 」 と答えるし、怠けたり、諦めたりして妥協した経験者は、「 二流 」、「 三流 」 と答える。

ただ、「 二流の人 」 の定義だけは、わりとハッキリしている。

自分より格下だと思う相手には、「 ○○ごとき 」 と罵倒し、上だと思う相手には、実際に会ったこともないのに褒めちぎるのが 「 二流の人 」 である。


仕事が 「 まったく楽しくない 」、「 辛いだけだよ 」 と愚痴ってばかりの人も、この 「 二流の人 」 に多いようだ。

一流は、職場の雰囲気を改善したり、工夫して苦役の中にも楽しさを見つけるし、なにより、成果を挙げる能力が高いので、そんな愚痴を言わない。

三流は、仕事への参加意識が低く、責任感もなければ、周囲の期待も低いので、一流とは別の意味で、さほど仕事を辛いと感じないものなのだ。

二流の人だけが、「 自分がなんとかしなければ 」 という思いだけが強くて、そのわりに周囲の忠告を素直に聞けなかったりして、仕事が巧くいかない。

だからといって、二流の人が 「 三流 」 になる必要などはなく、相手が誰であろうが素直に心を開き、耳を傾けることで 「 一流 」 になれるのである。






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2005年03月24日(木) 優れた経営者



「 お金で非常によい犬を買えても、その犬にしっぽを振らせることは

  できない 」

              ジョッシュ・ビリングス ( アメリカのユーモア作家 )

Money will buy a pretty good dog, but it won't buy the wag of his tail.

                               JOSH BILLINGS



昨夜は、久しぶりに 「 かなり 」 飲みすぎてしまった。

そんなわけで、しばらく続いていた 「 連続更新記録 」 も途絶えてしまった。


さて、今夜の 「 冒頭の名言 」 だが、“ 勘のいい人 ” ならお判りのように、堀江 貴文 氏 に捧げたい言葉として引用した。

基本的に、法律を侵さないかぎりは 「 ビジネスに善も悪もない 」 わけだし、彼がやりたいことを自由にやればよいと、私は思っている。

私の周囲では、「 あれは “ ファンド飛ばし ” だろう 」 という見方をする人も多いが、仮にそうだとしても、別に珍しい話でもなく、考えは変わらない。

ちなみに、“ ファンド飛ばし ” というのは、ある企業を安く買い叩いて、価値が上がれば転売、つまり 「 売り抜ける 」 ことである。

それが狙いであっても、別に 「 卑怯 」 でもなんでもない。


また、「 フジテレビ 」 にも 「 ライブドア 」 にも、何の義理もないし、どちらか一方を 「 肩入れ 」 する気は毛頭ない。

個人的な 「 好き嫌い 」 で語っても、どちらの経営者も尊敬できるタイプじゃないし、強いて言えば 「 どちらも負ければいい 」 ぐらいに思っている。

別に、「 他人の不幸を願う 」 わけではないが、たとえば、フジテレビ側には 「 企業が買収される危機を放置していた 」 という重大な過失がある。

相手を 「 卑怯だ 」 と罵る前に、経営者は己の不徳を猛省するべきだ。

仮に、この一件が 「 フジ側の勝利 」 に終わったとしても、経営者は騒動の責任をとって辞任すべきだと思う。


堀江氏については、世間が言うほど 「 切れ者 」 だとは思えない。

むしろ、テレビ出演の態度や発言を見るかぎり、どうにも 「 中途半端 」 な人物という印象が強く、会話や、服装についても “ センス ” を感じない。

あの 「 ふてぶてしさ 」 は演出かと思いきや、どこかで 「 民意 」 を気にしていたり、あまり敵対視されるのも困るような素振りをみせる。

自分が 「 やるかも 」 と言っていた施策をフジが実行した途端に、裁判所へ訴え出るあたりは許せても、それを批判する会見内容がお粗末だ。

自著では 「 金で買えないものはない 」 と公言しながら、本日の会見では 「 企業を支配しても、皆様の “ 心 ” まで支配する気はない 」 などと言う。


この期に及んで 「 心 」 などという情緒的な部分を気にするよりは、あくまでも 「 ビジネスに徹している 」 という態度のほうが、潔く、好感が持てる。

もちろん、そんな 「 弱さ 」 もパフォーマンスの一部だと考えられなくはないが、イメージ戦略としては間違っているような気がする。

彼がよく比較する 「 欧米のやり手 」 がみると、おそらくは馬鹿にするだろうし、私の知る限り、そのような 「 M&A 実行者 」 はいない。

評価できる最大のポイントは 「 大胆さ 」 にあるが、年齢的には、さほど驚くほど若いとも思わない。

むしろ、「 20代前半でホストクラブを経営し大成功している 」 ような青年のほうが、知力、実行力ともに優れているようにも思う。


過去も含めて、彼が 「 投資家 」 として成功している点は認める。

ただ、「 優れた経営者 」 を目指す気があるなら、「 人徳 」 といった部分についても、多少は考える必要があるだろう。

優れた経営者とは、単に資産が多いだけではなく、その人の 「 徳 」 に信頼が集まり、従業員個々の能力が最大限に発揮できる環境をつくれる人だ。

それは従業員の、尊敬する人、信頼する人、そして好意をもった人であり、軽蔑する人、不信感をもっている人、嫌いな人ではあり得ない。

ペットショップを営み、犬を売買するだけなら構わないが、自ら犬を飼うのであれば、せめて 「 しっぽ 」 ぐらいは振ってもらわないと淋しいだろう。






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2005年03月22日(火) 余暇の過ごし方



「 やることを誰よりもたくさん抱えていて、働く気のある人が、

  最もたくさんの時間を見出すことになる 」

          サミュエル・スマイルズ ( イギリスの著述家、社会改良家 )

Those who have most to do, and are willing to work, will find the most time.

                               SAMUEL SMILES



この三連休、旅行やレジャーを楽しまれた方も多いだろう。

あるいは、日ごろの疲れをとるため、ゆっくりと過ごされた方もいるだろう。


たまに、「 理想的な余暇の過ごし方 」 について、質問を受けることがある。

それは 「 人それぞれ 」 の問題なので、何が正しいとか、何が理想的というものではない。

余暇というと、すなわち 「 仕事以外の時間 」 だと早合点する人も多いが、正しくは 「 やりたいことをする時間 」 のことである。

それが自分の本職としている仕事であろうと、趣味であろうとかまわないのであって、仕事と対比して余暇を考える必要はない。

仕事相手が休んでいるときこそ、電話や訪問に振り回されず、自分の仕事に打ち込め、スムーズにはかどるから 「 働き時 」 とみなす考え方もある。


ただ、「 仕事以外にやることがない 」 というのも淋しい話だし、同じ成果を得るために他人よりも長く働くようでは、「 能力が低い 」 気もする。

それよりは、趣味やら、遊びやらの体験を通じて、なにか新しい発見をしたり、世の中の変化を肌で感じたりするほうが、有益なようにも思う。

日ごろの運動不足を解消するため、スポーツに参加するのもいい。

既婚者なら、自分を支えてくれる大切な家族や、独身者なら恋人のために、楽しい旅行やレジャーを企画するのも、意義深いことである。

そんな場合も、けして 「 義務的 」 に捉えず、「 やりたいこと 」 という認識の下に、実行することが望ましい。


仕事でも遊びでも、余暇に心置きなく 「 やりたいこと 」 ができる人は、普段の能率が良いわけで、また、「 気持ちの切り替え 」 が巧い証でもある。

残業を持ち帰って、余暇を処理に充てていることは、けして自慢にならず、むしろ 「 恥じる 」 べきかもしれない。

前項で述べたように、余暇に仕事をすること自体は悪くないが、普段の遅れを取り戻すための補填という性質の仕事では、少し情けない気がする。

余暇の持つ 「 自由度 」 を活用し、斬新で独創的なアイディアを盛り込んだ企画を練るとか、もっと創造的な作業に充てるのなら、仕事もまた楽しい。

世の中がいかに不公平であっても、時間だけは誰にでも平等に与えられるものであり、「 自分の時間 」 をつくり出すことは、一つの能力ともいえる。






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2005年03月21日(月) モチベーション



「 自分の意欲をかき立てることができない人たちは、ほかの才能が

  いかに感嘆すべきものであろうと、凡庸に甘んじるしかない 」

                 アンドリュー・カーネギー ( アメリカの実業家 )

People who are unable to motivate themselves must be content with mediocrity,
no matter how impressive their other talents.

                             ANDREW CARNEGIE



30歳で製鉄業を始め、億万長者になった立志伝中の人物である。

19世紀後半~20世紀初頭の人だが、そのビジネス哲学は現代に通じる。


物を落としてしまったとしても、それだけの被害で済む。

しかし、「 やる気 」 を失ったら、すべての行動のブレーキになる。

学歴や職歴など、いくら過去の実績を自慢したところで、「 やる気 」 の無い人間に出来ることなど、たかがしれているのである。

また、本人は 「 自分の仕事は責任が重い 」 と思っていても、そんな人間を周囲がアテにしたり、期待し、信頼することなどあり得ない。

ビジネスのみならず、スポーツの世界などでも、多くの人間は 「 やる気 」 を失ったときが、実質的な引退であったり、選手生命の終焉となる。


スポーツ選手が厳しいトレーニングに耐えられるのも、真面目な受験生が一生懸命に勉強するのも、「 やる気 」 につながる内的な強い欲求による。

つまり、「 オリンピックで入賞したい 」 とか、「 あの会社に入りたい 」 というような 「 やる気 」 が、行動よりも先行するものなのだ。

だから、技術を磨いたり、仕事量を増やしたり、勉強して資格を取ることよりも、自分の心や意志を鍛えたり、希望を持つことのほうが大事である。

まったくの無責任でも困るが、ビジネスでは 「 責任感 」 だけで解決できるような事柄は少なく、それよりは 「 情熱 」 のあるほうが期待できる。

厳しい、辛いという視点でしか仕事や社会を眺められない人は、結局、自分の目的と社会の目的が一致しないので、生きる価値すら感じられなくなる。


最近は、自分の怠慢を他人のせいにしたり、環境の責任にする人も多い。

失敗や技能不足など、自分の責任を厳粛に受け止めることがなかったら、いつまでたっても問題の解決にならない。

また、物事を常に否定的な面から見ていたら、そこからは何も生まれない。

さほど年寄りでもないのに、この 「 非生産的な考え方 」 を払拭できない人がいるということは、実に不幸なことである。

そんな考えでいたら、やる気を失い努力もしなくなるので、他人の役に立つどころか、自らの途を開くにもほど遠い。


けして 「 楽観的になれ 」 とは言わないが、他人のあら探しをしたり、社会を否定的な視点で捉える習慣の多い人は、少し気をつけたほうがいい。

あるいは、普段の生活で 「 疲れた、何もかも嫌になった、俺はもうだめだ 」 などという言葉が口癖になっている人は、さらに注意が必要だ。

激動する社会に正しく対応し、明るく生きていくためには、否定的な視点を固持していると 「 大事なことを見過ごしてしまう 」 という恐れもある。

社会や政治や環境に 「 完璧 」 などあり得ないわけで、その落ち度や欠点を否定的に指摘することなど、よく考えてみると、難しいことでもない。

いくら難解な論拠を引っ張り出してきたり、薀蓄のある言葉を多用したりしたところで 「 ただの悪口 」 に変わりはなく、ほとんど意味の無い作業だ。


すべての人間には 「 心 」 という厄介なものがあって、一度ねじまがったり、歪んだりすると、なかなか元には戻らない。

それでも、時間をかけ、少しづつ努力することによって、心の歪みを元へと戻したり、否定的、悲観的な性格を改善することはできる。

たとえば、特別に愉快なことなどなくても、「 今日は何の事故もなかった 」、「 三回の食事にありつけた 」、「 仕事に打ち込めた 」 と感謝してみよう。

たったそれだけのことで、世の中の 「 マイナスしか見えない 」 という性格が改善され、ささやかな幸せを体感することで、未来への希望も生まれる。

社会を否定的に観察する視点を、未来への希望に対する 「 知的好奇心 」 に移せば、必ず 「 やる気 」 が戻ってきてくれるはずだ。






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2005年03月20日(日) 私は 「 表情美人 」 が好きです



「 魅力とは、男性に電話番号を聞く気を起こさせるもの。

  また、女性にドレスのデザイナーの名を聞く気を起こさせるもの 」

                                      作者不詳

Glamour is what makes a man ask for your telephone number.
But it also is what makes a woman ask for the name of your dressmaker.

                                  ANONYMOUS



外見で人を判断してはいけないと、多くの人は言う。

大切なのは見た目でなく、その人の性格だからという話だ。


たしかに 「 筋の通った理屈 」 のようだが、それは本当なのだろうか。

外形、服装、態度などは、多くの場合、その人が自分の尺度によって選択したものである。

つまり、外見だって突き詰めれば 「 その人の心の表出 」 であり、その場、その対象に対する配慮だったり、心の在り方を示していることになる。

なかでも服装は、「 人工的につくりあげたその人の心の人相 」 だとする説もあるぐらいで、そこから性格の一部を読み取ることも出来なくはない。

逆に、だらしのない服装、極端にセンスの悪い服装を指して、性格とは無縁だと主張するほうが、どこか無理があるような気もする。


別に、贅の限りを尽くして、お洒落をする必要など無い。

しかしながら、あまりにも無頓着では、「 周囲に対する配慮 」 に欠けていると思われても、やむを得ないだろう。

人が社会的責任を果たすということは、大上段に天下国家を論ずるだけではなく、身だしなみなどの身近な問題を解決することから始まる。

場違いな化粧の濃さや、派手すぎる服装にも、性格の片鱗は窺える。

したり顔で、外見を無視して 「 大事なのは中身 」 と語る人もいるが、私は 「 外見でも、ある程度は性格が判断できる 」 のではないかと思っている。


さらに言うと 「 顔 」 も、重要な外見の一部である。

それ自体は 「 天性のもの 」 で、美醜を問われても困ると仰る人もいるが、たしかに 「 目鼻立ち 」 はそうでも、「 表情 」 は変えることができる。

実際、大抵の男性にとっては、「 美人だが嫌いな顔 」 があるのと同様に、「 ブスだが好きな顔 」 というのがあるものだ。

可愛い、愛くるしいと思える表情にこそ、人は格別の愛情を注ぎたくなるもので、穢れを知らぬ幼児に抱く親の気持ちも、それに通じるものがある。

逆に、目鼻立ちは整形や化粧で誤魔化せても、その人の本心、感情を映す鏡である表情は、意図的に演出しても、長時間に及ぶと嘘が見破られる。


かといって、「 ブスは性格が悪い 」 とも言えないが、たえず穏やかな微笑をたたえたり、魅力的な表情を示す人を好きになるのは、悪いことではない。

また、そのような 「 表情美人 」 は、人々の視線を浴びやすい環境にあるので、周囲に対する配慮も、無頓着というわけにはいかない。

公共の場所で嬌声をあげて騒いだり、はた迷惑な行為をするのも大抵は 「 一部のブサイクな女性 」 であって、魅力的な女性が加わることは珍しい。

だから、「 外見で人を判断すること 」 は、美醜だけでなく、その人の性格をも垣間見ることに通じるという論拠が、実際には存在する。

もちろん、すべてがそう当てはまるとは限らないし、うまく感情を表せない人もいるが、確率論的にいうと間違った判別方法ではないようだ。






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2005年03月19日(土) 永遠のライバルたち



「 自分の無知さ加減がどれくらいか、それがおよそ計れるようになって

  はじめて、人間は賢くなる 」

                         ジアン・C・メノッティ ( 作曲家 )

A man only becomes wise when he begins to calculate the approximate depth of his ignorance.

                              GIAN.C.MENOTTI



久々に、古い仕事仲間と会って、昔話などを肴に深酒した。

けして人の事は言えないのだが、皆、ずいぶん歳をとった感じだ。


この連中が居る会社は、実は学校を出て最初に世話になった企業で、コネやら、周囲の多大な努力のおかげで、なんとか入れてもらった経緯がある。

当時、なぜだか 「 商社 」 の仕事に過度の期待と憧れを持っていたので、自分が情熱をもって活躍する舞台はここ以外にないと信じていた。

それなりの苦労もあったが、運良く 「 社内留学制度 」 の対象者に選ばれ、ほとんど日本人の卒業者が居ない学校で 「 MBA 」 も取得できた。

今と違って、企業として 「 かなりの投資 」 だったし、後の人生に大きな影響を及ぼす貴重なキャリアを与えてくれたことは、たいへん感謝している。

しかし、皮肉なことだが、この体験が 「 外の世界を知る 」 きっかけとなり、しばらくして外資系の企業に転ずる足がかりになっていった。


彼らはまだ、その会社で頑張っていて、それなりの地位を獲得した。

ありがたいことに、今でも情報交換やら、「 誰それが転勤から戻った 」 やらの口実をつけては、時折、飲み会に付き合わせてもらっている。

私は彼らを、ありったけの羨望と皮肉を込めて 「 大企業のお偉いさん 」 と呼び、彼らは私を、同じような感情を込め 「 気ままな自由人 」 と呼ぶ。

お互いに、ほとんど何の後悔もなければ、今の自分を哀れむこともないが、違う生き方を選んだ同期を、「 自分の分身 」 を観るように観察している。

たぶん、この関係は今後も続いていくだろうし、続けていきたいと思う。


最近は、「 引きこもり 」 の若者が多いという。

一つの生き方として悪くはないが、「 未知の自己との遭遇 」 は他人を通してなされるもので、他人との関わりをなくしては難しい。

一人では対比の尺度がないから、自分自身が何者であり、社会的にどんな位置にあるのか、わかりにくいものである。

同窓会、クラス会など、他人を通して、我々は間接的に違った世界を体験することができ、それが自分の 「 人生のクオリティ 」 を高めることもある。

自分自身を発見するのは、ことにふれ、他者と出会うことで可能となる。


この日のメンバーに共通しているのは、皆、勉強好きで、大半が現在でも、なんらかの資格を得たり、専門分野に精通するための研究に就いている。

出身校別にみると、国立、私立の有名校、海外の名門が並ぶが、誰も自分が賢いとか、特別だなどと勘違いしている輩はいない。

誰でも、「 知らないことは知らない 」 し、「 知るべきことは学ぶしかない 」 という当たり前の原則を、普通に実行しているだけである。

また、生意気な若僧の時代に、何にでも 「 上には上がいる 」 ことを痛い目に遭って思い知らされてきた共通の体験があり、奢り高ぶる気になれない。

飲み会での話題の中心は、けして 「 お堅い話 」 ばかりでもないが、彼らとの交流が 「 まだまだ勉強しなきゃな 」 という発奮材料にはなっている。






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2005年03月18日(金) 若者らしさとは何か



「 天才の極意は、子供の精神を老年まで持ち越すこと、

  すなわち、決して情熱を失わないことである 」

    オールダス・レナード・ハクスリー ( イギリスの小説家、エッセイスト )

The secret of genius is to carry the spirit of the child into old age, which means never losing your enthusiasm.

                       ALDOUS LEONARD HUXLEY



卒業シーズンを迎え、いろいろな人に 「 転機 」 が訪れる。

それが、この時期の特徴であり、いわゆる風物詩みたいなものである。


ところが最近は、「 卒業しても何も変わらない 」 人たちも多い。

知り合いに、大学を卒業する男子、専門学校を卒業する男子がいて、二人とも 「 卒業しても、現在のバイトを続ける 」 という予定になっている。

もちろん、バイトというのも一つの就労形態だし、働くことに変わりはない。

それに、「 何もしない 」 というのも一つの決断であり、選択肢だと言えなくはないわけで、そこに 「 善悪の概念 」 を持ち込むわけにはいかない。

ただ、「 本当に、それでいいのか? 」 という疑問は残る。


フリーターという生き方は、現代の若者像として捉えられがちだが、本来、若者とはそういうものだろうか。

彼らに 「 どうして正社員にならないのか 」 と尋ねても、面倒だとか、やる気が起こらないとか、ろくな仕事に就けないといった声が返ってくる。

何かが始まる前に諦めてしまっているかの如く、将来に対する夢や憧れもなければ、情熱、好奇心、向上心といったものも感じられない。

世の中に対する 「 絶望 」 とか、「 倦怠 」 といった類のものは、ある程度、社会人としての生活を歩んだ後に、立ちはだかる壁ではないのか。

最初から、「 特にやりたいことがない 」 とか、「 新境地に興味がわかない 」 という姿勢に、はたして 「 若者らしさ 」 があるのだろうか。


彼らのような若者が多い背景には、社会の問題もある。

多くの企業が省力化を推し進めた結果、雇用負担の少ない派遣社員や、パート、バイトの比重が極端に増え、正社員に対する雇用枠が激減した。

しかし、それでも、新卒者に対する求人が 「 0 」 になったわけではないし、一部の企業は優秀な人材、将来性のある人材を求めて奔走している。

すべてを社会や環境のせいにするのは、少し間違っているだろう。

それに、彼ら自身は 「 そんなつもり 」 もなく、誰を責めるでもなしに、ただ、「 情熱をもって取り組みたい事柄がない 」 のである。


そんな生き方を、けして推奨したくもないが、否定することはできない。

各人の価値観は画一化されず、多様な生活様式と、何にも縛られない自由な思想が認められていて、それに偏見を向けることは許されない。

しかし、周囲の評価や世間体はともかく、自分自身がそれでいいのか。

もちろん、大手の企業に就職できたからといって、それだけで将来が安泰というわけでもないが、「 その日暮らし 」 の生活では安定感が生まれない。

結婚して子供をつくる気にもならないだろうし、年金に加入する割合も低く、国家的にみても、あまりよい傾向とはいえない。


いくら世の中がおかしくても、未来に期待できなくても、いまは情熱が湧いてこなくても、できれば 「 新しい社会に飛び込み、冒険する 」 気概が欲しい。

彼ら自身、たとえば小学生の頃に 「 将来は、何になりたいか 」 と訊かれ、「 フリーター 」 と答えたわけではあるまい。

そう考えると、一番 「 子供らしさ 」 を失くしてしまったのは、中年の我々ではなく、むしろ彼らのような若者ではないだろうか。

彼らの親にも問題はあり、いつまでも 「 基礎的生活条件 」 を提供し続けることで、親に依存する 「 パラサイト・シングル 」 が生まれる。

せめて一年前に相談してくれたらとは思うが、どちらの親御さんもお金持ちなので、今のところは 「 体裁が悪い 」 程度しか意識がないらしい。






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2005年03月17日(木) 常識を教えない組織



「 銀行と提携するぐらいなら、紫の帽子をかぶった売春宿のオヤジの

  ほうがマシだ 」

                    ピート・ザマレロ ( 不動産デベロッパー )

I'd rather be a pimp with purple hat...than be associated with banks.

                              PETE ZAMARELLO



日本の銀行は質が悪いと思ったら、海外にも 「 銀行嫌い 」 はいるらしい。

彼に何があったのかは知らないが、私自身は別に何の恨みもない。


ただ、ここにも以前から何度か書いているように、今日の日本経済を悪くした張本人は銀行の連中であり、その罪は重いと思う。

だいたい、かぎりなく 「 0 」 に近い金利で預金者からお金を集めて、最大十数%を乗せて他人に貸す商売ができ、「 損をする 」 ことが不思議だ。

その経営は、よほど軽率か、あるいは無能かということを証明している。

たまたま最近、銀行へ出向く用事があったのだが、二回連続で 「 無能 」 な銀行員に出くわし、「 アホなのは、トップだけではない 」 ことに気付いた。

中には、「 アホではない 」 銀行員もいるだろうし、アホな組織の体質を改善しようと努力している人もいるだろうが、あまり出会ったことはない。


一人目は、大手都市銀行支店の 「 アホ課長 」 である。

窓口が五つあって、けっこう混雑しているにも関わらず、三人の女子行員が対応しているだけで、二つは閉鎖されていた。

しかも、二人はテキパキと仕事をこなしているが、「 素人目に見ても 」 残る一人は作業が緩慢で、仕事がはかどっていない様子だ。

自分も含め十五人前後のお客さんが、整理券を持ち順番を待っている。

そこへやってきた次のお客さんが、発行機から整理券を取ろうとしたのだが、プリント用紙が切れたせいか、券が出てこなくなってしまった。


そのお客さんは窓口の女性に、故障の旨を伝え、窓口の女性が、奥のほうにいた 「 問題のアホ課長 」 に、事態を報告したのである。

もちろん、この時点では 「 アホ 」 かどうかわからなかったが、神経質そうな40歳前後のひ弱な小男で、交換用のプリント用紙を携えて登場した。

しばらくは、一人で機械をいじくり回していたのだが、うまくいかないらしく、途方にくれた表情で 「 お手上げ 」 といったポーズをしている。

その後、彼は、こともあろうに混雑する窓口の 「 有能な女性行員の一人 」 をロビーに呼び出し、結局、彼女に修理してもらったのである。

その間、約5分ほどだったが、ただでさえ待ちくたびれている我々は、さらに長引かされ、お客さんの 「 イライラ 」 は、つのる一方であった。


それほど腹が立ったわけでもないが、ちょっと 「 非常識 」 だと感じたので、自分の番が来たときに、窓口の女性に苦言を呈した。

その窓口の女性というのが、新人 ( ドン臭いほう ) だったせいか、対応が悪く、さらに遺憾に思ったので、先刻の男性を呼んでもらった。

ほどなく彼がやってきて、別の空いているカウンター越しに話をした。

当然、先ほどの対処はまずいとか、「 混雑状況を考えなさい 」 といった内容の文句を言ったのだが、あまり真剣に聞いていない様子だ。

それで仕方なく、「 おたくの○○さんとは、一緒に仕事をしてるのですが 」 という 「 脅し 」 を与えると、たちまち態度が豹変した。


平身低頭、「 絵に描いたような 」 平謝りである。

大手銀行の課長といえども、これが実態なのかと思うと、怒りを通り越して 「 呆れて 」 しまうほどで、余計に憤りを感じる結果となった。

彼には、顧客満足など眼中になく、己の保身のみが大切なのである。

よほど 「 ○○さん 」 に報告してやろうかとも思ったが、そこの大物と言われる 「 ○○さん 」 も、あまり好きな人物ではないので関わりたくない。

それに、顧客に目撃されない部署にも 「 アホ 」 はいるはずで、彼のように店舗要員をしている者は 「 不利 」 なことを思えば、少し可哀相でもある。


二番目の 「 アホ 」 は、「 誰が 」 ということでもない。

別の銀行で、たまたま 「 閉店間際 」 に入ることになった。

思えば今まで、「 閉店間際の銀行 」 に入る経験が無かったので、ひょっとすると 「 そこでの体験 」 は、ごく普通の日常的なものかもしれない。

午後2時45分、手にした整理券番号は 「 14番目 」 のものだった。

銀行は3時で閉まるものという認識があったし、それより遅くなるようであれば翌日にしてもいいかなという気持ちで、本を読みながら順番を待つ。


前回以上に時間がかかり、なかなか順番が回ってこない。

ふと見ると、やはり五つある窓口の二つしか、行員の姿がない。

奥には多くの行員が居るのだが、彼らは彼らで別の仕事をしているのだろうから、窓口に回ってもらうわけにもいかないのだろう。

もし、時間に間に合わず、出直すことになったとしても、それは閉店間際に来た自分も悪いのだから、仕方のないことだと思う。

そうこうしているうちに3時になり、表のシャッターが音を立てて降りる。


ありゃりゃ、「 シャッターが下りちゃったよ 」 と不安になっているとき、急に窓口の様子が慌しくなってきた。

見ると、窓口のすべてに行員が座り、どんどん順番を呼び始めたかと思うと、一つの窓口に二人の行員が構え、さらに次のお客さんを呼んでいる。

すぐに自分の番がきて、ちゃっちゃと用件が片付けられ、守衛さんの案内で扉を開けてもらい、すぐに解放されたのである。

早く処理されたのは嬉しいのだが、それならなぜ、3時前に 「 総動員 」 してくれなかったのか、どうにも解せない気分になった。

銀行業界に詳しい人なら、それが 「 普通 」 なのか、「 異常 」 なことなのかご存知だろうが、素人の私にはよくわからない。


もし 「 異常 」 だとすれば、その支店は 「 アホ 」 だし、「 普通 」 だとすれば、業界自体の商慣習や、顧客への接し方が 「 アホ 」 である。

ちなみに、某大手都市銀行の大型店支店長と海外に出張したが、口ばっかり達者で、中身のないスピーチと、品性の無い 「 ご乱行 」 に辟易した。

上も 「 アホ 」 なら、下も 「 アホ 」 で、その後も相当数の銀行員と知り合いになったが、「 優秀 」 と思えたのは一部の女性行員だけである。

それは、職業的な差別感情ではなく、実際に体験した 「 出会い 」 がベースとなっているので、統計的な感想と思っていただくしかないだろう。

なぜ、この業界では 「 優秀な人間 」 が育ちにくいのだろうか。


一昔前、「 阪神タイガース 」 から放出されたトレード要員が、移籍先の球団では大活躍するという事例が多かった。

高校、大学で活躍し、ドラフトの上位で阪神に入団したものの、ぱっとしない成績で数年を過ごし、他のチームに移った途端に本領を発揮する。

ちょっとした銀行の銀行員も、そこそこの大学を出て、華々しく入行する。

他の企業に入った同窓生が、社会常識や仕事のキャリアを積み重ねていく中で、いまひとつ成長できないのは、個人ではなく 「 組織 」 に問題がある。

いまでも、「 銀行に就職したい 」 という学生は多いけれど、特に男子には、あまり勧めないようにしている。






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2005年03月16日(水) 身に迫る誘惑



「 人間の最大の誘惑は、あまりにも小さなことに満足してしまうことだ 」

                     トーマス・マートン ( カトリック修道僧 )

The biggest human temptation is _ to settle for too little.

                             THOMAS MERTON



仕事柄、様々な企業の、いろいろなビジネスマンと接する機会が多い。

個々に適切な改善策を模索し、ときに助言をし、成功に導こうとしている。


カウンセリングの基本は 「 聴くこと 」 だが、コンサルティングにおいては、聴くだけでは不十分で、問題解決まで導かなければならない。

共通しているのは、「 自発的な行動を促す 」 というところで、一方的に指示してもよい同じ企業の上司、部下といった関係とは、そこが少し異なる。

たまに、コンサルタントを 「 助っ人的管理職 」 のように誤解している人が、企業側にも、コンサルタント側にもいるが、それは間違いだと思う。

大抵のコンサルタントは、そこそこの企業で管理職を経験した人物なので、たしかにそのほうが手っ取り早いし、簡単に事が済む場合も多い。

しかし、「 自分で解決させる 」 方向へ導かないと、目先の問題は解決しても、将来的な課題を克服する力を、各人に養わせる手助けにはならない。


つまり、カウンセラーもコンサルタントも、「 正解を教えるのではなく、各人に発見させる 」 ことが本来の役割であり、その姿勢を崩すべきではない。

人間は誰でも、自分の手柄や実績をアピールしたい欲求を持っているし、貢献度を数字で示さないと、なかなか人は認めてくれないものだ。

それも事実だが、その欲求を抑えて、企業や個人に奉仕する気持ちがないと、信頼に足るカウンセラー、コンサルタントにはなれない。

正直に言って、ある企業の成果に関与したとき、「 ねっ、ねっ、私が言った通りにやったら成功したでしょ、ねっ、ねっ! 」 と言いたいときもある。

そんな気持ちをグッと抑えて、「 皆さんが、ご自分で達成したのですよ 」 と穏やかな笑顔を残して去っていくのが、正しい身の処し方なのだ。


ただ、「 野心がまったく無い 」 というのも、どうかとは思う。

カウンセラー、コンサルタントには 「 高齢者 」 が多く、とっくの昔に野心など消え失せ、名誉職的な立場で臨んでいる人もいる。

他人に奉仕して対価を得る作業は、あくまでも 「 一つのビジネス形態 」 であり、けして 「 ボランティア 」 ではない。

お金をいただくことでの 「 責任 」 や 「 義務 」 がそこには存在し、具体的な成果を保証し、積極的に取り組むことの原動力にもなっている。

まだ 「 年寄り 」 とは言えぬ年齢で、「 さすが先生 」 とおだてられ、ちょっとした名誉で満足してしまう誘惑とも、立ち向かわなければならないのだ。






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2005年03月15日(火) 愛は真心



「 真実の愛とは、永遠に自分を大きくしていく体験である。

  ちょっと人を好きになることではない 」

                           M・スコット・ぺック ( 作家 )

Real love is a permanently self-enlarging experience.
Falling in love is not.

                               M.SCOTT.PECK



簡単な構文だが、なかなかに意味深いものがある。

単語では、[ enlarging ( 大きくする ) ] あたりを使うところに個性を感じる。


今年の 「 ホワイトデー 」 は、久しぶりに散財する結果となった。

先月の 「 バレンタインデー 」 が久々の 「 大漁 」 だったせいだが、大半は 「 義理チョコ 」 程度のものである。

ついでなので、「 義理チョコ 」 さえくれなかった人にも、普段から少なからずお世話になっている女性へ、とりあえず粗品を差し上げておいた。

こうしておくと、「 誰がくれた、誰がくれなかった 」 などと、いちいち覚えておかなくてもすむので、方法としては気楽なのである。

中年にもなると、これも盆や正月と同じ 「 季節行事の一つ 」 みたいなもので、ドキドキしたり、ワクワクするような愉しみではない。


ある 「 粋人 」 いわく、「 恋は下心 ( シタゴコロ )、愛は真心 ( マゴコロ ) 」 なのだそうである。

なにやら哲学的な講釈のようだが、とても簡単な話。

漢字の 「 恋 」 は、下のほうに 「 心 」 があるので 「 下心 」、それに対して 「 愛 」 は、真中に 「 心 」 があるので 「 真心 」 という ユーモア だ。

さらに言うと、「 浮気 」 や 「 不倫 」 の漢字には、どこにも 「 心 」 が無い。

思い当たる人には気の毒だけれど、どうやら、そういうものらしい。


あまり 「 ホワイトデー 」 に関心はないけれど、魅力的な女性には、いまでもドキドキ、ワクワクするし、たまに 「 恋 」 もする。

なにを基準に 「 愛 」 か、「 恋 」 かと尋ねられると返答につまるが、正直に申し上げると、やはり私の場合は 「 下心で始まる恋 」 が多いようだ。

開き直るつもりはないが、それで 「 何が悪い 」 という気もする。

最初は下のほうにある心が、だんだんと真中に寄ってくるならそれも良し、さらに降下したり、消滅したりすれば、それも 「 縁 」 と割り切るしかない。

あるいは、ひょっとすると、お互いの下心が 「 イーブン 」 な状態こそが、「 愛 」 の始まりなのかもしれない。






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2005年03月14日(月) 勘の効力



「 自分の勘を信じなさい 」

          バーバラ・ウォルターズ ( アメリカのニュースキャスター )

Trust your gut.

                            BARBARA WALTERS



春の気配を感じた途端に、今度は真冬並みの寒さに逆戻りだ。

全国の広い地域で今日は、雪が舞い、寒風が吹き荒れる一日となった。


四季がもたらす経済効果というものは、早い時期に寒くなったり、暑くなったりしなければ、ほとんど意味がない。

3月も中旬になって、急に寒くなったからといって、暖房器具や防寒衣料を新調する人は少ないだろう。

つまり、この時期の寒さは 「 耐える 」 しかないわけで、灯油が切れたからといっても、また急に暖かくなる可能性を思えば、注文しにくいものだ。

こんなに寒くなるんだったら、いっそ雪山にスキーでもしに行けばよかったのだが、とっくに物置に収納してしまった。

思えば今年のスキーは、「 ゲレンデが溶けるほど雪がない 」 ときに行ったきりで、ほとんど楽しめないという結果に終わった。


気候もそうだが、自分の努力ではどうしようもない 「 不可抗力 」 みたいな外的要因が、著しく予定を狂わせることもある。

対抗策としては、「 ○ だったら、こうしよう 」、「 ● だったら、こうしよう 」 といった具合に、複数の選択肢を予定しておくことが考えられる。

それも出来ない場合は、「 自分の勘を信じる 」 しかない。

この 「 勘 」 というものは、曖昧なようでいて、実は 「 脳内にある統計 」 によってはじき出された 「 確率の高い選択 」 でもある。

ときに 「 ベテランの勘 」 という言葉を使われたりするが、関連する事柄を数多く経験した人の場合、当然、統計学的にみて的中率は高い。


よく当たると評判の 「 占い師 」 が人気を集めているが、もし何らかの根拠があるのだとすれば、それはやはり 「 経験に基づく勘 」 によるものだろう。

私は、占いのような 「 オカルト的な話 」 を信じない性質なので、特に料金を払ってまで占ってもらったこともないし、まったく興味がない。

関係者の方には申し訳ないが、ほとんど 「 根も葉もない話 」 だと思っているわけで、「 インチキ 」 とまでは言わないが、どうにも信じ難い。

ただ、農村部などで伝統的に信奉されている 「 雨乞いの踊り 」 だけは信じており、実を言うと私も、ここだけの話だが 「 雨乞いの踊り 」 ができる。

なんのことはない、「 雨が降るまで踊ってりゃいい 」 だけの話で、誰にでもできるのである。






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2005年03月13日(日) 無意味な精神鑑定



「 人間よ、人間よ、それは全く哀れみなしでは生きていけないものだ 」

                フェドール・ドストエフスキー ( ロシアの小説家 )

Man, man, one cannot live quit without pity.

                         FEODOR DOSTOYEVSKY



人が幸福に生きられるかどうかは、大抵は 「 本人次第 」 である。

しかしながら、ごく稀に 「 本人にはどうしようもない 」 ケースもある。


たとえば、親の虐待によって無残な死を遂げた幼児に、何の非があろう。

虐待でなくとも、近親者が精神に異常をきたし、幼子を巻き添えにする事件の場合も、同じようにまた悲劇となる。

幸せとは、「 自分の手で掴むもの 」 だとか、「 気の持ちよう 」 というのは、あくまでも 「 自分の生き方を選択できる者 」 の話である。

だから、子供に危害を加える者、しかもそれが 「 近親者 」 であるならなおのこと、その罪は重く、憎むべき存在となる。

しかし、いくら憎んでも、死者が甦るはずもなく、何の慰めにもならない。


岐阜県警は昨日、中川市で一家五人が惨殺され、一人が負傷した事件の容疑者である 原 平 容疑者を、「 殺人未遂 」 の疑いで逮捕した。

既に五人の殺害も認めているらしく、県警は殺人容疑としても捜査を進めており、動機の解明なども急ぐという。

どうやら 「 自殺するつもりだった 」 ようで、「 何もかもが嫌になった、こんなことをしてしまって許してくれ 」 などと供述しているらしい。

自分の母親、長女、長男、孫二人 ( 2歳と、生後3週間 ) を殺害した犯人は、一体、「 誰に 」 対して、「 何を 」 許してくれというのか。

自分が 「 何もかも嫌になった 」 のだから、子供や孫の生命を絶ち切っても、許される余地があるという論理を、理解できない私は頭が悪いのか。


何の非もないのに、父親に、あるいは祖父に、寝込みを襲われ惨殺された被害者の無念は、いかばかりであろうか。

死刑制度の是非を問う議論も活発化しているが、この犯人に 「 安楽な死 」 を与えることが、被害者の無念に相当する 「 代償 」 とは思えない。

この犯人にとって、司法の手で生命を絶たれることは、むしろ 「 恩恵 」 であって、罪を償うための 「 罰 」 とはいえないように思う。

逆に、「 絶対に死ねない環境 」 に拘束し、生涯、幼子の無念に思いを馳せさせることこそが、罰として相応しいのではないだろうか。

どのような判決が出るのか、いまのところは不明だが、私としては、平易に 「 死 」 という名の終末を与えるべきではないように思う。


ストレス耐性が弱く、精神の病に冒された人間に 「 同情の余地 」 はあるが、このような不幸が身内に及ぶ事態は、なんとかして防ぐべきだろう。

ここまで大きな事件に発展しないまでも、暴力的、あるいは破滅的な身内の狂気によって、幼子の生命が危険に晒されたという事例は少なくない。

事件が起きてから、被疑者を 「 精神鑑定 」 して罪の重さを測ることよりも、危険な兆候が出た時点で、予防的な対策が必要となる。

家族には安全な避難先を確保し、本人には適切なカウンセリングを施して、不幸な出来事を水際で食い止める制度を、さらに充実させるべきだろう。

現代は 「 ストレス社会 」 であり、重圧に耐え切れず自殺や心中をはかるなどという 「 問題の種 」 はいくらでもあり、放置すると惨事は繰り返される。


このような事を書くと、精神疾患、人格障害の人への 「 偏見 」 や 「 差別 」 だと捉える人もいるが、よく考えて欲しい。

何の対策も講じず、このような事件が起きてから 「 小さい子が可哀相 」 だとか、「 犯人も可哀相 」 だと哀れんでも、死者は生き返らない。

重い心の病に冒されていたとしても、世の中に 「 死んでもいい人間 」 などいないはずで、誰も自分から死ぬべきでないし、殺されるべきでもない。

我々 「 カウンセラー 」 の中には、時間の許す限り、たとえ無償でも相談に乗るという人材は多く、もちろん私自身も例外ではない。

どんな病気の場合も、一番の害悪は 「 放置する 」 ことであって、取り返しがつかなくなる前に、解決の糸口を探れる社会を整備する必要がある。






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2005年03月12日(土) 自由と自己抑制



「 自分をコントロールできない者に、自由はない 」

                   ピタゴラス ( ギリシャの哲学者、数学者 )

No man is free who cannot control himself.

                                 PYTHAGORAS



酒量の多い人が、けして 「 アルコールに強い人 」 とはかぎらない。

さほど強いわけでもないのに、つい、多量に摂取する傾向のある人もいる。


夜の六本木というのは、なんとなく 「 飲みたくなる 」 風情がある。

いい頃合に酩酊し、店を出て歩き出すと、前からキレイな女性が来る。

そこで、「 建物の壁に体を押さえつけて、服の中に手を侵入させ、思い切り胸を鷲掴みにする 」 なんて気分になることも、考えられなくもない。

しかしながら、圧倒的大多数の人間は、実際にそんなことをしないし、もし、そうしようと心に決めたとしても、それなりの “ 手続き ” を踏むはずだ。

いきなり、何の交渉もなく 「 鷲掴み 」 に及ぶことは、殆ど考えられない。


中西 一善 という国会議員が、それを堂々とやってのけた。

当然、「 あるまじき暴挙 」 で、厳正な処分を課すべき犯罪行為である。

この事件は、被疑者が 「 国会議員の立場であること 」 とは、あまり関係がないように思える。

その立場を利用したとか、偉くなったと勘違いしたとか、「 思い上がり 」 による愚行と考えるには、あまりにも無軌道、無計画すぎる。

つまり、この人物は、職業が国会議員ではなくて、民間企業の従業員でも、学校の教師でも、同じ事をやったのではないかと考えられる。


本人は記者会見で、「 国会議員に対する信頼を傷つけ 」 とか、党全体への余波を気に掛ける素振りを見せたが、その心配は少ない。

酒癖の良し悪しは、きわめて個人的な習慣であって、組織の文化や体質といったものとは無縁の位置にあり、誰も 「 自民党の問題 」 とは思わない。

個人の責任が追及されるだけの範囲で、すべて決着するだろう。

もちろん、他人の揚げ足をとるしか能のない 「 民主党 」 が、今回の事件をネタにして難癖をつける可能性もあるが、たいした効果は期待できない。

あまりしつこく追求を続けると、ますます国民から馬鹿にされる。


理性が行動を制限できず、簡単に本能や欲望に支配されてしまうようでは、それはもはや 「 ヒト 」 とはいえない。

一昔前に、「 覚せい剤やめますか、人間やめますか 」 といった公共広告の名作もあったが、まさに、それと同じである。

酒を飲むことは、自由な個人の権利でもあるが、それで自己を抑制できないという者からは、その自由を剥奪する必要があるかもしれない。

ただ、世の中に 「 酒好き 」 は多く、これを 「 性犯罪 」 として処理するべきところを、「 まぁ、酒の席だから 」 と甘く捉える人たちも多い。

本人は、「 もう飲みません 」 と反省しているらしいが、二度と酒を売らない、買えないぐらいの措置を、徹底するぐらいでないと困る。






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2005年03月11日(金) 困った人たち



「 一流の人は、一流の人を雇う。

  二流の人は、三流の人を雇う 」

                        レオ・ロステン ( アメリカの作家 )

First-rate people hire first-rate people,
second-rate people hire third-rate people.

                                 LEO ROSTEN



景気はたしかに上向きつつあり、新卒者の雇用も伸びてきている。

ただし、失業者に対する中途採用の現況は、相変わらず厳しいようだ。


将来的に起こり得る 「 リストラ 」 などの要因による失業を懸念するのなら、やはり若いうちから 「 キャリア 」 を身に付けておいたほうが望ましい。

ただし、世の中で需要の少ない技術や、資格では、実際に役立て難い。

この先の社会情勢を鑑みることは、とても大事なことなのである。

どんな学校を出たかという 「 学校歴 」 は、それほど重要ではないけれど、もしも、それだけで勝負したいのなら、かなりの線を求められる。

早稲田、慶応クラスの失業者も、いまでは 「 掃いて捨てるほど 」 居るわけで、留学し 「 MBA 」 を取得していても、三流校では評価が低い。


何度も書いてきたが、「 学歴は必要だが、“ 学校歴 ” はどうでもいい 」 というのが、私の信条であり、実際の社会も、そうなってきている。

過去に比べれば、「 どこの学校を出たか 」 よりも、「 どんな仕事に就いて、何を学んだか 」 を問う企業の数が、圧倒的に増えているのだ。

現在、中途半端な “ そこそこの大学 ” を出て、ヘンなプライドを持っているような人の再就職が、もっとも困難になっている。

もっと上の人は、「 使える 」 と認められれば、一流企業からお呼びが掛かるし、学歴にコンプレックスがあれば、贅沢を言わないので就職しやすい。

他人の評価は大したことないのに、自分だけが威張っているなんて、人格的にも 「 魅力的 」 とはいえず、当たり前のことかもしれない。


過去に大きな企業で働いていたから、「 中小企業に目標を落とすと、簡単に再就職ができる 」 と安易に考えている人も、そのクラスに多いようだ。

ところが、冒頭の短文にある通り、「 二流の人 」 というのは、自分の立場を脅かされるのを恐れて、「 自分以下 」 の人を雇いやすい傾向にある。

だから、“ そこそこの大学 ” から “ そこそこの企業 ” に就いた人が、格下の企業の中途採用に応募すると、それが原因で落とされることもある。

むしろ、「 もっと偏差値の低い大学 」 の出身者が、有利な場合もある。

もちろん、どんな学校を出ていようとも、ヘンなプライドなどなく、実力で勝負しようという頑張り屋さんには、それなりの就職が期待できる。


驕りを捨て、好き嫌いを言わず、何にでも挑戦する。

そんな人にとっては、再就職もそれほど困難でなく、最近も数名の求職者を就労させることができた。

問題は、「 自分の市場価値 」 を知らない人たちである。

過去にいくら稼いでいたか、どんな企業にいたかなど、採用担当者にとっては 「 どうでもいい、関心がない 」 話なのだ。

再就職が難しいと現職中から気付いていて、リストラでそれなりのショックを受け、「 精神的痛手 」 を負いながらも、姿勢が変わらないので困っている。






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2005年03月10日(木) 幸福を切り拓く方法



「 状況がタフになると、タフな者が道を切り開く 」

            ジョン・F・ケネディ ( アメリカ合衆国第35代大統領 )

When the going gets tough, the tough get going.

                             JOHN.F.KENNEDY



自分の不幸を他人のせいにすることほど、時間と労力の無駄遣いはない。

自分の人生に影響を及ぼせる者などなく、及ぼす者もいない。


それでも、どうしても 「 自分を不幸に陥れた犯人 」 を探し出したいのなら、周囲を見回す必要などない。

あなたを一番困らせているのは、毎朝、鏡の中で化粧をしたり、髭を剃ったりしている人物である。

だから、不幸な人間の一部は、「 鏡に映る人物 」 を消し去ろうとする。

そう考えると自殺とは、ある意味 「 殺人 」 なのである。

いくら他人を責めて気を紛らわそうとしても、悲しいことに、その事実は本人が一番よく知っていて、自分以外の誰も 「 解決 」 することはできない。


心理学者や精神医学者によると、「 自分が幸せだと感じている人 」 は全体のわずか 20% しかいないそうである。

しかしながら、その 20% が 「 恵まれた人々 」 かどうかはわからない。

逆に、残りの 80% が 「 救いの無い人々 」 かどうかもわからない。

幸せとは、自分の心で感じるものなのだから、他人がどのように評価をしてくれようとも、それで決まるものではない。

私自身は、よくわからないけど 「 まぁ、幸せかな 」 と感じている。


自分は 「 幸せです 」 なんて笑顔で言って歩くと、なんとなく馬鹿っぽい。

逆に、恵まれた様子でも 「 不幸なんだよ 」 と暗い顔をすれば、ある意味、物事を深く考える知的な人といった印象を受ける。

だから、「 ポーズ 」 として不幸を気取るのは、あながち悪くもない。

しかし、不幸なことが起こると思ってばかりいると、不幸な出来事ばかりが心に残って、心を病んでしまう危険が大きい。

そんなことを 「 思ってはいけない 」 と自分に言い聞かせていると、いつかは、そんな気分から抜け出せるものである。


年寄りの一部は、「 今の若い者は 」 というけれど、どんな時代にも立派な人はいたし、それと同じくらいの数、ダメな人もいたはずだ。

しかし、「 総体的に 」 というマクロ視点で考えるなら、たしかに戦争の苦難などを体験した 「 タフな時代 」 には、タフな人物が多かったかもしれない。

時代が求める苦難に対し、「 耐性 」 の無い人物は、タフな状況下では誰にも保護されず、存続できる可能性が低いからだ。

敗戦から立ち直り、社会が成熟して、弱者を救済する余裕が生まれ、福祉や人権擁護などの仕組みが整い、「 タフな時代 」 は終わりを告げた。

それでも、自分を 「 不幸だ 」 と感じる人が多くを占める原因は、あまりにも多くを望みすぎているか、それぞれの気持ちの 「 持ちよう 」 にある。


けして 「 誰が 」 ということではなくて、今はけして 「 タフな時代 」 ではないけれど、巷には 「 病んでいる人 」 が多い。

幸せは、健康であってはじめて、感じることができる。

肉低的健康、知的健康、精神的健康など、なにが欠けても難しい。

予防するには、体を鍛え、頭を鍛え、心を鍛えなければならないのであり、すぐに病気したり、学ばなかったり、つまらないことで悩んではいけない。

現代は、「 時代がタフになった 」 のではなくて、あまりにも多くの人々が 「 軟弱になってしまった 」 のではないだろうか。


けして、そういう人物に 「 悲観的な結論を告げる 」 つもりはない。

もしも、この日記をそういう人が読んでいるのなら、不平不満を繰り返して、心を狭くし、他人や社会を羨んだり、恨むことを止めるように伝えたい。

人間は誰でも、自分が思っている以上に 「 自分を変える力 」 を持っているものであり、気持ちひとつで不幸にも、あるいは幸福にもなれる。

そのために必要不可欠なのは、とにかく 「 素直になり、他人の忠告を聞く 」 という作業であろう。

自分が一番 「 聞きたくないこと 」 を言う人が、大切なことを教えてくれるという事実を謙虚に受け入れ、前向きに生きることが大事なのである。






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2005年03月09日(水) 夢を追う若者



「 世界で最高の教育は、名人が仕事をしているところを見ることだ 」

                          マイケル・ジャクソン ( 歌手 )

The greatest education in the world is watching the masters at work.

                            MICHAEL JACKSON



優れた師との出会いが、著しい成長のきっかけになることは多い。

逆に、ヘンな師に出会うと、ちょっと 「 ややこしい 」 ことにもなる。


夕方、次のアポイントまで時間が空いたので、一人で喫茶店に入った。

隣のテーブルでは、30歳位の男性が20代前半とおぼしき二人の男性に、なにやら熱弁をふるっている最中だった。

声が大きいので、かなり細かい内容まで聞こえてくる。

どうやら彼は、ちょっと怪しげな 「 マルチ商法 」 ぽいビジネスへ参加するように、若者たちを勧誘しているようである。

若者たちは 「 乗り気 」 のようで、かなり熱心に傾聴している。


話し手は、しきりに 「 夢 」 という言葉を多用し、私と共に店内にいた15分の間に、おそらく 「 20回 」 は連発していたように思う。

あとは、「 周囲の意見を気にするな 」、「 非常識でいこう 」 という台詞が、何度となく繰り返され、かなり印象深かった。

彼いわく、「 非常識な成果を求めるには、非常識な感覚が不可欠 」 だそうで、「 俺なんてさ、非常識街道まっしぐらだよ 」 と付け加えていた。

帰る間際、「 この店、暖房が利きすぎてるよな。少しは考えればいいのに 」 と、伝票を片手に席を立った。

ずいぶん 「 常識的なことを求める 」 じゃないかと、突っ込みたくなった。


彼が去った後、二人の若者はその場に残っていた。

二人は 「 すごいよな 」、「 頑張らなきゃな 」 と、決意を固めた様子で、文字通り 「 目からウロコが落ちた 」 ような顔つきである。

大学を出てサラリーマンになったが、つまらないし、一攫千金の魅力に誘われて、参加することに決めたらしい。

彼らもまた、「 夢が大事なんだよ 」、「 夢のためだ 」 などと、憑かれたように 「 夢 」 という単語を繰り返し、繰り返し、何度も口に出している。

彼らの 「 夢 」 とは、一体なんなんだろうか。


先日は、別の若者から興味深い話を聞いた。

彼は24歳で、大学を出てから企業に就職したが、辞めたいのだという。

辞めてどうするのかと尋ねると、私と同じように 「 経営コンサルタント 」 になりたいのだと言う。

同業者の参入を阻止する気はないが、圧倒的に経験不足だし、その若さで 「 なにも、そんな “ ジジ臭い仕事 ” を選ばなくても 」 と、遺留しておいた。

けして 「 無理 」 とは言わないが、いくら学業が優秀だったからといえども、実務経験が無ければわからないことも多いし、企業からの信頼も得難い。


彼も、それは 「 夢 」 のためだという。

企業に属していたのでは、自分が本当にやりたいことができず、あまり興味の無い仕事にも従事しなければならない。

そのすべてを無駄とは言わないが、時間がもったい気がするらしい。

いまならば、失敗しても親の経済力に頼ることができ、生活の不安はないし、成功すれば、勤め人では考えられないような報酬にありつける。

それが、彼のいう 「 夢 」 なのだそうだ。


幸せになる方法は人それぞれで、どれが正しいとはいえない。

ただ、「 幸せになることを急ぎすぎる 」 と、失敗することが多い。

それに、彼らが 「 夢 」 という単語に託した 「 成功し、お金持ちになる 」 という目標、そんな結果だけが、はたして重要なのだろうか。

山登りをする楽しさが、もしも 「 頂上に立つ 」 という行為だけならば、誰も険しい山道を登らず、ケーブルカーやヘリコプターを利用するはずだ。

そうやって簡単に入手した 「 成果 」 に、達成感、満足感はあるだろうか。


実力主義社会の中において、「 結果 」 は 「 プロセス 」 より優先される。

それは事実だが、プロセスを省いて偶発的に結果だけを手にしたところで、次の成功への道順は、誰に教わればよいのだろう。

棚ボタ式に得た成果も、たしかに 「 結果 」 ではあるけど、その人の仕事の 「 実績 」 としては、キャリア面の評価をしにくいものがある。

けして、「 若いうちは冒険するな 」 だとか、「 修行中の分際で 」 とは言わないけれど、地道にキャリアを積む作業を避けては、成長が期待できない。

ライブドアの社長のように、若くして華々しい活躍をする人もいるが、彼らの立場は 「 投資家 」 であって、一般的な 「 ビジネスマン 」 ではない。


将来の 「 夢 」 を追いかけて、冒険することも間違いではない。

しかし、その理由が 「 下積みが嫌だから 」 とか、人に使われるのが面倒だからというのでは、成功する見込みも薄いし、応援する気になれない。

いつも楽なことばかり選んでいても、いつか困難に直面するだろう。

逆に、困難に挑戦し続けることが、幸せを呼び込む手段となり、結果的には成功へ通じる近道になるような気がする。

それに、嫌な仕事でも、やっているうちに熟練し、面白さを見出し、経済的な豊かさだけでなく、心と魂を豊かにしてくれるものではないかと私は思う。






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2005年03月08日(火) 何事も 「 面白さ 」 が重要



「 きちんと整った家には、面白味のない人間が住んでいるものだ 」

                                      作者不詳

A neat house has an uninteresting person in it.

                                  ANONYMOUS



最近の世の中は、景気が良いのか悪いのか、ちょっとわかり難い。

経営者の姿勢も、前向きなのか後ろ向きなのか、不明なところが多い。


今年になって、企業のトップから 「 お金は出すから、独創性のある新事業を考えて欲しい 」 というリクエストを、立て続けに受けている。

本来なら 「 経営者なんだから、自分の責任で考えなさい 」 と言いたいところだが、そんな相談に乗ってあげるのも、自分の仕事の一部である。

それに、自分自身が 「 そういうことを考えるのが大好き 」 な性分でもあるので、嬉々として話に加わってしまうのだ。

昨夜も遅かったのに、今日も先方の会議に顔を出し、その流れで酒席を転々とし、深夜の帰宅となった。

面白いことを考えていると、時間を忘れ、疲れも気にならないものだ。


会議の冒頭は、あまり愉快な内容ではなかった。

前回の会議で、ちょっとした 「 冒険的なアイディア 」 を出したところ、その企業の経営者をはじめ、幹部連中に好評をいただいていた。

なかでも、メンバーの中では比較的に 「 感性が若い 」 と思える50代前半の幹部が、ずいぶんと乗り気になり、会議後さらに個別の会談をもった。

今日は、その幹部が前回の私の提案を企画書にまとめ、ちょっとした事業計画書の装丁にし、ご披露してくれた。

それを見た私に、彼が感想を求めてきたので、次のように答えた。


「 うーん、“ オッサン ” の発想ですね。失敗です。やめましょう 」

失礼ではあるけれど、そう答えるしかない。

それは、たしかに 「 投資家 」 に対しては、ある程度の説得を促す内容へと加工されていたけれど、リスクもない代わりに、何の面白味もない。

こうやって資金を調達し、こうやってロスを防ぎ、こうやって・・・

それは正論であり、あるいは正攻法でもあり、どこも間違ってはいないのだけれど、問題は 「 面白くない 」 という致命的な欠陥にある。


それを 「 感性の問題 」 と言い放っても、相手に理解させられない。

それで、私は具体例として 「 フェスティバルゲート 」 の話をした。

大阪の人ならご存知かと思うが、フェスティバルゲートというのは、通天閣の近くに大阪市が建造した 「 都心型テーマパーク 」 の名称である。

バブル期の遺物ともいえるこの商業施設は、創業時 「 ジェットコースターが都心で楽しめる 」 遊び場として、そこそこの人気スポットに位置した。

しかしながら、目新しい発展もなく徐々に飽きられ、やがては休日でも閑散とした状態に陥り、大赤字を抱えたまま閉鎖されることになった。


これを、「 事業計画の失敗 」 と主催者は説明した。

私の個人的な意見かもしれないが、運営を 「 大阪市の役人 」 ではなくて、たとえば 「 吉本興業 」 あたりに委託していれば、結果は違ったと思う。

商売というのは、相手に 「 利益 [ benefit ] 」 さえ提供すればよいという単純なものではない。

特にアミューズメントの場合、顧客は別の価値観と、満足度を要求する。

それが 「 何なのか 」 もわからず、また理解しようともしない連中が、立地や、入場料や、施設の利便性を語っても、それは成功に結びつかない。


しかしながら、バックが 「 大阪市 」 という保証と、当り障りの無い事業計画書によって、頭の悪い銀行は ホイホイ とお金を貸すのである。

見る者が見れば 「 失敗は明白 」 であっても、それは彼らの関心にない。

逆に、「 これは当たる、大化けする 」 という独創的、画期的なアイディアを持つベンチャーに対し、専門家を招いて吟味するような事例は少ない。

だから、銀行主導の経済が、なかなか発展しないのである。

前述の幹部も、「 銀行に “ ウケ ” の良い 」 企画書をつくる習性から脱皮できず、まるで面白くもないレポートを、何時間もかけて作成したのだ。


この時点で、私は 「 どうぞお好きに 」 と席を立ち、まず成功する可能性は、かぎりなく 0 に等しいことを告げ、自分の役割は終わったと悟った。

しかしながら、この企業はさほど大きくもないが、何よりも大切な 「 素直さ 」 というものを持った経営陣が、体勢を占めていたのである。

議長の 「 成功しないなら、無難に収める意味も無い 」 という発言を皮切りに、どうすれば顧客を満足させられるかという一点に議題が集中した。

それから全員が、「 経営 」 という目線を捨て、「 自分が顧客なら利用するか 」、「 今の若者が喜ぶか 」 という視点に、意見をシフトし始めていく。

実に有意義で、感動的ともいえる会議になったのだが、その余韻は会議室を飛び出し、延々と夜を徹して続いたので、今夜もこんな時間である。






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2005年03月07日(月) 学ぶことの楽しさ



「 私は常に学んでいる。 墓石が私の卒業証書になるだろう 」

             アーサー・キット ( アメリカの歌手、ダンサー、女優 )

I am learning all the time. The tombstone will be my diploma.

                                   EARTHA KIT



もしも タイムマシン があるならば、「 何をしたいか 」 という質問がある。

多くの人が、「 学生時代に戻って、勉強をやり直す 」 と答えるらしい。


それで、本当に過去へ戻れたとしても、結果は変わらないのだそうだ。

人生とは、言い換えれば 「 選択の連続 」 で成り立っているわけだが、その選択には 「 それなりの理由 」 があり、勉強しなかった人も例外ではない。

つまり、勉強をしようと思えば出来たのに、他の何かを選択したのである。

それが、恋愛だったのか、遊びだったのか、スポーツだったのか、ともかく 「 勉強よりも大事 」 だと判断した、他の何かに心を奪われたのだ。

同じ感性の自分自身が、過去へ戻ったとしても、やることは変わらない。


それに、「 勉強しなかった自分 」 があるからこそ、「 もっと勉強しておけばよかったのになぁ 」 と思う自分の存在があるのだ。

だから、くよくよと過去を悲観する暇があったら、今からでも遅くないから、やる気が出てきたついでに 「 勉強 」 を始めればよい。

勉強は、けして子供や、学生のためだけのものではない。

大人だって必要に応じて学校へ行ったり、本を読んだりして学べるはずだ。

かくいう私も、いまだに 「 授業 」 を受けたり、先生から 「 宿題 」 を出されたりしている立場にある。


その一環として、今日も遠方まで 「 勉強会 」 に参加してきた。

難問にぶち当たると、年のせいか 「 仕事よりキツイ 」 感じで、帰宅してすぐに一杯やり、テレビをつけたまま 「 うたた寝 」 してしまった。

寒くて目が覚めると、既に日付が変わっている。

明日は朝から人と会う予定なので、目覚めの一杯をやりながら、この日記を書き、もう一眠りしなければならない。

それでも、また次の 「 授業 」 があれば、積極的に参加する予定だ。


学生の頃は、なかなか 「 学ぶことの楽しさ 」 が理解できなかった。

大人になって、それが 「 何のためになるのか 」 を実感し、初めて自発的に勉強というものと向き合えるようになった。

それを 「 親や教師が悪い 」 とは思わないが、子供や、生徒を指導をする立場にいる人の場合、一つの参考になるのではないだろうか。

英会話でも、なんでもいいから、親が子供と平行して学校に通い、苦戦しながらも、「 学ぶことの楽しさ 」 を見せるのは妙案かもしれない。

学生時代からずいぶん年は経ったが、「 勉強すると眠くなる 」 という習性は相変わらずのようで、今夜はよく眠れそうである。






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2005年03月06日(日) 罪の意識が薄い人たち



「 後悔とは、指紋と同じく個人的なものです 」

                       マーガレット・C・バニング ( 作家 )

Regrets are as personal as fingerprints.

                         MARGARET.C.BANNING



生まれてから今までの間に、どれだけ 「 悪いこと 」 をしただろう。

犯罪に抵触するほどでなくても、何一つ悪いことをしなかっただろうか。


本当はそれほど好きじゃなかったのに、「 世界中で一番好きだ 」 と偽って女性を口説いたのは、ある意味 「 詐欺罪 」 じゃなかったのか。

競争していた 「 恋のライバル 」 に対し、「 俺の女に手を出すな 」 と凄んだのは、ひょっとすると 「 脅迫罪 」 に該当するかもしれない。

ドライブ中に、片手を彼女の膝に乗せていたのは 「 安全運転義務違反 」 であるし、「 嫌よ 」 と照れる相手をホテルへ誘ったのは 「 強姦罪 」 か。

そしてなにより、彼女の心を奪ったのは 「 窃盗罪 」 で、付き合って間もなかったことを思えば 「 スピード違反 」 なのかもしれない。

うん、うまいこと言うなぁ。( そうなのか? )


ともかく、「 相手の理解 」 の有無によっては犯罪行為であったり、そこまでいかなくとも 「 嫌がらせ 」 だったりすることがあるかもしれない。

若い女性に、脂ぎった中年男性が付きまとうのは客観的にみて犯罪的だ。

しかし、高校球児の下校時刻に、可憐な乙女が 「 渡せない恋文 」 を携えモジモジしながら見つめているのは、微笑ましく美しい光景である。

それを、「 精神的苦痛を受けたので、ストーカー規制して欲しい 」 と訴えるような 「 無粋な人 」 は少なく、そんな話は聞いたこともない。

過去の 「 悪いこと歴 」 を振り返る過程で、特に人的交流の面においての 「 人に迷惑をかけたのか 」 という点は、相手の印象に委ねる部分が多い。


中には、そんな曖昧な話ではなく 「 明らかに犯罪 」 というものもある。

他人の物を借りて返さなかったとか、喧嘩をして怪我をさせたとか、未成年なのに飲酒や喫煙をしたとか、そういう経験をした人は多いはずだ。

それらは、「 多くの人がやっているから 」 という理由で大目に見られがちだが、迷惑を被った側からすれば、腹が立つのはもっともな話である。

その被害が 「 洒落にならん 」 ほどなら、なおさらであろう。

ただ、怒りというものは時と共に緩和されることが多く、法的にも 「 時効 」 というものがあるし、多数の人が 「 若気の至り 」 に寛容なのも事実だ。


少し前の話だが、とある女性タレントがテレビ番組の中で 「 過去に窃盗をしたことがある 」 という話を、面白おかしく武勇伝のように語ったらしい。

途端に視聴者からテレビ局へ、抗議の電話が殺到したという。

騒ぎが大きくなったことで、警察が事情聴取を行い、タレント活動は自粛され、本人と関係者は痛烈な批判を 「 浴びる 」 ことになった。

なぜ、この事柄に関して世間は 「 若気の至り 」 に寛容でなかったのか。

彼女の犯した罪は、それほどまでに凶悪で特殊な事件だったのか。


この問題に関する社会の反応は、とても興味深い 「 教訓 」 を含んでいる。

世間は、彼女の犯した 「 過去の罪の重さ 」 を糾弾しているわけではない。

それよりも、「 犯した罪に対して、反省していない 」 という、罪への意識が欠落していることに対して、激しい憤りを感じたのである。

いくら 「 時効 」 や 「 若気の至り 」 というものを周囲が認め、それを赦したとしても、本人が自慢話のように披露すべき話ではない。

本当にそれを反省し、恥じているのであれば、過去の失策を掘り返して 「 袋叩き 」 にしようとするような人は、それほど多くはないはずだ。


インターネットで 「 不倫しています 」 と公言する人や、この世は生きていてもつまらないので 「 自殺したい 」 という主張を発信する人がいる。

それに対し、憤りや抵抗を感じ、批判的な意見を述べる人もいる。

その議論はいつでも堂々巡りだが、「 自分の勝手だ、何が悪い 」 といった強気の反発をする人は少なく、大抵が 「 悪いこと 」 だとは自覚している。

苦言を呈している人の多くは、「 悪事を駆逐したい 」 のではなく、どちらかというと 「 罪の意識をもて 」 というメッセージを飛ばしている。

攻撃されている方は、相手に 「 悪事を裁かれている 」 という意識で臨んでいるものだから、いつまでたっても話が通じないのが実情のように思う。


以前、不倫に関しては 「 どっちでもいい 」 という見解を述べたが、善か悪かと尋ねられれば、当然 「 悪 」 と答えるほかにない。

それでも、「 やる人 」 はやるだろうし、それを止める気はない。

ただ、やはり世の中が 「 悪行 」 と評価する行為に、堂々と自分が荷担していると発信するのは、「 反社会的で、公序良俗に反する 」 はずである。

その悩みを吐露して、世間に救いを求めるのならともかく、恥じらいもなく 「 ラブラブどえ~っす♪ 」 みたいなことを書くのは、社会への反逆に近い。

警察でも文部省でもないので、「 悪いことはやめましょう 」 などと書くつもりもないが、堂々と語る 「 罪の意識の低さ 」 には、少し憤りを感じる。






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2005年03月05日(土) 時間をコントロールする効用



「 忙しいだけでは十分ではない。 アリだって忙しい。

  問題は、何をしていて忙しいかということである 」

           ヘンリー・ディビット・ソロー ( アメリカの随筆家、詩人 )

It is not enough to be busy; so are the ants.
The question is; What are we busy about?

                         HENRY DAVID THOREAU



社会に出ると、「 人生は公平とも言い切れない 」 と感じる場面がある。

ただし時間だけは、誰に対しても 「 一日に24時間 」 公平に与えられる。


これを三分割する場合、09:00 ~ 17:00 を 「 ビジネス 」、17:00 ~ 01:00 を 「 プライベート 」、01:00 ~ 09:00 を 「 リラックス 」 に充てる人が多い。

実際には、もう少し 「 ビジネス 」 が長くて、「 プライベート 」 が短いのだろうけれど、あえて三分割するならこんな感じが平均的なのだろう。

私の場合は、自営をしているからというわけでもなく、会社員をしていた頃からも、そのような 「 面倒なルール 」 に縛られることが少なかった。

強いて三分割するならば、13:00 ~ 21:00 が 「 ビジネス 」、21:00 ~ 05:00 が 「 プライベート 」、05:00 ~ 13:00 が 「 リラックス 」 である。

もちろん、朝一番から仕事をすることもあるけれど、こんな感じが多い。


内勤の人や、シフトで働く人の場合は難しいが、同じ成果を挙げるために 「 自分の時間をコントロールできる 」 と、かなり効率の良い仕事ができる。

他人に会う仕事、顧客が訪ねてくる仕事をしている関係で、午後一時から五時までは オフィス に居るようにしているが、それ以外は自由が利く。

平均的な私の一日は、昼食をスタッフと共にし、午後はクライアントの来訪に合わせて働き、夕食は 「 ゲスト 」 と摂り、少しのお酒を飲んで帰る。

週末以外は、夕食の相手が 「 顧客 」 の場合が多く、情報収集や、商談を兼ねた 「 ビジネス 」 の延長になっている。

週末、休日は、友人や ガールフレンド と食事し、遊びの時間に充てる。


家に帰る時間は日によって異なるが、平日は午後十時頃が多い。

それから家で仕事をしたり、日記を書いたり、他所のサイトを覗いたりして、けっこう深夜遅くまで、寝ないで起きていることが多い。

午前中の予定が特になければ、明け方まで PC と格闘し、パワーポイントで資料を作ったり、気分転換にネットを楽しんだりして過ごしている。

たとえば明日は、朝から予定があるので、この日記を書き終わったら就寝するが、いくら早起きをする前日でも、宵の口に眠ることは稀である。

汗をかく夏場以外は、風呂に入るのは、出発時刻が早いときも遅いときも、だいたい朝の行事にしている。


こんな生活をしていると、タイミングによって 「 前の日は夜遅くまで仕事をし、翌日は早朝から仕事をする 」 というケースも出てくる。

逆に、「 前日は早く仕事を終え、翌日も午前中はオフ 」 という場合もある。

必然的に、「 眠れるときに眠る 」、「 短時間でも熟睡し、起きたらすぐ行動できる 」 という習性を身に付けないと、体がおかしくなる。

慣れてくると便利で、「 やる気の高まったときに、好きな作業が行える 」 という利点が発揮できるし、自由に時間を操れる感覚が強い。

このあたりも、一人暮らしの長所なのかもしれない。


忙しいときなど、日記の更新を 「 している場合ではない 」 ときもある。

そんなときには休むのだが、逆に暇なときに 「 書き貯め 」 をしておいて、更新の作業だけをして帳尻を合わせたこともある。

しかしながらそれでは 『 今夜の気分 』 という表題に反するので、最近ではそのような 「 ズル 」 をしないように心がけている。

特に 「 夜型人間 」 というわけでもなく、朝から行動することも苦手ではないが、静かな深夜に仕事をしたり、日記を書くのも楽しい作業である。

起きている時間帯と、寝ている時間帯を固定概念として定めなければ、24時間の使いみちは幅広く、ある程度の忙しさは消化できるものだと感じる。






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2005年03月04日(金) それぞれの人格は、創り変えられる



「 私たちは常に自分を変え、再生し、若返らせなければならない。

  さもないと、凝り固まってしまう 」

                   ゲーテ ( ドイツの詩人、劇作家、小説家 )

We must always change, renew, rejuvenate ourseiles; otherwise, we harden.

                                     GOETHE



それぞれの人格は、普遍ではなく 「 創り変えること 」 ができる。

情報力、分析力、状況対応力、それと 「 素直さ 」 がそれを可能にする。


再生し、若返らせるという作業は、「 若造りを心がける 」 ことではない。

自分の経験や、それに基づく信念を大切にしながらも、状況の変化を真摯に受け止め、理解し、肯定的な考えにおいて順応することである。

ファッションでいうと、若い人の間で流行っている服装をそのまま着るのではなく、そこから 「 新しい自分たちの服装 」 を学ぶことが大事だ。

それに気付く人と、独り善がりに 「 まだまだ若い人と同じモノが着れる 」 と喜んでいる人の差が、「 己の再生 」 と 「 単なる若造り 」 の違いである。

本人は 「 まだまだイケル 」 と気合十分で、娘さんの 「 マイクロミニ 」 なんて穿いてみせるのは、あまり 「 センスの良い 」 話ではない。


西武グループで 「 総帥 」 と呼ばれた 堤 義明 容疑者が、逮捕された。

マスコミ各社の報道をみると、彼の生い立ちや、亡き父親の教育について、「 ワンマン経営の源流 」 を辿るような解説が多い。

たしかに、幼少期の体験や、父親の影響というものが小さいとは言わないが、それと今回の逮捕とは、まったくの別問題である。

むしろ、「 完璧な父親 」 なんてものは少なく、多少の問題や性格的な偏りがあったとしても、すべてを 「 そのせい 」 にするのは筋が違う。

70歳にもなる容疑者に対して、こぞって 「 父親の教育が 」 なんて話を持ち出すところに、日本のマスコミの 「 質の低さ 」 を感じる。


長い歳月の中で、「 人格を変えるチャンス 」 は、いくらでもあったはずだ。

まして、自分が企業のトップに君臨し、「 ワンマン 」 とまで言われるほどに権力を握っていたのなら、それは特別に難しいことでもなかっただろう。

時流は、かつての 「 成功という理想 」 から、「 奉仕という理想 」 に変わりつつあり、産業界においても多くの企業が、生まれ変わろうとしている。

けして 「 お金に困っていた 」 わけでもないだろうに、いつまでも私利私欲のマネーゲームに踊らされていた悪因は、すべて彼の 「 努力不足 」 にある。

彼を 「 更正 」 させるには、その事実を思い知らせるしかないだろう。






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2005年03月03日(木) 営業と 「 物売り 」 の違い



「 不満を持っている人間には、安楽な椅子は見つからない 」

     ベンジャミン・フランクリン ( アメリカの科学者、政治家、文筆家 )

The discontented man finds no easy chair.

                           BENJAMIN FRANKLIN



多彩な天才 ベンジャミン・フランクリン は、数々の名言を遺している。

彼の 「 人間観察における優れた洞察力 」 は、毎回、とても勉強になる。


ご自分を 「 不遇 」 だと嘆き、いつも世の中を憂いておられる方がいる。

彼の日記は、毎度、同じような調子で、「 自分はエリートなのに恵まれていない 」 とか、「 世の中は馬鹿ばかりだ 」 といった書き込みが多い。

政治ネタでは、たいてい与党、特に総理大臣の悪口が多く、アメリカ人への不信感、ブッシュ批判など、いわゆる 「 この手の人の専売特許 」 が続く。

微妙なのは、体制批判をするのだけれど、自分は 「 大企業のエリート 」 という自負があるので、心のどこかで 「 権威主義への信奉 」 も秘めている。

気の毒だが、あまり 「 重圧に耐えれるタイプ 」 ではないのに、過激な思想を持っているために、お決まり通り 「 心の病気 」 で悩んでおられる。


カウンセラーをしているので、そんな人は何人も見てきているし、別に珍しくもないのだが、それを 「 WEB日記に書き綴る 」 ような知り合いはいない。

ストレスの解消になっているのならよいが、書くことでさらに症状が悪化し、ネガティブ思考が進行して、かえって苦しんでいる様子も窺える。

こちらとしては、「 臨床例 」 として仕事の参考になる部分もあり、欠かさず拝見しては分析しているのだが、最近、何が問題なのか、理解できてきた。

たとえば、最近の日記で 「 営業とは、ただひたすら頭を下げ続ける仕事 」 という記述があり、この人の 「 不幸 」 について、少し推察できる。

それは、「 限られた世界の知識しかない 」 という不幸だ。


私は二十年以上 「 営業 」 に関係する仕事をしているが、頭を下げることを 「 営業の仕事 」 だと思ったことは一度も無い。

また、「 頭を下げてりゃ済む 」 ほど、簡単な仕事だと思ったことも無い。

ひたすら頭を下げ、「 お願い 」 して買ってもらうのは、単なる 「 物売り 」 であって、私の知る世界では 「 営業 」 とは言わない。

そのような間違った認識が備わった背景には、過去の職場や、上司に問題があったか、ご自身が 「 誤った解釈 」 をされたか、原因があるのだろう。

たしかに、営業の仕事を 「 その程度 」 に思っている人には、仕事がつまらなく、苦痛でしかないという心情も理解できる。


営業マンのレベルを判断する際に、私は 「 販売の完了とはなにか? 」 という質問をすることが多い。

前述のような 「 お願いセールス 」 をしているタイプの営業員で、最も多い回答例は、「 商品を納めて、代金を回収した時点 」 というものだ。

たしかに、それも 「 不正解 」 ではない。

しかしながら、もう少し成熟した組織で営業を学んだ人の回答例をみると、「 CS ( 消費者満足 ) を得た時点 」 というものが圧倒的に多い。

簡単なテストなので、周囲の営業マンに対して、お試しになると面白い。


ちなみに、東京ディズニーランドでは 「 お客様が再来園をされたとき 」 を 「 販売の完了 」 と位置付ける思想が定着している。

適当なことを言って誤魔化したり、騙したり、ひたすら頭を下げることにより、とりあえず 「 最初の一回 」 は、モノを売ることができる。

いわゆる 「 飛び込みセールス 」 のような 「 ワンショットビジネス 」 ならば、そういう売り方も可能だろう。

しかしながら、同じ顧客と何年も付き合っていくような 「 ルート営業 」 をする場合は、そのような稚拙な手法が通用するわけがない。

じっくりと、相手の信頼を勝ち取っていくような 「 コミュニケーション能力 」 が不可欠で、相手の満足度を果たすことが最終目標となる。


狭い世界に自分を押し込め、仕事を 「 つまらなく 」 する人がいる。

どんな世界でも、上には上がいて、崇高な志を持って取り組んでいる人や、自分の仕事に誇りを感じながら働いている人もいる。

たまに、自分の仕事を 「 雑用です 」 と言う人もいるが、会社には 「 雑用 」 などなく、仕事を雑にやるから 「 雑用 」 になってしまっているだけだ。

自分の仕事、キャリアについて、もっと上を目指し、意義を感じることこそが、それぞれの 「 やる気 」 につながるのである。

不平不満を言う前に、自分の仕事の 「 完了とはなにか 」、「 どこまでやれば十分か 」 ということを、見つめなおす姿勢が肝要だろう。






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2005年03月02日(水) 大手チェーンの弱点



「 何事も小さな仕事に分けてしまえば、特に難しいことなどない 」

                     レイ・クロック ( マクドナルドの創立者 )

Nothing is particularly hard if you divide it into small jobs.

                                    RAY KROC



マクドナルドの世界戦略は、1967年から始まった。

日本進出は71年で、いまや世界119の国と地域に展開されている。


大型チェーン店にとって最大の利点は、「 スケール・メリット 」 にある。

たとえば原料を仕入れる際に、一度に多店舗分を大量に買い付けるので、大幅なコストダウンが可能になることも多い。

社員の配置転換もでき、人的資源の有効活用も達せられる。

一度の広告で宣伝効果が全店に波及するし、また、店舗の存在そのものが広告効果となり、知名度の向上をたやすく行える。

それ以外にも、長所を数え上げるとキリが無いほど、とにかく利点が多い。


机上論で語ると短所は少ないが、実際には 「 落とし穴 」 もある。

たとえば、単独店舗なら絶対に 「 やらない 」 あるいは 「 できない 」 ようなずさんな経営を、「 やってしまう 」 ことがある。

会社全体が利益を出していることに甘え、市場占有率を高めるだけの目的で不採算店舗を出したり、つい 「 儲からない商売 」 に手を出すこともある。

店舗数が増え、企業規模が大きくなってくると、全体的な売上にばかり目が向いて、それぞれの店の収益管理が疎かになるケースも多い。

また、組織の大型化が進むと、「 経営者の理念 」 が末端に届き難くなる。


産業再生機構の支援を受けて、再建を目指す 「 ダイエー 」 の事業支援を行うスポンサーには、商社の 「 丸紅 」 を中心とするグループが内定した。

今後、「 新しい経営者に誰を置くか 」 などの点に、関心が集まるだろう。

専業ではないし、別の手腕が要求されるけれども、フジテレビの買収問題で騒がれている 「 堀江氏 」 など、ここで起用すると面白いような気もする。

誰がやるにしても、当面の課題は 「 不採算店舗の圧縮 」 になるはずだ。

単独で評価すると儲かっている店舗もあり、全体の 「 足を引っ張る 」 部分を削減することが、最もてっとりばやい再建策である。


大きくなりすぎた企業の病巣は、意外と細かいところにあることも多い。

すべての店舗が、わずかでも黒字にさえなっていれば収支は 「 プラス 」 に転じるはずで、それぞれの店舗の状況に細かく目を配る必要がある。

昔から、「 木を見て森見ず 」 という言葉もあって、企業全体の事情を考えることも間違ってはいないが、いまのダイエーは、そういう局面にない。

それぞれの店舗で、「 自分たちが地道に利益を出すことが、全体を救う 」 のだということを認識し、「 商売の原点に還る 」 ことが重要となる。

新生ダイエーの再起に期待し、エールを贈りたい。






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2005年03月01日(火) ブキハラ ( ブキミハラスメント ) 被害に注意



「 男のいない女なんて、自転車のない魚のようなものだ 」

             グロリア・スタイネム ( アメリカの女性解放運動家 )

A woman without a man is like a fish without a bicycle.

                              GLORIA STEINEM



一見しただけでは、ちょっと意味不明な文章に思われる。

魚にとっての自転車、つまり 「 不要なもの 」 のたとえなのである。


大阪には、「 ヤクザ 」 と 「 お笑い 」 と 「 商人 ( あきんど ) 」 しか居ないのではないかと、かなり本気で思っている人がいる。

実際には、他に 「 ひったくり 」 とか 「 変質者 」 とか、あるいはごく少数の 「 良識ある人々 」 も住んでいるのだが、あまり知られていないようだ。

本当の大阪は、魑魅魍魎が蠢く 「 ミステリーゾーン 」 でも、奇奇怪怪なる 「 サイキックワンダーランド 」 でもなく、ごく普通の地方都市だ。

誰とはなく誇張して噂が広まっているだけで、他の町とそう変わりはない。

一度、足を踏み入れると抜け出せない蟻地獄のような町だとか、黒魔術や伝染病が大流行しているわけでもないので、ご安心いただきたい。


そんな風に、大阪を毛嫌いしたり、不可知の恐怖から、訪問を避けてしまう御仁に対し、大阪の 「 長所 」 もご紹介しておきたい。

まず第一に、「 くいだおれ 」 というぐらいで、食べ物が美味しい。

正確に言うと、新鮮な魚は 「 北海道 」 や 「 九州 」 に勝てないし、カニは 「 北陸 」 に、米は 「 東北 」 に負けている。

食べ物が美味しいというよりは、「 さほど新鮮な材料などを必要とはしない加工品 」 が美味しいのであって、調理技術の水準が高いのである。

特に、麺類、お好み焼き、たこ焼きなど、「 粉もの 」 と呼ばれる一群に関しては、他の地方に比べると 「 あたりはずれ 」 が少ないようである。


以前、東京から出張してきた 「 お調子者の同僚 」 が、蕎麦屋で関西弁を真似ながら 「 けつねうろん一丁 」 と注文したが、まったく通じなかった。

東京の 「 きつねうどん 」 は、大阪でも 「 きつねうどん 」 であり、大阪の人が 「 けつねうろん 」 と呼んでいるというのは、まったくの デマ である。

お品書きの 「 きつねうどん 」 を指差しながら 「 けつねうろん 」 などと発音すると、「 脳溢血の後遺症で、言語障害になった人 」 だと思われる。

通常でも関東に比べると 「 薄味 」 なのに、さらに塩分を控えられる。

美味しいうどんが食べたいのなら、正しく 「 きつねうどん 」 と注文したほうがよいだろう。


こうやって文字で伝える場合は問題ないが、同じ言葉でも関東と近畿圏では、アクセントの位置が違うケースも多い。

関西を代表する人気タレントの 浜村 淳 さんが、「 さて、みなさん 」 という前口上から話し始めるのは有名だが、この例をみるとわかりやすい。

関東で、「 さて 」 の 「 て 」、「 みなさん 」 の 「 な 」 に強いアクセントを置くところを、関西では 「 さて 」 の 「 さ 」 と 「 みなさん 」 の 「 み 」 に置く。

たまに、関西を舞台にした映画やドラマなどで、関西弁に不慣れな俳優さんが陥る失敗は、この微妙な 「 アクセントの違い 」 によるところが多い。

演じている方は平気でも、大阪人にとっては、実に気持ち悪かったりする。


いつも昼食は、オフィス街の蕎麦屋とか、定食屋で済ますのだが、たまには 「 お洒落なランチでも 」 と思って、近所のイタリア料理店に入った。

店内は空いていたので、誰も居ない一枚板のカウンターの端に腰掛けると、ほどなく、スレンダーな若い女性が入ってきて、反対側の端に座った。

その直後、今度は中年の男性が入ってきて、女性の隣に座る。

親しげに彼が声を掛けると、当初、女性は驚きつつも笑顔で挨拶したので、お二人は知り合いなのだということがわかった。

見た感じで、女性は20代前半、男性は50代半ばといったところか。


持参した本を読みながら、食事が運ばれてくるのを待っていると、お二人の話し声が聞こえてくるのだが、男性の声が異常に甲高い。

聞き耳を立てるつもりはなかったが、耳障りな高い声で、しかも大きいために、嫌でも断片的な内容が伝わってくる。

どうやら、二人は会社の同僚で、職場では顔を合わす機会も多いのだが、こうやって外で一緒に食事をするのは、今回が初めてらしい。

また、「 一緒に食事 」 とは言っても、申し合わせて来たわけではなく、女性が一人で店に入るのを目撃した男性が、急いで追いかけてきたのである。

会社の景気がどうだとか、トップの人事がどうしたとか、部外者には興味も無い内容の内輪話が続き、甲高い大阪弁が店内に響いている。


やがて、少し静かになったかと思うと、男性の声がさらに 「 不快 」 な印象に変わっていることに気付いた。

話題も、二人のプライベートなことや、趣味の話に変わっている。

何が不快なんだろうと、よく考えてみると、いつの間にやら男性の口調が 「 東京弁 」 に変わっていて、どうにもアクセントがぎこちない。

女性の側は大阪弁のままで、最初はにこやかに対応していたのだが、私と同様に違和感を感じたのか、「 うっとうしそう 」 な返事に変わっている。

しかも男性は、貧弱な容貌をしわくちゃのスーツに包んだまま、くねくねと体を歪めながら、カウンターに頬づえをついて、彼女の顔を凝視している。


どうみても、男性は 「 口説く 」 体勢に入っていて、しきりに彼女の異性関係や、オフの過ごし方に関する質問を浴びせている。

ごく稀にいるが、「 口説くときは、東京弁になる 」 というタイプのようだ。

お世辞にも 「 男前 」 と呼べるタイプではないし、親子ほど年も離れているし、エセ東京弁は気持ち悪いしで、女性の方はげんなりした様子だ。

女性は適当に相槌を打つ程度で、ほとんど話し掛けはしなかったのだが、少しの沈黙を見計らって、上手い具合に別の話題を切り出した。

男性は一人暮らしの様子なので、「 夕食とかはどうしているんですか? 」 と尋ねたのだが、途端に男性は声のトーンを変え、ニタッと笑って応えた。


「 気になるゥ?  ぐっ、ぐふふふふ 」

ここで女性が、手にしたパスタのフォークで男性の眼球を貫いたとしても、私が裁判官なら 「 正当防衛につき無罪 」 と宣告したことだろう。

たしかに手は触れていないし、セクハラというにも不十分だが、あまりにも不気味すぎるし、貴重な休憩時間が彼のせいで 「 修羅場 」 と化している。

不幸中の幸いに、男性が注文したパスタの出来上がりが遅く、それが来た頃に彼女は、食べかけのパスタを残して足早に立ち去ることができた。

彼女は 「 お 」 に力強いアクセントを込めた 「 おつかれッ! 」 という悲鳴にも似た声を残し、バッグとコートを鷲掴みにして店を後にした。






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