2006年08月31日(木) |
左遷が労災認定の理由になる時代 |
「 愚かさもまた神からの恵みである。
しかし決してそれを誤用してはならない 」
ヨハネ・パウロ・2世 ( ローマ教皇 )
Stupidity is also a gift of God, but one mustn't misuse it.
Pope John Paul Ⅱ
若い頃は平気だったが、近頃は、残暑の厳しさを辛く感じるようになった。
認めたくはないが、着実に体力は衰えを示している。
一昔前の日本人は、スポーツに 「 道 」 を付けるのが好きで、たとえば、「 野球道 」 とか、「 空手道 」 などと称しては、そこに精神論を求めた。
大学時代は、近代的な設備と、高度なスポーツ運動学の整備された環境にあったので、合理的なトレーニングに励めたのだが、高校は違っていた。
なにかと 「 根性 」 が重視され、真夏の炎天下であろうが、練習中に一滴の水を摂ることも禁止されており、非科学的な運動を強いられたものだ。
いまにして振り返れば、「 よく、死人が出なかったなァ 」 とも思うが、誰一人として、熱中症や日射病に倒れた仲間はいない。
それは、当時の学生が、平均的に今の若者より体力があったわけでなく、倒れるような種類の学生は、早々に部を去っていたからだろう。
辛いばかりで、あまり効果の上がらない練習を繰り返した結果、身体能力は高くないが、やたらと忍耐力だけはあるという選手が、多く輩出された。
当然、輝かしい成果には縁遠かったが、「 根性至上主義 」 の我々にとっては、記録よりも根性、入賞よりも根性が、最も大事だったのである。
過酷な試練は、必要以上に部分的な筋肉を酷使し、選手生命の短縮や、各種機能の低下を招いたが、すべてが弊害ばかりでもなかった。
厳しい状況に耐え忍ぶ精神力や、たった1歳年齢が上なだけの人間から、要求される 「 理不尽な指示にも妄信的に従う素直さ 」 などが養われた。
そして、肉体的に 「 どこまでの試練に、正気で耐え得るか 」 という限界を学ぶという、他では得られない貴重な経験を積むことができたのである。
戦争は遠い昔の話で、また、現在ほど 「 個性の多様化 」 が認められない時代だったから、皆、「 何かに “ こだわり ” たかった 」 のかもしれない。
体育会系の人間にとって 「 根性 」 というのは、その対象として選びやすい要素であり、美学であり、哲学でもあったのだろう。
とにかく、命を削るように走り、マゾ的に、渇きや、苦痛や、疲労を甘受し、それに耐えられない者と自分の差を、優越的に眺めては悦んでいた。
人生は競争であり、逆境や火熱に耐えることであるということを、一般社会に出る前に体験したことは、その後の人生にも役立っていると思う。
仕事で感じるストレスやプレッシャーとは質が違うけれど、己の限界に挑戦し続け、泣き言を漏らさず、倒れても立ち上がる習慣が身についた。
職場での 「 左遷 」 が原因で、うつ病になったという訴えから、労災が認定されるという事例がみつかった。
この患者は、都内の化粧品会社に就職後、経理部に配属されていたのだが、ある日、群馬の工場へ配置転換となり、総務課に異動させられた。
そこで、彼の机だけが窓際に離れて置かれ、給与は11万円減額された。
その後、吐き気、頭痛、けん怠感が生じ、うつ病の診断を受け入院したが、退院後、体調不良から本社への転勤を求めたところ解雇されたという。
担当弁護士は、「 同じような悩みを持つ人たちを勇気付ける 」 として、今回の労災認定を歓迎し、企業側は、今後も係争する構えをみせている。
労災の認定基準として、「 職場環境と発病との因果関係 」 は重要な要素であり、この場合、すべてが事実ならば、因果関係は十分に認められる。
誰だって、自分の机だけが仲間と離れた窓際に置かれたり、給与を11万円も減らされたら、待遇に不満を持つし、それを悩むだろう。
ただ、ここで気になるのは、「 うつ病になった因果関係 」 だけでなく、席を離されたり、給与を減らされた 「 理由 ( あるいは因果関係 ) 」 である。
合理的に収益を上げようとする普通の企業ならば、社員のモチベーションを意図的に下げたり、生産性を落とすようなことはしないものだ。
小学校ではないのだから、「 ちゃんと仕事をしているが、なんとなく気に入らない 」 などの理由では、席を離したり、給与を下げたりはしない。
つまり、この人は、「 うつ病と診断される前から、戦力として認められていなかった 」 わけで、その企業にとって、必要な人材ではなかったようだ。
その人を知らないので、その人が 「 有能 」 か 「 無能 」 かを知る術はないが、少なくとも、その企業にとっては不要な人材だったはずだ。
彼自身の問題点は、自分の能力や実績が正当に評価されていないと思うのなら、病気になる前に転職しなかったところにある。
あるいは、どうしても会社に残り、貢献したかったのであれば、気を病む暇があったら、奮起して、待遇や権限を勝ち取る努力をすべきだったろう。
本当の意味で、企業側に責任があるのは、中途半端に不遇な扱いをするのではなく、正式な手続きを経て、早期に退職させなかった点にもある。
オリンピックは、「 参加することに意義がある 」 という。
だが実際には、足の遅い人や、不自由な人が、「 私も参加したい 」 と要望したところで、メンバーに加えてもらえるわけではない。
ここでいう 「 参加する意義 」 とは、勝利を目指すことが大前提であり、企業活動に参加する目的も、業績に貢献することが絶対条件なのである。
精神病にかぎらず、病気は 「 罪 」 ではないが、それを理由として、貢献度が低いのに厚遇を望むことは、いささか筋違いであろう。
また、スポーツの世界も、ビジネスの世界も、健康管理は 「 自己管理 」 が原則で、体を鍛えるのと同様に、精神を磨くのも仕事の一部である。
企業側にも問題があるようなので、この労災認定に異存はないが、仕事が原因でうつ病になった人たちが、こぞって申請をし始めたら大変である。
たちまち日本企業の経営体質は弱体化し、団体レースでいうと、もっとも、ペースの遅い人に、全体が合わせなければ進めない構造になるだろう。
うつ病にかぎらず、給与が少ないと嘆く社員さんたちに理解してもらいたいのは、その少ない給料も、貢献度の高い人が稼ぎ出しているという事実だ。
ストレスやプレッシャーの少ない仕事、通勤には不便な仕事を放棄しても、その仕事がなくなるわけではなく、誰かが代わりにやってくれている。
前述の弁護士は 「 同じ悩みを持つ人々を勇気付ける 」 と言うが、権利を主張する勇気よりも、逆境に立ち向かう勇気が必要なのではないかと思う。
「 テレビを観るべきか、観ざるべきか、それが問題だ 」
英語のジョーク
TV, or not TV : that is the question.
English joke
これは、シェイクスピア 『 ハムレット 』 の台詞をもじったパロディである。
元 は 「 To be, or not to be ~( 生きるべきか、死ぬべきか ~ ) 」 だ。
日本でいう 「 駄洒落 」 みたいなものだが、なんとも意味深で機知に富んでおり、「 To be 」 と 「 TV 」 の発音が似ているところも、さらに面白い。
このギャグを最初に考案した人は、たぶん、TV の面白さ、楽しさ、便利さを認めながらも、一部の放送内容に疑問を感じたのではないかと思う。
私は、あまり TV を観ないほうだと思うが、それでも、一年を通して、一日に一回も TV を点けない日など、ほとんど無いだろう。
それだけ TV は国民生活に密着し、深く浸透している。
好むと好まざるにかかわらず、ほぼ全国民が、情報を受信したり、手軽な娯楽の手段として、TV を活用しているのだ。
毎年、この時期になると、日本テレビは 『 24時間 TV 』 という番組の制作を恒例にしており、今年は歴代2位の視聴率を挙げたという。
弱者、障害者にスポットを当てた内容の編成が中心で、番組を通じて寄付を呼びかけたり、チャリティ的な要素を強く打ち出しているのが特徴だ。
個人的には、慈善的な活動というものは、誰にも知られず ( 知らせず )、自分の胸の中におさめ、ひそかに行うことが望ましいと思っている。
TV という影響力の大きい媒体を通して、寄付を募る方法が間違っているとは思わないが、あまり 「 オープンにし過ぎる 」 ことには疑問がある。
ことさらに、「 寄付してね 」 とか、「 僕は寄付したよ 」 なんて、人に強要したり、自慢げに主張するスタイルには、ちょっと抵抗を感じてしまうのだ。
この番組では、視聴率を稼ぐためか、毎回 「 目玉企画 」 として、著名人、芸能人などを起用して、長距離走をさせることも恒例になっている。
私自身は観ていないのだが、今年は、沿道で声援し、ランナーに触れようとした観客が、スタッフに恫喝される 「 アクシデント 」 があったらしい。
問題の地点は、特に交通規制も敷かれておらず、ランナーは 道幅 1,8m の歩道を走るため、一般の歩行者が容易に接触できる状態にあった。
番組制作側の抗弁としては、この観客に対し、再三、触れないように注意したにもかかわらず、触れてしまったので、思わず強く咎めたのだという。
不測の事態に、思わず声を荒げて注意してしまったことを反省し、謝罪するコメントが発表されているようだ。
生放送のため、この模様は全国に放映され、放送直後からインターネットで大量の書き込みが発生するなど、かなり大騒ぎになったらしい。
大半は、局側の 「 配慮に欠けた制作姿勢 」 などに関する批難に集中しており、番組のテーマである 「 愛 」 や 「 いたわり 」 に反する評価となった。
日本語の四字熟語には 「 美辞麗句 」 という言葉があり、意味は 「 大げさに美しく飾り立て、真実味や誠意に欠ける言葉や表現のこと 」 である。
英語にも、「 ( a string of ) flowery expressions 」 という表現があり、大仰な題目を唱えながら、実態が伴わない場合は批難される。
一部の不心得者がいたからといって、全体が悪いとは言えないが、このような行為がクローズアップされると、どうしてもそういった印象を与えやすい。
走路については、一般の視聴者に公開されていないのだが、毎年、武道館がゴールになっているので、結局は同じようなルートになるらしい。
一説では、武道館近くにあるルート上の商店主が、「 今年の走者は、例年よりも元気で、約一時間も早く通過した 」 との談を語ったという。
ところが、武道館に入ってゴールしたのは、例年と変わらない 「 フィナーレ直前 」 の時刻で、商店主は不思議に感じたそうである。
ある程度、TV の伝える感動には、「 やらせ 」 ではないが 「 演出 」 はあることも仕方ないのだろうが、すぐに 「 ボロが出る 」 ようではみっともない。
ちなみに、英語で 「 ボロが出る 」 は、よく 「 ( to ) expose one's faults 」 か、「 faults 」 の代わりに 「 ignorance 」 を用いた表現を使うことが多い。
前回の日記にも書いたが、WEB日記で偉そうなことを語るよりも、普段の仕事のほうが重要なように、「 言葉よりも行動が大事 」 なのである。
TV を通じて視聴者に 「 愛 」 や 「 いたわり 」 を説くならば、まず、その前に、製作者側の各人が、その精神を行動で示さねばならない。
逆に、視聴者側に慈善を求める際には、「 行動 」 ではなく、それぞれの 「 心 」 に訴えることが大切で、単なる パフォーマンス では意味が薄い。
けして、偽善的だとか、商業主義的だと批判するつもりはなく、むしろ、もう少し内容を改善して、さらに良い番組づくりを目指してもらいたいと思う。
番組のテーマである 『 愛は地球を救う 』 という発想は素晴らしく、思想に釣り合った中身の番組にする努力を、番組関係者には期待している。
2006年08月29日(火) |
本業を疎かにするべからず |
「 簡単なことを完璧にやった人たちだけが、難しいことを
たやすくやる能力を身につける 」
フリードリヒ・フォン・シラー ( ドイツの歴史家、劇作家、詩人 )
Only those who have to do simple things perfectly will acquire the skill to do difficult things easily.
Friedrich von Schiller
研究者や職人の中には、世間の流行などに無頓着な人が多い。
雑音を気にせず、好きなことや、専門領域に没頭したい表れだろうか。
知り合いの社長さんに、とても中国で顔の広い人がいる。
その豊富な人脈を活用すれば、貿易でも、飲食業でも、不動産でも、どんな商売をしても成功するはずなのだが、本人には、まるでその気がない。
親父さんの代から継承する小さな商売を、コツコツと続けるだけだ。
多くの人々が、私と同じように 「 せっかくの人脈がもったいない 」 と思っているようで、しょっちゅう、経営の多角化を進言するらしい。
それでも彼は、悠然と、他の事業には一切、手を出さない。
その社長さんいわく、「 自分が最も得意なもの、他人には絶対に負けない自信があるものをやるのが プロ 」 なんだそうである。
また、「 専業の分野に関しても、数十年続けてきたが、まだ完璧ではない 」 とのことで、得意分野も極めていないのに、他のことはできないという。
こういう哲学を持った社長さんのいる企業は強く、急激な成長は期待できないかもしれないが、逆風に晒されても経営が破綻しないものである。
実際、同業他社が続々と、破綻、廃業してゆく中で、この企業は根強く耐え抜き、ゆったりとではあるが、業績を伸ばし続けている。
バブルの頃、「 きつねうどん 」 しか奢ってくれなかったが、景気の悪い今ごろでも 「 きつねうどん 」 を奢ってくれる。
小泉総理を指し、「 郵政民営化以外に、何も目立った業績がない 」 などと揶揄する人もいるが、あれこれ提示して何もできないよりはいいだろう。
特に政治家の場合、数多くの口約を掲げる人にかぎって、結局は何もできないということが多く、中途半端な結末に陥りやすい。
かぎられた任期の中で、強固な意思をもって本気で取り組み、何かをやり遂げようとするならば、さほど多くの計画は達せられないだろう。
しかも、目的に向かって努力する最中に、諸外国から牽制されたり、国土が天災に見舞われたりして、しばしば中断を余儀なくされる。
目の前に山積する問題を片付けながら、並行して自分の描いた青写真を実現しなければならないのだから、何もかもは処理しきれない。
今月は、ほとんど休まずに日記を更新したが、仕事が忙しくなったり、長期旅行に出かけたりすると、何日も書かない日が続く。
更新を楽しみにしていただいている読者 ( ごく、少数ですが ) の皆様には申し訳ないが、私にとってこの日記は、さほど重要なものでもない。
普段の仕事や、友達との交流や、たまに 「 恋人と別れたばかりの美人 」 を紹介してもらうことのほうが、私にとっては、この日記よりも重要である。
だから、仕事を休んでまで日記を書いたり、日記のために私生活を犠牲にしたり、そこまでして書こうとは思わないのが実情で、それが普通だと思う。
逆にいうと、「 本業を疎かにするようでは、いくら立派なことを日記に書こうとも、説得力がない 」 のではないかと思っている。
エンピツ日記の 「 新着 」 という欄などをみると、その日記が、何時何分に更新されたのかがわかる仕組みになっている。
私は自営なので、暇さえあれば昼間や、早朝に更新することも可能なのだが、表題を 『 今夜の気分 』 としているので、深夜に更新することも多い。
もし自分が普通の勤め人なら、そういうわけにはいかないだろう。
眠らなくても平気な超人か、昼寝していても、出勤しなくても、秘書が何でもやってくれるような大人物でないと、満足な仕事はできない。
本業という 「 簡単なこと 」 を疎かにして、天下国家の問題を云々するのは本末転倒であり、いくら難しい言葉を羅列しても、主張は伝わらない。
体調を万全に整え、まずは 「 自分自身の仕事を一生懸命にやる 」 という、ごく当たり前のことを完璧にこなしてから、余裕があれば日記でも書く。
プロの物書きと違って、素人日記の作者は 「 それぞれの本業を疎かにはせず、立派にやりこなして、余暇で書く 」 ことが理想の姿だろう。
そうしていると、他人のあら探しばかりでなく、自分の苦労から、他人の失敗に対しても寛容に受け止める姿勢が生まれる。
何事にも杓子定規に理屈をつけ、重箱の隅をつつくようなスタイルは、野党やマスコミに任せておけばいいのであって、素人のやることではない。
先日、「 時事日記を書き始めたい 」 という学生さんからメールをいただき、「 何を取り上げたらいいか 」 というアドバイスを求められた。
適切かどうかわからないが、「 まず本業 ( 学業 & 学生生活 ) をしっかりやって、暇つぶしに、日常感じたことでも書けばどうか 」 と答えておいた。
「 狐にガチョウの番をさせる 」
イギリスの格言
He sets the fox to keep the geese.
English proverb
日本とイギリスは、なぜか文化的に共通する部分が多い。
冒頭の格言は、日本の 「 猫に鰹節 」 に近い。
意味としては、信頼すべきでないものを信頼する愚行を戒めた言葉であり、日本版の 「 猫 」 が 「 狐 」 に、「 鰹節 」 が 「 ガチョウ 」 に相当する。
狐 ( fox ) を題材にした格言は、日英両国ともに多いのだが、イギリスでは 「 ずる賢い、狡猾な 」 といった悪いイメージで用いられている。
日本でも、くせ者同士のことを 「 狐と狸 」 と言うように、やはり狐という動物の印象は、あまり良いイメージではない。
しかし、アメリカ人にとっては、「 fox 」 に対して抱く連想が日英よりも良くて、「 a clever animal 」 と評価されることが多いようだ。
また、美女 ( 特に、肉体的な ) を 「 a fox 」 とか、「 a foxy girl 」 と呼ぶ。
良い人間がいれば、悪い人間もいるのと同じように、本来、同じ種類の動物でも、良いものと悪いものが存在するはずである。
ところが、動物の場合には、その動物に対する好き嫌いで多少の個人差はあるものの、その動物から連想されるイメージは、ほぼ共通している。
また、歴史、文化、宗教の違いからか、国や民族によって、違うことがある。
豚 ( pig ) は英米ともに、「 selfish ( 利己的な ) 」、「 obstinate ( 頑固な ) 」、「 dirty ( 汚い ) 」 というイメージが強い。
アメリカでは警官に対する蔑称として pig をよく使い、“ You dirty pig! ” は一般的な悪口だが、日本でも 「 このメス豚が! 」 なんて使う人がいる。
ライオン ( lion ) は、ほぼ全世界的に 「 bravery ( 勇気 ) 」、「 manliness ( 男らしさ ) 」 というイメージが強い。
虎 ( tiger ) は、欧米では 「 ferocity ( 凶暴 ) 」、「 self-willed ( 片意地な ) 」 の象徴で、ライオンに比べると格下に扱われている。
ちなみに、日本では酔っ払いのことを 「 大トラ 」 などと言うが、英語表現では fish や、whale で表す。
ロバ ( donkey ) は、日本では、我慢強く、可愛い動物といった印象があるけれど、英米では愚鈍と無知の代名詞にもなっている。
このように、それぞれの動物から受ける印象は、国によって違ったりもするけれど、人の潜在意識の中に、強く刻まれているものである。
ほぼ、安倍氏で決まった感じのする 「 ポスト小泉レース 」 だが、一般的な有権者の大部分も、安倍氏が妥当だと考えている人が多いようだ。
政治家も、本来、政策や、資質で選ばれるべきだが、投票によって選ばれる以上、「 顔で得する人 」 と、「 顔で損する人 」 がいることは否めない。
芸能人やアイドルとは違って、男前かどうかは大きな問題でもないけれど、いかにも 「 悪者顔 」 している人は、「 善人顔 」 の人より厳しいだろう。
また、「 動物にたとえると、何に似ているか 」 も、大きいのではないか。
爬虫類が嫌いな人は、「 爬虫類顔の人 」 を生理的に受け付けない傾向があるし、豚顔、羊顔、狐顔、それぞれに印象は異なるものである。
理不尽なようだけれど、人間の好き嫌いなんてものは 「 非論理的 」 なものであって、杓子定規に計れるものではない。
交際相手を決めるときに、いくら能力が優秀でも、性格が良くても、見た目の違いや、相性の違いもあるし、一番優れた人を選ぶとはかぎらない。
もちろん、「 そんな理由で政治家を選ぶなよ 」 と、冷静な分析、判断を求める方もいるだろうが、「 人相 」 も、その人の資質の一部なのである。
また、性格や行動が 「 人相 」 に出るということもあるし、顔で嫌われている人は、支持率もハンディを受けるので、なにかと難しいだろう。
顔は犬っぽいが、髪型から 「 ライオン丸 」 と呼ばれた小泉さんの後継は、穏やかな 「 羊顔 」 の安倍さんを、国民は求めているのかもしれない。
「 一人旅をしているときには、好きな人たちのこと、残してきた人たちの
ことばかり、ふしぎに思い出すものだ 」
リチャード・ホームズ ( 作家 )
When travelling alone your mind fills up strangely with the people you are fond of, the people you have left behind.
Richard Holmes
すっかり、一人暮らしが長くなり、自分の生き方として定着してきた。
この先、誰かと一緒に暮らすかもしれないが、今のところ計画はない。
若い頃は 「 寝に帰る 」 だけの部屋だったが、最近は、遊ばなくなってきたせいか、部屋でのんびりと過ごす時間が多くなってきた。
そうなると、今まで以上に 「 居住性 」 が気になるようになってきて、部屋を整理したり、掃除する頻度が高く、わりと “ こぎれい ” に片付いている。
この前の盆休みも、古い書類を処分したり、不要品を粗大ゴミに出したり、本やレコードをまとめて友人にあげたりして、部屋全体が身軽になった。
実用品を、要る物、要らない物に分類するのは簡単で、奥に収納し使っていない物は、どんなに高額な物でも、たいてい 「 要らない物 」 である。
そこに収納していることすら忘れているようなら、一度処分して、どうしても要るときには、また買えばいい。
判断に困るのは、「 思い出の品 」 である。
意味不明なオブジェや、使い道のないプレゼントなどは思い切って捨てたのだが、「 写真 」 とか、「 はがき、手紙 」 などの処分には悩んでしまう。
写真が 「 衣装ケース2個分 」、はがきが 「 1個分 」 ぐらいあって、とりあえず、はがき ( 大半が年賀状 ) は現状維持とした。
いづれも、子供の頃から残してきたもので、ふと眺めていると、その時々の思い出が甦ってくるものだが、滅多に眺めたりしない品々だ。
写真は、さすがに多すぎるので、見覚えのない風景や、自分がどこに映っているのか見当たらないような 「 珍品 」 を、少しは処分することにした。
まず、年代別に分け、学生時代までの写真は、とりあえず残した。
次に、仕事関係で撮った写真は、その大半が、まったく今となっては不要な物だったので、ごく一部を残して、ほとんど捨てることにした。
その他は、旅行の写真、彼女 ( その時々の ) と撮った写真、友人と撮った写真、家族の写真、証明写真などである。
目が悪くなったせいか、被写体が小さく写っているものは 「 虫眼鏡 」 で見たりしながら、一点づつ、要る、要らないに分けていく。
その都度、アルバムに貼るなどして整理すればよかったのだが、不精をして現像屋さんの袋に入れっぱなしにしていたりするので、作業は難航する。
女性と映っている写真は、捨てずに持っていると 「 未練がましい 」 ようだし、捨ててしまうのは 「 薄情 」 な感じがして、処理に悩んでしまう。
この先、結婚して、誰かと一緒に住むことにでもなれば 「 捨てる理由 」 が出来るのだが、さしあたって予定も無い。
そんなことを考えていると、一つの疑問に突き当たった。
この部屋に、女性と映った写真が存在するということは、それと同じ写真が、少なくとも一時的には、彼女たちの手元にも存在したはずだ。
その写真を、持ち主の女性たちは、どうしたのだろうか。
いづれも美しい女性ばかりなので、別の彼氏ができたり、あるいは結婚 ( 実際に結婚したと報告を受けた人もいる ) したり、しているはずだ。
こっそりと隠し持っている人も中にはいるかもしれないが、大半は処分されていると思って、間違いないだろう。
一枚づつ、最後に眺めながら、こちらも処分することにした。
たちまち、「 衣装ケース1個 」 でも余裕のある状態に減り、かなりスッキリとしたのだが、ここで重大な事実に気がついた。
近年では、DPE に出さず 「 デジカメ 」 で写真を撮っているため、メモリーカード や CD を処分しないと、まだ、女性の写真は残っている。
写真を捨てたからといって、すべて彼女たちとの思い出が消えたわけではなく、その記憶は、心に刻まれ、どこかに残っている。
それは、相手の方にとっても同じだろう。
記憶を共有するということは、「 人生を共有する 」 ということと同じであり、美しい風景や、楽しい瞬間を、お互いの右側、左側で過ごしてきた証だ。
一人暮らしは、人生の 「 一人旅 」 に似ており、ふと、静けさの中で、過去に愛した人のことなどを、ぼんやり思い出すときもある。
前向きに、「 これから出会う人 」 に希望を馳せながらも、「 あの時、こうすりゃ良かったんだよなァ 」 などと、未練がましく後悔する夜もあるのだ。
2006年08月26日(土) |
日銀 福井総裁の進退問題 |
「 たとえ国家が要求したとしても、良心に反することをしてはならない 」
アインシュタイン ( ユダヤ人の理論物理学者 )
Never do anything against conscience even if the state demands it.
Albert Einstein
ドイツ生まれのユダヤ人だが、晩年はアメリカで過ごすことが多かった。
文中の 「 conscience = 良心、誠実さ 」 は、アメリカ人の大好きな言葉だ。
他界した私の父は、とても教育熱心なタイプだったが、なおかつ、男の子は何でもいいから得意なスポーツを一つ、見つけて取り組みなさいと説いた。
それで、運動神経の良い兄は器械体操を選び、それ以外にも、野球、柔剣道、乗馬、スキーなど、あらゆる競技で人並み以上の力量を発揮した。
兄と違って私は不器用で、唯一、足だけは速かったから、陸上競技を選ぶしかなかったのだが、一つに絞った甲斐があって、国体まで出場できた。
ところが、今にして思えば 「 本当はどこかで見守ってくれていたのだろう 」 が、子供に、やらせるだけやらせておいて、とんと結果には無関心だった。
試合を観にきた記憶もないし、主将に選ばれたと報告しても 「 ふ~ん 」 と言っただけで、話は聴いてくれるが、何のアドバイスもなかった。
小学校3年生ぐらいから、勉強は、毎日3~5時間みっちりと強いられた。
その間の 「 監視役 ( さぼらないように ) 」 は母で、父は、自家製問題集の作成や、わからない部分を教える作業を担当した。
スポーツと同じく、やらせるだけやらせておいて、学校の成績や、通知簿などは、軽く目を通す程度で、成績が上がっても下がっても無関心だった。
たまに反撥し、「 クラスで一番になったし、少しは誉めてくれ 」 などと言っても、「 狭い村で争っても仕方がないさ 」 などと、軽くいなされた。
中学の時に母が死に、「 監視役 」 がいなくなったので勉強は疎かになり、その分、スポーツに熱中したけれど、相変わらず父は何も言わなかった。
そんな、「 適当に “ 文武両道 ” さえ実践していれば、後はどうでもいい 」 といった暢気な父が、唯一、烈火のごとく兄を叱ったことがある。
家の近所に、我が家が贔屓にしている店があり、そこの子供が足の不自由な子で、子供心にしてみれば、それが 「 滑稽 」 に見えた。
けして悪意というほどのことでもないが、小学校低学年ぐらいの子供というのは残酷なもので、兄は、その子の真似をして、店の前で遊んでいた。
現場を見たわけではないが、それを聞きつけた父は、兄を殴り倒し、大声で 「 卑怯者めが 」 と、怒鳴りつけたという。
父がなぜ、「 馬鹿者 」 ではなく 「 卑怯者 」 という言葉を使ったのか、子供の頃の我々には理解できなかったが、今は、なんとなくわかる。
私も、父にとってそれが 「 卑怯な行為 」 と判断されたときには、こっぴどく叱られたものである。
やると決めたことを途中で投げ出したり、下級生やら弱い者をいじめたり、上手くいかないことを人のせいにすると、たちまち叱責された。
高校生の頃、勉強もせずに、部活に熱中したが何も言われなかったのは、「 勉強 = しないと決めていた、スポーツ = 徹底的にやった 」 からだ。
順調でも、不調でも、フェアな姿勢で物事に取り組んでいれば何も言わず、卑怯な道を選ぶと注意するというのが、父の教育方針だったようだ。
父にかぎらず、その年代の日本人は 「 卑怯を憎む 」 という志が強く、子供の躾も、それを叩き込むことが重要だと考えていたのだろう。
近年、子供や弱者に対する卑劣な行為が急増し、「 秋田児童殺害事件 」 や、「 大阪 ( 茨木 ) 女性監禁事件 」 などが相次いでいる。
高齢者を狙った悪徳ビジネスや、振り込め詐欺なども、それに準ずる。
こうした卑劣な行為が、一部の落ちこぼれや、無軌道な若者、法の枠から外れた 「 ならず者 」 にかぎった問題であれば、まだ納得もできる。
ところが実際には、ITベンチャーの大手や、投資顧問会社の社長までもが、商道徳に反する卑劣な違法行為に手を染め、逮捕されている。
直近では、偽装工作を施し、軍事転用が可能な測定器を不正に輸出したとして、精密測定機器メーカーが、警視庁公安部の捜査を受けている。
これらは法律に違反する犯罪行為だが、法律に触れないからといっても、それが人々から 「 卑怯なこと 」 と思われるならば、やはり問題である。
日銀の福井総裁をめぐる一連の批難は、法律や、日銀の内規には違反していないかもしれないが、フェアな行為だとは言い難い。
預金者には、ゼロ金利政策でごくわずかな金利を強いている一方、自らは、限られた人間しか利得にあずかれない投資で多額の金銭を手にした。
卑怯なことを許さないという、昔ながらの 「 日本人全体の行動規範 」 から逸脱した振る舞いを、日銀のトップが行い、今も涼しい顔で居座っている。
けして 「 近頃の若い者 」 には見えない福井総裁が、なぜ辞めないのか、なぜ辞めさせないのか、まったくもって理解不能である。
2006年08月25日(金) |
他人の役に立つ汗をかきましょう |
「 お金を儲けるだけのビジネスなら、粗末なビジネスだ 」
ヘンリー・フォード ( アメリカの企業家、自動車王 )
A business that makes nothing but money is a poor business.
Henry Ford
自動車の生みの親がベンツなら、育ての親はフォードと言われる。
大量生産方式を開発し、自動車を大衆に普及させた大功労者だ。
ここ数年、ライブドアや村上ファンドの錬金術に憧れ、額に汗して働かなくとも、成功者になれるのではないかと、勘違いする若者が増えつつあった。
その後、両者が逮捕されたことで、幻想を打ち砕かれた人も多い。
やはり、「 経営 」 とは 「 継栄 」 であり、一時的な儲けを狩るスタイルでは長続きせず、継続的で安定した成果を追求する姿勢が求められる。
それに、「 人生 = お金 」 でもないし、「 仕事 = お金 」 でもない。
人生には、それ以上に大切なこと、楽しいことがあり、仕事を通じて得られる成果も、金銭的な報酬がすべてではない。
フォードの名言が示す通り、ビジネスの価値は、お金だけでは決まらない。
それを、「 お金がすべて 」 と勘違いしやすい理由の一つは、己の成果を、目盛りのある単位で 「 測定したい 」 という心理によるものだろう。
しかしながら、世の中には数値で表されるものと、そうでないものがある。
たとえば、個人の能力や資質を評価する場合に、「 知力 」 はテストの点数や偏差値で表されるが、「 優しさ 」 に点数をつけることなどできない。
目に見える単位が絶対だという考えは、けして現実的ではない。
私自身、仕事を通じて学んだこと、得られた経験、めぐり会えた人々らは、仕事で得た報酬のように数値化はできないが、かけがえのない財産だ。
仕事を通じて成長したからこそ、現在の自分があるし、明日を生きる勇気、未来への希望を携えて、日々、明るく人と接することができる。
もし、一生安泰な蓄財があり、遊んで暮らしてきたならば、困っている人の痛みや、物事の善悪などについてさえ、判断できる力もなかっただろう。
失敗して落ち込み、奮起して再挑戦し、また失敗して、また立ち直る。
そんな繰り返しの中で精神力を養い、技術を磨いて経験を積んでいくうちに、いつの間にか自信をつけ、人と信頼関係を結び、今日の自分がある。
金融の仕事自体が悪いとは思わないし、物づくりをする仕事が、サービスを提供する仕事より上位だとも思わない。
しかしながら、どうも日本の 「 銀行 」 や 「 消費者金融 」 の実態をみると、ビジネスとして 「 志が低い 」 ような気がしてならない。
大手の各都市銀行の3月決算は絶好調で、6大金融グループの合計が 「 およそ3兆円 」 という、バブル期を上回る過去最高益を記録した。
少し前まで金融危機に逼迫していた彼らが、それを回避することができたのは、政府による公的資金投入や、ゼロ金利政策などのおかげである。
いわば、小泉政権の 「 痛みを伴う改革 」 が、ここでは国民に痛みを強いることによって、出来の悪い日本の銀行を救ったのだ。
そこまでして過保護に銀行を救ったので、各銀行のトップは揃って、国民への 「 利益還元 」 を口にし始めている。
ところが、口先ではキレイ事を並べながら、いまだに預金金利は低いままだし、店舗の統廃合によって利便性は低下したままである。
他の業界では考えられないことだが、彼らにとっては、それが当たり前で、世話になり、迷惑をかけた預金者を裏切ることに、何の抵抗もない。
お金という 「 単位 」 だけで物事を計り、人の気持ちや、信頼など無視し、ただお金を儲けるだけのビジネスをしてきた弊害が、ここに現れている。
物づくりもしないし、サービス業としての自覚もない彼らは、いわば、自分たちの利潤だけのために、操業しているようにしかみえない。
消費者金融のアコムは、顧客に遅延損害金を過大請求したり、契約の際に渡す書類に不備があった疑いで、金融庁から立ち入り検査を受けている。
利用する人にも問題はあるが、本来、この世に 「 サラ金 」 など要らない。
銀行が、彼らのメインビジネスである融資業務を怠り、あるいは不良債権から自分の身だけを守るために、余計なファンクションを置いているだけだ。
事実、アコムやアイフルなど大手消費者金融は、都市銀行と資金、業務面で提携しており、実質的に銀行の傘下にある。
高利貸しに又貸しさせてリスクを回避し、大損すれば政府から援助を受け、大儲けしても還元しない彼らは、一体、誰のために存在しているのだろう。
彼らに対し批判の声を上げる人も多いが、国民から 「 預金という人質 」 をとっているので、いつまでたっても態度を改めようとはしない。
ある意味、ヤクザより性質が悪いのである。
親しい友人で銀行に就職した者は少ないが、ごく一部、銀行で幹部になった奴と話をしてみると、他業種で働く者とは 「 何かが足りない 」 感じがする。
彼らも、額に汗する場面はあるが、それは、通勤や、移動のための汗で、物をつくったり、運んだり、「 他人の役に立つ汗 」 ではない。
働くとは、「 傍楽 ( はたを楽にさせる ) 」 の同義語であり、自分の儲けだけを目的にした世界では、身につかない経験なのである。
2006年08月24日(木) |
シュレッダーは悪い機械か |
「 科学は、たいていの害悪に対する解決策を見出したかもしれないが、
その何にもまして最悪のものに対する救済策は見出していない。
すなわち、人間の無関心さに対する策を 」
ヘレン・ケラー ( アメリカの盲聾唖の女流教育家 )
Science may have found a cure for most evils but it has found no remedy for the worst of them all - the apathy of human beings.
Helen Keller
人類が、飛躍的に進化を遂げたのは 「 道具を使った 」 あたりからだ。
猿や犬や猫と違って、土器をつくり、船をつくり、携帯電話をつくった。
新しい機械が発明されると、必ずと言っていいほど、悪用する輩が現れる。
たとえば、カメラ付き携帯で盗撮したり、パソコンに悪質なメールを送ったりする連中がそうで、常人には考えつかない犯罪に利用されることもある。
本来、機械というものは、人類の生活において、何らかの便益をもたらしたり、生活そのものを豊かにする モノ であることが望ましい。
それが悪用されたり、その存在が人々の暮らしを不快に変えてしまうのは、機械自体ではなく、それを扱う 「 人間 」 のほうに問題があるようだ。
当たり前の話だが、つい、それを忘れてしまいがちである。
シュレッダーの挿入口に幼児の指が挟まり、切断される事故が多いという。
マスコミは製造メーカーに押しかけ、機械の危険性や、事故防止の措置が取られていたかどうかなど、企業責任の追及を旗印にして息巻いている。
一昔前までシュレッダーは、業務用タイプしかなかったが、最近では家庭用の需要が増え、設置されているご家庭も珍しくない。
私も、オフィスと自室に置いているが、なかなか重宝している。
頻繁に書類の処理をする人などには便利な機械だが、いたいけな幼児に襲い掛かる 「 恐怖の指食いマシーン 」 として、急に危険視され始めた。
報道番組ではアナウンサーが、「 どうして、誰のせいで、このような悲惨な事故が起きたのでしょう 」 などという質問を、評論家に投げかけていた。
意見を聴くまでもなく答は簡単で、それは 「 不注意な親のせい 」 である。
けして機械に罪があるわけではなく、正常な使い方をすれば事故は起きなかったのだから、すべて、製造メーカーの責任というわけでもない。
たしかに、事故を防止する安全装置の取り付けは望ましいが、家の中にも、オフィスの中にも、幼児にとって危険な モノ は無数にある。
包丁も指を切断する機能があるし、大半の電気製品は幼児を感電死させ得るし、電池やカッターナイフの刃も、飲み込むと死に至る可能性がある。
シュレッダーの製造会社は、反省の色を示すため、挿入口を狭くするとか、「 機械の性能を落とす方法 」 で対策をとろうとしている。
これは、技術革新を退化させる発想であって、あまり正しくはないだろう。
そんな発想がまかり通るならば、「 よく切れる包丁は危険なので、切れ難くしました 」 とか、製品本来の利点が台無しにされてしまう。
町工場などにある旋盤の機械などは、ベテランの作業員でも大怪我をすることがあり、シュレッダーより数倍も危険な代物である。
たまたま子供が迷い込み、うかつに操作して指を切断したら、やはりそれも 「 機械が悪い 」 ということにされてしまうのだろうか。
回転ドアに子供が挟まれて死亡した事件などもそうだが、事故の知らせを聞き、駆けつけた消防署員に対して親は、まず最初に何と言ったのか。
テレビや新聞のニュースでは、「 子供が挟まれた 」 となっている。
疑うわけではないが、実際には、その前後に 「 ちょっと目を離した隙に 」 という言葉があったのではないだろうか。
もし、自分が親なら、2歳ぐらいの幼児がシュレッダーに指を突っ込んだり、一人で回転ドアに行って挟まれた場合、必ずそう言うだろう。
言ったか、言わないかは別としても、「 ちょっと目を離した隙に 」 という思いがあるなら、親として 「 自分の注意が足りなかった 」 と認めたことになる。
逆に、「 シュレッダーに子供が指を入れても危険だとは思わない 」 だとか、「 子供が回転ドアに挟まれてもいいと思った 」 のなら話は別だ。
その場合は、親として何ら責任を感じることもなく、製造元を訴えればよいが、世間から 「 無知 」 と批難されるリスクは覚悟すべきだろう。
現実には、原始時代じゃないのだから、家の中にも、外にも、使い方を間違えれば危険な道具は溢れており、すべてを安全化することは不可能だ。
また、ニュースに精通した人じゃなくても、最近は、子供を標的にした凶悪犯罪も多く、精神異常者が溢れかえっていることを知っているはずだ。
機械を安全化させる 「 科学的解決 」 を突き詰めたところで、親が幼児の行動に無関心なようでは、事件、事故から守りきることなどできない。
指をなくした子供は可哀相だが、こういった事件が起きるたび、そのとき、親や、周囲の大人は、何をしていたのかという点がとても気になる。
シュレッダーという 「 便利な機械 」 を、子供を傷つける 「 凶器 」 に変えてしまったのは、はたして機械メーカーの怠慢なのだろうか。
最近の親御さんの中には、子供を安全に、健やかに育てる意識が希薄で、自己愛の延長線上にある過保護な可愛がり方しかできない人が多い。
そのため、他人や機械が原因で我が子が傷つけられるとエキセントリックに反応するのだが、他に楽しいことがあるとつい、子供から目が離れる。
厳しいようだが、パチンコに興じ乳幼児を車内に置き去り、熱中症で死なす親と、シュレッダーに指を挿れるのを見過ごす親には、共通点がある。
子供は何にでも興味を示すし、幼児は何でも口に入れようとする。
だから、「 ちょっと目を離した 」 ことが大事故にもつながるわけで、企業に安全対策を求めてもよいが、結局は親が面倒を看るしかない。
もちろん、たいへんなことではあるが、そうやって苦労して育ててこそ、親子の愛情というものが強固になり、理想的な家族環境につながる。
マスコミも、企業の責任ばかりを追及しないで、若いお父さん、お母さんに、子育ての重要性を説くとか、そういった努力もしてもらいたい。
国家とは家族の集合体であり、よい家庭をたくさん育てることが、よい国をつくる基礎になるわけで、これは重要な問題だと思う。
「 子供らしさが死んだとき、その死体を大人と呼ぶ 」
ブライアン・オールディス ( 作家 )
When childfood dies, its corpses are called adults.
Brian Aldiss
しばらく見ないと、よその子は、急に大きくなったような気がするものだ。
たとえ他人の子でも、幼い頃を知っていれば、無事な成長を願うだろう。
ニュース記事で 「 ハーレイ・ジョエル・オスメント容疑者 」 という文字を目にしたとき、どこかで聞いたことのある名前だなと、記憶を辿ってみた。
ご記憶の方も多いだろうと思うが、映画 『 シックス・センス ( 1999 米 ) 』、『 A.I ( 2001 米 ) 』 などで人気を博した、ハリウッドの名子役である。
飲酒運転で路肩に乗り上げ郵便ポストに激突し、肋骨を折る重傷を負ったのだが、マリファナを所持していたことも同時に発覚した。
有罪が確定すれば、最高で禁固6ヶ月が科せられる。
ここ数年は、映画に出演したという話も聞かないし、すっかり忘れかけていたのだが、嫌なニュースで思い出すことになってしまった。
本人にしてみれば、さほど周囲の ( 一般的な ) 18歳と、たいして変わらない失敗だと考えているかもしれないが、映画ファンに与える印象は違う。
彼の愛くるしい笑顔に、感動し、魅了されたファンも多いだろう。
名子役が、必ずしも名俳優になれるとはかぎらないが、ハリウッドでもっとも将来を嘱望された一人であったし、順調に成長しているものと思っていた。
再起不能というほどの事故でもないので、また、スクリーンで活躍する日が来るかもしれないが、彼の場合、イメージダウンは避けられないだろう。
熱烈なファンの中には、飲酒運転にショックを受け、マリファナ所持に狼狽し、さらに、18歳になること自体が許せないという人さえいるかもしれない。
ジェームス・ディーン という俳優の人気が、死後、数十年を経ても衰えない理由は、わずか3本の主演作品を遺し、若くして急逝したからでもある。
ブルース・リー も、日本で 『 燃えよドラゴン ( 1973米 ) 』 が大ブレイクした頃には、既に故人となっていた。
子供や、若い頃に得た人気と、当時の面影を残しつつ、長年に亘り活躍を続けることは、努力と忍耐の要る作業なのだろう。
オスメント と同じく 『 ホームアローン ( 1990 米 ) 』 で大活躍した名子役の マコーレー・カルキン も、規制薬物、マリファナの所持で逮捕されている。
子供らしさを失うのはやむを得ないことだとしても、「 自分らしさ 」 や、往時の輝きまでもを失うのは、応援したファンとしても寂しいかぎりである。
2006年08月22日(火) |
自分にしかできない仕事 |
「 大統領や総理大臣には代わりがいるだろうが、
俺の代わりはいないんだ 」
勝 新太郎 ( 俳優 )
There are plenty of people who could be President or Prime-minister, but there's no one who could replace me.
Shintaro Katsu
個性的な役者さんというものは、まさにその通りだろう。
良い悪いではなく、その人でないと出来ない仕事というものがある。
エース 斎藤投手 の好投が光り、早実 の初優勝で決勝戦が終わった。
敗れた 駒沢苫小牧 も、1点差に詰め寄る猛追をみせ、さすが3年連続の決勝戦進出を裏付ける力量で、優勝校にひけをとらない試合展開である。
斎藤投手は三日連投で435球を投げたが、疲労の蓄積された延長15回、再試合の9回に 「 147 km 」 の剛速球を投げ込んだのが印象的だった。
37年前、同じように延長18回を投げぬいた 太田 幸司 投手 は、試合後、水しか飲めなかったが、斎藤投手 は普通に、夕食、朝食を摂ったという。
技量や経験では未熟な部分もあるだろが、「 疲れきっていても投げたい 」 という覇気と体力は、プロ野球の皆さんも見習ってもらいたいものである。
昨夜は、ボクシング 亀田三兄弟 の 次男 である 亀田 大毅 選手 もまた、豪快な1ラウンドKO勝ちによって、非凡な才能と個性をアピールした。
クラスも、対戦相手も違うのだから単純な比較はできないが、ひょっとすると兄を超えるハードパンチャーとして、彼のほうが大成するかもしれない。
彼らには、いろいろと批判もあるけれど、連日、10代の若い選手が活躍する場面を目にすると、やはり 「 若いっていいな 」 と思い知らされる。
私も、10代の大半をスポーツに費やし、その頃は、「 1秒タイムが縮まるのならば、寿命が一年縮んでもいい 」 と願ったりもした。
その後、慌てて勉強に精を出したり、人並みに仕事をおぼえさせてもらったけれど、今となっては、あの時期こそ輝いた貴重な歳月だったと思う。
仕事には、「 誰がやっても同じように出来る仕事 」、「 自分がやったほうがいい仕事 」、「 自分にしかできない仕事 」 がある。
また、「 今の自分にしか出来ない仕事 」 というものもある。
それを見つけたら、他人から何を言われても、どれだけ疲れていても、迷わず真っ直ぐに、それに取り組み、納得がいくまでやり遂げることだ。
そこで悩んだり、手を抜いた分だけ、必ず後で後悔することになるだろう。
心身の壁を乗り越え、けして 「 自分が諦めたら、他の誰かがやってくれる 」 などと甘えないことが、「 かけがえのない自分 」 を見つける手段になる。
「 私は、自分のバスケットボール人生の中で、9000回以上のシュートに
失敗した。 300近いゲームに負け、26回は、それで勝負が決まると
信じてもらって投げたシュートを外した。 私は、人生の中で、何度も、
何度も、何度も失敗している。 そしてそれこそが、私が成功する理由
なのだ 」
マイケル・ジョーダン ( アメリカのプロバスケットボール選手 )
I've missed more than 9000 shots in my career. I've lost almost 300 games, 26 times, I've been trusted to take the game winning shot and missed. I've failed over and over and over again in my life. And that is why I succeed.
Michael Jordan
選手生活 ( 15年間 ) の平均得点 30.12点 は、NBA 歴代1位。
通算得点 30,652点 は、歴代4位 という 『 スーパースター 』である。
史上屈指のプレーヤーと言われた 元プロバスケットボール選手 の ラリー・バード は、「 彼は、マイケル・ジョーダンの姿をした神だ 」 と絶賛した。
このことから、ジョーダンは神 ( God ) に譬えられるようになる。
アメリカが生んだバスケットボール史上最高の天才プレーヤーであり、史上最高のアスリートである。
ジャンプ時における滞空時間の長さから、「 エアー ( Air )・ジョーダン 」 という愛称を持ち、その名を冠したシューズは、世界中で爆発的に売れた。
しかし、実際の彼は 「 天才 」 でも 「 神 」 でもなく、「 努力 」 の人だった。
彼が、地元 ニューヨーク の E ・ A ・ レイニー 高校 に入学した際、学校のバスケットボールチームに入れなかったエピソードは、よく知られている。
ジョーダンは再度挑戦し、一年後にはチームに入ることができた。
彼自身の名言にもある通り、大事なことは 「 一度も失敗しない 」 ことではなく、「 失敗しても何度でも挑戦する 」 ということである。
むしろ、挫折やら失敗を数多く経験したからこそ、そこから学び、努力して、その後の大きな成果を勝ち得たとも言えるのだろう。
前向きに努力する人間は失敗を糧に大成し、後ろ向きな臆病者はせっかく良いポジションに就いていても、どこかで人生が破綻するものである。
高校野球の決勝戦は、延長15回の激闘の末、引き分け再試合となった。
37年ぶりということだが、思えば37年前の 「 松山商業 ( 愛媛 ) ー 三沢 ( 青森 ) 」 戦は、甲子園のスタンドで観た記憶がある。
当時は、人気漫画 『 巨人の星 』 の影響で野球人気が高かったうえ、三沢高校の 大田 幸司 投手の人気も高く、決勝戦は派手に盛り上がった。
延長18回まで闘ったが決着はつかず、再試合で 松山 が勝利を収めたのだが、太田 投手は 「 最も美しい甲子園の敗者 」 として有名になった。
さほど特別に高校野球が好きでもないのだが、あの試合や、今回の試合を観ると、「 両チーム共に、優勝旗をあげてほしい 」 などと思ってしまう。
オリンピック憲章の 「 参加することに意義がある 」 という言葉が示す通り、勝敗より大事なものがスポーツにはある。
当然、負ける前提で参加してほしくはないが、勝つために最善の努力をして、そこで敗れた者には、勝者に匹敵する賞賛が贈られるものだ。
身内や関係者以外の観客が期待するのは、「 勝ち負け 」 よりも 「 内容 」 であって、その闘いぶりから勇気や感動が与えられるのである。
同じ日、バスケットボールの FIBA 世界選手権 が行われており、日本代表はアフリカ王者のアンゴラに敗れたが、途中、リードする場面もあった。
勝っても負けても、激闘の成果が明日につながるように、前を向き、けしてうつむかず、その後の人生に立ち向かってほしいと思う。
2006年08月20日(日) |
時事日記を書く難しさ |
「 馬鹿は自分のことを賢いと思い、賢明な人間は自分が愚か者で
あることを知っている 」
ウイリアム・シェークスピア ( イギリスの劇作家 )
The fool doth think he is wise, but the wise man knows himself to be a fool.
William Shakespeare
作家の名言については、作品中で使われた 文章 も引用している。
冒頭の名言は、『 お気に召すまま [ As You Like It ] 』 からの引用だ。
およそ人間の性格というものは、「 生い立ち 」 と 「 環境 」 によって形成されていくことが多く、外的な要因に大きく影響されやすい。
しかし、同じ家で生まれ育った兄弟でも、まるで性格が違うといった現象も実際にあり、それがすべてだとも言えない。
幼い頃、童話 『 三匹の子豚 』 を読んだ方も多いと思うが、家を建てなさいと言われ、長男はワラの家、次男は木の家、三男はレンガの家を建てる。
現実には、通気性の乏しい 「 総レンガの家 」 など住環境最悪で、次男による木の家が一番マトモだが、その話は、とりあえず置いておこう(笑)。
物語では、ワラの家、木の家が狼に撃破され、三男の建てた頑丈なレンガの家に全員が避難して、事なきを得てメデタシ、メデタシとなる。
同じ家に育っても、まったく同じ環境というわけではない。
兄に可愛がられたり、いじめられたりして、弟の性格が変わることもあるし、兄の良い面、悪い面を見て、何かを学ぶこともあるだろう。
前述の童話では、兄弟の性格の差を、「 努力 」 とか 「 マメさ 」 の違いによって表現し、手を抜かずに努力することの大切さを教訓として伝えている。
仕事でも、恋愛でも、、マメに一工夫することで、ライバルに差をつけたり、成功の決め手になることが多く、何事も、創意工夫と努力は欠かせない。
では、「 努力する人 」 と 「 努力しない人 」 では、どこが違うのだろうか。
基本的に 「 努力する人 」 は、自分が全能の神ではないことを知っていて、欠点を補おうとか、知らないことを学ぼうとする姿勢を持っている。
だから、世の中の森羅万象に興味があり、自分の知らない世界や価値観についても、他人の話に耳を傾け、素直に吸収することができる。
相手が 「 間違ってるな 」 だとか、「 自分とは意見が違うな 」 と思ったら、批判したり攻撃する前に、「 なぜ、そういう意見なのか 」 を先に考える。
人の思想、思考にも必ず 「 その根拠 」 はあるもので、たとえば、歴史的な事実を相手が知らないとか、情報が不足していると、誤った認識を持つ。
また、心理学を学ぶとよくわかるのだが、相手が精神病だったり、心身症のある場合には、とんでもない思考回路を持っていても珍しくない。
そのことから、「 努力しない人 」 の特徴も、簡単に割り出せる。
気持ちのどこかで、まったく根拠もないのに 「 いつも自分は正しい 」 と思い込んでいて、「 だから、なんとかなる 」 と盲信し、他人以上に努力しない。
それほど世間のことも知らないのに、自分が信奉するもの、偉いと思う人の言ったこと、古い価値観だけを基準に、違う意見を退け、話も聴かない。
そのため、日本映画はすべて駄作とか、クラシック以外は音楽じゃないとか、シェークスピア以外は読むに値しないとか、極端な論法に走りやすい。
価値基準は、つねに 「 自分 」 にあり、自己満足の意識しかないので、他人と競争したり、助け合ったりする仕事では、大抵の場合、失敗する。
そこまで自分を過信し、他人を見下せるベースは、どこにあるのか。
学生時代の一時期、少し勉強して 「 まぁまぁの大学 」 を出て、「 まぁまぁの企業 」 に入ったことを鼻にかけていて、それを根拠にしている例が多い。
逆に、最難関の大学を出たり、日本のトップ ( 東大で世界ランク101位 ) では満足できず、海外の上位校を出た人に、そんな人は少ない。
また、なんらかの事情で高校や大学に進めなかった人も、学校歴の不足を何かで補おうとする人が多いので、愚かなプライドに自滅しないものだ。
中間層の、自分では 「 賢いほう 」 だと盲信しているお気楽な人にかぎって、「 九九のできない若者 」 などを槍玉に挙げ、見下す傾向にある。
時事問題の日記を書く場合の難しさは、実は 「 自分は何様か 」 という部分にあり、なかなか悩むところである。
ご立派な政治家や、大企業の経営者、各国の国家元首に 「 物申す 」 資格が、はたして自分にあるのかという点が、つきまとう立場にある。
そこで、日記を書く多くの人は、時代の潮流をつくるのは、そういう人物たちではなく 「 一般大衆 」 という視点に立ち、個人的な意見を述べる。
そうすることで、自分の浅はかさや、知識不足といった問題を解消できるのだから、この方法には利点が多い。
ただし、それに甘え、なんでも 「 言ったもん勝ち 」 みたいに暴論を繰り出すばかりでは 「 努力 」 につながらないので、そこは注意が必要だろう。
興味深いのは、「 読者を馬鹿にした日記 」 である。
彼らの日記では、「 小泉が馬鹿 」、「 支持する国民が馬鹿 」、「 マスコミが馬鹿 」、「 有難がって読んでる奴も馬鹿 」 という論調が多い。
つまり、「 いま、これを読んでる君も馬鹿 」、「 賢いのは唯一、自分だけ 」 と言ってるのと同じで、読者を見下して悦に入っているのである。
精神分析の観点から興味があるので、私は面白がって読んでいるのだが、そんな日記を読んで賛同している方々の心理にも、興味深いものがある。
書いている人から 「 馬鹿だ 」 と罵倒されても読みたい心理など、自分には未知の領域があり、世間には、まだまだ勉強すべきことが多いのである。
2006年08月17日(木) |
ロシアによる銃撃と漁船拿捕 |
「 政治とは血を流さない戦争であり、戦争とは流血の政治である 」
毛沢東 ( 中国共産主義革命の指導者 )
Politics is war without bloodshed while war is politics with bloodshed.
Mao Zedong
靖国参拝に異論を唱えた加藤議員の事務所が、右翼の男に放火された。
主張を通すため卑劣な手段に訴え出ても、それは逆効果にしかならない。
人命とか、言論の自由など、これっぽっちも頭になく、単に 「 小泉憎し 」 の感情しかない連中も、嬉々として 「 それみたことか 」 と騒ぐだろう。
軍国主義でも、極右でもない人間の参拝支持論までが、このような狂人の愚行によって疑問視されるのは、残念だが仕方のないことだ。
参拝に賛成する人間も、反対する人間も多いが、意見の異なる相手を痛めつけようとか、放火しようとする狂人は、ごくわずかである。
首相の参拝が悪いわけではなく、加藤氏の反論が悪いわけでもない。
このような暴力的で非常識な輩は、普段から異常性を発揮しているはずで、世間が、そういうキチガイを放し飼いにしていることこそ問題である。
一夜明け、やはり中国、韓国は、「 次期首相の靖国参拝 」 について、実行すれば首脳会談をしないとか、予想通り、嫌がらせを仕掛けてきた。
中韓の執拗な態度に、「 戦後61年も経ってるのに、いまだに太平洋戦争を口実にしてインネンをつけるのか 」 と、立腹されている方も多い。
若い方はご存知ないかもしれないが、中韓が、日本の歴史認識や、教科書問題、首相の靖国参拝などに言いがかりをつけてきたのは最近のことだ。
戦後数十年は黙っていたくせに、近年になって 「 61年も前のこと 」 を外交カードに使い始めたわけで、その手口は姑息で汚い。
だから、マトモに相手にする必要などなく、「 近隣諸国の感情 」 などと騒ぎ立てず、毅然と無視すればよいのである。
昭和40年代、現在のように中韓が嫌がらせを仕掛ける前の話だが、今は亡き父から、戦中、戦後の話をよく聴いた。
父は戦時中、軍需工場の責任者として、多くの中国人、韓国人と、兵士の食糧である缶詰をつくる仕事をしていた。
既に戦局は悪化し、一般的な日本人の食糧事情も悪かったので、労役に使われていた中国人、韓国人の食事などは、惨憺たるものだっという。
勤め始めた最初の頃は、工場内に日本人も多かったから、昼食時になると日本人は別室でマトモな食事を採り、外国人は粗食に耐えていた。
彼らを気の毒だと思ったけれど、彼らに差別的な他の日本人の視線も気になるし、食事を分け与えることなどできなかったのである。
そのうち、仲間が続々と前線に送られていって、いつのまにか工場に常駐する日本人は、父一人だけになった。
父は昼になると、ルール違反ではあったけれど、缶詰の原料を大釜で煮込み、外国人労働者と車座になって、毎日、パーティをしていたらしい。
大半の日本人が 「 食うや食わずの生活 」 を送っていた時勢に、工場内では父と外国人労働者が、豪快にグルメな日々を過ごしていたのである。
バレたら銃殺モノだったが、当時の若者には死の恐怖など微塵もなかったし、元来、「 楽しきゃいい 」 という性格だった父は、気にしなかったらしい。
他所とは違い、満腹の作業員たちの作業効率はピカイチで、夕飯も食べたいため残業も積極的にこなし、父は 「 優秀工場長 」 として表彰された。
ある日、父にも 「 出征命令 」 が来て、その生活の終わる日がきた。
従業員全員が別れを惜しみ、「 無事に帰ってくるように 」 と涙で祈りを捧げたのだが、その祈りは無駄に終わった。
時は既に昭和20年8月、南方に出征する直前、終戦を迎えたのである。
終戦後、混迷する大阪の街には、迫害を受けて恨みを持つ外国人たちが、日本人に仕返しをしようとする機会を窺い、不穏な空気が立ち込めていた。
そんなとき、父をよく知る外国人たちが 「 この一家だけは攻撃しない 」 とかばってくれ、平和な暮らしと、順調な商売を助けてくれたのである。
長くなったが、そんなわけで父は、中国人、韓国人に差別感情がなかった。
その時代の人間には珍しく、塾に通えない近所の中国人の子供を集めて、無料でソロバンを教えたり、得意な数学を教えたりもしていた。
そんな開けっぴろげでフランクな父が、生前、「 ロシア人だけは許せん 」 と、ロシア人がいかに卑怯で、汚い民族かということを、頻繁に語っていた。
後年、歴史を学んで知ったが、「 日ソ不可侵条約 」 を一方的に破棄したことや、北方領土問題などを指して、そう言っていたのだろう。
アメリカへの留学も許してくれた父だが、最期まで 「 ソ連にだけは行くな 」 と言って、結局、いまだに私はロシアの地を踏んでいない。
根室市の漁船がロシアの銃撃を受け、一人が死亡し、船は拿捕された。
海上の国境線には、線が敷いてあるわけでもなく、その現場が日本の領海だったのか、ロシア領だったのか、検証することは難しいだろう。
ただ、この場所で、こういった問題が起きる原因は、明らかに日本の領土であるはずの 「 北方領土 」 を、ロシアが速やかに返還しないためである。
1855年、江戸幕府とロシアが話し合い、「 日露和親条約 」 により、歯舞、色丹、国後、択捉の4島は日本の領土となった。
その後、日露戦争に勝利した日本は、サハリン、千島列島も手中にした。
そして、第二時世界大戦が終局する寸前の8月9日、「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄したソ連軍は、サハリン、千島列島に侵攻し、占拠する。
しかも、無条件降伏をした8月15日以降も侵略は続き、北方4島すべてを略奪してしまった。
その後、日本は 「 もはやサハリン、千島列島を返せとは言わない。しかし、北方4島は昔から日本のものだから返して欲しい 」 と交渉を繰り返す。
やがて米ソ冷戦時代が訪れ、米軍基地になる恐れから交渉は頓挫する。
冷戦後、「歯舞と色丹は返す」との約束を取り付けたが、日本政府は当然の要求として「4島すべての返還」を求め続けている。
これが 『 北方領土問題 』 の概要である。
日本は 「 もともと日本の領土なのだから、そこに住んでいる人が困ってるなら助けてあげよう 」 という人道的援助を、現在も続けている。
なのに、その場所で、領海侵犯だとか何だとか言って、漁船に銃撃を加えたり、拿捕するとは、断じて許せない悪行である。
このような事件が起きると、人種差別や偏見とは縁遠かった父が、「 ロシア人は汚い 」 と言っていた言葉を、どうしても思い出してしまう。
靖国問題で中韓に気をとられがちだが、政府、外務省は、この問題について厳重に抗議し、納得のいく対処を求め続けてほしいと思う。
「 彼が愛される最大の理由は、彼の作った敵の多さにある 」
エドワード・スタイヴザント・ブラッグ ( アメリカの政治家 )
They love him most for the enemies he has made.
Edward Stuyvesant Bragg
誰からも愛されたいと望むのは、人として自然な気持ちである。
ましてや政治家の場合、ごく一部でも、有権者の反感を買いたくはない。
ただ、それが 「 本物の愛 」 かというと疑問で、浅い一時的な人気に過ぎないようでは、八方美人などと陰口を叩かれてしまう。
そのような 「 カラ人気 」 を本物の愛情や信用と錯覚して、有頂天になってしまうようでは、大きな政治家にはなれないのも現実だ。
民主主義の危険な落とし穴が、ここにある。
責任のない一般社会の人々が、いかに批難しようとも、将来的に 「 あれでよかったのだ 」 と言われる施策を、辛抱強く実現する勇気を持つこと。
国民全体の利益を長期的展望に立って考え、一時的に反撥を食らっても、強く信念を貫くことこそが、「 公の責任 」 を持つ者には必要である。
任期中最後の終戦記念日に、靖国参拝を果たした小泉首相を、批難する人もいるだろうし、「 立派だ 」 と思う人もいる。
戦没者に対する畏敬の念は、それぞれの立場やら、年齢やら、受けてきた教育などによって異なるだろうから、何が正しいとは言えない。
現代日本の礎を築いた英霊たちを、中韓と結託し、ないがしろにしようが、この国を 「 戦争犯罪国 」 と自虐しようが、すべては個人の自由である。
ただし、靖国参拝によって 「 日中関係が悪くなる 」 という意見は、明らかに間違っていると言わざるをえない。
参拝すれば中韓両政府が不快感を示すけれども、参拝せず、彼らの顔を立てたところで、日中関係が良くなるわけではない。
野党議員などに多くみられる反対意見者は、中国に内政干渉されて、先祖の弔いもできない状態を指し、それを 「 良い日中関係 」 と言うのだろうか。
太平洋戦争の反省とは、平和な社会の実現を目指すことであって、中国や韓国に逆らわず、彼らに媚びへつらうことではない。
靖国問題がなくても、彼らは 「 日本が軍国主義への回帰を目指している 」 という主張を、ことあるごとに展開している。
たとえば、昨年、『 男たちの大和 』 という戦争映画を劇場公開したことなどを例に挙げ、日本人は反省がない、戦争を肯定化していると怒っている。
私は映画が好きで、戦後、日本が製作した戦争映画を数多く観てきたが、戦意を高揚する映画など一本もなく、そのすべては 「 反戦映画 」 である。
平和を願う日本人の自主的な努力は、すべて、ねじまげて解釈され、正しく伝えられたことなど一度もない。
教科書問題をはじめとして、彼らは日本人に 「 反省 」 を求めているのではなく、自分たちの支配力が及ぶように 「 従属 」 を求めているだけである。
政治的思惑のある中韓はともかく、それに気づかず、彼らの尻馬に乗って、日本の自主性や、自衛権を否定する 「 逆賊 」 が多い事実は許しがたい。
いくら自由にものが言える国だとはいっても、そのような国益を脅かす連中には、何らかの処罰も検討すべきではないかと思う。
幸いに、まだ 「 愛国心 」 を持つ人間が大半を占めているので、売国的な政党は、政権も取れないし、売国奴は職場で 「 浮いている 」 だろうが。
そんな愚か者でも 「 有権者 」 である以上、良心のある政治家も、その票が欲しいのが実態である。
実際、過去の優れた政治家の多くが、自分と組織の得票のために、信念を貫くことなく、あやふやな態度で、お茶を濁してきた。
小泉首相においても、混乱を避けるため、妥協を余儀なくされた。
任期切れ寸前の参拝に対し、「 立つ鳥、跡を濁した 」 などと批判する馬鹿もいるが、これは、将来の日中関係において、重要なアプローチである。
けして、中韓に対し 「 喧嘩を売る 」 わけではないが、正常で、対等な日中関係の土台をつくるためには、必要な措置だったとみて間違いない。
政治でも、企業でも、能力と信念のある人間は、そうじゃない人間、仕事のできない奴から、陰口を叩かれ、中傷を受けるものである。
嫌われたくないがために、軋轢を避けるようでは、その資質が埋没する。
靖国に参拝しないことを 「 諸外国への “ 配慮 ” 」 などと勘違いしている人も多いが、それは “ 配慮 ” ではなく、実際には “ 後退 ” でしかない。
たとえ内外の大きな反撥にあっても、将来的な国益のためには、それらに耐えることが、管理責任を担っている人の責務である。
ポスト小泉の中で、能力面だけを比較すると、谷垣氏はイチオシの逸材だが、組織の長は、知的教養だけでなく、人格的力量が不可欠なのでNG。
2006年08月15日(火) |
靖国神社と戦争犯罪者 |
「 悪とは何だろうか - 弱さから生じるものは、何であろうと悪である 」
フリードリッヒ・ニーチェ ( ドイツの哲学者、詩人 )
What is evil ? - Whatever springs from weakness.
Friedrich Nietzsche
この名言は、哲学的見地から眺めないと、反論したくなるところだ。
単純に、「 では、社会的弱者は悪者か 」 などという次元ではない。
東京では、クレーン船が送電線を切断し、大規模な停電状態に陥った。
幸い、お盆で休業中の企業が多かったり、通勤客が少なかったりしたので、普段の月曜日に比べると、経済的被害などは少なかったようだ。
マスコミは、電気に頼って生活する 「 現代都市生活の脆弱な一面 」 などと騒いでいたが、いまさら原始的な生活に戻れるわけでもない。
かといって、このような 「 ありえない事故 」 に備えて、過剰な投資をするのも考えもので、結局は、運が悪かったと思って我慢するしかない。
不便した人は、神が与えた試練だと思って、通勤できなかった人は、神が与えた休息だと思って、都合よく自分の中で消化する以外にないだろう。
世の中には、「 善 」、「 悪 」 と、簡単には、二極化できない事柄もある。
この大停電にしても、クレーン船に問題はあるが、わざとやったわけでもないし、しいて言うなら、彼らの注意力や、技術、経験に落ち度がある。
つまりは、彼らの 「 弱さ 」 が 「 悪 」 になっている。
もっと言えば、そこに 「 悪意 」 があったとしても、悪意というのは弱い人間が持つものなので、やはり 「 弱さ = 悪 」 なのである。
犯罪者もすべて、チンケなヤクザであろうが、マフィアの大ボスであろうが、精神異常者であろうが、皆、結局は弱い人間である。
悪ぶっている人間は、皆、どこかに弱い部分があり、それを誤魔化したり、相手に悟られたくないために、不自然な虚勢を張っている。
最近、よく槍玉にあがっているボクシングの亀田選手なども、プレッシャーに潰される不安や、自信の無さが、強気な態度に反映されている。
彼が、あらゆる不安や、コンプレックスから解放され、真の実力と自信を身につけたなら、その態度は一変するはずである。
弱い人間ほど虚勢を張り、周りが見えず、心に余裕がない。
彼らにかぎらず、最近の日本人には、自分に甘く、他人に厳しく、何にでも批判的な 「 弱い人間 」 が、多いように見受けられる。
総理大臣や、強大国アメリカの批判をすれば 「 格好いい 」 と勘違いして、自分の仕事が満足にできない 「 八つ当たり 」 をするのも弱い人間だ。
すっかり 「 政治イベント 」 みたいになってしまった首相の靖国参拝も、彼らにとっては、法や宗教に関係なく、単なる 「 ネタ 」 でしかない。
戦後61年目の終戦記念日を迎えたが、「 許す 」 という行為は、強者にのみ与えられた資質であり、中韓同様に、彼らにはできない芸当だ。
したがって、国のために亡くなった英霊には気の毒な話だが、同じ日本人の中にも、首相の参拝に反対する 「 売国奴 」 が存在する。
そんな連中にも、自由に発言の機会を与え、それを擁護している日本という国は、意外に 「 強い国家 」 なのかもしれない。
今年は、天皇陛下の発言とされるメモが現れたりして、「 A級戦犯者 」 の合祀に異議を唱えたり、靖国神社の在り方に関する議論が白熱している。
そもそも、第二次大戦が侵略戦争だったのか、戦争責任は誰にあるのか、戦争犯罪人などというものが存在するのか、明確な答などない。
もし、「 いや、あるよ 」 と言う人がいたとしても、誰もが納得できる説明などできないだろうから、結局、「 正解は、どこにもない 」 のである。
私見としては、① 第二次大戦は ( 結果的に ) 侵略戦争、② 戦争責任は、参加したすべての国にある、③ 戦争犯罪人はいる、というものだ。
③ の、「 戦争犯罪人の定義 」 については、東京裁判の A級、B級 などという判断とは異なり、別の基準で考えるべきかと思う。
戦争自体は犯罪でなく、国際法上 「 交戦権 」 が認められており、その責任はあったとしても、一個人が、戦争を始めた罪に問われるのはおかしい。
また、戦争を長引かせ、多数の兵士を死地に向かわせた軍上層部に対しては、それを 「 許しがたい行為 」 とは思うが、やはり犯罪ではない。
真の戦争犯罪人とは、戦局や、指示、命令に関係なく、私利私欲のために個人的犯罪を犯した兵隊や、民間人を指すと考えるのが妥当だろう。
また、それらは、戦争に便乗した 「 犯罪 」 なのだから、戦時中に軍法会議で裁かれたり、戦後、日本の裁判によって罰せられるのが筋である。
戦勝国の立場で、彼らに都合よく裁かれるものではない。
結局、「 勝てば官軍 」 の言葉通り、戦争では、負けたことが罪になる。
まさに 「 弱さは悪 」 なのであって、「 ウルトラマン 」 や 「 仮面ライダー 」 と同じく、勝った側にしか正義は存在しない。
敗戦した日本が、弱者に甘んじ続けることなく、誇りと愛国心を失わずにいるためには、再び戦争をして勝つか、「 強者の姿勢 」 を貫くしかない。
それは、たとえば、いかに中韓が批判しようが、毅然とした態度で戦没者を弔うことや、自虐的な歴史認識を振り払う姿勢でもある。
結局、中韓の顔色を窺って、靖国参拝を放棄しても、「 別の外交カード 」 をもって難癖をつけにくるのは明らかで、ほとんど意味はない。
「 友情・・・それは学校で学ぶものではない。
しかし、もし友情の意味をまだ君が学んでいないとしたら、
君は本当に何も学んでいないということだ 」
モハメド・アリ ( プロボクサー )
Friendship ... is not something you learn in school. But if you haven't learned the meaning of friendship, you really haven't learned anything.
Muhammad Ali
各方面に伸びる高速道路は、帰省ラッシュで、長蛇の大渋滞である。
逆に、市内へ向かう通勤ルートは、いつになく静かで、流れも円滑だ。
こう暑いと、外食に出かけるのは億劫で、かといって自分で何かつくるのも面倒なので、友人夫妻に招かれたことを幸いに、お邪魔することにした。
ちょうど、アメリカに留学中の息子さんが帰国していたので、久しぶりに彼と話をすることもでき、なかなか充実した一日を過ごせた。
私と違って、日本の大学を経験せず、高校を卒業してすぐに渡米したので、慣れるまでに苦労したようだが、たくましくなって帰ってきたようだ。
留学を薦めたのも私なので、少し責任を感じていたのだが、言いつけ通り、勉強とスポーツに精を出しており、ドラッグにも手を染めていない。
高校時代に短期留学を経験したせいか、語学力は上々だし、現地で友達とも仲良く馴染んでいるらしく、いまのところは合格点である。
私は、「 学歴は重要だが、学校暦にはこだわらない 」 という主義である。
社会には、「 中学を卒業して、すぐに板前の修業をする 」 だとか、「 高校を出てすぐ、大工の見習いをする 」 人もいて、学校だけが学ぶ場ではない。
むしろ、自己の技を磨くようなスペシャリストの道を目指す人は、若い貴重な歳月を、平均的な総合学習に費やすよりも、早く仕事に慣れたほうがいい。
日本の大学に行こうが、専門学校に進もうが、海外へ行こうが、自分の手に職をつけようが、「 未来にビジョンがある 」 ことが重要である。
それが見つかっていなくても、追い求め続ける人は学び続けるし、そうでない人は頓挫するので、どんな環境にあっても、それが 「 学歴 」 となる。
過去の私自身がそうであったように、将来、何がしたいのか決められないけれど、とりあえず 「 いい大学 」 に入りたいと願う人も、たくさんいる。
それはそれで結構だが、それならば口約通り 「 いい大学 」 に入らなければ意味は無いのだが、この小さな島国で、それを実現するのは難しい。
この 「 いい大学 」 というのが曲者で、大抵は、ちょっと勉強すれば入れて、それなりに格好がつき、自己満足を満たす 「 都合のいい大学 」 を探す。
ちなみに、「 東京大学 」 は 「 世界の大学ランキング 」 で現在、101位にあたり、過去においても、100位以内にランクインしたという話は聞かない。
私が東大に入れたとは思えないが、運と、度胸と、ちょっとの 「 コツ 」 がわかれば、もっとランクの高い学校に入れるのが、海外留学の利点である。
よく、「 外国人の彼女が出来ると、語学力が向上する 」 と言う人を見かけるが、男同士の付き合いのほうが、話す機会は多いかもしれない。
寮のルームメイトが、怪しげな発音をするアジア人だったり、自分より英語を知らない子だったりしたこともあったが、それでも話せるようになる。
もちろん、言葉の上達だけではなく、友達は、精神的な支えであり、仲間であり、生活を楽しく豊かに過ごすうえで、かけがえのない存在だ。
たまに深夜まで議論したり、お互いの文化や思想を否定する場面もあったけれど、喧嘩しても、すぐに仲直りできたのは若さの特権だろう。
けして、人種差別があったわけではないが、自分の語学力が未熟だったので、どうしてもアジア人で集まることが多かったことは、苦い反省点である。
海外で仕事をしたこともあるけれど、仕事の同僚と、学校の友達は違う。
利害関係の無い者同士、自由に意見を交換したり、一緒にスポーツで汗を流したり、コーヒーショップの可愛い子ちゃんにチョッカイ出したり。。。
相手の前で格好つけず、「 バカ 」 になれるのが、友達の証だろう。
以前にも書いたが、「 ひとつの国しか知らない人は、自分の国のこともわからない 」 のであって、それを学ぶには留学してみるのが一番である。
ちょいと成長した息子が、以前とは違って 「 靖国問題 」 で一席ぶつのを、煩わしそうに眺める友人に、思わずニヤリと笑ってしまう宵だった。
2006年08月13日(日) |
日航機墜落事故、その後の教訓 |
「 成功とは、失敗を重ねても、やる気を失わないでいられる才能である 」
ウィンストン・チャーチル ( イギリスの首相 )
Success is the ability to go from failure to failure without losing your enthusiasm.
Winston Churchill
記憶しているかぎり、これだけ盆休みに 「 無計画 」 なことはなかった。
ノンビリと、ダラダラしながら、日頃の疲れでも癒そうかと思っている。
イギリスではテロリストを水際で逮捕し、未然に惨事を防いだようである。
このような事態をみると、国際世論に逆らって日本だけが反対をしている 「 共謀罪 」 の適用も、やはり必要なのではないかと感じる。
日本では、どこかの建物に不審な外国人が集まり、爆破テロの計画を話し合ったり、要人の暗殺計画を練ったりしていても、すべて無罪である。
これほどテロリストにとって好都合な国があるのに、イギリスを拠点に選んだ犯人グループは、オツムが弱いとしか言いようがない。
あるいは、さらに大きなテロに備えて、彼らにとって居心地の良いこの国は、とりあえず温存しておきたかったのかもしれない。
一般的な企業の盆休みを外して、海外に出向くことも多いこの時期だが、出入国審査も厳しくなっているらしく、とりやめて正解だったかもしれない。
留学時代の同級生が、サクラメントで事業を始めたとか、ホストファミリーに不幸があったなどの連絡も受けていたが、今回は手紙で失礼した。
近いうちに、カナダへ行く用事があるので、そのついでに、寄れたら寄ると曖昧な返事をし、日本人らしく 「 お茶を濁して 」 おいた。
先方はアメリカ人らしく、こちらの苦労に配慮せず、「 ぜひ今度は、“ 可愛いフィアンセ ” を連れてくるように 」 などと、直球で返してきた。
とりあえず今年の夏は、フィアンセより 「 部屋の掃除 」 が先決である。
自動車事故に比べれば発生件数は少ないが、航空機による一回の事故は、死傷者が多く、報道も加熱するので、とても印象に残りやすい。
なかでも、21年前の今日に発生した 「 日航ジャンボ機墜落事故 」 では、乗員乗客524名のうち520名が死亡する、未曾有の大惨事となった。
事故機と同じ夕方発着の 「 羽田 → 伊丹 間 」 の便は、当時から現在も、仕事で頻繁に利用している関係上、けして他人事とは思えなかった。
不謹慎なようだが、第一報を聞いたのは、21時頃の 「 ラブホテル 」 の中で、テレビのアナウンサーが 「 日航機が消息不明 」 だと報じていた。
深夜に、帰宅してテレビを点けると、各局が特別編成を敷いていて、歌手の坂本九さんが搭乗していたことなど、全貌が明らかにされていった。
520名の死者数というのもショッキングだったが、大破して原型を留めない残骸の中で、4名の生存者がいたという事実には、さらに驚かされた。
すべて女性だったが、生存者の発見は、人間の生命力、たくましさを改めて思い知らされ、大惨事の中にあっても、一筋の救いと、勇気を与えられた。
口先だけの 「 人命尊重主義者 」 や、命を粗末にする 「 自殺企図者 」 が氾濫する現代で、真の 「 生命の大切さ 」 を実感した事故であった。
その後の調査や、最近では山崎豊子さんの著書 『 沈まぬ太陽 』 などで、事故当時の日航社内や、事故原因などが明らかにされていった。
ちなみに、この事故の3年前にも、「 妄想性統合失調症 」 の機長が操縦した日航機が羽田沖に墜落し、24名の尊い人命が失われている。
そして現在、航空機事故の不安が完全には解消されていないことに加え、テロリストによる破壊工作の標的として、航空機は不安に晒されている。
ジャンボ機による大規模な事故や、NY の 9,11テロ は、航空業界だけでなく、社会全体を揺さぶり、大衆に 「 すぐそこにある危機 」 を知らしめた。
それでも、人々は航空機を利用し、航空会社は需要に応じる。
事故を悲惨な記憶として哀れんでも、ビジネスや観光や留学など国際交流のために、航空機は欠かせない交通手段であり、後戻りはできない。
靖国に眠る英霊が今日の平和を支えているように、事故の犠牲者も、その教訓を我々に遺し、貴重な反省と改善の機会を、与えてくれているのだ。
冒頭の 「 失敗しても、やる気を失わない才能 」 というのは、困難なもので、その失敗が 「 死者という犠牲 」 を含んでいるなら、なおさらである。
あの事故のあとも、航空機を飛ばし続けたパイロット、フライトアテンダント、整備士の方々の、たゆまぬ努力と心の葛藤はいかばかりか。
最近は、誰かが死ぬわけでもないのに、自分の出世だけを気にして些細なミスから精神病に陥る会社員が、世間には急増して、はびこっている。
失敗の責任をとろうとする態度は悪いことでもないが、クヨクヨと諦めたり、やる気を失って立ち止まるようでは、「 プロ 」 として成立しない。
多大な犠牲に報いるのは、それまで以上の努力と再起であり、遺族と同じ立場で嘆き悲しむだけでは、ただの 「 役立たず 」 である。
「 私は誰のどんな誉め言葉も批難も気にすることはない。
私はただ自分の感性に従うだけだ 」
モーツァルト ( オーストリアの作曲家 )
I pay no attention whatever to anybody's praise or blame. I simply follow my own feelings.
Wolfgang Amadeus Mozart
周囲の意見というのは、聴きすぎると、本来の方向を誤ることがある。
逆に、聴かなすぎると、「 空気の読めない奴 」 なんて言われたりする。
スポーツ選手と音楽家を比較して優劣をつけることは、パンとご飯のどちらが偉いかを決めるようなもので、まったくナンセンスである。
分野は違っても、それぞれの世界で活躍する人たちには共通点のあることが多く、冒頭の言葉は、ボクサーの亀田選手にも当てはまる。
ただ、周囲の反応に対して 「 まったく気にしていない 」 かというと疑問で、そこに人間らしい感情があるかぎりは、それに悩んだりもするだろう。
それは、モーツァルトだろうが、浪速の闘拳だろうと同じことで、彼らのいう 「 気にしない 」 とは、その後の意思決定を、左右されないということだ。
亀田選手 ( 親父さんも ) も、試合後の世論には驚き、戸惑っているはずで、強気の発言の中にも、複雑な心境が見え隠れしている。
大方の意見が批判的な中にあって、私個人は、さほど亀田親子に対して、不謹慎であるとか、嫌悪するほどの不快な印象がない。
インタビューの受け答えなどに関して、「 礼儀を知らない 」 と批判する方もいるが、それは彼らの主たる仕事でもないはずだ。
実際、言葉遣いは荒くないが、サッカーの中田選手なども、インタビュアーに敬意を払っているようには見えず、むしろ小馬鹿にした様子が窺える。
それに比べれば、亀田選手のほうが気取りのない分だけ愛想もよく、気さくに話している部分には好感がもてる。
態度がでかく、横柄で生意気でも、「 自分の取り得はボクシングしかない 」 と自己認知できており、ある意味 「 身の程を知っている 」 ようにも見える。
他人の意見に耳を貸さず、余計なこと ( ボクシングで勝つこと以外 ) には気をとられず、「 わが道を行く 」 ことにのみ集中して精進を続ける。
彼らとしては、世間の風当たりに対して 「 それの、どこが悪い 」 と居直り、自分たちには落ち度が無いと態度に表している。
もちろん、その理屈は正しいが、彼らが一つ見落としている重大な事実は、「 有名になった人間は、それなりに影響力を持つ 」 ということである。
世間一般的なステータスはもとより、ボクサーとしても彼らは、けしてエリートコースを歩んできたわけではなく、底辺から這い上がってきたタイプだ。
だから、知名度を得て、所得も上向き、チャンピオンの称号を得た今でも、自分たちは 「 他人に影響力を与える存在 」 であることを知らないでいる。
自分たちの言動や、好き勝手な振る舞いが、他人に影響を及ぼすと思えば、おのずから人間は制約を受け、周囲を意識し始めるものである。
他人にどの程度の配慮をし、どのようなポーズをとるのかは個人差があるけれど、少なくとも無名の新人だった頃と同じではないはずだ。
傍若無人な態度は 「 世間をナメている 」 と評されやすいが、世間をナメるとは、同時に 「 世間に甘えている 」 のと同義語でもある。
自分のプレステージが高いという意識があれば、世間に甘えても、世間はそれを許してくれないと悟るものだが、そういった部分は見受けられない。
コンプレックスによるものか、別のところにあるのかは不明だが、態度とは裏腹に、まだまだ彼らは、彼ら自身の存在を 「 過小評価 」 している。
今後、どのような活躍ができるのか予測もつかないが、本当の自信がついた段階で、自分たちの持つ 「 影響力 」 に気づく時がくるだろう。
元チャンピオンの辰吉選手も、昔と今では言動に差がある。
自分よりずっと若い選手から、「 憧れ 」 とか 「 目標 」 とされている事実を知ると、本人は同じようにしているつもりでも、徐々に変化していくものだ。
スポーツ選手が現役で活躍できる期間は短いけれど、影響を与える立場の者は、そこで人間的にも成長し、それぞれの自己実現をはたすものだ。
いつまでたっても、それに気づかない馬鹿者なら、世の中の役に立たない愚か者としてバッシングしてもかまわないが、今はまだそのときではない。
彼らの親子愛やら、サクセスストーリーを、けして健気だとは思わないが、最近の軟弱な風潮よりは好きだし、私は好意的に観ている。
粗野で暴力的なパフォーマンスを肯定すると、青少年の教育上よろしくないとは思うのだが、「 お上品で軟弱 」 よりは、好みに合っているのだろう。
また、大阪に住んでいるので、「 あのタイプ 」 には免疫がある。
全国には 「 アンチ亀田 」 の人も多いが、いきがって、虚勢を張る部分には目をつぶり、しばらくは暖かく見守っていただきたいと思う。
親父さんはともかく、まだ亀田選手は 「 19歳 」 であり、選手としての活躍以外に、尊敬に値する人格まで期待するのは、いささか酷な話でもある。
「 弱きものよ、汝の名は女なり 」
ウィリアム・シェークスピア ( イギリスの劇作家 )
Frailty, thy name is woman!
William Shakespeare
シェークスピア4大悲劇の一つ、「 ハムレット 」 の中の一節である。
ここで言う 「 弱さ 」 とは、「 か弱い 」 という意味ではない。
悪い男に 「 女性が騙される 」 事件が相次ぎ、ニュースになっている。
新興宗教 「 摂理 」 の悪徳教祖は、韓国、日本の女性信者に性的暴行を繰り返し、数多くの女性が毒牙にかけられたらしい。
また、大阪府茨木市では 「 連続監禁事件 」 が発覚し、現在わかっているだけでも、子供を含め7名の被害者があったと判明している。
女性を肉体的、精神的に追い込み、暴行を加えるなどという卑劣な犯行は許しがたく、重罰をもって処すべきだと思う。
また、同じような被害に遭う女性がなくなることを、心より願う。
このような事件が起きると、必ずと言っていいほど、「 騙したほうも悪いが、騙される女性にも問題がある 」 と、被害女性を批難する人が現れる。
たしかに、いづれの事件も、犯人が特に男前だとか、特別な魅力があるわけでもないのに、被害者の女性たちは、たやすく術中にはまってしまった。
どちらかといえば、醜男で、女性を騙すこと以外には、特には取り得のなさそうな 「 ダメ男 」 にみえる。
では、どうして被害女性たちは、「 ダメ男に騙され 」 たのか。
このような犯罪に至らないケースでも、ダメ男とばかり付き合って、周囲の友達から失笑を買ったり、しょっちゅう説教されている女性も多い。
女性にかぎらず人間は、本質的に 「 ダメ男 」 が好きなのである。
映画 『 男はつらいよ 』 に登場する寅さんも、チャップリンが演じた浮浪者も、Mr.ビーンも、国民的な人気者には、意外と 「 ダメ男 」 が多い。
彼らは、「 抱かれたい男ランキング 」 や、「 結婚したい男性ランキング 」 には縁がないけれど、親しみがあり、母性本能をくすぐる。
また、人間の心理として、自分より劣っていると感じる者に対し、それを嫌悪する反面、「 優越感などの快感を抱きやすい 」 という傾向がある。
逆に、自分よりも優れている者には、尊敬と憧れを抱くと同時に、「 嫉妬、警戒、コンプレックスなどの不快感を抱きやすい 」 という傾向がある。
容姿端麗で、頭が良く、お金持ちで、スポーツマンで、家柄が良く、ユーモアのセンスがあり、性格が良ければ、「 女性にモテ放題 」 と思われがちだ。
女性の大半は、「 もし、そんな男性が身近にいれば、彼氏も、亭主も、過去もみんな捨てて、お付き合いしたいわん ( はあと ) 」 と口では言う。
ところが実際には、そのような二枚目が甘い言葉で誘ってくると、喜びよりも 「 警戒心 」 が先に立ち、やすやすとは誘いに乗らないものだ。
男性から口説かれ慣れている美女や、聡明な女性ほど、その傾向は強い。
逆に、もっさりして、うだつの上がらない男性から、おどおどと誘われたほうが、深い付き合いでなければ、安心して同席しやすいようだ。
浅い付き合いでも、一緒にいる時間が長いと情がわくし、二枚目の彼氏と違って緊張しないし、なんとなく居心地がよくなったりもしやすい。
そして、ひとたび関係を持つと、ちょっと 「 後に引けない 」 ようになる。
相手の態度が冷たくなったり、暴力を振るったりし始めたときに、その相手が好男子なら、なんとなく 「 あきらめ 」 もつきやすい。
ところが、「 ダメ男 」 とそうなっちゃった人は、交際相手を間違ったかなと思いつつも、ハマってしまうことが多いのである。
特に、身持ちの堅い女性ほど、「 自分の判断ミスを認めたくはない 」 という意識から、なかなか別れられない状況が続いてしまうようだ。
運がよければ、見るに見かねたお節介な女友達が、強行に仲を裂いてくれたり、ダメ男が刑務所に入ったり、酔って車に轢かれたりして、別れられる。
運が悪ければ、ダメ男ぶりがエスカレートして、監禁されたり、虐待されたり、オリンピックにも出場していない未知の国に売リ飛ばされたりする。
映画や舞台で 『 ハムレット 』 を観た人ならご存知だろうが、冒頭の台詞 「 弱きものよ、汝の名は女なり 」 の弱さとは、「 意思の弱さ 」 である。
国王 ( ハムレットの父 ) の死後、弟と再婚した母親を恨んだハムレット ( そんな彼も、甘えん坊のダメ男 ) が、貞節の意思の弱さを嘆く台詞だ。
実際、いい女性ほど 「 ダメ男には騙されやすい 」 もので、それは仕方ないのだけれど、「 なんか変だ 」 と気づいたら、早めに退散してもらいたい。
「 この世の中は、他の人間の自由を保護することによってのみ
自分の自由を守ることができる 」
クラレンス・ダロウ ( アメリカの弁護士 )
You can only protect your liberties in this world by protecting the other man's freedom.
Clarence Darrow
クラレンス・ダロウは、アメリカ合衆国史上、最も有名な弁護士である。
自伝映画では、スペンサー・トレイシーや、ケビン・スペイシーが演じている。
すべて犯罪は、けして許されるものでないが、なかには情状酌量の余地があるものや、加害者に同情できるものもある。
その一方、あまりにも身勝手で、凶悪極まりない犯罪もある。
そして、もう一つ、「 なぜ、そんなことをするのか 」、正常な神経の人間には思いもよらない事件を起こす犯罪者もいる。
人並み外れた頭の回転と、憐れみの心を持つ名弁護士でも、弁護を引き受けたくないような、そんな不可思議な犯罪も、近頃は多いようだ。
それは、世間一般の社会通念が変化していることなど、時代の波と無関係ではないような気がする。
このところ、三面記事で 「 盗撮 」 という文字をよく目にする。
ネットで検索してみたら、カメラ付き携帯電話やデジカメを使った 「 盗撮 」 事件が雨あられのように表示され、その数の多さに驚いてしまった。
大部分は、女性の下着を狙ったもので、職業別にみると犯人は、公務員、消防士、あるいは教師、警察官も多く、まったく 「 世も末 」 である。
昔と違い、露出の多い服装を好む女性が増え、故意に見ようとしないでも、自然に下着が目に入る場面も多いが、それでは満足できないのだろうか。
性的な好奇心、探究心を理解できないでもないが、犯罪に走ってまで、執拗に見たいという心理は、いささか 「 病的 」 な類に入るものだ。
年齢別にみると、かなり広い範囲に及んでおり、最近の犯罪ではあるが、「 最近の若い者 」 の犯罪というわけではない。
このあたりも、若者にかぎらず 「 最近の日本人 」 という尺度で分析をしていかないと、解決しない問題なのだろう。
速見 敏彦 さんの著書 『 他人を見下す若者たち 』 の表紙には、当世若者事情として、5つの傾向が記されている。
1、自分に甘く他人に厳しい、2、すぐにイラつく、キレる、3、悪いと思っても謝らない、4、泣けるドラマや小説は大好き、5、無気力、鬱になりやすい
たしかに 「 なるほど 」 と思う内容だが、それはすべて 「 最近の若者 」 というより 「 最近の日本人 」 全体の傾向で、中高年にも、その手の輩が多い。
自分は 「 汗水たらして働いている 」、「 税金を払っている 」、「 礼節を重んじる 」、「 心より平和を願っている 」 と、懸命にアピールする人がいる。
しかしそれは、他人からみれば 「 ごく当たり前 」 のことで、ことさらに強調されても、どう反応してよいのかわからない。
言っている本人も、そのぐらいは理解しているのだが、話に夢中になったり、興奮してくると、自我が抑えられず、絶叫してしまうのである。
彼らは、どこか自分に対する嫌悪感、コンプレックスがあり、覆したい一心で 「 自分は他人より優秀で、努力もしている 」 と自己弁護に走るのだ。
それが結果として、「 自分に甘く、他人に厳しい 」 批判的な人格を生む。
教師や警察官などが 「 盗撮 」 に走る背景にも、この 「 自分に甘く、他人に厳しい 」 という心理がある。
特別な職業に就いているということを、「 国民のしもべ 」 という発想ではなく、つい、「 特権階級者 」 という意識に置き換えてしまうのだ。
また、立場に関わらず、社会全体が 「 自分の自由を主張しないと損 」 という風潮にあるので、「 俺は 」、「 私は 」 という一人称の話をする人が多い。
自分の立場や自由を主張することばかりに気をとられて、他人がどのように生活し、どのような自由を求めているのかまで考える余裕がない。
その結果、「 短いスカートをはいている女が悪い 」 などと、他人の服装に関する自由を否定し、自分は平気で盗撮してしまうのである。
私は、時事に関する日記を書くにあたり、特別に勉強したり、特殊な方法で情報を集めたりはせず、自分の感性に頼って文を書いている。
妙に知識や情報を得ると、「 教えてあげましょう 」 という気になって、他人を見下したような、自分は特別と 「 勘違いした人間 」 になってしまいやすい。
1、自分に甘く他人に厳しい、2、すぐにイラつく、キレる、3、悪いと思っても謝らない、4、泣けるドラマや小説は大好き、5、無気力、鬱になりやすい
これらは若者の場合、脳や、人格形成が未成熟なために起こり得る傾向だが、分別ある大人の場合は、「 脳の病気 」 または 「 人格障害 」 である。
他人を傷つけたり、自由を脅かすことを避けたいなら、この兆候がある人は治癒につとめ、そうすることで、本当の自己実現を目指してもらいたい。
2006年08月06日(日) |
安倍、麻生、谷垣、総裁選の行方 |
「 熟考には時間をかけろ。
しかし、戦いの時が到来した時は、考えることをやめ、戦え 」
ナポレオン ( フランス第一帝政の皇帝 )
Take time to deliberate, but when the time for action has arrived, stop thinking and go in.
Napoleon Bonaparte
考えずに行動する人は、見ていて危なっかしく、実際、失敗も多い。
逆に、考えすぎて行動を起こすのが遅い人も、やっぱり失敗が多い。
それが、自分に関係の無い人なら、どうでもいいようなものだが、わが国のリーダーともなれば、まったくの無関心というわけにもいかないだろう。
自民党総裁選は、9月20日の投票に向けて、本格的に始動している。
形勢としては、安倍官房長官が圧倒的有利とみられるが、麻生外相、谷垣財務相も、けして見劣りする候補ではない。
それぞれが別に、目指す国家像や、政権構想があるし、生い立ちや環境、経験も違うわけだから、「 誰がやっても同じ 」 ではないだろう。
他にも候補はいるが、「 次期総理になれる可能性がある 」 という意味では、この三人のうちの誰かが選ばれるとみて、まず間違いない。
今回の総裁選は、初めて、全国十ヶ所でブロック大会が行われる。
普通の選挙とは違って、一般の有権者が投票するわけではないが、過去の密室人事に比べると、開かれた民主的な選抜方法に変わってきている。
一般の有権者が支持政党を選ぶ場合には 「 政策面 」 を重視する必要があるけれど、総裁選の意思決定に重要なのは、「 個人の度量 」 である。
独裁国家じゃないのだから、総理大臣といえども政策を一人で決められるはずもなく、政策を考えることが重要な職務でもない。
統率力、判断力などの資質と、行動力に加え、「 多くの国民に支持される 」 だけの人格を備えた人物かどうかの判断が、選択には不可欠となる。
ビジネスマンの場合、その人の考課は 「 質 × 量 」 で計られる。
質を 「 能力 」 に、量を 「 情熱 」 に置き換えても、かまわない。
本当は、そこに 「 感性 ( センス ) 」 も加えるべきなのだが、これだけは、その人が生まれながらにして持っている資質で、努力では補いにくい。
だから、ビジネスマンの場合には、除外して評価されることが多いのだが、政治家の場合は、それも大きな評価点とされるだろう。
三人の 「 質 ( 能力 ) 」 、「 量 ( 情熱 )、感性 ( センス ) 」 を、投票者はどのように判断するのか、興味深いところだ。
人格面では、立ち居振舞いがソフトな安倍氏に、女性の支持が集中するのではないかと思われ、無骨な感じのする麻生氏は不利かもしれない。
学歴を偏重する人は減りつつあるが、出身校でみると、東大 ( 谷垣氏 )、学習院 ( 麻生氏 ) に比べ、成蹊 ( 安倍氏 ) は不利かもしれない。
お父さん ( 故 安倍 晋太郎 氏 ) は東大出身者だが、まさか自分が総理になるとは考えていなかったらしく、凡庸なところで満足してしまったようだ。
谷垣氏の場合は、卒業後、司法試験に合格しているし、麻生氏は、大企業 ( 麻生セメント ) の社長を経験している。
知力、政治家以外での経験などを鑑みると、若干、安倍氏には分が悪く、総理に就任できたとしても、何かあると、そこを攻撃される危険はある。
もう一つの評価は、自民党員の 「 小泉路線への評価 」 に関連する。
小泉総理への反発が強い人は、後継者色の強い安倍氏を支持しにくいだろうし、従来路線の踏襲を望んでいる人は、安倍氏を推す可能性が高い。
最近、スクープをされた 「 4月に安倍氏が靖国参拝をした 」 という問題も、小泉シンパの場合、安倍氏の支持を強める要素にしかならないはずだ。
小泉政権を総括すると、悪い点もあったが、良いところも多く、過去には 「 言われっぱなし 」 だった中韓に、毅然と対応する姿勢も出来始めた。
次期総理に 「 ミラクル 」 は期待しないが、外交、内政両面で、せっかく良くなりつつある部分を、後戻りさせることのない人に、お願いしたいと思う。
2006年08月05日(土) |
靖国参拝は宗教行事か |
「 これが私の分かりやすい宗教です。 寺など必要ではありません。
難しい哲学も必要ではありません。 私達自身の頭と心が私達の
寺なのです。 そして、その哲学とは優しさです 」
ダライ・ラマ 14世 ( チベット仏教の最高指導者 )
This is my simple religion. There is no need for temples; no need for complicated philosophy. Our own brain, our own heart is our temple; the philosophy is kindness.
The 14th Dalai Lama
近頃は、若い人による新しい文化潮流を 「 サブ・カルチャー 」 と呼ぶ。
書店に行くと、その類のコーナーが設置されていて、なかなか興味深い。
たとえば、携帯やパソコンの、ユニークな 「 誤変換 」 ばかりを集めた本が出版されていて、思わず吹き出してしまいそうな内容もあった。
一例を挙げると、会社で、「 取引先に行ってきます! 」 と打ったつもりが、「 鳥、引き裂きに行ってきます! 」 と誤変換した失敗などである。
プロポーズの言葉で、ロマンチックに 「 君と結婚したい 」 と打ったつもりが、「 君と血痕死体 」 などという恐ろしげな文になったりもする。
大部分は、面白く創作された 「 フィクション 」 なのだろうが、誤変換ばかりを集めて本にしたという発想が面白く、感心してしまった。
お堅い諸氏の中には、「 若者の低俗な暇つぶし 」 などと、一段下に見下す方も多いようだが、私は個人的に、けっこう好きかもしれない。
よく売れている本では、柳田 理科雄 さん の 『 空想科学読本 』 シリーズが面白く、コーナーの 「 売れ筋商品 」 的存在になっている。
空想科学とは、怪獣やヒーローの出てくるような特撮番組、SF、アニメなどのことを指し、この本は、それが 「 現実的にあり得るか 」 を検証している。
たとえば、映画に登場する 「 ゴジラ 」 は身長50m、体重2万t という設定なのだが、「 ガメラ 」 は身長60m、体重80t という設定になっている。
身長はガメラのほうが2割ぐらい上回るのに、体重はゴジラの250分の一しかないというのは、いくら 「 空想上の設定 」 だとしても不自然である。
そんな矛盾点を科学的に検証し、どちらが適切かなどの解説がなされる。
ゴジラの場合、「 密度 ( 物質1c㎡ あたりの重さ ) 」 が人間の40倍以上もあり、あらゆる地球上の生物、その他の物質より極めて重いことになる。
実在するシロナガスクジラは、体重170tだが、密度は人間と変わらない。
だから、クジラを陸に上げると、自重で骨が折れ、内臓が潰れて死んでしまうが、水中では水と同じ密度のため、浮力を得て悠々と泳いでいられる。
ところが、ゴジラの場合、密度が40倍以上もあるので、陸上ではもちろん、たとえ水中にいても沈んでしまい、床に叩きつけられて死んでしまう。
仮にゴジラが水中で生まれたとしても、生まれた瞬間に即死する。
逆にガメラの体は、一辺10㎝ の立方体にすると、8gの重さしかない物質で出来ていることになり、発砲スチロールより軽く、海にも潜れない。
空気の入った風船人形みたいなもので、強い風が吹けば飛ばされ、とてもじゃないが、怪獣と戦ったり、都市を破壊するどころではない。
つまり、この設定では 「 ガメラは軽すぎる、ゴジラは重すぎる 」 というのが正解で、どちらも物理的にあり得ない設定ということがわかる。
他にも、子供の頃、何気なく観ていた空想科学番組の 「 あり得ない設定 」 などが、細かい事例を挙げて分析されていて、興味をそそられる。
小さい子供などに読ませると、「 夢の無い話 」 になってしまう可能性もあるが、科学の勉強にもなるので、大人が読むには楽しめる。
私にとって神仏は、この 「 空想科学 」 に近い存在だ。
たとえば、「 神は存在する 」 と仮定した場合、罪のない人物が、事故や、病気や、戦争や、犯罪の犠牲になって死ぬのを、なぜ神は助けないのか。
時効が切れて捕まらない悪党を、どうして見逃してしまうのか。
地球上の森羅万象を司るのが神だとしたら、ずいぶんと神は、我ら人間に対して無関心で、無力で、責任感のない存在だということになる。
そんな神なら要らないわけで、もし、いたとしても、神官や、牧師や、僧侶の語るイメージとは、ずいぶん違う存在であることは間違いない。
それでも神社に詣でたり、寺や墓参りに行くのは、神仏への信仰からではなく、死者を弔ったり、亡き家族を思い出すための行為にすぎない。
安倍さんの、靖国神社への参拝が明るみになり、各方面で論議されているが、それはけして 「 宗教的な行為 」 でもない。
日本の礎となった戦没者に謝意を表し、安らかな眠りを祈るだけだ。
それを、同じ日本人でありながら、中韓と一緒になって批難する 「 バチ当たり 」 な連中がいることは、まことに遺憾である。
彼らには、A級戦犯の霊が動き出し、地下に埋めた改造人間が軍国主義をリードするなどと、「 空想科学 」 的な被害妄想があるのかもしれない。
2006年08月04日(金) |
スポーツ選手とバックグラウンド |
「 リング上に三人目の人物がいて、はじめて、ボクシングができます 」
ジョイス・C・オーツ ( 作家 )
The third man in the ring makes boxing possible.
Joyce.C.Oates
昨夜の世界タイトルマッチには、釈然としない観客が多かったようだ。
番組を中継したTBSには、6万件を超える抗議や問い合わせがあった。
抗議の中には、「 番組開始から試合までの時間が長い 」 など、番組制作に関するクレームもあったが、「 判定 」 に関する抗議も多かったという。
いくら判定に納得がいかないとしても、試合を中継したテレビ局に抗議するのは、少しピントがずれているのではないかと思う。
それに、ボクシングの採点方法は、ラウンドごとにチェックした累計点数で決まるため、終盤の印象が強く残る観客とは、ギャップが生じやすい。
昨夜の試合でも、初回と終盤のラウンドでは敗者が優勢だったが、中盤は勝者が試合を支配する場面も、多く見られたのは事実である。
仕事で帰宅が遅くなって、11ラウンドからテレビをつけた人と、早いラウンドから観戦していた人では、また違った印象だったろうと思う。
これがサッカーなどの団体競技なら、釈然としない判定でも、自国チームの勝利が決まって、不満をもらす人は少ないだろう。
しかし個人戦の場合は、たとえ自国の代表であっても、その個人に対する好き嫌いもあるし、無条件に 「 何としても勝たせたい 」 とはかぎらない。
特に、亀田選手 ( ファミリーも含めて ) の場合、なにしろ個性が強いので、熱烈に支持する人と、やや嫌悪感を示す人がいても不思議ではない。
また、「 敗北を体験させないと、生意気さに拍車がかかる 」 といった親心から、微妙な判定での勝利を不服とするファンがいるかもしれない。
いづれにせよ、判定はレフリー ( 審判 ) とジャッジ ( 判定員 ) からの評価によって決まる仕組みなので、放送局に文句を言ってもはじまらない。
批判的な意見も多いが、「 感動した 」 という声も、多いという。
スポーツの感動は、試合そのものより、決戦の舞台に立つまでの経緯や、選手の生い立ちや家族など、バックグラウンドに影響されやすい。
亀田選手の場合も、父親、兄弟とのトレーニング風景など、多くの観客が 「 予備知識 」 を蓄えており、それが感動に結びつく人も多いのだろう。
逆に、選手としては応援するが、そのバックグラウンドが嫌いだとか、苦手だという人も、同じぐらい、いるかもしれない。
今回の 「 もやもや感 」 を払拭するには、彼自身が次の試合で、どのような結果を出すかしかないわけで、とにかく頑張ってもらいたいと思う。
2006年08月03日(木) |
失われる日本人らしさ |
「 ついに私は発見したのである。
この地上にも、自然のままの簡素さを、最高の美としている国が
あるのだと 」
フランク・ロイド・ライト ( アメリカの建築家 )
At last I had found one country on earth where simplicity, as natural, is supreme.
Frank Lloyd Wright
帝国ホテルを設計した ライト は、日本の様式美を絶賛した。
他のどこにもない 「 らしさ 」 を、当時の日本は備えていたのだろう。
今夜は、ボクシングの世界タイトルマッチがあり、「 浪速の闘拳 」 の異名を持つ 亀田 興毅 選手が、判定で勝利を収めた。
終盤には押され気味で、イマイチ、彼の 「 らしさ 」 が十分に発揮できない冷や汗ものの勝利だったが、とりあえずは祝福したいと思う。
並みの選手なら、勝敗には期待されても、「 勝ち方 」 までは要求されないものだが、判定による勝利では釈然としないのも、彼の力量である。
今後、さらなる成長を遂げてもらいたいものだが、できるなら、次の試合では 「 らしさ 」 を発揮して、また日本を沸かせてもらいたいと願う。
ただ、この 「 らしさ 」 は、観客の抱くイメージ像であって、本当の彼らしさは、赤子のように泣いていた今夜の姿なのかもしれない。
時代は文化をつくり、時の流れは、それを変えてゆく。
我々が20代の頃、年配者の大部分は声を揃え、「 最近の若い者は 」 と、無知で未熟な新参者を嘆き、その非常識ぶりに呆れ返っていた。
いま、我々世代の人の多くは、電車の中で化粧をする娘さんや、コンビニの前でたむろする若者を指して、「 最近の若い者は 」 と顔をしかめる。
そう考えると、変わったのは 「 若い者 」 だけではない気がする。
20代、30代、40代、それぞれに昔の各年代とは違うわけで、変わったのは 「 最近の若い者 」 ではなく、「 最近の日本人 」 なのではないだろうか。
日本人の 「 らしさ 」 の一つに、「 勤勉 」 があるという。
真面目な働き者で、高度成長期には 「 エコノミックアニマル 」 などと揶揄もされ、欧米からは、それが貿易摩擦を引き起こす元凶とまで言われた。
いまでも、大半の日本人は、自分たちを真面目でよく働く民族だと自覚し、仕事に対するモチベーションが高いと、認識しているのではないだろうか。
それが、国際比較した場合の 「 日本人らしさ 」 であり、怠け者の欧米人とは違うところだと、信じて疑わない人が多いようだ。
それが事実であれば、世界に誇れる特徴と言えるだろう。
米国の大手人材コンサルタント会社である タワーズぺリン社 が、2005年に世界16カ国、約8万6千人の労働者に対して、アンケート調査を行った。
モチベーションの高さについて尋ねると、「 非常に意欲的である 」 と感じている従業員の割合が最も高かったのは、メキシコ ( 40% ) であった。
次いで、ブラジル ( 31% )、アメリカ ( 21% ) の順に続き、わが日本は 「 わずか 2% 」 で、最下位だった。
また、現実に 「 いまの仕事に対して意欲がない 」 と答えた日本の従業員は 41% に上り、インド ( 56% ) に次いで2番目に多かった。
統計の結果が必ずしも正しいとは断言できないが、これでもなお、国際比較して日本人が 「 世界一の勤勉 」 だと、信じてよいものだろうか。
いまの大人からみて、最近の若者は 「 正しい日本語を知らない 」 という。
昔は、「 こうじゃなかった 」、「 そんなことは通用しなかった 」、「 非常識が許されなかった 」 と、若者を批判することは簡単だ。
日本の素晴らしさや、独特の良さ、「 らしさ 」 が失われていくことを、すべて非常識な若者のせいにして嘆けば、多くの大人は共感する。
しかし、そういう大人は、日本人の長所、特徴、「 らしさ 」 を守り、かたくなに実践し続けていると言えるのだろうか。
すべての大人たちが、忍耐を美徳とし、不平不満を言わず、勤勉に働くことに生き甲斐を感じながら、「 らしさ 」 を踏襲しているようには見えない。
自分たちの若い頃と比較し、「 ニート 」 に代表される無気力な若者を蔑みながら、居酒屋で 「 最近の若い奴は 」 と愚痴をこぼす。
その一方、自分たちが 「 若い奴 」 だった当時の40代が、膨大なストレスに押し潰されながらも、愚痴をこぼさず耐えていた事は棚に上げられる。
たしかに昔の20代は、いまの20代よりも羞恥心があり、電車で化粧を直さなかったし、日本語を上手に操っていたかもしれない。
しかし、それと同様に、昔の40代は、過酷な仕事に追われても、簡単には挫折しなかったし、自制心をもって、窮しても品位を失わなかった。
家族を養う責任や、組織内での役割から逃れて、ふさぎこんだり、自分だけが楽になるために死を選んだりする人間は、ほとんどいなかったのだ。
世の中には、「 変えるべきもの 」 と、「 変えないほうがよいもの 」 があり、もし、「 日本人らしさ 」 を 「 良さ 」 と思うのなら、それは後者にあたる。
それを守る責任は、未熟な若者たちに委ねることが正しいと思うのなら、「 最近の若い者 」 を批難し、ことあるごとに罵声を浴びせればよい。
逆に、もう少し経験のある中高年こそが、その役割を担い、将来ある若者たちの模範になるべきだと考えるのなら、大人が襟を正すべきだろう。
けして、「 昔の日本人 」 を目指す必要などなく、いつの時代にも通用する本質的な 「 日本人らしい良さ 」 を体現していけばよいのである。
意図して美意識にこだわったり、勤勉につとめるのではなく、自然なままの姿で、「 simplicity 」 に回帰することから始めれば、難しいことでもない。
2006年08月02日(水) |
個人にできる平和貢献 |
「 人は、それぞれの平和を、自らの内面から見出さなくてはならない。
真の平和は、外界の状況に左右されるものであってはならない 」
マハトマ・ガンジー ( インド独立の父 )
Each one has to find his peace from within, And peace to be real must be unaffected by outside circumstances.
Mohandas Gandhi
人には相性があって、大抵は、誰にでも苦手な相手、嫌いな人がいる。
あるいは、尊敬したり、憧れたり、愛しく想う対象がある。
では、いま現在、誰かを 「 憎い 」 と感じたり、誰かが失敗したり、破滅することを望んではいないだろうか。
私の場合、しいて名前を挙げるなら 「 金正日 」 あたりだが、個人的に何かされたわけでもないので、ムカつく相手だが 「 憎い 」 まではいかない。
実は、このような個人的憎悪こそ、「 戦争の火種 」 であって、その対象が多い人ほど、好戦的性格ということになる。
戦争とは、憎しみの集積であり、発端は国益や、国の指導者にあったとしても、それを支え続けるのは、個人の内面に潜む憎悪に他ならない。
平和活動家も、熱意が度を越すと、自らの手で暴力的に振舞ったり、周りが見えなくなって矛盾した行動に走るのは、そんなカラクリによるものだ。
つまり、人類すべてが幸せに暮らしていれば、戦争など起きない。
幸せとは、ある意味、誰かを憎んだり、恨んだりしない状態であって、現状に満足しているのだから、破壊的行動に走る動機など生じないものだ。
とはいえ、人の性格や、欲の深さは千差万別なうえに、富める者がいれば貧する者もいるわけで、全人類が同時に幸せを共感できるはずがない。
自らを不幸だと感じたり、ましてや、それを誰かのせいだと思う邪な心が、人々を犯罪や、戦争の狂気に走らせてしまうのである。
ひとたび戦争が始まれば、そのまま黙って見過ごすか、別の武力によって抑止するしか、現実的には止める方法がない。
日本人全員が、金正日 を 「 殺したいほど憎い 」 と強く思えば、間違いなく北朝鮮と戦争になるし、相手が ブッシュ ならアメリカとも戦争になる。
レバノンの状況も、複雑な経緯はあるけれど、本質は 「 私怨 」 である。
殺されて、報復し、また殺されるという憎悪の輪廻が、延々と繰り返されて現在に至っているわけで、部外者に理解できるものではない。
利害や侵略が目的なら、国際世論の 「 やりすぎ 」 という意見に耳を傾けることもあるだろうが、憎い相手への復讐に、限度などないのである。
その構造を理解せずに、この戦争を斜めから眺めても、答など出ない。
本当に戦争が嫌な人は、まず自分から、誰かを憎んだり恨んだりしなくてもすむような充実した人生を、自らの努力で構築することである。
成功者を妬んだり、人気者の陰口を叩く性格を改め、自分の人生に責任を持ち、けして他人のせいにしない 「 自責 」 の習慣を持つことだ。
そうやって、自らの内面に潜む邪な心を抑え、心の平穏を保つことは、反戦デモや抗議集会に参加するような派手さはないが、よほど平和に役立つ。
自らの心が乱れた状態で、口先だけ偽善ぶっても、人の心は打たない。
世界の平和を案ずる前に、自分の心に平和を築き、明るく笑顔で人と接し、人生を有意義に楽しむことが、個人にできる最大の平和貢献である。
2006年08月01日(火) |
靖国に眠る英霊への供養 |
「 何かのために死なない人間は、生きるにふさわしくない 」
キング牧師 ( アメリカ人公民権運動の指導者 )
A man who won't die for something is not fit to live.
Martin Luther King,Jr
まるで、昔の日本人気質を表したような 「 骨太 」 の言葉である。
戦いの指導者は皆、いつの時代、どこの国でも同じなのだろう。
この言葉は、死ぬことを奨励したものではない。
信念を持たず、リスクを避けてばかりの後ろ向きな生き方を批難したものであり、そのような人間は、たしかに 「 生きているとはいえない 」 のである。
むやみやたらに喧嘩をふっかけたり、自らの意思を通すために軋轢を起こす必要はないが、常に 「 ことなかれ主義 」 では生きる価値も少ない。
ある意味、戦争中の日本人は、生きる目標がシンプルだったはずだ。
当時は、「 生きることは死ぬこと 」 であり、家族や国家のために、あるいは天皇陛下のために、自分の命を捧げるという大儀があったのだ。
逆に今は、「 何のために生きるのか、何のために自分の命を捧げるのか 」 という問いに対して、自分自身で答を考えなければならない時代である。
自分の人生を、より価値あるものとして、有意義に過ごしたいと考える人間にとっては、国家から死を強要された時代よりも、今のほうがいいだろう。
自由な選択肢の中で、精一杯に努力して、自らの人生を構築できる。
ところが、人生をつまらないものと考え、少しでもツライことや、自分の思い通りにならないことがあると挫折してしまう人は、その価値がわからない。
数かぎりない生き方、死に方があるのに、真剣に考えたり、悩んだり、未来に希望を抱くことを面倒がり、最も無意味な 「 自殺 」 で身を滅ぼす。
思わぬところから 「 昭和天皇のご意思 」 だと称されるメモが出たことで、にわかに靖国問題が議論されはじめ、マスコミを賑わせている。
ポスト小泉として次期総理就任が濃厚な安倍官房長官が、はたして就任後に靖国神社へ参拝するのか、中韓の反応はどうかなど、話題は尽きない。
靖国に眠る英霊に対して、現代の日本がもっとも恥ずべきこと、顔向けできない問題は、中韓の批難より、わが国内の 「 自殺者の多さ 」 である。
生きる道は死ぬことしかなかった時代に、子孫のため国を守ろうとして日本の礎となった英霊の魂を、いかに多くの馬鹿者が無駄にしているか。
しかも、そんな 「 自分が楽になることしか考えていない 」 連中にかぎって、世界平和だの、戦争反対だのと、腹にも無いゴタクを並べたがる。
英霊に手を合わせ、その遺志に報いるには、靖国神社へ参拝すること以上に、いまの日本人が、威風堂々と価値ある人生を謳歌することが重要だ。
自分や他人の命を粗末にする馬鹿や、人生を楽しめず、何のために生きているのかわからない愚か者を減らすことが、最大の供養である。
先祖が命懸けで守ったこの国を、どんな国にして、国民はどう生きるのか、それこそが我々に与えられた使命であり、末代まで続く永遠の課題だ。
靖国に誰が眠っているのかよりも、戦犯、非戦犯を問わず、そこに眠る人々が後世に託した共通の願いは何かを認識することが、重要である。
靖国参拝を、軍国主義への回帰だとか、過去の反省だとか論議することより、我々が幸せに恙無く暮らすことを、英霊たちは期待しているだろう。
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