Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2006年11月28日(火) 海軍小型特殊潜航艇 回天



「 長い道のりだった。 しかし、我々はここまで来た 」

       アラン・B・シェパード・ジュニア ( アメリカ最初の宇宙飛行士 )

It's been a long way, but we're here.

                            Alan B. Shepard, Jr.



海軍のテストパイロットから、NASA に参加した最初の宇宙飛行士。

いまでもアメリカでは、「 歴代の英雄 」 に選ばれる一人である。


1961年、マーキュリー計画の最初の 「 フリーダム7 」 で宇宙へと旅立ち、アメリカ人としては初の有人飛行に成功した。

僅か15分28秒の弾道飛行ではあったが、この成功が後のジェミニ計画、アポロ計画につながり、彼自身も、引き続き宇宙計画に参加した。

1971年にはアポロ14号に搭乗し、月面に降り立つ5人目の人類となったが、このとき月面でゴルフをするパフォーマンスで、世間を沸かせた。

当時、宇宙飛行は人類の夢と憧れの象徴であって、その成功は、実利的な意味合いだけでなく、多くの人々に生きる勇気や、希望を与えていた。

米ソは宇宙開発に競って巨費を投じたが、その成果は十分にあったのだ。


すべての技術開発や、乗り物の製造が、そんな夢の結晶であれば良いのだが、悲しいことに、そうではないケースもある。

大型航空機が事故により墜落したり、テロリストの凶器と化してビルに激突したり、客船タイタニック、飛行船ヒンデンブルクの事故などの悲劇も多い。

だが、それらは少なくとも製造段階においては 「 夢 」 を背負っていたわけで、最初から搭乗員に死を招く目的でつくられたものではない。

軍事兵器である戦闘機や艦艇の大部分も、敵に対する攻撃、殺傷能力を携えてはいるが、搭乗員の死を前提に生産されたものではなかった。

かの 「 神風特攻機 」 も、組織的な戦闘が不可能になっていた航空戦力を活用する主旨で行われ、当初から想定して生産されたわけではない。


そういう意味で、史上もっとも悲しい乗り物は、旧日本海軍の特殊潜航艇 「 回天 」 ではないだろうかと思う。

別名 「 人間魚雷 」 とも呼ばれた回天は、頭部に約1600kgの爆薬を装備し、通常は潜水艦に搭載された状態で移動する。

そして敵艦を発見するや、接近して母艦を離脱し、搭乗員の操縦によって敵艦に体当たりするという有人魚雷として、はじめから生産されたのだ。

神風特攻隊には、ごく少数だが 「 生き残り 」 の人がいて、出撃したものの整備不良によって不時着したり、海中に転落して助かった人もいる。

出撃した回天搭乗員89名の中に、生存者は一人もいない。


シドニー湾北部で、第二次大戦中に同湾を攻撃し、同国艦艇を沈めた後、母艦に帰還せず行方不明となっていた特殊潜航艇が発見された。

発見したダイバーによると、いまも驚くほど原形をとどめているというので、おそらく回天ではないと思われる。

当時、小型特殊潜航艇は9種類つくられており、すべて人間魚雷というわけではなかったので、別の型によるものだろう。

戦争に、良い戦争も悪い戦争もないが、旧日本軍の最大の愚行は、玉砕という消耗戦に明け暮れた点に尽きるわけで、愚かで悲しい事実である。

日本がこの先、戦争に巻き込まれるかどうかは別としても、この報に接し、このような愚かな兵器だけは、二度と生み出さないように願うばかりだ。






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2006年11月27日(月) 職場の歩調



「 私はできる限りのことをしている。

  ただ、時には自分の思うようにはならない。

  物事とは、そういうものなんだ 」

                       タイガー・ウッズ ( プロ・ゴルファー )

I'm trying as hard as I can, and sometimes things don't go your way,
and that's the way things go.

                                   Tiger Woods



この “ as ~ as … ( does ) ” で、「 … と同じくらい ~ 」 の形になる。

私ができるくらい一生懸命に、つまり 「 できるだけ一生懸命に 」 になる。


寒くなってくると、近所のスーパーで適当に材料を仕入れてきて、日本酒の熱燗と 「 おでん 」 なんてのも、意外と簡単で楽しめる。

切ったり焼いたりする調理の手間が省けるし、最近では粉末の専用調味料なんかも売られてるので、男やもめにも便利な一品といえよう。

何事でも哲学的に観察する人がいて、彼らに言わせると 「 おでん 」 とは、人生そのものであり、社会の縮図なんだそうである。

様々な人が同じ湯船に浸かる 「 公衆浴場 」 に例え、若くて歯が立たないのもいれば、煮えすぎてぐでんぐでんのも居ると、評したエッセイもある。

そういえば、自分の持ち味ばかり出してしまうものや、他人の味を吸うばかりのものもいて、そのあたりは人間社会とよく似ているかもしれない。


戦後の教育や憲法は、すべての国民の人権を保障し、自由の名のもとに、それぞれの多様性を認めてきたが、ここにきて問題が出てきた。

自由を奨励し、多様性を促進したのはよいが、「 投げっぱなし 」 で、それをコントロールする責任や、機能が疎かになってしまったのである。

矛盾する話だが、自由というからには、誰かが恣意的にコントロールしようなどと思ってはいけないわけで、こうなることは必定だったのかもしれない。

煮え立つ 「 おでん 」 の鍋で、そろそろ食べてくださいよと語る具もあれば、まだ待ってくださいという具、煮崩れてバラバラになりそうな具もある。

完成まで時間の掛かる具に合わせると、別の具の食べ頃を逃しそうだし、早すぎると持ち味の出ない具もあり、同じタイミングで食べるのが難しい。


強火でガンガン煮込んで味の出るものもあれば、そんなことをしたら風味が死んでしまう具もあり、その加減も難しいものである。

人間社会でも、上司から徹底的に鍛えられ、その才能を開花させる人材もあれば、ちょっと叱っただけで、首を吊ろうとする者もいる。

競争に勝てる組織として強い集団を形成しようとすれば一部が脱落するし、繊細で軟弱なタイプのご機嫌を取りながらでは、ロクな集団ができない。

企業には 「 強い戦闘集団 」 をつくる使命があり、脱落者を救済する義務などないのだが、脱落した従業員の一部は、あくまで利己的な主張をする。

最近では、本人のために良かれと思った上司の 「 愛の鞭 」 が、曲解した脱落者からの 「 パワーハラスメント 」 だという訴えに変わる例も多い。


何組かに分かれて山登り競争をした場合に、各チームの 「 一番遅い者 」 に合わせたペースで登ると、他のチームに負ける確率が高い。

誰にでもわかる理屈だと思うが、脱落者を放置して先へ進むと、遅れた者から不満が出たり、チームワーク が足りないという批判が出やすい。

ここでいう チームワーク とは、競争に勝つための協力であって、脱落者を救済することではないということを、理解できない者が多いのである。

現在、日本の企業では、こういった 「 誰に合わせて歩調をとるか 」 という、ごく単純な問題に頭を悩ませている経営者、管理職が多い。

それは、己の身体能力、実務能力、職業適性などを省みず、自分を脱落させたチームの非情さばかりを追及する人間が、急速に増えたせいである。


私は大学まで陸上競技に携わっていたが、目標の高さと実績の相互関係について、いくつかの経験から、セオリーを学んできた。

100人で10kmを走る際に、10人は40分以内、30人は50分以内、40人は60分以内、残り20人が70分以内に走ったとしよう。

ここで、「 50分以内に完走しなければ失格 」 というルールを設けた場合、単純計算だと完走者は40人ということになるが、実際はもっと多い。

理由は、それ以上に時間の掛かっている人間が努力をするからであって、おそらく、50分代前半の選手の多くは、新たな目標をクリアーするだろう。

逆に、「 70分以内に完走すればよい 」 というルールでは、前述のルールで50分を切っている選手の多くが、タイムを落とす確率が高い。


このように、人間というのは 「 頑張れば手が届く程度の目標 」 を持っているときが、一番、能力を発揮しやすく、疲労度も少ない。

目標が高すぎると、最初から諦めてしまいやすく、低すぎると、本来の実力や潜在能力が発揮されないもので、どちらにも問題がある。

前述の 「 パワーハラスメント 」 や、職場の 「 うつ 」 対策などは、忍耐力、持久力などで個人差があるために判断し難いが、判断の基準値はある。

その一つが、「 何割の者が脱落しなかったか 」 であり、大半は普通に働いていけるのであれば、脱落した本人が転職することこそ望ましい。

多様性を認めるのはよいけれど、本人の努力 ( 本人なりの努力 ) だけでは、どうしようもないケースもあるわけで、そこは自己認知が必要である。






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2006年11月26日(日) 生きたい勇者と、死にたいクズ



「 世の中は辛いことで一杯ですが、それに打ち勝つことでも

  満ちあふれているのです 」

            ヘレン・ケラー ( アメリカの教育家、社会福祉事業家 )

Although the world is full of suffering, it is full also of the overcoming of it.

                                   Helen Keller



アラバマ生まれの ヘレン・ケラー は、生後19ヶ月の時に熱病にかかった。

一命は取り止めたが、視力、聴力を失い、話すことさえ出来なくなった。


両親はマサチューセッツ州にあるパーキンス盲学校の校長に手紙を出し、家庭教師の派遣を要請、そこで派遣されたのが アン・サリヴァン である。

彼女は、同学校を優秀な成績で卒業したばかりの弱冠20歳だったのだが、その後50年にも亘って、よき教師、よき友人として、ヘレンを支えた。

この実話は 『 奇跡の人 』 というタイトルで映画化されて、日本でも何度も舞台化されているから、ご覧になり、感銘を受けた方も少なくないだろう。

アン との出会いがなければ、ヘレン の人生は全く違ったものに、具体的に言うと 「 生きる価値を感じられないもの 」 になっていたかもしれない。

何も見えず、何も聞こえず、誰に対して何も伝えられない人生を、それでも価値あるものにしようと、二人は懸命に努力し続けたのである。


ヘレン・ケラー は、自らが障害を背負いながらも、その人生で多くの時間を投じて世界各地を歴訪し、身体障害者の教育と福祉に尽くした。

この説明に 「 自ら障害を背負いながらも 」 と注釈をつけるのは間違いで、自ら障害を背負っていたからこそ、一生を活動に捧げたのかもしれない。

彼女以外にも、時代や、洋の東西を問わず、病気や障害などの苦難を負いながら、精力的に社会福祉、芸術、教育などの分野で活躍した人は多い。

日本人の大半は、五体満足で、ことさら経済的に困窮した経験もなく、ごく当たり前のように親に養育され、学校に行って、適当に社会人になる。

しかし、視力や聴力を奪われたり、死に至る病に瀕したわけでもないのに、ちょっと仕事が辛いとか、自信を失った程度で 「 生きる意欲 」 を失う。


皮肉な話だが、大病や障害などの苦難を負った人は、「 死にたくない 」 と生を渇望し、そうでない人間が簡単に 「 死にたい 」 と弱音を吐く。

死にたくない人間の気持ちも、死にたい人間の気持ちも、その当事者でないと理解できないのかもしれないが、この矛盾には首を傾げたくなる。

私のように、不健康な毎日を過ごしながらも 「 健康診断でどこも悪くない 」 人間に何がわかるのかと、あるいは反論する方もいるだろう。

しかし、たとえば自分の場合、自分は元気だけれど、母を早くに亡くし、父も亡くし、一部の友人、親しい人、愛すべき多くの人との悲しい別れがある。

結婚する予定だった女性も、大病を患って 「 死にたくない 」 と嗚咽し、神戸の震災では、幼児を抱えた親戚が未来の夢を抱えたまま瞬時に圧死した。


いじめ問題では、自殺者が判断力の乏しい子供なので酌量の余地もあるが、自分の命を粗末にする自殺者ほど、性質の悪い人間はいない。

私が自殺者を蔑み、憎むのは、「 死にたくない 」、「 生きていたい 」 と私の前で涙を流した、過去の多くの尊い命を想ってのことである。

自殺を図る大馬鹿者たちは、生命に執着し、懸命に生きようとする勇気を、まるで語る資格などないし、何度でも言うが 「 人間のクズ 」 である。

その クズ が、私と同じように 「 時事日記 」 なんてものを書き続けているが、当然、論点が矛盾だらけで、常連の読者からも批判されている。

こちらから攻撃しないでも、毎回 「 自滅 」 してるし、どうでもいいんだけど、また、守りたい命が現れたので、ちょっとムカついた次第である。






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2006年11月25日(土) 私的近況



「 異常な状態で結ばれた男女は、長続きしない 」

                               映画 『 スピード 』 より

Relationships that start under intense circumstances, they never last.

                                 From “ Speed ”



ヒットした作品で印象的に使われた台詞だから、ご記憶の方も多いと思う。

サンドラ・ブロック も キアヌ・リーブス も、この頃が一番良かった。


ある意味、平凡を貫くことは、とても難しい。

非凡を知ってしまった人間にとって、今までの生活を チャラ にして、平凡を演じるのではなく、実際に貫けといわれたら、なんとも戸惑うだろう。

こと恋愛に関していうと、燃えるような 「 運命の出会い 」 なんてものよりも、気の合う友達から発展した、平凡で無難な恋が長続きしやすい。

ある程度、恋愛経験の豊富な男女はそれを熟知していて、だから、冒頭の台詞に共感した観客も多かったのではないかと思う。

それでも女性は 「 運命の出会い 」 に憧れ続け、白馬に乗った王子様が、ひょっこり道を間違えて、自分のところに来ないかと待っているものらしい。


王子という柄ではないけれど、それでも 「 運命の出会い 」 を感じる瞬間があって、たまに、お相手も同じような印象を持ってくれる。

愛馬が高齢化し、そろそろ買い換えなきゃなと思っていた矢先、毒りんごをつまみ食いして泡を吹いている貪欲な姫に、道端で出会ったようなものか。

それほど傍目には美しいものでなくとも、当事者同士にとっては、お互いに輝いて見え、なにより、自分の気持ちを理解してくれることが嬉しい。

ただ、恋が始まる期待と裏腹に、非凡な出会いや、けして少なくはない過去の失敗を鑑みて、もう若くはない王子と姫は、お互いに躊躇する。

近況は、そんなところである ( どんなところだ? )。






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2006年11月23日(木) 高飛車ジョークも優しさのうち



「 男性 : 僕のすべてを君に捧げたい。

  女性 : 悪いけど、安っぽい贈り物はお断りよ 」

                                   英語のジョーク

Man  : I want to give myself to you.
Woman : Sorry, I don't accept cheap gifts.

                                   English joke



欧米人とジョークを交わすのは、さほど難しいことでもない。

上記の例文をみても、高校生レベルの英語で十分だということがわかる。


むしろ問題は、英語力よりも、「 会話のセンス 」 とか、相手を楽しませようとか、リラックスさせようとする気配りや、心遣いにある。

だから、普段の会話で 「 そういった配慮 」 のできない人が、いくら英語を覚えたところで、小気味良いジョークを発することは難しい。

また、正しい日本語に拘りすぎて、ジョークを不謹慎なもの、不道徳なものと決め付けてしまう人も、欧米人と打ち解けるときに抵抗があるだろう。

欧米人は、ジョークがコミュニケーションの潤滑油やら、香辛料であることをよく知っていて、女王も、大統領も、日常的にジョークを使う。

それが、単なる悪ふざけではなく、周囲への配慮であることを、皆が知っているので、発する側も、受け取る側も、日々のジョークを楽しんでいる。


お互い時間に追われ、忙しくしている男女にとって、パソコンや携帯電話のメール機能は、ある意味、便利なコミュニケーション・ツールだといえる。

会って話したり、電話するのと違って、お互いの時間をすり合わせなくても、どちらかが暇なときに発信し、暇なときに受信すればよいのだ。

ただ、そんな習慣が長く続くと、いざ電話しようとしたときに、今ごろ相手は何をしているだろうかなどと、相手の都合や迷惑が気になってしまう。

それで、メールは毎日しているのに、一本の電話が掛けられないといった、「 コミュニケーションが良いのか悪いのか、よくわからない状況 」 に陥る。

若い頃なら、分別よりも情熱が先に立って、そこまで悩まなかったろうと思うのだが、歳をとるほど、そのあたりは不器用になっているのかもしれない。


最近、自分にも 「 そういうこと 」 があって、もっと早い時点で電話をすればよかったのだけれど、思いがけず、メールのやりとりが長く続いてしまった。

そうなってしまうと、なかなか急用でもないかぎり、いざ電話しようと思っても掛け難いもので、きっかけを探すのにも一苦労するのである。

ちょっと女々しくて情けない話だが、メールで 「 声が聞きたくなった 」 と書いた途端、すぐに彼女から電話をもらった。

和服や日本文化に造詣の深い、古風な印象の強い彼女による第一声は、「 声が聞きたいと言うから、かけてあげました 」 と、明るい笑い声だった。

気まずさを吹き飛ばすように、あえて、高飛車なジョークで語りかけてくれた彼女に グッ ときて、思わず 「 惚れてしまった 」 かもしれない。






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2006年11月22日(水) 沖縄への差別意識 ②



「 アメリカの黒人有権者が、ゆるぎない一枚岩による団結を

  誇っているというのは、現代政治の最も頑固な神話である 」

                         ニューヨークタイムズの記事より

That African-American voters are indivisibly monolithic is
the most stubborn myth of modern politics.

                            The New York Times



最近の若者は、黒人に対する蔑視が少なく、むしろ憧れが強い。

それは、「 rapper = ラップミュージシャン 」 による功績が大きいだろう。


ただ、ヒップホップ文化に憧れる一部の若者たちが抱く黒人像は、皆、ノリがよくてスタイル抜群であり、音痴な黒人や、デブの黒人は存在しない。

彼らの中で 「 黒人は一つ 」 なのであって、国籍にも職業にも分類されず、分類されるとしたら、黒人というカテゴリーによってだけである。

そういった様子を周囲の大人たちは笑うのだけれど、ところが大人たちも、似たりよったりの固まったイメージを、黒人に抱いていることが多い。

黒人は集団で仲間を守り、白人からの迫害に抵抗し、自分たちだけの殻に閉じこもっているような、そんなイメージを持つ人が、知識人の中にもいる。

アメリカに行った経験の無い人や、教科書でしか黒人を知らない人の多くにとって、黒人の印象は 「 公民権時代で時間が止まっている 」 のである。


アメリカで一年間に黒人が黒人を殺害する数は、ベトナム戦争で戦死した黒人の数よりも、はるかに多いというのが現実である。

高級住宅街に住む黒人の富裕層、エグゼクティブは、スラムの黒人たちとではなく、肌の色が違う隣人をディナーに誘い、ワインを愉しむ。

宗教も、支持政党も、ライフスタイルのすべてが、ただ黒人としてではなく、それぞれの個性によって選択され、それぞれの暮らしがある。

それが当たり前の時代になったから、自分も周囲も、違和感なく受け入れ、妙な偏見を持った人間だけが、前世紀の遺物として取り残される。

黒人だから損をする場面が減った代わりに、黒人だからという理由だけで憐れみを買ったり、能力が劣っても許される機会は消滅した。


それでもなお、白人と仲良くする黒人に対し、嫉妬と侮蔑の混じった敵意を露にして、罵声を浴びせ 「 裏切り者 」 扱いする一団がいる。

その多くは、自由を手にしたものの、それを活かせず潮流に乗れなかった黒人と、そういった人々を 「 悪用する 」 白人によって構成されている。

社会から 「 落ちこぼれ 」 の烙印を押された狡猾な白人の多くが、不幸な境遇にいる黒人を引き合いに出し、社会の矛盾を叫んでいるのだ。

だから彼らにとって、黒人は 「 迫害を受ける憐れな弱者 」 でなければならず、高級住宅街に住み、大統領と握手してもらっては困るのである。

まことに古臭い 「 黒人は一枚岩となって、白人社会をぶっ潰そう 」 なんて スローガン を横目にして、良識ある黒人青年が苦笑する光景も珍しくない。


沖縄知事選に与党公認候補が当選し、沖縄県民は馬鹿だとか、沖縄戦の痛みを忘れたのかなどと侮蔑する連中をみて、前述の話を思い出した。

アメリカでも、日本でも、どこの国でも、一時期において虐げられた人々がいて、彼らが自由を得た後になってから、それを悪用する輩が現れる。

現状に満足できず、その原因が 「 自らの努力不足 」 と気づいている人間にとって、社会に求めるものは 「 改善 」 ではなく 「 破壊 」 である。

だから、彼らの表現は過激で、憎悪と嫉みに満ちていて、与党勢力のみならず、それを支持したり、協力する人間にまで、凶暴な攻撃性を示す。

個人のブログに 「 沖縄県民は馬鹿 」 と書いた人もいるようだが、ご自分の品位を貶めて、自我を暴落させている事実に目を向けるべきだろう。






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2006年11月21日(火) 沖縄への差別意識



「 この世の中は、他の人間の自由を保護することによってのみ、

  自分の自由を守ることができる 」

                    クラレンス・ダロウ ( アメリカの弁護士 )

You can only protect your liberties in this world by
protecting the other man's freedom.

                               Clarence Darrow



冒頭の名言は、以前にも引用した気がするが、また引っ張り出してきた。

最近の日本人にとって、「 肝に銘じるべき 」 言葉という気がする。


恋は盲目というけれど、惚れた女性が少し自分勝手だったり、わがままを言ったり、ヤキモチ を焼いたりしても、可愛く感じるものである。

しかしながら、女々しい男性が自分本位な理屈を並べたり、自分の無能を棚に上げて嫉妬深かったりすると、これはもう手に負えないほど醜い。

一昔前の日本人は、着飾ったりせず質素な生活を営んでいたが、少なくとも、そういった卑しい心の醜さを理解し、「 恥を知る 」 ことには長けていた。

他人の言動は痛烈に批判する一方、自分には甘く、己の権利ばかりを主張するなんて輩は、そりゃ少しは居たかもしれないが、発言権などなかった。

いまは、そういう 「 恥知らず 」 が パソコン を駆使して、勝手きままに有害電波を撒き散らすのだから、社会がよくなるはずもない。


沖縄知事選が終わって、自民党公認候補の就任が決まった。

毎回、選挙で与党が勝つと必ず、候補者ではなく、有権者を誹謗中傷する連中が現れ、それに刺激されたのか、ネット上でも同様の発言が飛び交う。

大抵、そういう連中は、与党、総理に対して 「 独裁者 」 という表現を好み、普段は 「 民主主義 」 やら、「 自由 」、「 権利 」 やらを声高に叫ぶ。

ところが、有権者が 「 民主的な投票 」 によって与党を選んだ途端に、その結果を悪しきものとして断定し、有権者をバカ扱いするのである。

自分の思い通りにならなかったからといって、有権者の大多数による意思を否定する姿勢の、どこに 「 民主主義 」 を唱える資格があるのだろうか。


多数の意見が必ずしも正しいとは言い切れないが、民主政治のよいところは、仮に間違った政策をとったとしても、独裁制に走る危険がないことだ。

つまり、政府が無能だったり、首相が狂人だったとしても、そのような政府や代議士は次の選挙で敗北するのだから、長く続くことはない。

政治に対して、まったく関心がないわけではないけれど、それを四六時中、監視していなくても、自分の生活に没頭できるのは、その恩恵である。

だから、「 どうでもいい 」 とまでは言わないけど、私は自分の仕事をして、生活を充実させ、そのうえ暇が余れば、このような時事日記を書いている。

逆に言うと、個人の幸せは 「 国任せではなく、自分で築くべき 」 システムにあるわけで、それが上手くいかなくても、政府に八つ当たりなどしない。


また、今回のように 「 沖縄 」 が舞台となる選挙では、その結果を批判する側に 「 差別意識 」 が潜んでいる可能性も高い。

左巻きの人間や、エセ平和主義者は、この結果に対して 「 戦争で痛い目に遭っても学習しない馬鹿者 」 というレッテルを、沖縄県民に押し付ける。

これは選挙戦だけでなく、たとえば米軍基地問題などで、沖縄県が政府に協力しようとすると必ず起きる批判であり、それは沖縄だけの特徴だ。

沖縄は東京や大阪と同じように、日本の都道府県の一つであり、特別扱いする必要はないと 「 普通の人間 」 は思うはずだが、連中は違うらしい。

彼らにとって沖縄は、個人の意思など持たず、反政府、反米を唱えていればよいのだと決め付けているわけで、それは差別以外の何者でもない。


いまさら 「 沖縄 = ひめゆりの塔 」 でもなく、そこには普通のビジネスマンや、学生や、商店主など、本土と変わらない日常の生活がある。

多少の地域性はあるだろうけれど、戦争体験だけで政策を判断する人など少ないわけで、過去ばかりにとらわれず、ちゃんと将来を見据えている。

なのに、「 戦争体験を忘れたのですか、与党を支持しちゃだめだよ 」 などと強要するのは、靖国反対を国民に教育する 「 某国政府 」 と同じだ。

冒頭の言葉通り、自由と平等を説き、民主主義を求める意思があるなら、好ましい結果でなくても、民主的な決定は喜んで受け入れるべきだろう。

そんな気など微塵もない連中が、日頃 「 時事問題 」 など語っているから、こういった ボロ が出て、すべての矛盾が浮き彫りになるのである。






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2006年11月20日(月) 評論家の多い社会



「 こんな世の中になって欲しいとあなたが願う世の中に、

  あなた自身が変わっていかなくてはならないのです 」

                      マハトマ・ガンジー ( インド独立の父 )

You must be the change you wish to see in the world.

                               Mohandas Gandhi



このところ、仕事も私生活も忙しく、日記を休みがちだった。

皮肉な話だが、健康で充実した日々が続くと、更新が疎かになる。


自分がなる前、「 コンサルタント 」 と名のつく人種は、大上段から机上論を振りかざし、評論家ぶって他人の行動を批評するものと、解釈していた。

実際、分析とプレゼンテーションだけが上手くて、他人には偉そうに指図をするくせに、自分では何も出来ないコンサルタントが、巷には多いと聞く。

また、それを迎える企業側も、コンサルタントの導入を単なる動機付けや、従業員の自己啓発程度にしか期待していないケースが実際に多い。

だから、戦略通りに従業員が動かなくても、導入の成果が挙がらなくても、コンサルタントはイライラせず暖かく見守り、口を閉ざすべきかもしれない。

外部の人間として分をわきまえ、黙って報酬を受け取るのも悪くない。


そういう意味では、関係各位の薦めによって自分がこの仕事を引き受けたことや、いまだに続けていることは、間違いなのかもしれない。

現役に未練が残る野球の監督やコーチと同じように、自分はクライアントの営業と一緒に現場を回り、前へ出て交渉や、問題解決に当たってしまう。

時間と経費が掛かるし、自分の立てた戦略によって、クライアントと一緒になって苦労するので威厳はないし、あまり得策ではないと自分でも思う。

それでも、口先だけの評論家として報酬を受け取りたくない気持ちと、戦略自体が間違ってはいないと認めさせたい気持ちが、自分を衝き動かす。

あるいは、そんな 「 自己満足 」 を捨てれば、もっと楽に儲けられるのかもしれないが、幸い、養うべき相手もいないので、何とかやっていけている。


また、仕事は生活のため ( 報酬のため ) の手段であるが、仕事を通じて得られるものは、お金や、地位や、名誉だけでもない。

最前線へ出て、若い人たちと一緒に仕事をすることによってしか、得られない情報や、知識や、築けない人間関係というものもある。

それは、現場で汗を流さない評論家には得られない、かけがえのない宝物なのである。

生涯現役とはいかないまでも、同じ一生を生きるのなら、なるべく評論家にはならず、できるかぎり 「 現場主義 」 を貫きたいと自分は思っている。

WEB日記で 「 時事問題 」 を書いていて、時々、嫌気がさしてしまうのは、評論家みたいなことを書いている自分や、周囲の姿に辟易するところだ。


せめて、その中で自分が気をつけていることは、なるべく 「 自分の言葉 」 で書くということと、「 主張を一貫する 」 という二点である。

大部分が既存記事の引用 ( というか、コピー ) で、僅かに自分のコメントを載せている日記などは、「 自分の言葉 」 が少ないので評論家っぽい。

また、主張が一貫せず、自分に不都合なら変えてしまうようでは、矛盾点が浮き彫りになるばかりか、作者の人間性も疑われてしまう。

憲法は、「 議論の余地などなく、変えるべきでないのだ 」 と語り、少年法は 「 時代と共に変えるべき 」 などと書かれた日記もあるが、矛盾だらけだ。

そんな矛盾と対峙する羽目に陥るのも、彼らが現実の世界から逃避して、気楽な評論家を目指したいという願望のなせる業だろう。


民衆の声を軽視するわけではないが、WEB日記で世の中がどうこうと叫んだところで、国家も、地域社会も、自分の生活環境すらも変わらない。

現状に不満があるのなら、日記など書いている暇に、明日の仕事の準備をするなり、社会奉仕活動をするなりしたほうが、よっぽどいいのである。

つまり私を含め、WEB日記で時事問題を書く人間は、単なる暇つぶしか、ストレス解消のために書いているわけで、世の中をよくする気などない。

もちろん、世の中がよくなって欲しいとは思うが、そのための努力は、日記を書くことではなく、日々の生活によって私は営んでいるつもりだ。

とまぁ、長くなったが、日記をサボり、これから忙しい年末にかけて、さらにサボる予定の我が日記について、先に言い訳しておく次第である。






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2006年11月16日(木) 石原発言に学ぶべき事柄



「 柔らかい物腰で話し、大きな棍棒を持ち歩け 」

          セオドア・ルーズベルト ( アメリカ合衆国第26代大統領 )

Speak softly and carry a big stick.

                             Theodore Roosevelt



紳士面と軍事力を背景として、アメリカの外交姿勢は一貫している。

ならず者も困るが、腰抜けも人の役に立たないのである。


いじめ問題に関する石原都知事の発言に、「 ファイティングスピリットがなければ、一生どこへ行ってもいじめられる 」 という表現があった。

それを聞いた高校生から都知事宛に、「 一生どこへ行ってもいじめられるのは辛いので死にます 」 という自殺予告文が届いたという。

もし愉快犯でなく、当人の意思による手紙だとしたら、既にこの時点で、この高校生がなぜ 「 いじめられるのか 」 まで、十分に察しがつく。

また、仮にいじめが無かったとしても、このように歪んだ精神構造と、ひ弱で被害妄想的な発想を持っている人間が、発展的に生存することは難しい。

電車を遅延させたり、登山者をギョッとさせたりせず、できるだけ他人様に迷惑を掛けない形で、死にたければ黙って死ねばいい。


マトモな人間というのは、「 ファイティングスピリッツがなければいじめられるよ 」 と聞いて、「 ファイティングスピリッツを持とう 」 と思うものだ。

発言した石原都知事の気持ちについて、「 若者にファイティングスピリッツを持ってもらいたい 」 のだなと思うのが、正常な人間の感覚である。

太ったときに周囲から 「 最近、太ったんじゃない 」 と言われ、腹が立った、傷ついたと影で文句を言う人間もいるが、これも同様に異常者の発想だ。

発言者は、傷つけようとしているのではなく、急激な変化に対して、その人の健康状態を心配し、注意を促していると考えるのがマトモな人間である。

これら被害妄想者の深層真理には、「 自分の努力不足によって上手くいかない現実を、第三者のせいにしようとする 」 邪な気持ちが潜んでいる。


先日、郵便局強盗で指名手配を受けた警察官は、「 死にます 」 という自殺予告電話を入れていたが、結局、死ねずに逮捕されている。

どこの町内にもいる 「 死にます 」 と頻繁に告げる ( 大半は死なないが ) 連中も、被害妄想と同じく、責任を他人に押し付けたいだけである。

この警察官が指名手配を受けたのは、どう考えても、本人が郵便局強盗をはたらいたからであり、それ以外の理由など考えられない。

しかし、本人は 「 指名手配なんてするから、生きていけなくなったじゃないか 」 という逆恨みを持ち、その決定を下した人間に八つ当たりする。

そして、「 死にます 」 という予告電話を入れることにより、自分を窮地まで追い込んだ人間を不安にさせたり、後悔させようという復讐を試みるのだ。


いろんな人から、「 友達が “ 死にたい ”“ 自殺する ” と頻繁に電話してくるので困っている 」 という相談を受けることがよくある。

ここで自殺願望者に対し、うかつに相談に乗ったり、中途半端に同情したりなんかすると、つい忙しくて対応できなかったとき、大抵は逆恨みされる。

親切にしてあげたがために、「 裏切られた 」 とか、「 信じてたのに 」 なんて罵声を浴びせられ、厄介な目に遭ったという話も多い。

前述の石原都知事も、いじめられる側の人間に同情を示し、励まし、生きるガイドラインを与えてやろうとした親切心が、結果的に仇になった形だ。

それをマスコミが批判し、同じような歪んだ連中が揶揄する為、親切で男気のある好漢も、徐々に口を閉ざし、無関心を装う風潮が社会に蔓延する。


これで石原都知事が頭を下げたり、マスコミに叩かれたりすると、被害妄想の塊である 「 ひがみ集団 」 は、しばし溜飲を下げるだろう。

しかしながら、そんなものは一瞬の快楽であり、長い人生を総合的に評価すると、男らしく生きた人間の百万分の一も、「 得 」 などないのである。

遠まわしに 「 自慢するわけではないが 」 などと書くと、かえっていやらしいので率直に言うが、体力、腕力、闘争心の強さで、私は 「 得 」 をしてきた。

たとえばビジネスの場面でも、実際に暴力をふるったり、誇示するわけではないが、やはり、ひ弱な印象を与える人よりは、交渉が有利に進む。

また、大半の女性は本能的に 「 強い遺伝子を求める 」 習性があるので、私生活でも 「 得 」 することは多く、弱い男は 「 損 」 なのである。


ネットの世界でも、じめじめした恨み言や、ちまちました愚痴ばかり日記に書く男性がいるけれど、そういう人間の息子は、やはり 「 損 」 だと思う。

石原家と同じく、我が家も 「 文武両道 」 を尊び、幼い頃から心身を鍛え、喧嘩の仕方も親兄弟に学び、いじめで悩む必要など微塵もなかった。

もちろん、そうはいかないケースもあるだろうが、弱い人間を庇護したところで限界はあるし、甘やかしたところで本人の 「 得 」 にはならない。

いじめる側が悪いのは当然だが、そういった卑怯な輩に制裁を与えたり、制止させられるのも、結局は強い男であって、ひ弱では何もできない。

いじめ問題を機に、同情ばかりではなく、男らしく、強く生きることの意義、心身を鍛える重要性についても、社会が認識すべきだと思う。






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2006年11月14日(火) 深く考えられずに普及してしまった日本語



「 人が正しく物を見ることができるのは、心によってだけである。

  本質的なものは目には見えない 」

     アントワーヌ・ド・サンテクジュペリ ( フランスの小説家、飛行士 )

It is only with the heart that one can see rightly,
what is essential is invisivle to the eye.

                        Antoine de Saint-Exupery



視力が良いだけでは、物事の本質を見極めることなどできない。

その真価は、目に映る物体の奥に、何を見出せるかによって決まる。


たとえば、企業の製造責任者などを集めて 「 工場見学ツアー 」 を企画してみると、上辺しか眺めていない人と、そうでない人の違いに気づきやすい。

まず、彼らは、嫌々ながら参加している人と、そこで何かを吸収しようとする人の二つに分類され、そこで前者の人たちは、ほぼ間違いなく脱落する。

残ったのは、それぞれ、意欲的で真面目なグループだが、悲しくも不公平なことに、ただ真面目なだけでは真理に辿り着けない。

次に 「 思慮深さ 」 というハードルがあり、知恵の回らない人や、深く物事を追求する能力に欠けた人たちは、浅薄な知識で満足してしまう。

また、要点を見通す 「 センス 」 に欠けた人も途中で脱落し、すべての関門を突破し、さらに、誰にも負けない 「 情熱 」 を携えた人が真理を手にする。


日常的な生活風景の中にあっても、「 よく考えてみると変だ 」 と思うことを、何気なく見落としていたり、ふと、気づいたりすることがよくある。

分別回収における 「 燃えるゴミ 」、「 燃えないゴミ 」 などもそうで、最初は気づかずにいたが、なんとなく、この言葉には違和感がある。

ゴミが勝手に燃えたり、燃えなかったりするのなら話は別だが、燃やすか、燃やさないかは、ゴミではなく、それを処理する人間が決めることだろう。

つまり、「 燃えるゴミ 」 という表現は 「 ゴミが主語 」 になっているところに、日本語として矛盾があるのではないだろうか。

人間を主語に置き、「 燃やすゴミ 」、「 燃やさないゴミ 」 としたほうが、言葉としてスッキリするし、「 何を燃やすか 」 という行政にも従いやすい。


自治体によっても異なるらしいが、たとえば、私の住む地域では、衣料品の中の下着は 「 燃えるゴミ 」、外着は 「 資源ゴミ 」 に指定されている。

ゴミとして、燃える、燃えないという基準ならば、仮に、下着が綿で、外着も綿の場合、どちらも同じ素材なのだから、それを分別する理由はない。

下着は再利用が難しいので焼却し、外着はリサイクルして使おうという発想は、「 燃える、燃えない 」 ではなく、「 燃やす、燃やさない 」 という判断だ。

そう考えると、ますます 「 燃えるゴミ 」 という言葉が奇異に聞こえてきて、手元の 「 分別回収ガイドブック 」 なるものに、疑問が生じてくる。

屁理屈かもしれないが、鉄だって、アルミだって、高温なら 「 燃えるゴミ 」 にもなるわけで、「 燃やすゴミ 」 かどうかを表現したほうが混乱はない。


先日、空席の多い電車に乗っていたのだが、若者たちが優先座席に一団となって座っており、その中の一人が、携帯電話でメールを打っていた。

そこへ、通りかかった車掌さんが 「 優先座席付近では、携帯電話の電源を切ってください 」 と呼びかけ、若者は照れくさそうに携帯をしまいこんだ。

さらに、車掌さんは、優先座席と逆の方向を指差し、「 優先座席以外では、通話はできませんが、メールなら出来ますよ 」 と、親切に付け加えた。

たしかに、ペースメーカーを装着した病人や、ご老人などがいた場合、携帯の電波が機器に影響を及ぼしたり、そういった不安を与える危険がある。

しかしながら、偶然の所為だろうが、車両内の優先座席付近は、どうみても10代とおぼしき若者ばかりが居て、普通座席には老人が多く座っていた。


マニュアル通りといえばそれまでだが、これでは、優先されるべき対象は 「 座席 」 であって、人間ではないような気がする。

まるで、「 こりゃ、若造めが、恐れ多くも “ 優先座席 さま ” の前で不埒にもメールなどしおって 」 と、叱られているようなものである。

私自身、以前から、この 「 優先座席 」 という発想が嫌いである。

優先座席など取っ払って、体の不自由な人や、妊婦さんなど、座席を必要とする人を 「 優先人間 」 とみなし、どこでも座れるようにしたほうがいい。

携帯電話については、通話はもちろん、車両内でメールを打つ習慣など、全面的に禁止したほうが、多くの人にとって快適なはずである。


制度化することに反対はしないが、問題をみつめる 「 心 」 が無かったり、目先の効果しか考えないところに、それぞれの 「 ほころび 」 がある。

手段と目的を勘違いしたり、本来の主旨が理解できていないから、「 人間 」 ではなく 「 物 」 を主語に置いたりして、本末転倒の間違いが生じる。

このような現象は、最近の日本社会を象徴しているように思う。

挑戦する前に諦める 「 ニート 」 や、努力する前に逃避する 「 自殺者 」 の増加も、「 何が大切で価値があり、何を守るべきか 」 を忘れた結果だ。

人間らしい社会に戻すためには、まず、主語を 「 物 」 から 「 人間 」 へと戻し、心で物事をみつめ、はかる作業から始めることが望ましいと思う。






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2006年11月13日(月) ノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行



「 銀行というのは、天気の良い日に傘を貸してくれるのに、

  雨が降り出すと返してくれというところ 」

                      ロバート・フロスト ( アメリカの詩人 )

A bank is a place where they lend you an umbrella in fair weather
and ask for it back again when it begins to rain.

                                  Robert Frost



企業には 「 イメージ戦略 」 が重要で、競争に打ち勝つ極意となっている。

しかしながら、イメージさえ高ければ良い企業かといえば、そうでもない。


日経金融機関ランキングによると、イメージ評価の1位は 三菱東京UFJ、2位は 三井住友、3位が みずほ という順になっている。

ところが、顧客の満足度については、三菱東京UFJ が11位、三井住友 が21位、みずほ が28位と、いずれも ベスト10 にさえ入っていない。

顧客満足度での1位は 新生銀行、2位は ソニー銀行、3位は 大垣共立、4位は 池田銀行 と、小さくても努力している銀行に人気が集まっている。

新生 は、自行のATMが24時間無料で使えて、資産運用の相談に親切、ソニー は、商品・サービスが魅力的で、預金金利が高いと評価された。

中小企業の経営者を対象に野村経研が行った調査でも、今後、期待する金融サービス提供者として大手銀行を挙げたのは、たった10%である。


大手銀行は、事務処理が遅く、あまり高利回りの定期預金を扱っていないことなどが、顧客満足度の評価を落とす要因になっている。

また、金融危機には公的資金の投入を要求し、好景気になるや、未曾有の利益を挙げながら、預金者に還元しない狡猾さに、憤る利用者も多い。

統合、拡大によって、肥大化した組織は、競争に打ち勝ち生き残るための利己的な保身に奔走し、まったく顧客の利益など考えていない。

彼らは、バブル期に 「 誤った舵取り 」 をし、多額の不良債権を発生させ、日本経済を危うくした諸悪の根源でもあるが、その反省もまったくない。

友人には少ないが、知人の大手行員は何人かいるけれど、知識はあっても知恵がない 「 使えない人材 」 が大半で、組織の無能さが窺い知れる。


そんなわけで、私は日本の銀行が嫌いだし、幸いなことに無借金で経営できているため、アホ な銀行員と付き合う機会もなく助かっている。

日本以外の銀行も 「 他人の褌で相撲を取る 」 連中は似たり寄ったりで、社会の寄生虫みたいなものだと思っていたら、意外な銀行に遭遇した。

それは、バングラディッシュの 「 グラミン銀行 」 で、ノーベル平和賞を受賞したことから一躍有名になり、ご存知の方も多いだろう。

バングラディッシュは、国民一人あたりのGDPが、日本の100分の一しかない貧しさと、男性で50%、女性で27%という低い識字率で有名な国だ。

世界一といわれる10億ドルの経済援助を受けながら、世界一汚職が多いため国民生活に反映されず、「 世界の善意の墓場 」 と呼ばれている。


この国に生まれ、アメリカに留学して博士号を取った ムハマド・ユヌス氏 は、経済学者として教鞭をとったが、自国の貧困事情を憂いていた。

ある日、ユヌス氏は竹細工の製作で生計を立てる女性と出会うが、材料費を高利貸しから借りていたので、彼女の儲けは一日2セントしかなかった。

高利貸しに頼らず仕事をするための6ドルをユヌス氏が貸し与えると、彼女の利益は一日あたり2セントから1ドル25セントに、すぐに跳ね上がった。

以来、ユヌス氏は、同様に苦しむ人々に自分のポケットマネーから小額を貸し与えたが、そのすべてがすぐに返済されたのである。

わずかな材料費を高利貸しに頼り、利益の出なかった彼女たちは、無担保のお金をもとに自力でビジネスが出来るようになり、人生が変わった。


これが制度化されれば、多くの貧しい人が幸せになれると考えたユヌス氏は銀行に相談したが、担保のない貧困層にお金を貸す銀行はなかった。

仕方なく、自らが保証人となる形で貧困層に融資すると、全額が期限内に戻ってきて、その後の同様の試みでも、一切、貸し倒れは発生しなかった。

その後、弱者のための銀行は自分で作るほうが早いという判断によって、無担保小額融資の 「 グラミン銀行 」 が、1983年に誕生したのである。

貸し倒れを防ぐ秘訣は、借り手を5人1組にして債務の連帯責任を負わせ、銀行の担当者が、返済や自立の手助けを行う独自のシステムにある。

1件あたり平均融資額は67ドルで、貧乏人だけが借金をする資格を有し、行員もかつての借り手が多く、借金返済のアドバイスにも長けている。


現在、このシステムは60カ国以上に広がり、借り手320万人、融資総額は42億ドルという規模に達しているが、返済率は98%と高い。

個人への投資という同じ業態でありながら、日本の消費者金融 ( 大手銀行が経営 ) は、不当な取り立てや、生命保険の強制加入など問題が多い。

グラミン銀行を利用した借り手の46%は、貧困層から脱却したといわれており、彼らは 「 利己的に儲けるだけの冷淡な銀行 」 ではない。

金利はおよそ20%で、けして低いわけでもなく、そのうえ回収率が98%と高いので、人助けでありながら、利益の見込める事業としても成立する。

そんなわけで、海外の知人を通じて、将来、この事業への投資に加われる可能性を目下調査中であり、大いに興味を持っている次第だ。






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2006年11月11日(土) 日本で不満のある人は、地球の96%で暮らせない



「 幸福の追求こそが、不幸の主たる源泉である 」

                    エリック・ホッファー ( アメリカの哲学者 )

The search for happiness is one of the chief sources of unhappiness.

                                    Eric Hoffer



秋の味覚に舌鼓を打ち、ほろ酔い加減で温泉に浸かる。

こんなとき、「 日本人で良かったー 」 などと思わず口にする人も多い。


日本人で良かったのか、フランス人のほうが良かったのか、検証することは難しいけれど、日本の豊かさや、生活の質については点数化されている。

国連開発計画 ( UNDP ) という組織が、毎年、国内総生産 ( GDP ) や平均寿命などから、世界177カ国・地域の豊かさを比較している。

この 「 人間開発報告書 」 という資料によれば、日本は 第7位 だそうで、昨年の11位から少しランクを上げたという。

もちろん、これは国民全体のアベレージであって、もっと豊かだと感じる人もいれば、全然お金がなくて困っているという人もいるだろう。

しかしながら、この指標によって、日本政府の経済政策が、さほど間違ったものではないこと、日本経済が少し上向いていることなどは証明される。


もちろん、一部の政策に誤りがあったり、本当はこうしたいのに反対勢力の圧力に負けて出来ないとか、政府には改善すべき点、至らない点もある。

しかし、世界全体の中で比較した場合に、我々の生活は 「 第7位 」 なのであって、これより上に 6 あるが、下には 170 の生活が存在するのだ。

国政への不満を愚痴ったり、不幸な境遇を憂いたり、天に唾して自殺する前に、自分たちは 「 かなり恵まれた立場 」 であると認識したほがよい。

日本より豊かだとされる国々は、ノルウェー、アイスランド、オーストラリア、アイルランド、スウェーデン、カナダの6カ国だけである。

個人のブログで、政府が悪い、安倍総理がけしからんなどと喚いている人もいるが、恵まれた日本で不満ばかりの人は、ほとんどの国で暮らせない。


けして、「 下をみて暮らせ 」 とは言わないが、世界には想像を絶するほど貧しい国々や、圧政に虐げられ、悲惨な暮らしに耐える人々がいる。

その数は、平均以上の暮らしをする日本人の数などと比較にならないほど多く、将来的に生活水準が改善される見込みも、ほとんど皆無に等しい。

彼らの視点からみれば、あきれるほど豊かな日本に住み、ことあるごとに愚痴や不満をこぼし、死にたいなどという発想は 「 どうかしている 」 のだ。

恵まれた環境しか知らない、箱入りのお嬢ちゃん、お坊ちゃんたちが大きくなり、会社で少し嫌な目に遭って自殺する心理など、理解不可能である。

豊かで 「 ひ弱 」 な日本人の不幸など、単なる贅沢病でしかないのだ。


日本人の自殺や、うつ病、心身症などの原因を紐解くと、彼らの 「 不幸 」 に関する認識には、大きな誤り、思い込み、勘違いがあることに気づく。

彼らの不幸とは、「 悲劇的な出来事や、事象そのもの 」 ではなく、それに 「 しがみついていること 」 こそが、やりきれない元凶になっている。

学校でいじめられようが、会社の仕事で行き詰まろうが、さっさと辞めちまえばいいわけで、いつまでも残留しているから不幸なのである。

もちろん、何度も転校したり、再就職することに リスク はあるけれど、一つしかない命を犠牲にするよりは、明らかに解決手段として正しい。

世界には、もっと 「 逃れようの無い不幸 」 があることを学んで、与えられた現状に 「 不満 」 だけではなく、「 感謝 」 を持つ心を大切にしてほしい。






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2006年11月09日(木) 義を見てせざるは勇なきなり



「 勝利は最も耐え抜いた者にふさわしいものである 」

                    ナポレオン ( フランス第一帝政の皇帝 )

Victory belongs to the most persevering.

                             Napoleon Bonaparte



勇敢な人間は、たとえ 99戦を全敗しても、勝利への希望を捨てない。

逆に、たとえ 「 99勝 1敗 」 でも、愚かな小心者は簡単に挫折する。


人生における真の忍耐力とは、敗北に耐える力や勇気などのことであり、単純に、ただ我慢強いというだけの意味ではない。

いつも前向き思考で希望をもって生きる人に対し、悲観論者たちは軽薄な楽観主義者だなどと蔑むが、己の忍耐力の無さを認めたのと同じである。

悲観論者、楽観論者の区別をとわず、一生のうち何度かは、誰にも不運な出来事が起こるし、競争に敗れたり、不振の続くときがあるだろう。

世を憂い、自殺を企図する人間は、特別に不運が多いわけではなく、将来への希望を描き壁を乗り越え、未来を開拓する勇気に乏しいだけだ。

たとえ自殺せずに長生きしたところで、そのような逃げ腰の人間が社会に役立つ可能性は低いかもしれないが、自殺などされたら周囲が迷惑する。


したがって、自殺は臆病者、卑怯者の 「 現実逃避 」 でしかなく、人間として最低の行為であるが、その論理を児童にまで適用することはできない。

現実的に児童は、ほとんどの場合、親や社会の庇護によって生き長らえている存在で、個人の裁量によって生き方を決めることなど不可能に近い。

また、勝利や成功による達成感も、失敗や敗北などの屈辱に耐えた経験も少なく、いまと違う未来を夢見ようにも、お手本となる世界を知らない。

育て方にもよるが、無垢で純真な子供心は、人間のエゴイズムや、社会の暗部、汚濁した闇に遭遇したとき、その適切な処し方にも慣れていない。

だから、愚かな大人の自殺と、幼くして自らの命を絶つ悲劇を、同列に考えることなどできないし、同じような対策を講じることも無益の極みである。


大人の世界にも 「 パワーハラスメント 」 などといって、職場の力関係やら、利害関係による嫌がらせ、いわゆる 「 いじめ 」 が存在する。

いじめによる児童の自殺が社会問題になっているが、一部の教員も、たとえば校長にいじめられたなどとして、自殺したというマスコミ報道がある。

現在の教育現場は、ただでさえ満足な授業のできない最近の教師たちが、生徒と自分自身をいじめから守るため、本業そこのけで会議に忙しい。

よほど性格の悪い嫌な上司がいたとしても、大人は自分や、自分の家族を守るため、そこで問題解決能力を発揮すべきだし、その機会はある。

職場を替わるのも一つの方法だし、個人の力量を発揮して地位を獲得する方法もあるし、自殺などという愚行に走る正当な理由は、どこにもない。


いじめによる自殺について、誰が悪いかという議論になった場合、自殺した人間が大人であるなら、いたって結論は簡単である。

生きることは、他に選択肢のない 「 義務 」 であって、正当な理由も無しに義務を放棄した 「 自殺した本人 」 が、どう考えても一番悪い。

しかし児童の場合は、前述の理由から、自殺した子を責めることが妥当とは思えず、それは、死に至らしめた 「 いじめっ子 」 についても同じである。

では、子供に罪はないのだから、すべて学校側が悪いのかというと、教師がいじめを先導していたという特殊な例を除けば、また違うように思う。

学校には児童を安全に保護する責任があるけれど、すべての児童に対し、交友関係を監視できないし、もし実行したなら、息苦しくてたまらない。


一番悪いのは、自殺した生徒の親を除く、他の級友の 「 親 」 である。

おそらく、自分の子が通う学校で、児童がいじめに遭い自殺したと知るや、大半の親は自分の子に、「 いじめなかっただろうな 」 と詰問するだろう。

その後、自分の子が関与していないと聞いて、ホッと胸を撫で下ろしたり、加害者とおぼしき子の親に対し、胸中で躾の不行き届きを非難する。

たしかに、躾の話になると、「 加害者の親 」 も悪いが、「 友達がいじめられているのに、何も行動を起こさなかった子供の親 」 に躾の罪はないのか。

無関心を装い、「 義 」 や 「 勇 」 といった日本男児の美学、崇高な精神を尊ばない姿勢こそが、か弱き命を救えなかったといって過言ではない。


どんな教育を施しても、どのように社会秩序を保とうとしても、全体の何割かは悪いことをする人間が現れるし、それを防ぐことはできない。

それは大人の世界でも、子供の世界でも同じことである。

誰かが悪意の犠牲になったとき、まずは、被害を受けた本人が立ち向かう勇気を示すべきだが、何かの事情で本人の手に負えない場合もあり得る。

そんなときでも、社会がいじめを 「 卑怯な行為 」 だと認識し、たとえ火の粉が及ぼうとも、各人に断じて許さない気質があれば、弱者は救済される。

戦争反対、非暴力も結構だけれど、親が 「 保身のエゴイズム 」 に染まり、「 モラルを貫く勇気 」 を示さない風潮が、子供にも伝染している気がする。






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2006年11月07日(火) 履修不足のどこが悪いのか



「 世界で最高の教育は、名人が仕事をしているところを見ることだ 」

                           マイケル・ジャクソン ( 歌手 )

The greatest education in the world is watching the masters at work.

                                Michael Jackson



いい大学を出ているのに、まったく社会人として役に立たない人がいる。

その多くが、頭でっかちの 「 机上論 」 を信奉するタイプである。


マイケル・ジャクソン の語る名人 ( master ) とは、スティービー・ワンダーや、クインシー・ジョーンズや、ライオネル・リッチーのこと。

彼らは皆、音楽の英才教育を受けたわけでもないが、それぞれに師と仰ぐ先達の演奏を見聞きし、己の才能と感性を結実させていったのである。

逆に言うと、世界的な権威を誇る ○○音楽大学 など出たところで、彼らの千分の一たりとも CD が売れるわけではない。

音楽だろうと、科学だろうと、経営学だろうと、知識を 「 知っている 」 だけでは何の役にも立たず、僅かな知識でも活用してこそ価値がある。

学校で教えてくれるのは、せいぜい、基礎的な知識にとどまり、それを使える知識や、何かに役立てる知恵に変えるのは、自分の努力による。


私は集中力の乏しい学生で、勉強しながらも、たとえば教室の窓から遠くに望む風景や、大人たちの生活や、行き交う車に気が散るタイプだった。

しかしながら、意外と社会人生活に入ってみると、目の前のノートに集中していた生徒より、そういうタイプのほうが順応しやすいことがわかった。

特に、マーケティングや営業といった部門で働く人間の場合、一見、目の前の課題と関係ないようにみえる事柄にも、気を配る必要がある。

専門領域にだけ詳しくて、流行、社会現象、時事問題などに疎いようでは、満足な仕事ができず、信頼される人間関係を構築することも難しい。

ときに集中力も必要だが、自分を取り巻く環境をみつめ、与えられた役割を理解し、使命を果たす努力がなければ、「 使えない人間 」 となる。


そういう観点からみて、画一的な知識を与える場としての学校教育制度は、中学校までの授業で十分だと、私は思っている。

実際、東大や、それ以上の海外の大学、大学院を出た友人も、中学を出て徒弟制度で職人の道を歩んだ友人もいるが、どちらが優秀とはいえない。

知識が豊富なことと、頭が良いことが同義語ではないし、専門知識に長けていて、それ以外のことに無知な者と、多方面に博学な者も比べ難い。

脳の活動が盛んな若い時期に、勉強して知識を吸収することは大切だが、短い人生の、ほんの僅かな期間に、森羅万象を覚えることは不可能だ。

だから、誰にも共通する 「 生きていくのに不可欠な知識 」 を中学校までに教わり、それ以降は、より各人に必要な知識を専修することが理想的だ。


日本の教育界は、日教組という 「 悪意の集団 」 によって堕落したと思っているが、最近、問題の 「 履修不足 」 については、情状の余地がある。

必須科目とは名ばかりで、本当に各人にとって必須かどうかは疑わしいし、教師も、父兄も、必須ではないと思うからこそ、履修しなかったはずだ。

履修不足の発覚を恐れて自殺したアホもいるけれど、生徒のためと思って偏った教育を施したのなら、もっと自信をもって反論すべきだろう。

高校や大学は義務教育ではないし、そこを出たらすぐ、プロ として社会の競争に挑まなければならないのだから、即戦性をつける必要がある。

個性や自由を主張するくせに、義務教育を終えた人間にも 「 選択肢 」 を与えないという学校教育制度は、どうにも矛盾だらけのように思う。


最近の教師の質を鑑みても、中学校を卒業した 「 大人 」 に対して、到底、それ以上の何かを与えられるレベルにあるとは考え難い。

足し算や引き算以外に、彼らが教えれる事柄といえば、国旗、国歌を愚弄することや、組合に属して仕事を怠けることぐらいのものである。

ならば、将来的に就きたい職種の名人に同道して学ばせるとか、偏差値の高い大学を目指すため自習させるほうが、よほど生徒のためになる。

履修不足が云々の問題よりも、欧米の大学と就進学時期を合わせるとか、日本の教育界には改善すべき課題が、他に山積みになっているはずだ。

実に 「 くだらないこと 」 で慌てているとしか思えないが、履修不足を補おうとして、さらに、生徒の学習計画や、受験準備の妨げをしないように願う。






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2006年11月06日(月) イラク戦争に反対した人に、いじめ問題など語れない長い理由



 平蔵 : 「 人間とは、妙ないきものよ 」

 久栄 : 「 はぁ・・・? 」

 平蔵 : 「 悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら

       悪事をはたらく。 こころをゆるし合うた友をだまして、

       そのこころを傷つけまいとする 」

                    「 鬼平犯科帳 」 池波 正太郎 ( 作家 )

Heizoh : People are strange.
Hisae : What?
Heizoh : They do good things while they're doing bad things.
They trick friends who trust them, and yet they try not to hurt them.

                               Shotaro Ikenami



時代劇の中でも、特に 『 鬼平犯科帳 』 が好きだという人は多い。

池波作品には、悪の中に善を、善の中に悪を嗅ぎとる 「 鼻 」 がある。


冒頭の台詞は、主人公の 長谷川平蔵 が妻の 久栄 に語り聞かせている場面だが、単純な勧善懲悪の物語は少なく、大半が複雑な背景を含む。

そこで、犯人や、登場人物の人物像にまで及ぶ作品に仕上げるためには、細かい心理描写が求められるのだが、池波作品はそれに優れている。

作品に登場する様々な個性は、現代にも通じるものがあり、己を善人だと思い込み、悦に浸っている人間ほど始末に負えないのも、その一例だ。

善人ぶっていても、実際は利己的で周囲への配慮や誠意に欠けていたり、逆に、少々、素行に問題のある人物が、本当は善意を持っていたりもする。

そのあたりも作品の大きな魅力になっていて、時代を超えて幅広い読者層に愛されてきた理由の一つだといえるだろう。


日本を代表する時代劇映画の名作といえば、黒澤明監督の 『 七人の侍 』 であるが、この映画が名作たる所以も、登場人物の性格描写にある。

未見の方のため、映画の 「 あらすじ 」 をご紹介するが、舞台は戦国時代、野武士の襲撃に苦しむ百姓たちが、自衛のため、侍を雇うことになった。

貧しい村なので報酬もなかったが、集まった七人の侍は、まったく名利などかえりみず、哀れな百姓たちの為に死闘を展開する…という物語である。

この作品には、侍の七人をはじめ、村の長老や、百姓など、計13人の主要人物が登場するのだが、それぞれに異なる性格が見事に描き分けられる。

シナリオの執筆中、黒澤監督は大学ノート一冊にびっしっりと、登場人物の生い立ちや、性格分析を描きこみ、そこから撮影に入ったのだという。


黒澤作品は一貫して 「 願望の映画 」 であり、この作品に登場する侍たちも、現実を超えた理想の、こうあってほしいと願う姿が描き出されている。

それぞれに個性的だが、侍たちは品行方正で、私利私欲などなく、彼らの関心は、戦いに専念し、いかに野武士を倒すかに腐心して飽きない。

報酬でなく、哀れな百姓の不幸を見過ごせないという、武士道の愛や憐憫の 「 仁 」 という徳目を貫き、身命を賭けて戦い、村を守り抜こうとする。

侍たちは百姓に雇われているのだが、その負い目はまったくなく、毅然として処しているのに対し、この映画の百姓たちは雇用者としての誇りがない。

百姓は、長老の儀作が語るように 「 ビクビクするしか能がねえ 」 だけで、自己の保身だけを考える狭量な 「 利己 」 の集団として描かれている。


侍の精神を支える 「 武士道 」 は、鎌倉時代に発達し、その後、江戸時代に儒学思想と結合して完成した、日本独特の精神世界を指す。

忠誠心に富み、勇敢で潔く、他人の不幸を見過ごせない優しさと同情心を持ち、信義と廉恥、いわば恥を知るのである。

近いものとして欧州には 「 騎士道精神 」 があるが、主君に対する忠義の面、フェアプレーの面などは共通しても、己を律する重要な部分で異なる。

世界広しといえども、このような哲学は他に例がなく、その崇高な精神は、欧米人からも尊敬され、いまや 「 サムライ、武士道 」 は世界の共通語だ。

この映画における百姓の 「 利己 」 的な生き様に対し、侍は武士道精神に基づいた 「 利他 」 を貫くところに、優しさ、勇ましさ、美しさが光っている。


最近の日本人男性の多くは、この 「 武士道精神 」 と対極にある。

忠誠心は 「 強制されたくない 」 という権利にとって代わり、国旗や、国歌を疎かにしても構わないという、頓珍漢な論理によって崩壊しつつある。

勇敢で潔いことを言えば、「 好戦的だ 」 などと揶揄され、腰抜けの憲法に固執する連中から、やいのやいのと非難を浴びせられる羽目になる。

他人の不幸を見過ごせず、イラクの国民の窮状を救おうと、アメリカと共に起てば、「 余計なことをするな 」 と、エセ平和主義者から文句を言われる。

そのくせ、自分が能力に劣っていたり、ストレスに負けて鬱になったりすると、開き直って 「 仕方が無い、何が悪い 」 と、なんら恥じることを知らない。


けして、侍が偉くて、百姓が劣るとは思わないが、すべての国民が利己的に、まったく自分の保身しか考えないようでは、その国の将来などない。

たとえ一部でも、自らを厳しく律し、多少、荒っぽい手を使ってでも、哀れな弱い立場の者を守ろうとする 「 侍 」 が、必要ではないだろうか。

最近、学校での 「 いじめ 」 が問題になっているけれど、そんなことは我々の子供時代 ( いまから40年ほど前 ) にも、たしかに存在していた。

当時、それが大きな問題にならなかったのは、弱い者をいじめる卑怯者は、侍気質の 「 ガキ大将 」 によって、すぐに粛清されたからでもある。

いまは、誰かがいじめられていても、教師も、親も、社会も、なにより友達が、見て見ぬふりをする 「 無関心が自殺に追い込んでいる 」 のである。


いじめの問題で、学校が悪いとか、親が悪いとか、いじめる奴が悪いとか、騒がれているが、この 「 利己的で他人に無関心な風潮 」 が一番悪い。

たとえば、イラク戦争でいうと、戦争が始まってから大騒ぎした人々は多いけれど、それ以前のフセインによる圧政には、大半が無関心だった。

いじめっ子のフセインに、アメリカというガキ大将が腕力にものを言わせて立ち向かった途端に、彼らは、やいのやいのと平和論をぶつけ始める。

それは、火の粉が自分にかかることを怖れる 「 利己的な保身 」 か、ガキ大将の活躍をやっかむ 「 ねたみ 」 か、考えることを知らない痴れ者だ。

東欧でヒットラーがユダヤ人を虐殺しているときも、同じように 「 いじめ 」 を阻止しようとする米軍を抑えつけた一団があり、いつの世も同じである。


戦争の痛ましさも、それに荷担する虚しさも、当然、誰もが理解しているが、いつの世も、フセインや金正日のような 「 いじめっ子 」 が存在する。

そこには、虐げられた哀れな弱者の影があり、それを救うのには武士道でいうところの 「 智・仁・勇 」 を兼ね備えた 「 侍 」 が不可欠になる。

最初の 「 智 」 は教養であり、「 仁 」 は愛、寛容、同情、憐憫などといったヒューマニズムの高貴な精神である。

そして 「 勇 」 は、剛毅、敢然、自若、勇気、克己などの徳目であり、これらはすべて、平常心と生への無執着、利他の精神が無ければ成立しない。

善人ヅラして、戦争反対だの、護憲だのと眠たいことを言ってる 「 利己的で、他人のことなど無関心 」 な連中に、いじめの問題を語る資格はない。






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2006年11月05日(日) 上海当世事情 ~ 18禁・上海ナイト編 ~



「 男 : 見覚えがあるのですが、どこかでお会いしませんでしたか?

  女 : たぶん。 私、性病科の受付係をしていますから 」

                                  英語のジョーク

Man : You look familiar. Haven't we met before ?
Woman : Yes, I'm the receptionist at the VD clinic.

                                  English joke



こんな羽目にならぬよう、紳士たるもの、品行方正に心がけるべしである。

もちろん私は、過去も現在も、そのような心当たりはない。


綺麗なお姉さんのいる クラブ 等へ飲みに行く機会は多いけれど、いわゆる 「 性欲処理産業 」 とおぼしき風俗店へは、一度も行ったことがない。

それは、けして真面目な堅物だからではなく、第一に 「 性病が怖いから 」 であって、若い頃から何度も誘われたが、必死で拒み続けてきた。

中学生時代、保健体育の授業で見聞きした性病の話が、ものすごく恐ろしげな印象があったので、どうにもその トラウマ から抜け出せないのである。

それ以外で感染する可能性もあり得るが、その授業で取り上げられた例題が性風俗の話だったので、「 性風俗 = 性病 」 の図式ができてしまった。

性風俗に行かない第二の理由は、まことに生意気な物言いになってしまうのだが、若い頃から 「 女性に不自由したことがない 」 ためである。


上海での宿の手配、食事の案内などを引き受けてくれたのは、数ヶ月前に来日されたとき、一緒に食事をした H さんという中国人男性である。

外国人が多く暮らす市内の一等地に自宅とオフィスを構え、小さいながらも堅調に業績を伸ばしておられる。

知人の紹介で会い、大阪の老舗料理店での食事と、その後、ラウンジ にもお連れしたのだが、その際、「 上海に来るときは、電話して 」 と言われた。

歳は52歳とのことだが、見た目に若く、日本語も堪能なので、ご多忙中とは知りながらも、ついつい、色々と面倒をみてもらったのである。

なんだか、悪い気もしたが、他に頼れそうな人も少ないし、生粋の 上海人 だし、「 大阪のお礼に 」 と言われたので、この一週間は厄介になった。


食事やショッピングなどは問題ないのだが、この H さん、イニシャルの通り本当に、正真正銘の 「 H さん 」 なのである。

きっと、そういう 「 お楽しみ 」 に期待する悪い日本人が多いせいなのだろうが、食事が終わると、しきりに、いかがわしい場所へ案内しようとする。

穏やかに 「 そういうのは苦手で 」 と断るのだが、このまま返したら面目が立たないとでも思っているのか、執拗に誘ってくるのだ。

この H さん、口癖が 「 せっかくだからな 」 と 「 大丈夫、安全だからな 」 の二つだが、どっちも、少し日本語の使い方が間違っている気がする。

私が 「 せっかくだし、安全なら行きたい 」 とでも思っているのなら別だが、ホテル の BAR で軽く一杯ひっかけて、さっさと寝たいのが本音である。


性風俗店は NG だが、まぁ、軽く飲むだけならという話になって、日本語の話せる 綺麗なコ がいると噂のお店に、連れて行ってもらうことになった。

上海にも日本の スナック や、ラウンジ や、クラブ のようなお店もあるらしいが、日本人相手で繁盛している人気店は、「 ○○○ 」 という業態だ。

○○○ には、普通の ○○○ の他、看板に 「 量販的 ○○○ 」 と書かれたお店もあり、量販的 ○○○ は、普通の カラオケボックス のこと。

そうでない ○○○ も、建物の構造は カラオケボックス とまったく同じだが、部屋に入ると、いきなり、30人ぐらいの若いホステスさんがやってくる。

その中から、お好みの女性を指名して、お店にいる間、お酌してもらったり、会話を楽しむ システム だが、1店舗に約200名の女性が在籍する。


個人差はあるが、○○○ の女性たちは皆、お客の大半が日本人ということもあって、なかなか日本語が流暢で、それなりに容姿も整っている。

30人の女性に凝視されつつ、その中の一人を選ぶのは緊張したけれど、4人 ( 私と、H さん と、女性二名 ) になると、次第に打ち解けていった。

勧められるまま カラオケ を歌い、水割りを片手に会話し、また歌うといった繰り返しで、和気藹々と楽しい時間は過ぎていったのである。

そろそろ、お開きという時間になって、お勘定を頼むと、入場料の一人分が 200元 ( 約3000円 )、女性への チップ が 300元 ということだった。

二人分の 1000元 を払って帰ろうとすると、おもむろに H さん が近づいてきて、耳元でなにやら囁くのであった。


店内が騒がしいので声が聴き取り難く、「 えっ、なに? 」 と聞き返したら、「 お相手の女の子が、気に入らないか? 」 と、私に尋ねているらしい。

もう帰るのに、気に入るも、気に入らないもないだろうと思って不思議そうにしていたら、どうやら、「 その後のお楽しみ 」 があるのだという。

あと 1000元 を女性に渡したら、なんと、宿泊している ホテル にまで来てくれるというのだが、もちろん、丁重に辞退させてもらった。

それじゃ 「 売春 」 じゃないかと H さん に言うと、普通の売春と違う点は、女性もお客を見て、行くか、行かないかを決めるのだという。

なんだかよくわからない説明だったが、どちらにしても、お金 を媒介として女性を云々するのも嫌だし、とにかく帰りたかったので早々に退散した。


翌日も、H さん が ○○○ へ連れて行こうとするので断ったら、別の業態ではどうかと、あれこれ メニュー を語り始めた。

今度は、ちゃんと 「 裏メニュー 」 まで説明するように求めたが、あれもこれも、結局は 「 売春 or 売春まがい 」 の オプション が含まれる。

上海に駐在中の諸兄や、よく出張に行かれる諸氏の名誉のため補足するが、けして上海の飲食店すべてが、そのように不健康なところではない。

むしろ、「 そのようなお店のほうが珍しい 」 はずなのだが、とにかく H さん の行きつけや、お勧めのお店が、ことごとく 「 H 」 なのである。

結局、二人で街をぶらぶらしながら、「 H さん、ここはどう? 」 と尋ねた時、「 うーん、つまんないね 」 と H さん が答えた店に、入ることにした。


口癖で H さん のいう 「 せっかくだからな 」 の中に含まれる親切心を理解できないでもないが、人生いろいろ、男もいろいろなのである。

それに、はるばる上海へ 「 せっかく 」 来てまで、日本の印象を悪くすることに荷担するのもどうかと思う。

悪いのは H さん ではなく、そのような接待を要求する一部の日本人なのだと理解し、お誘いに乗れない非礼を詫び、翌日は一人で食事すると伝えた。

すると、「 あっ、行かないの? じゃあ、一人で行ってこようかな 」 とのこと。

・・・日本人のせいじゃないじゃん。






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2006年11月04日(土) 上海当世事情 ~ 上海の光と影編 ~



「 満足する人だけが、十分に持つ者なのだ 」

      ベンジャミン・フランクリン ( アメリカの科学者、政治家、文筆家 )

He that's content hath enough.

                               Benjamin Franklin



難解な短文だが、精神と物質の関係を深く説いた名言とされている。

心に不満があれば、物質的に多くを持っていても、豊かだとはいえない。


急激な経済成長を遂げた上海では、高層マンションに住み、高級車を乗り回す中国人ビジネスマンの姿が目立ち、なんとも景気のよい話である。

いまでも、地味で画一的な人民服に身を包み、自転車や、日本で払い下げになった原付バイクに乗る人はいるが、その姿は少ない。

しかしながら、少し田舎のほうまで行くと、崩れそうな土壁の古い家に住み、質素な暮らしを続ける人々の様子を目にする。

上海市内でも、皆が一様に富んでいるわけではなく、物価の上昇に所得がついていかず、相変わらずの生活を過ごしている人も多い。

いま中国は、日本の比ではない極端な 「 格差社会 」 になっている。


年収が30万円程度の人もいれば、数千万円~数億円の人もいて、上海の平均所得を計算するのは、とても困難な作業である。

開発の遅れている内陸部になると、世帯平均の年収は20万円~40万円程度で、上海のお金持ちに比べたら、一ヶ月のお小遣いにも満たない。

これで クーデター が起きないのは不思議だと言う人もいるけれど、日本と根本的に違うのは、中国では 「 貧乏でも食べていける 」 ところだ。

贅沢品には税金が多くかけられているので手が出ないが、粗食に耐えれば、驚くほど物価は安いし、農村部では食料の自給率も高い。

だから、給料は低くても 「 可処分所得 」 の割合が高かったりして、十分に蓄えながら余裕のある生活をしている人も多いのである。


このように格差のある状態を好ましくないと感じている人は、意外と、所得の高い富裕層の中に多く、将来的な 「 治安の悪化 」 を懸念している。

たとえ貧乏でも、北朝鮮などの貧民とは違って食べていけるのだが、それでもやはり、他人が贅沢をしているのを横目に見ると、欲が出るものだ。

正攻法で稼ごうとする人ばかりなら問題ないが、なかには悪事を働いたり、手っ取り早く横取りしようと企む不心得者も現れるだろう。

実際、犯罪の増加率、事件、事故の発生率は急激に伸びており、そこそこの生活で満足する人たちにとっては、けして暮らしやすい街でもない。

昔に比べると、警察官の資質は向上しているけれど、それも、都市型犯罪への対応を迫られている証拠なのだろう。


1970年代に比べると、上海の 「 精神病患者数 」 は5倍に膨れ上がり、都市のストレスに潰され、挫折する人々の割合が増加している。

私のような出張者にとっては便利なことだけれど、道路が整備され、自動車の数が増えたことも、上海市民の悩みの種になっている。

また、建設ラッシュのため、少しでも古くなった建物はすぐに取り壊されて、街の中は排気ガスと、建材の塵などが立ち込め、健康被害も起きている。

日本も、高度経済成長の最中、置き去りにされた環境汚染や公害問題などで相応の痛みを伴ったが、上海も近い将来、同じ課題を残すだろう。

とはいえ、この 「 お祭り景気 」 を止めるわけにもいかず、海外からの投資も集中しているので、さらに開発の速度は加速していく模様だ。


2008年度のオリンピック、2010年度の万博に向けて、北京⇔上海 間の新幹線敷設や、高速道路の拡張、空港のスロット増設など開発は進む。

それは、上海以外の中国沿岸地域にも経済効果を及ぼすが、相変わらず内陸地域、山岳地帯などには無縁の話で、ますます格差は拡大する。

中国には徴兵制度がなく、貧しい田舎の人は報酬を求めて軍隊に志願し、富裕層は 「 一人っ子政策 」 もあって大事な跡取を入隊させない。

つまり、軍人の大部分は 「 貧しい田舎の人 」 で構成されており、貧乏でも食べていける現在は問題ないが、それが崩れると暴動が起きやすい。

再び 「 文化大革命 」 のように劇的な政変が起きる可能性も否定できず、上海で成功している人の多くは、その不安を忘れていない。






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2006年11月03日(金) 上海当世事情 ~ グルメ編 ③ その他 ~



「 人間は栄養物を食べるのではありません。

  食べ物を食べるのです 」

                メアリー・C・ベートソン ( アメリカの人類学者 )

Human beings do not eat nutrients, they eat food.

                                Mary C.Bateson



さすが、高名な人類学者 ( anthropologist ) のお言葉である。

食事の習慣を、「 生命を維持するためだけ 」 と考えるのは不幸の極みだ。


数年前に交際していた女性が 「 健康オタク 」 な人で、不健康きわまりない生活が大好きな私とは、しょっちゅう意見が衝突していた。

彼女は、納豆が嫌いだと言えば 「 体に良いから食べろ 」 だとか、普段の食事では摂れない栄養素を 「 サプリメントで補え 」 とか、なにかと煩い。

後から冷静に考えれば些細な問題で、言い争うほどのことでもないとは思うのだが、その当時はそれが 「 癇に障った 」 ので、よく口論していた。

体を心配してくれていることは十分に理解できるのだが、大病を患ったことのない私にとって、過剰な心配は面倒に感じたのだろう。

バランスの良い食事は大切だが、一生に食事をする膨大な回数を鑑みれば、それは 「 栄養摂取の機会 」 ではなく、「 愉しみ 」 だと考えたい。


もちろん全員だとは断定できないが、私の出会った範囲では、上海の人は食べることが大好きで、中華料理にかぎらず、様々な料理を楽しんでいる。

たとえば、田舎に住む中国の人は カレー の苦手な人が多いけれど、上海では普通に食べられているし、カレー風味の創作中華メニューもある。

また、満足のできる パスタ を提供するお店や、ピッツア のお店も中国では上海しか知らないし、そこで食べているのは外国人ばかりでもない。

前回、ご紹介した ハトシ もそうだが、洋中折衷や、和中折衷など、外国の料理との コラボレーション を施した創作中華も、上海が進んでいる。

フランス料理は不人気なのか、あまり見かけず、噂も聞かなかったが、それ以外は何でも揃っていて、最近は外国人より現地の人がよく利用している。


ファーストフード店では、出店の早かった 『 ケンタッキーフライドチキン 』 の店舗数が多く、どのお店も盛況で、家族連れやカップルで賑わっている。

ただ、お馴染みの フライドチキン より、焼き鳥風の現地オリジナルメニューが人気のようで、あの独特の スパイス を好まない人も多いらしい。

競合の 『 マクドナルド 』 に入ったら、ポテトM と コーラL の付いた ダブルチーズバーガーセット が15元 ( 約225円 ) だった。

味は日本と同じだが、はみ出した チーズ が包装紙にやたらひっつくので、その原因が チーズ にあるのか、包装紙にあるのか、とにかく食べ難い。

利用しなかったが、宅配ピッツアの 『 ピザハット 』 や、地元ローカルの中華ファーストフード 『 カンフー 』 なども、好調に店舗数を伸ばしている。


中華料理店に比べ日本料理店は値段が高いけれど、所得水準の上がった上海市民の多くが訪れるようになり、いまは 「 日本食ブーム 」 である。

日本の食材 ( ドライグロッサリーなど ) を売るお店も、日本人駐在員だけではなく、現地の主婦層に人気があり、なかなかよく売れているという。

コンビニエンス では 『 ローソン 』 の看板が多く、それ以外の チェーン でも、おにぎりや、和風弁当、おでんなどが販売されている。

おでんの 「 具 」 には、日本で見慣れないものも多いが、利用する客層は日本と変わらないので、若者受けする品揃えが用意されている。

珈琲が飲みたくなって 『 スターバックス 』 に行くと、ほぼ同じ味だったが、ついでに頼んだ ケーキ が、値段は高いのに、あまり美味しくなかった。


たぶん日本で食べられる大半の食べ物が、上海に在るといっても過言ではなく、何年も現地に駐在する日本人にとって、それは有難いことだと思う。

韓国風焼肉店や、ハングル文字の看板が多いことから、日本と同じように、韓国人の出張者、駐在員も、上海には多いのだろう。

世界中のビジネスマンが上海に集まり、海外の文化が定着し、地元の人が素早く吸収して、折衷により形を変えたり、改良して組み入れられる。

上海の食文化をみただけでも、世界からの着目度、期待値、現在の隆盛が計れ、そこが伸び盛りの状態にあることを示している。

たかが食べ物と侮る人もいるだろうが、政治や、経済や、外交のすべてが、その国の食文化に集約されているもので、とても重要な指標になっている。






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2006年11月01日(水) 上海当世事情 ~ グルメ編 ② 中華 ~



「 空腹は最上のソースである 」

                                  英語のことわざ

Hunger is the best sauce.

                                English proverb



中華料理と一口に言っても、地方によって様々な種類が存在する。

同じ料理でも、四川、山東、広東、上海、北京、湖南、台湾で、味は異なる。


我々が普段、日本で食べている中華の大半は 「 台湾料理 」 だそうで、そういえば台湾で中華料理を食べたとき、あまり違和感がなかった。

上海では、もちろん上海料理が主流だけれど、最近では広東料理店も人気があるし、少し探せば、それ以外の地方料理を楽しむこともできる。

個人的な嗜好としては、日本で馴染みのある台湾料理、辛めの四川料理、香港風の広東料理などが好みなのだが、一応、上海料理も食べに行った。

上海料理の調味料として多用されるのが 「 黒酢 」 で、おそらく、その匂いが苦手なために、あまり好きになれないのではないかと思う。

名物の 「 小籠包 ( しょおろんぽお = 肉まん ) 」 も、その他、餃子などの点心類も、大半が黒酢醤油を添えて運ばれてくる。


この季節に人気の 「 上海蟹 」 は、蟹味噌を溶いた黒酢醤油が添えられ、茹でた小ぶりの蟹を箸でほじりながら、多くのお客さんに楽しまれている。

川に生息する蟹なので、海の蟹に比べると小さくて脚肉などは食べにくく、量も少ないが、濃厚な蟹味噌が美味しいため、日本人にもファンが多い。

雑食性なので、甲羅の裏側にある菱形の胃と、両脇にある鰓 ( エラ ) は、雑菌に汚染されている危険があり、食べてはいけないとされている。

また、体を冷やす作用があるので、風邪をひいているとき、胃腸の調子が悪いときなどは、避けたほうが無難である。

日本で頼むよりは安いけれど、けっこう高価だし、さほど好きでもないので、今回の旅では食べる機会がなかった。


香港資本の広東料理店では、好物の 「 ハトシ ( 蝦多士 ) 」 を食べた。

ハトシ というのは、食パンの間に海老 ( 蝦 ) のすり身を挟んで揚げた料理で、同席したアメリカ人も 「 Shrimp toast 」 と注文し、喜んで食べていた。

この店のオリジナルだが、茄子に挽き肉を挟んで ハトシ風 に揚げ、細かく刻んだニンニクの揚げ玉をまぶした料理も、なかなかの絶品だった。

米は不味いので、ビール、紹興酒を飲みつつ、揚げ物、焼き物などを中心に食べ、最後に焼きそばを頼んで、お腹一杯になったところで帰る。

こんなことを二回も繰り返したので、また、ベルトを緩める羽目になった。


たぶん自分は、さほど中華料理が好きではないと思う。

けれども、お腹が空いたとき、気の置けない仲間が集まったとき、これから仲良くなりたい外国人同士が集まるとき、中華の円卓は効果を発揮する。

陽気なアメリカ人、商売上手な上海人、その様子に興味津々な私が、円卓を回しつつ互いの心情を探り合うのは、日本の 「 鍋 」 とは違う趣がある。

目の前の料理を回しながら、我々はそれぞれに地球を回しつつ、ぐるぐると小宇宙を漂っている感覚に浸り、過去と未来の話を交わした。

でも、ぐるぐると回ったのは、知らず知らずに量を増したアルコールによる酩酊のせいだと気づくのに、さほど時間は掛からなかったのである。






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