「 誰もが自分の荷物を、いちばん重いと思っている 」
英語のことわざ
Every one thinks his sack heaviest.
English proverb
エッチ になればなるほど カタ くなるもので、長いのも、短いのもある。
良家のお嬢さんなどは、口に入れたり、舐めたりすると叱られるはずだ。
というわけで、今夜は、黒鉛と粘土を混ぜて焼いた芯を、木材を張り合わせた軸で包んだ、お馴染みの筆記具 「 鉛筆 」 の話から始めたいと思う。
芯の堅さを示す単位として、H は 「 Hard 」、B は 「 Black 」 の頭文字から由来しており、B,HB,H,2H,3H … と、H が増えるほどに堅くなる。
鉛筆を紙上に滑らせると、芯が摩擦で細かい粒子になり、軌跡を残すという原理から、16世紀にイギリスで発明されたと、歴史文献に記されている。
大人になると使わなくなったり、シャープペンシルで代用する人も多いようだが、私の仕事鞄には常に、数本の鉛筆が入っている。
普段は、万年筆やボールペンをよく使うけれど、図形類を書いたり、大量にメモをとる場合などは、鉛筆のほうが書きやすい気がして手離せない。
覚せい剤取締法違反などの罪に問われた文具メーカー 「 トンボ鉛筆 」 の前会長 小川 洋平 被告に、懲役2年半、執行猶予4年の判決が下された。
裁判官は、「 有名企業の会長として、社会の範となるべき立場にいながら、安易な気持ちで違法行為に及び、厳しく非難されるべき 」と述べたらしい。
この 「 厳しく非難されるべき 」 という言葉と、「 執行猶予つき 」 という甘い処分が矛盾するように思うのは、私だけなのだろうか。
また、同じ 「 有名企業 」 でも、彼らの会社が製造する商品、特に、企業名の一部を成している 「 鉛筆 」 は、子供たちの利用頻度が高い製品だ。
そういう意味でも、社会に与える影響は大きく、「 法の下の平等 」 も理解できないではないが、さらなる重罰を以って処すべきかと思う。
いくら裁判官が 「 厳しく非難されるべき 」 などと申し添えても、一般的に、覚せい剤事件の初犯には 「 執行猶予つき 」 の判決が下される。
同日、小説 『 下妻物語 』 などの原作者で知られる 嶽元 野ばら 被告も、大麻取締法違反の罪に問われたが、同じ 「 執行猶予つき 」 判決だった。
先日は、元アイドルグループ 『 光GENJI 』 のメンバー 赤坂 晃 容疑者も、覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕されたが、同様の処分になるだろう。
麻薬、覚せい剤で逮捕される中には、顔の知れた大手企業幹部、芸能人も多く、「 社会への影響 」 という面では、少なからず影響力を持っている。
ところが、一様に処分は軽くて ( 再犯の場合は重くなるが )、比較的すぐに活動が再開でき、何事もなかったかのような顔で姿を現すことが多い。
先日、中国では 「 麻薬密輸に関わった 」 として、邦人が死刑を言い渡されたが、それに対し日本の法曹界は、どうも麻薬、覚せい剤に寛容である。
けして 「 見せしめ 」 というわけではないが、撲滅への意志や覚悟があるのなら、たとえ一度でも手を染めた者に、もっと厳罰を与えるべきかと思う。
また、許せないのは、動機が一様に 「 重圧から開放されたかった 」 などと、自分たちだけが過度のストレスを抱えているような発言をするところだ。
そんな連中を、刑務所にも精神病院にも収容せず、「 もうしません 」 という口約束だけで、放免してしまってよいものだろうか。
特に、覚せい剤事犯の場合、再犯率は 50%以上 と依存性が極めて高いうえ、執行猶予を受けた者の継続使用を、監視する仕組みも存在しない。
こんなに再犯率が高いのに、「 一度だけは見逃してやる 」 てな罰の与え方で、本当に良いのだろうか。
執行猶予つきで放免するなら、せめて、半年に一度ぐらいは 「 尿検査 」 を課し、本当に薬物と手が切れたのか、医科学的に確認すべきだろう。
麻薬は人体を蝕み廃人化し、その売買益は暴力団やテロ国家の資金源になることを、誰もが知っている 「 凶悪犯罪 」 である。
全国の警察署には、撲滅を呼びかけるポスターが貼られ、現場の警察官は取り締まりに励んでいるが、たとえ捕まえても、すぐに釈放されてしまう。
昨今、「 自分だけが重荷を背負っている 」 と勘違いした バカ が増えているストレス社会で、こんな軽微な処分が通ると、将来、日本は麻薬で滅びる。
2007年10月30日(火) |
法相の友達の友達はテロリスト |
「 彼のことは信用できない。 友達だからね 」
ベルトルト・ブレヒト ( ドイツの劇作家 )
I don't trust him. We're friends.
Bertolt Brecht
本当の友達なら信用できるはずだが、上文の “ 友達 ” は少し違うようだ。
友達とか、親友というより、「 同類 」 と訳せば、意味が伝わりやすい。
私が中学生、高校生の頃、ケンカが始まりそうになると 「 俺のバックには、○○ がいる 」 と吹聴する輩が、どこにでも居たものだ。
ここでいう 「 ○○ 」 には、地元で有名な ワル や、不良の親玉みたいな者の名前が入るわけで、そういう連中に顔が利くことを主張している。
なぜ、そんなことを言うのか意味不明だったが、「 自分を攻撃したら、もっと強い奴が出てきて、返り討ちにあうぞ 」 と威嚇していることに気がついた。
ほとんどが 「 嘘 」 で、腕力もないくせに見栄を張る連中の常套手段だったわけだが、一度だけ、本当に強い奴が 「 報復 」 に現れたことがある。
そこで、現れた不良に、「 お前の名を語り、こいつは好き放題やってるぞ 」 と教えたら、今度は私と仲良くなって、その卑怯者を一緒に退治した。
鳩山 法相 が29日、日本外国特派員協会での記者会見で 「 友人の友人が アル・カーイダ だ 」 と述べたことに対し、国会質疑で批判が相次いだ。
彼 ( 鳩山 邦夫 ) の祖父 鳩山 一郎 は、第52代、54代内閣総理大臣にして、自由民主党の初代総裁を務めた人物で、党の歴史にその名を残す。
父 鳩山 威一郎 も参議院議員で、福田 赳夫 ( 現 福田 康夫 総理の父 ) 内閣では外務大臣を務めたこともある。
兄 鳩山 由紀夫 は、現在、民主党 の幹事長で、とても気持ち悪い顔だが、政治家としてのキャリアは長く、それなりに重鎮と呼ばれる立場に居る。
つまり、「 ボンボン 」 と評された 安倍 前総理 以上に、政界での輝かしい系譜を築いてきた家柄にあって、彼も間違いなく 「 大物議員 」 である。
何の目的があって、「 友達の友達が アル・カーイダ 」 と発言したのか意味不明だが、前述の 悪ガキ 同様に 「 ハク 」 をつけたかったのだろうか。
別に、「 友達の友達が テロリスト 」 でも、「 友達が 強盗 」 でも、「 隣人が 強姦魔 」 でも、「 兄が 爬虫類顔 」 でも、罪には問われない。
しかしながら、犯罪組織に繋がる人脈を持つのであれば、「 情報提供 」 の義務があるとも考えられるし、法相 という立場なら、なおさらである。
国民には、海上補給などで 「 テロとの闘い 」 に協力を要請していながら、法相は 「 犯人逮捕に協力しない 」 などという理屈が、通じるはずもない。
私自身、日本の 「 テロ掃討への国際貢献 」 は必要だという考えを持ち、海上補給にも大賛成だが、法相 がこれでは、反対派に返す言葉もない。
今後、この発言について 民主党 がどのような追求をするのか不明だが、徹底的に問い詰めて、できれば辞任に追い込んでもらいたいと思う。
守屋 問題 も重要ではあるだろうが、せいぜい、それは税金の無駄遣いという範疇の事件であり、国の威信に関わるほどの大事ではない。
それに対し、今回の 鳩山 発言 は、テロ組織に立ち向かう先進諸国への 「 裏切り 」 であり、国家の 「 恥 」 といっても過言ではないだろう。
このような愚か者は、一刻も早く ( できれば、顔が気持ち悪い兄と一緒に ) 政界から叩き出すべきで、そうでもしないと諸外国に顔向けが出来ない。
もちろん、「 友達の友達 」 を引きずり出し、テロ掃討に貢献するのなら話は別だが、こういう人脈の話は、たいてい 「 嘘 」 と相場が決まっている。
「 人に盗み心があるとしたら、ゴルフによってそれが表面化する 」
ポール・ギャリコ ( アメリカの小説家 )
If there is any larceny in a man, golf will bring it out.
Paul Gallico
ゴルフ に関する名言は、シニカル な内容のものが多い。
これは、『 ポセイドンアドベンチャー 』 の作者、ポール・ギャリコ の言葉。
私が初めて クラブ を握ったのは中学二年生の夏で、当時、ゴルフ を始めた父が、自分のを買うついでに、兄貴と私にも ハーフセット を買い与えた。
以来、何度か週末に近所の練習場へ通い、たった一度だけ、三人でコースも回ったのだが、皆、他にやることも多かったので、それっきりだった。
次に クラブ を手にしたのは、最初に入った商社の コンペ で、その成績が散々だったことから、またしばらく ゴルフ から遠ざかることになった。
もっとも盛んに励んだのは、20代の後半から35歳ぐらいまでだが、趣味というよりは 「 付き合い 」 の一環だったので、さほど深入りはしなかった。
嫌いなわけでもないが、特に好きでもなく、たとえば、学生時代の仲間らが集まって コンペ をするとか、「 きっかけ 」 が無いとやる気が起こらない。
若い頃、上級者に 「 ゴルフが上手くなるには、どうすればよいか 」 と尋ねたら、「 週に3回 コース を回れば、誰でも上達する 」 と教えられた。
その人が言うには、「 ゴルフ は人に教わるのでなく、自分で体得するもの 」 らしく、他人に学ぶ機会があるならば、「 真似て盗む 」 ほうがよいらしい。
当時は今より費用が掛かったし、収入の少ない身だったうえ、ゴルフ への思い入れも強くなかったので、その言葉を聞いて、さっさと上達は諦めた。
知人の中には、ゴルフ が大好きで、そこそこの資産を溜めた段階で一線を退き、シニアツアー への参加を目指して猛練習に励む人もいる。
他の趣味や娯楽と同じで、こればかりは、深みにはまっている人の気持ちなんて、そうじゃない人間に理解できるものではないのだろう。
防衛省前事務次官の 守屋 武昌 氏 が証人喚問に応じ、5年間で100回を越える ゴルフ接待 を、関係の深い専門商社から受けていたと認めた。
これは省内の内規に反するし、収賄の可能性もあり、許されざる行為としか言いようがないけれど、それにしても、ずいぶんな ゴルフ好き である。
稀に奥さんも同行したらしいが、飽き性の私としては、毎回、同じメンバーで頻繁にプレーを重ね、よく飽きないものだなぁと感心してしまう。
また、どんなに重要な取引先だとしても、それほどまでに接待をさせる技術というのは、実に興味深いものがある。
ゴルフ の腕前は知らないが、「 人に奢ってもらう技術 」 は間違いなく卓越しているはずで、人に奢らせる 「 ハウツー本 」 でも出せば売れるだろう。
私自身も、仕事の関係から接待をすることが多く、国会で追及されるほどの規模ではないが、日常的に取引先と飲食を共にしている。
それで受注を増やそうとか、取引条件を優位にしようといった魂胆なども、まったくないわけではないが、私が接待をする目的は別のところにある。
接待に誘うと、相手の 「 お金に対する倫理 」 が見えてくるもので、お金に対して潔癖な人もいれば、ずいぶん汚い人もいることがよくわかる。
たとえ小額でも、必ず自己負担を申し出る人がいる一方で、恥ずかしげも無く、あからさまに高額の要求を強いてくる御仁もいて面白い。
そういう人と商売をしても、きっと、満足な成果は得られないので、たらふく飲ませておいて、契約の段階では 「 こちらから断る 」 ようにしている。
2007年10月28日(日) |
私が 「 判官びいき 」 を嫌う理由 |
「 人間よ、人間よ、それは全く哀れみなしで生きられないものなのだ 」
フェドール・ドストエフスキー ( ロシアの文豪 )
Man, man, one cannot live quite without pity.
Feodor Dostoyevsky
二者のうち、弱い方を えこひいき する感情を 「 判官びいき 」 という。
言葉の由来となる 「 判官 」 は、九郎判官義経 ( 源 義経 ) のことだ。
歴史文献によると 義経 は、平家を打倒した功労者だったが、兄の 頼朝 と対立して疎んじられ、逃避行の末に悲惨な最期を遂げたと語り継がれる。
日本人は権力に従順な反面、「 弱きを助け、強きをくじく 」 ことを美徳とし、ただ 「 弱いから 」 という理由だけで、必要以上に肩入れする傾向が強い。
特に、義経 の悲劇的な生涯は庶民の同情を誘い、昔から、日本人好みのヒーローとして人気が高く、数々の伝説が書物や芝居の題材とされてきた。
欧米でも、健気で哀れな主人公を称えることはあるし、弱者救済に関心が薄いわけではないが、弱者や敗者に無条件で魅入られることは少ない。
義経 はともかく、他の 「 判官びいき 」 と思われる対象例をみると、いかに日本人が弱者、敗者への保護本能や、優越感を抱くのかがよくわかる。
まず、少し前に話題となった競走馬の 「 ハルウララ 」 だが、競争に一度も勝てないという理由だけで、なぜか全国的な大人気となった。
ファンの方からは、「 健気に頑張っている姿が感動的だ 」 などという意見を聞くのだが、では、勝つ馬が 「 頑張っていないか 」 というと疑問である。
仮に、能力面で差がないとすれば 「 努力が足りないから勝てない 」 と考えるのが自然で、敗者をみて 「 頑張っている 」 と評する根拠など無い。
また、70m の崖から救出された 「 がけっぷち犬 」 が報道されるや、引取り希望者が殺到するという珍事件もあった。
全国で、毎年数万の野犬が処分される中、この犬だけが特別扱いを受けたのは、その哀れさが クローズアップ されただけのことで、他に違いはない。
今朝も、先週の 「 亀田会見 」 が テレビ で報じられていたけれど、彼らも当初は 「 弱者 」 として扱われていた記憶がある。
けして裕福とはいえない環境で、父親が1人で子育てをし、自分の成し得なかった夢を子供に託す姿は、多くの視聴者の心に響いたはずだ。
それが今では批判を浴びせられ、まるで 「 判官びいき 」 とは対極に立ったわけだが、これは、彼らが 「 強くなったから 」 ではないように思う。
それより、同情を寄せた相手が、すっかり調子づいて、いつしか脚光を浴びる存在に化したことが、多くの人の癪に障ったのではないだろうか。
大昔の悲劇的な武将、一度も勝てない競走馬、断崖で救助された子犬は、同情を寄せた人々を裏切らないが、亀田 は 「 調子に乗った 」 のである。
日本人は昔から 「 弱者救済 」 の大好きな民族だが、同情心が過ぎると、その結果として、対象を甘やかすことにつながりやすい。
そして、甘やかされた対象が調子に乗ると、その途端、それまで傾けてきた愛情は裏返り、今度は、猛烈な バッシング が開始される。
亀田家 にかぎらず、そんな例は過去にいくらでもあり、そうなると、もともと窮地に立たされていた弱者はひとたまりもなく、社会から葬られてしまう。
つまり、日本では 「 弱者ほど、慎ましさが要求される 」 のであって、同情を買った者は、強気の姿勢や、成功した姿を晒すことが許されない。
そんな理由から、私は、日本特有の 「 判官びいき 」 という メンタリティ を好まず、「 さっさと消滅しちまえばよい風習 」 だと思っている。
2007年10月27日(土) |
日本人の 「 変 」 な問題意識 |
「 我々はあまりにも多くの壁を造るが、架ける橋の数は十分ではない 」
アイザック・ニュートン ( イギリスの自然哲学者、数学者 )
We build too many walls and not enough bridges.
Isaac Newton
ようやく上海への出張を実施し、帳簿の確認や、幹部との会合を持てた。
業績が良いので、スタッフ同様、なんとなく帳簿も 「 笑顔 」 に見える。
結果的には成功したが、当初、中国での企業経営に投資を始めたのは、自発的な考えでなく、知人に 「 巻き込まれた 」 経緯からだった。
そのため、配当が年収に占める割合は多くなっても、「 自分の会社 」 だという手応えや実感に乏しく、現地に任せっきりの状態が続いている。
日本とは文化や風習の違いも大きいので、案外、そうやって 「 お金は出すけれど、必要以上に口は出さない 」 のが、好調の原因かもしれない。
たまに訪問し、スタッフから話を聴くと、若干の問題点、将来的な不安要素なども感じるのだが、要請の無いかぎり、口を挟まないようにしている。
企業の方向性は、滅多に訪れない経営者よりも、日夜、身を粉にして働く人々に委ねられるべきで、利潤が出て、倫理に反さぬかぎり支障はない。
帰国すると、また 「 亀田 」 が謝罪会見を開いていて、長男が平身低頭に、しおらしく頭を下げ、世間の心象を良くしようとしている姿を目にした。
日本人は慣れているが、企業役員、政治家、有名人らが謝罪会見を開き、具体的なことは何も言わず、平身低頭する姿を、外国人は奇異に感じる。
アメリカ などの訴訟社会では、問題が起こっても、突っぱねるのが定石で、結論が出る前に自分の非を認める行為は、マイナスにしか作用しない。
頭を下げると、裁判では圧倒的に不利になるため、多少、被害者の心情は害しても、あとから最低限の謝罪と補償をすることが得策とされている。
日本でこれをやると、敵ばかり増えて取り返しがつかなくなるので、実利より世論を優先し、反省や改善は後回しにしても、とりあえず頭を下げるのだ。
外国人の友人に言わせると、伊勢の 「 赤福 」 も、秋田の 「 比内地鶏 」 も、そして 「 亀田一家 」 も、記者会見の印象は、皆、同じだと言う。
謝っているのはわかるけれども、それで 「 どうすると言っているのか 」 が、まるで伝わらない記者会見を、なぜ、わざわざ開く必要があるのか。
視聴者の側も、新しい情報や、具体的な改善策が提示されていないのに、それを興味深く見つめ、「 謝り方 」 の良し悪しについて評価し、議論する。
こんな風潮を理解できないのは、一般的な国際社会の認識であり、物事の本質的な解決より、当事者の 「 けじめ 」 を気にするのが日本の特徴だ。
ヤクザ の 「 筋を通す 」 という倫理観に近いものを、日本人の多くが持っていて、そのための儀式となる要素が、日本の記者会見には内在する。
問題意識が強いわりには、自らが解決の努力をしないのも日本の特徴で、駐日する外国人の中には、そのあたりを冷めた目で眺める人も多い。
発電所の建設に反対する人々が、その電力会社から供給を受ける電源を使った拡声器で叫んだり、まったく真意が伝わらないというのが本音だ。
エアコンの効いた部屋で、テレビやオーディオを楽しみ、インターネットで 「 地球温暖化 」 の問題や、省資源の重要性を語る御仁もいる。
たしかに、本気で温暖化を防ぎたいのなら、まず自分自身が 「 パソコンの電源を切れ 」 という意見こそ、ごもっともではないかと思う。
テロ特措法に反対はするが、対案を出さない 民主党 なども、外国人からみれば 「 問題提起ばかりで、解決能力のない連中 」 として嘲笑される。
私は コンサルタント業 をしているが、その本分は 「 気付かない問題点を浮き彫りにして顕在化し、対策を講じる機会を与える 」 ところにある。
しかしながら実際には、「 解決に至るまでの手法 」 が提示できなかったり、自身で解決できる能力を持たない人が、簡単に通用する世界ではない。
最近、後継者を育成する必要に迫られ、各所に 「 求人 」 を要請しているので、多数の志望者と面接する機会がある。
その多くが、「 自分は問題意識が強く、それを指摘したり、表現する能力に長けている 」 ことで、コンサルタント に適していると、誤解をされている。
たしかに、問題を見つけることも重要だが、企業の欲している助言とは、「 自分たちに何が出来るか 」 で、それを叶えない者は必要とされない。
企業の抱える問題よりも、そのスタッフや、企業の政策とポリシーを理解し、「 現実的に出来ること 」 を見極める力がないと、何の助言にもならない。
冒頭の言葉にある通り、「 多くの壁 」 こ比べ、それに 「 架ける橋 」 の数が少ないようでは、迷ったり、焦るばかりで、人も企業も成長しない。
問題意識を持つのは悪くないが、特に日本人の場合は、形式的な儀礼や倫理観にこだわり、現実的、自発的な解決から目を背ける人が多い。
地球温暖化も、テロ特措法も、亀田家も、「 自分の出来ることから始める 」 か、解決策がわからないなら 「 静観する 」 のが一番である。
大それた問題を語る御仁ほど、「 そんなことより、身近な問題に力を注ぐ 」 べき課題があるもので、「 壁 」 より 「 橋 」 を造る必要に迫られている。
2007年10月22日(月) |
中国が民主化される条件 |
「 私は奴隷になりたくないがゆえに、主人にもなりたくない。
これが、私の民主主義の理念である 」
エイブラハム・リンカーン ( アメリカ合衆国第16代大統領 )
As I would not be a SLAVE, so I would not be a MASTER. The expresses my idea of democracy.
Abraham Lincoln
国連の加盟国総数は192カ国だが、民主主義国家は約80カ国である。
まだまだ、民主主義が 「 世界の本流 」 とは言い難いようだ。
先ごろ ミャンマー では、大規模な民主化運動デモが起きたが、10年前にも、アウン・サン・スーチー 女史 に率いられた民主化運動の波はあった。
それでも民主化に成功しない理由は、民主主義が 「 富める国の産物 」 という実情に起因しており、彼らの経済的基盤が成熟していないことにある。
戦後、日本にアメリカ式の民主主義を導入するにあたり、当時の外務大臣だった 吉田 茂 は、マッカーサー司令官に、以下の言葉を放った。
「 デモクラシー実現のためには、先ず、国民を食べさせ、国民に職を与え、その生活の安定向上を図ることが肝要なり 」
この言葉は、基本的な生活水準に達していないと、民主化はあくまでも空論でしかないことを示しており、吉田 茂 の見識の高さを物語っている。
いま、中国は大きな転換期にあるが、著しく驚異的な成長を続ける経済の資本主義化と、共産主義という政治理念のギャップが、最大の焦点である。
開放政策により、経済の近代化、資本主義化が進む一方で、政治形態の変革を求める動きには、国家による弾圧的な統制が敷かれている。
先日も、チベット仏教最高指導者 ダライ・ラマ14世 のアメリカでの受勲を祝福する儀式を行おうとした僧侶 約 800人が、警官隊と衝突した。
北京五輪、上海万博の開催を間近に控え、今の中国共産党幹部たちは、中国が将来的に民主化されなくてはならないことを、よくわかっている。
ただ、同時に、海外諸国の歴史から、あまりに時期尚早では 「 民主主義は定着しない 」 という事実についても、よく理解しているのだ。
世界に例をみると、国が豊かになり、個人生活も豊かになってくると、国民は経済の自由化だけで満足できなくなり、政治の民主化も求め始める。
だいたい、国民1人あたりの GDP が 2000ドル を突破する頃に、政治の民主化が起こり、定着していくという傾向にあるようだ。
スペイン では、1936年から40年間近くも フランコ独裁政権 が続いたが、GDP が 2000ドル を突破した 1970年代に、民主化が実現した。
アジア でも、やはり 韓国 や 台湾 が、1人あたりの GDP が 2000ドル を越えた段階で、それぞれ民主化が実現している。
先に述べた ミャンマー は、1人あたりの GDP が 219ドル にすぎず、仮に民主化を実行しても 「 貧しすぎる 」 ため、定着しないのが実情だ。
どの国にも当てはまるが、国内の安定なくして経済成長はなく、いまの中国で政治の民主化をすると、政局が不安定になり、経済成長が挫折する。
2005年の統計によると、中国の1人あたりの GDP は 1740ドル だが、2010年には 2000ドル を大幅に上回るだろうと予測されている。
表面上、アメリカは民主化問題について、中国に圧力をかけているけれど、急激な政変による中国の混乱を望んではいない。
時期尚早に民主化を強行すると、内政の不安定化を招き、「 天安門事件 」 の再現のような事態が起きて、かえって民主化が後退する恐れもある。
実際、天安門事件の直前には、政治の民主化が活発化していたのだが、事件後、政治体制の改革は、完全な タブー となってしまった。
民主化を成功させるのなら、国民を豊かにさせることを優先すると同時に、中国の場合は、厚い 「 中流層 」 を形成する必要がある。
最近、中国へ出張して感じるのは、日本などとは比べ物にならないほどの 「 所得格差 」 の広がりが生じていることで、中流層が厚いとはいえない。
GDP が 2000ドル に近づいているとはいえど、あまりに貧富の差が大きすぎると、まんべんなく豊かさが実感できているとはかぎらないのだ。
この現状では、民主化によって 「 かえって生活が困窮する 」 人々も多く、いますぐ民主化に向かって改革を推し進めると、彼らの不満が爆発する。
日本に住み、中国、ミャンマー の情勢を耳にするだけでは、容易に理解をし難い実情がそこにあり、民主化は重要だが 「 焦りは禁物 」 なのである。
2007年10月21日(日) |
前防衛事務次官と軍需業者の癒着 |
「 不良な役人は、投票に行かぬ善良な市民によって選ばれる 」
ジョージ・ジーン・ネイサン ( アメリカの文芸批評家 )
Bad officials are elected by good citizens who do not vote.
George Jean Nathan
実は、投票率が半数を下回ると、民主主義は危機的な状況に陥りやすい。
選挙の度、投票率の低さが話題になるのは、そういった観点によるものだ。
近年、日本の選挙では、国政選挙で 50% 前後、地方選挙では 20% ~ 30% 台の低い投票率によるものが多く、それが普通になってきている。
たとえば、総投票数の半分を得て当選した人でさえ、その選挙の投票率が 20% だったとしたら、有権者の 10分の1 しか支持を得ていないのだ。
また、投票率の低い選挙では、組織票が結果を左右しやすく、一部の熱心な人たちにより、けして有権者の総意ではない人物が選ばれることもある。
政府は、その対策として、投票時間を長くしたり、不在者投票の条件を緩和したりしているが、なかなか、投票率の低下に歯止めをかけられない。
前回の参議院選挙も、56% という 「 過去、4番目に低い投票率 」 だったが、このままでは、よほど注目度の高い選挙でないと、向上は見込めない。
地方議員による汚職が多い実情と、地方選挙における投票率の低さには、強い因果関係があると指摘する識者もいるが、解決する良策がない。
たとえば、シンガポールの平均投票率は 96% だが、棄権した人は選挙人の名簿から名前が消され、復帰するには 3000円を支払わねばならない。
同じく投票率 96% のオーストラリアでは、棄権をすると即座に 4000円の罰金、ベルギーはさらに厳しく、6000円の罰金が徴収される。
他にも、多くの国々が 「 投票は、国民の権利であると同時に義務である 」 という理由から、棄権者に対する罰金制度を設けている。
結果、90% 以上の高い投票率を維持しているが、日本を含め先進諸国では、「 投票は強制されるものではない 」 という概念が強く、そうもいかない。
投票率の低い地域で、地元の有力企業と結びつきの深い候補者を立てると、いとも簡単に組織票の効果によって、当選することが多い。
組織票の恩恵を受けた議員は、当選後、見返りとして企業に便宜を図るといった 「 官民癒着の悪しき体質 」 が、そこから構築されていく。
冒頭の言葉が示した、「 投票に行かぬ善良な市民が選んだ不良役人 」 とは、まさに、そういった人物を指しており、その伝統は現在も変わらない。
まして、選挙という手続きすら踏まない官僚の場合は、不公正な民間企業との関係を暴くことが困難で、大部分は個人の良識に委ねられている。
ただ、あまり派手にやり過ぎると、利権を持たぬ同僚に内部告発されたり、企業側の監査が発端で名前の浮上する危険も、存在するようである。
前防衛事務次官だった 守屋 武昌 氏 が、防衛専門商社 山田洋行 の専務から、頻繁に 「 ゴルフ接待 」 を受けていた事実が判明した。
山田洋行 の年商 350億円のうち、大部分の発注元が防衛省であることを考えれば、「 官 」 と 「 業 」 の接近は、厳に慎まねばならない。
防衛省内部には、こうした事態を警戒し、「 業者との癒着を疑われるような接待の禁止 」 を定めた倫理規定もあるが、遵守されなかったらしい。
審議中の法案とは関係しないけれど、この問題を野党が政争に利用することは明白で、福田内閣にとっては、また、頭の痛い話になりそうだ。
海上補給法案など、国民の関心が防衛問題に向く最中、防衛利権を巡る癒着があったのか、他例はないのかなど、調査、説明が求められるだろう。
少し厄介なのは、他の省庁と違って、防衛行政は 「 安全保障上の機密が重視される 」 という特徴があり、すべてを公表し難い点である。
それは、「 外部からの監視の目が届き難い 」 という実情にも通じるので、曖昧な答弁をすると、たちまち、野党は容赦なく追及してくるはずだ。
癒着は断ちたいが、防衛省全体をガラス張りにして 「 国防の弱体化 」 を招く事態は避けることが望ましく、この問題は、意外と難易度が高い。
ここは、当事者に対し、慣例にないほどの厳罰を課して、他の防衛官僚への 「 みせしめ 」 にするのが、もっとも無難な対処ではないかと思う。
それぞれ、背負っている責任の軽重が違うのに、「 法の下の平等 」 を貫くのは不自然で、こういう悪徳官僚には厳罰で処するのが妥当である。
「 最後には、我々は敵の言葉など思い出すことはない。
思い出すのは友人の沈黙である 」
キング牧師 ( アメリカ人公民権運動の指導者 )
In the end, we will remember not the words of our enemies, but the silence of our friends.
Martin Luther King, Jr
今年から、セ・リーグにも 「 クライマックスシリーズ 」 が創設された。
いまのところ、たいした クライマックス も無いまま、中日 が 2勝している。
TBS は、先般の ボクシング 「 亀田 VS 内藤 」 戦で、多くの視聴者から 「 亀田 サイド 寄りの中継だった 」 と、厳しい批難を浴びている。
スポーツの試合中継は 「 中立であるべき 」 との意見も理解できるが、この試合にかぎらず、中立な視点に立った実況のほうが、圧倒的に少ない。
たとえば、日本テレビ による 東京ドーム からの実況中継は、あからさまに 巨人 を応援しているし、ほとんどの関西の局は 阪神 を支持している。
広告主などの絡んだ プロ・スポーツ の世界では、それが常識で、どうしても馴染めないという方は、アマチュア の試合を眺めるしかないだろう。
そこに 「 ビジネス 」 が介在するかぎり、スポーツ特有の 「 神聖さ 」 には、エンターティメント的な要素が加わり、商業価値が問われることになる。
最近、元 巨人 の 江川 卓 氏 と、小林 繁 氏 の共演による日本酒の CM が放映され、野球の好きな中高年の間で話題になっている。
若い人はご存知ないかもしれないけれど、江川 氏 が 巨人軍 に入団をした背景には、なんとも複雑怪奇で、強引かつ老獪な、策謀が巡らされたのだ。
当時のドラフト会議の規約では、指名された選手が、指名権のあるチームと契約しなかった場合、次のドラフト会議の二日前に、指名権が失効した。
その規約に 巨人 は着目し、ドラフト会議の目玉とされていた 江川 氏 を、突然、ドラフト会議の前日に、無競争で勝手に契約したのである。
野球関係者も含め、そんな規約を知る人は少なかったので、法の抜け穴をつく手口は 「 空白の一日 」 と呼ばれ、大勢のファンが 巨人 を批難した。
他の球団は一斉に 「 そんな汚い手口が通用するか 」 と反撥し、江川 氏 の入団を認めず、巨人 はドラフト会議をボイコットし、全面対決となった。
翌日のドラフト会議では、阪神 が 江川 氏 の指名権を得て、入団交渉の権利があるのは、巨人 か、あるいは 阪神 か、全国民の関心を集めた。
両球団の弁護士による話し合いでも決着せず、議論は国会にまで及んだが、世論の大多数は 巨人 の 「 やり方 」 に批判的、懐疑的であった。
どちらの言い分が正しいかという問題以上に、たとえルールに反しなくても、「 世間の良識を踏みにじった 」 という点で、巨人 は集中砲火を浴びた。
最終的には、お互い 「 引っ込みがつかなくなった 」 両球団が話し合って、前代未聞の意外な解決方法で、この問題は決着をつけたのである。
それは、ドラフト会議の結果を尊重し、江川 氏 は 阪神 に入団して、その直後に、巨人 の用意した交換選手と 「 電撃トレード 」 を行う方法だった。
その交換選手こそが、当時、巨人軍 の エース だった 小林 繁 氏 で、彼は練習のため宮崎へ向かう空港で通知を聞き、引き返すこととなった。
大物とはいえど、プロで実績の無い新人を獲得するために、彼は犠牲者になったのだが、「 野球が好きだから、阪神に行きます 」 と気丈に語った。
翌年、小林 氏 は生涯最多の 22勝 を挙げ、特に 巨人 戦では 8勝 0敗 という驚くべき活躍を示し、投手部門の各賞を総ナメにする働きをみせた。
そんな経緯から、小林 氏 は 「 悲劇のヒーロー 」 として称えられ、江川 氏 は 「 悪役 」 の印象が定着し、それは二人が現役を引退するまで続いた。
お互いの 「 気まずさ 」 からか、二人は現役の間も、引退後も、球場で顔を合わせる機会はあったが、言葉を交わすことはなかった。
今回の CM 出演で、1978年の 「 空白の一日 」 以来、実に29年ぶりに、二人は顔を合わせ、ようやく言葉を交わしたのである。
球団の思惑に翻弄されたとはいえ、特に 江川 氏 としては、自分のせいで 小林 氏 に迷惑を掛けた遺恨が根強く、一度、謝罪をしたかったらしい。
それに対し 小林 氏 は、「 遠い昔のこと 」 と笑顔で応え、撮影後も二人は 「 旧友 」 との再会を懐かしむように、打ち解けていたという。
二人とも 50歳を越えた現在だからこそ、実現できた対談かもしれないが、この場面に 「 日本酒 」 は ベストマッチ で、CM 企画者の感性は抜群だ。
ラグビー には昔から、「 ノーサイド [ no-side ] の精神 」 というものがあり、試合終了の合図としても使われている。
試合中は敵と味方に分かれるが、終わってしまえば、どちら側も無いという概念で、お互いの健闘を称え合い、同じ競技仲間として迎え入れる。
小林 氏、江川 氏 の二人にとって、この CM は ノーサイド の合図のように思え、当時を知る中高年の多くが、そこに爽やかな感動を抱くのだろう。
いまから数十年後に、亀田、内藤 の両選手が、どんな運命を辿り、どんな再会を果たすか、または二度と出会わないか、それは誰にもわからない。
願わくば精一杯に長生きをして、二人の ノーサイド を眺めながら、過去の 「 ギクシャク した遺恨 」 の話など、若い人を相手に語れれば幸いである。
2007年10月19日(金) |
世間にはびこる上品な亀田一家 |
「 子供たちに何ができるのか知りたければ、彼らにモノを与えるのを
やめるべきだ 」
ノーマン・ダグラス ( イギリスの作家 )
If you want to see what children can do, you must stop giving them things.
Norman Douglas
子供の頃を振り返ると、不思議に思う幾つかの事柄がある。
たぶん、自分自身が忘れているだけで、単純なことだとは思うが。
一つ目は、携帯電話もメールもなかったうえ、特に待ち合わせの約束もしなかったのに、なぜか、毎日のように友達同士が集まっていたことだ。
いまでも、「 田舎のヤンキー 」 などはコンビニの前にたむろしていたりするようだが、その当時、コンビニはなかったが、駄菓子屋があった。
そして、いまとは違って都会の住居には家風呂が無く、銭湯へと通う習慣があったので、そこでも友達と会うことが多かった。
あるいは、駄菓子屋や銭湯に行かずとも、近所の空き地か公園に行けば、たいてい顔見知りの何人かがいて、一人ぼっちで困ることはなかった。
それは偶然というより、「 たぶん、この時間、あの場所へ行けば誰かいる 」 という感覚が養われていたせいで、超能力みたいなものだったように思う。
二つ目は、パソコンもゲーム機もなかったのに、空き缶を一つ見つけただけで、日が暮れるまで何時間でも、飽きずに遊んでいたことだ。
誰かがボールを持ってきたら野球を始め、それが川に落ちたら、空き缶を見つけて缶蹴りが始まり、缶も無いときは、また別の遊びが始まる。
記憶力の良い幼馴染に当時のことを尋ねると、そんな遊びが飽きなかった理由は、毎日、遊びの内容が 「 同じではなかった 」 ためだと言う。
たとえば缶蹴りにしても、少し遊んで慣れてくると、友達同士で話し合って 「 難易度の高いルール 」 を設定し、どこか変えていたらしい。
いま思えば、遊び道具が乏しかったことで、当時の子供たちというのは全般に想像力が高く、遊びをクリエイトする能力に長けていたようである。
逆読みすると、子供に対して何でも与え過ぎた場合、その子供の想像力は十分に働かず、決まりきったことしか出来なくなってしまう可能性が高い。
親が何でも準備することで、想像力だけにかぎらず、危険を察知する能力、忍耐力、相手の気持ちを思いやる能力などの、成長に弊害がある。
そういえば、「 親 」 という漢字を分解すると、「 木 」 の上に 「 立 」 って 「 見 」 るというパーツに分かれている。
親の役割は、本来 「 木の上に立って見る 」 程度が望ましく、子供のためを思う気持ちが強くても、あまり干渉しないほうがよいのかもしれない。
立派な大人に成長させたければ、偏差値の高い学校へ進ませることより、親自身が立派な行動を示し、手本になることのほうが重要だろう。
亀田親子は謝罪会見を開き、その翌日には、前回の試合で反則技を連発した次男が相手宅を訪れ、丁重に頭を下げたらしい。
史郎 氏 は、世間の常識や善悪より、自分を盲信して追従してきた息子に、「 父親が国民に頭を下げる姿 」 を見せねばならぬことを、反省すべきだ。
ある日突然、それまで自分が信じて疑わなかった価値観、尊敬する父親像が、根底から覆され、全否定される気持ちたるや、いかばかりであろうか。
自宅では、厳しいトレーニングを課していたというが、鍛錬の質量ではなく、「 自分で判断し、考えさせる習慣 」 を与えなかったところに ミス がある。
そういう意味では、これも一種の 「 過保護 」 であり、ガラは悪いけれども、彼らは 「 貧乏人のお坊ちゃま 」 なのかもしれない。
彼ら親子を批難するのは自由だが、私からみれば、「 上品な亀田一家 」 みたいな親子は、いくらでも世間にいると思う。
自分が果たせなかった夢を子に託し、世間は敵だと公言してはばからず、子供に 「 自分で考えさせる機会 」 を与えないまま、先入観を植え付ける。
私の周囲にも、そんな親御さんは結構いるようで、彼らは、彼ら自身が持つ 「 良い部分 」 に気付かず、自分のコンプレックスばかりを反映させたがる。
他人から見ると実に 「 みっともない 」 のだが、自分と同じ失敗を経験させたくないせいか、特に教育問題などで、異様なほど子供に干渉するようだ。
教育とは、無知な人間を賢く変身させることではなく、もともと本人が持っている資質を伸ばすことにあり、それに気付かぬ人は亀田家を笑えない。
2007年10月18日(木) |
小学校二年生の女児が刺殺される国 |
「 もし100人を養えないのであれば、ただ1人を養いなさい 」
マザー・テレサ ( ローマ・カトリックの尼僧 )
If you can't feed a hundred people, then feed just one.
Mother Teresa
お金持ちというだけで、なぜだか 「 目の仇 」 にする人がいる。
老人というだけで、なぜだか 「 弱者 」 だと決め付ける人もいる。
格差社会という言葉が流行った結果、「 お金持ちから、もっと税金を取れ 」 とか、「 弱者に優しい世の中にしよう 」 と望む声を、よく耳にする。
税制面では、大企業への優遇措置が増えた一方、低所得者の負担が重くなったとか、老人医療費が上がって、弱者が困っているとの不満も多い。
物事を語る上で、「 弱きを助け、強きをくじく 」 ような発言は格好良いが、はたして、そこに 「 正当性 」 はあるのだろうか。
一口に 「 お金持ち 」 といっても、親の遺産を継承した人もいれば、無一文から必死の努力で這い上がり、財を成した人もいるはずだ。
また、弱者の中にも、不可効力的な事情で生活に困っている人もいれば、人並みの努力もせず、怠惰に生きた結果として、困窮している人もいる。
昔から 「 清貧 」 という言葉があり、貧しく、つつましい生活を送っている人ほど善人のような、そんな印象を持たれることが多い。
貧しい暮らしの中から、もっと困っている人たちのために、小額の寄付をしたなんて話を、感動的に伝えるテレビ番組などもある。
それに対し、数十億円は稼いでいるであろう高額所得者が、百万円程度の寄付をしたところ、まるで 「 売名行為 」 かのように皮肉る人もいる。
たしかに、お金持ちというのは疎まれやすく、他人の成功を妬んだり、羨んだりする人たちから、逆差別的な仕打ちを受けやすい立場にあるだろう。
そんなに儲かってるんなら、困っている人に分け与えなさいよという気持ちも、まったく理解できないわけではない。
ただ、原則として 「 収入の多い人は、納税額も多い 」 ことは事実であり、貧乏な人が小額の寄付をするより、実際は、福祉への貢献度も大きい。
金額より 「 気持ちの問題 」 こそ大事だという見方もあるだろうが、弱者を救済するために、「 愛 」 よりも 「 お金 」 が必要な場面は多いはずだ。
現実的な収支面で考えると、「 お金持ちが多く住み、弱者の少ない国 」 と、逆に 「 お金持ちが少なく、弱者の多い国 」 では、福祉の充実度が異なる。
ある意味、国庫への貢献度が高いお金持ちこそが 「 国を良くしている 」 と考えられるわけで、無条件に悪者扱いするのは理不尽といえるだろう。
さらなる負担を高額納税者に課し、低所得者に厚情を注ぎ、「 お金持ちを締め出し、居心地の良い弱者を増殖させる 」 のが、良策とは思えない。
非情な意見に聞こえそうだが、貧乏な人は寄付をするより、頑張って所得を向上させ、多額の納税をしてくれるほうが、社会全体のためになる。
特定の個人や組織を助けるためには、ときとして寄付も必要だが、国民の総所得が増えれば国庫が潤い、経済的弱者が減ることで支出も減少する。
国庫が潤沢で、救うべき弱者も少なければ、福祉が万全に機能することは必定であり、それこそが理想の 「 福祉大国 」 である。
満足な働きもせず、困ったら 「 お金持ちから毟り取ればよい 」 という概念は、優秀な人材や企業が海外に流出し、カスばかり残る不安が大きい。
当然、本当に不幸な境遇にある人々には手を差し伸べるべきだが、最近の日本は、どうも 「 弱者偏重主義 」 的な様相が強くなっている気がする。
兵庫県加古川市で、小学校二年生の女児が自宅玄関前で何者かに胸部を刺され、その後、失血死するという事件が起きた。
なんとも痛ましい事件であるが、もっと憤りを感じることは、「 犯人に対する処遇 」 が、おそらく、軽微なものになるだろうという予測にある。
まだ犯人は捕まっておらず、犯行の動機は解明されていないが、たぶん、そこに 「 動機 」 と認められるような事柄は、存在しないものと思われる。
これは、どう考えても 「 異常者による犯行 」 であって、犯人を捕らえたところで精神鑑定にかけられ、「 責任能力なし 」 と判断される公算が高い。
無垢な児童を殺害したという 「 万死に値する大罪 」 でも、加害者が弱者であるという根拠だけで、温情ある軽微な処分が下される率が高いのだ。
人の何倍も働いて、何度も失敗を繰り返し、泣き言も漏らさず、うつ病にもならずに頑張って、ようやく大金を手にしたら、莫大な税金を徴収される。
そんな 「 自分で責任がとれる人たち 」 は、せっせと納税しても他人からは疎まれ、もし、何かの間違いで人でも刺せば、重罪を課せられる。
その一方で、ちょっと行き詰まると不満を並べ、首を吊る真似をして周囲に心配をかけ、精神病だからと仕事を休み、挙句の果てに子供を刺す。
そんな 「 他人に責任を押し付ける人たち 」 は、ストレス社会の生み出した被害者として手厚く保護され、気の毒な弱者と扱われて恩恵に浴する。
どこが 「 格差社会 」 なのか、理解し難い実情がそこにあり、社会に貢献ができずとも、自分1人の心身を養う義務は、全国民に課すべきかと思う。
2007年10月17日(水) |
民主党 小沢 代表 の 「 豹変 」 に動揺する人たち |
「 最も急進的な革命家も、ひとたび革命が起こるや、
たちまち保守主義者に化けてしまう 」
ハンナ・アーレント ( アメリカの政治哲学者 )
The most radical revolutionary will become a conservative on the day after the revolution.
Hannah Arendt
どの国の、どんな革命家においても、例外なく当てはまっている。
むしろ、革命で手にした政権ほど、権力に留まりたいと願う気持ちが強い。
私は、そう思わないが、マスコミに煽動されやすい人々を 「 愚民 」 と呼び、大衆心理を見下して、あざ笑うことを好む人がいる。
ブログの世界では、小泉元首相が 「 劇場型政治 」 で大衆の心を惹きつけ、選挙に圧勝した頃から、そのような風潮が流行りだした記憶がある。
今年は 自民党 に逆風が吹き、民主党 が参院選を制したが、彼らが野党である間は多数派じゃないので、その支持層は 「 愚民 」 じゃないらしい。
どうやら 「 愚民 」 とは、体制派を指す言葉であり、一部の反体制を気取る 「 インテリ意識の強い人々 」 が、主に用いる表現のようだ。
なんとなく 「 負け惜しみ 」 のように感じるのは、私が無教養な 「 愚民 」 のせいか、あるいは、物事を複雑に考えない能天気な性格のせいだろう。
民主党 小沢 代表 が、「 ISAF 」 には参加する意向であると表明してから、ざわざわと、動揺し始めた人々の存在が目立つ。
それは、個人も、あるいはマスコミも、これまでに 「 反体制派 」 をアピールしてきた人々や組織と重なるが、それぞれに驚きを隠せない様子だ。
彼らのいう 「 愚民 」 に対し、自分たちの知的水準が高いことを示す際に、彼らは 「 体制派が平和を乱そうとしている 」 という概念で結束していた。
テロ特措法や、憲法改正法案など、国際社会で避けられない問題に政府が直面した折、それは 「 愚民 」 をも巻き込み、一つのムーブメントになった。
ちょうど、それを政争の材料とする 民主党 と利害が一致したので、彼らは 小沢 代表 に喝采を送っていたが、ここにきて事態は一変したのである。
正確に言うと、ここにきて急に 小沢 氏 の態度が 「 豹変 」 したわけでなく、もともと 小沢 氏 は、「 ISAF に参加し、実戦に加わる 」 つもりでいた。
彼の発言に動揺している人たちは、それを知らなかったか、あるいは、自分たちの主義主張に都合が悪いので、知らぬフリをしていたのである。
なかには、「 もう少しで政権を取れそうなのに、今ごろになって余計なことを言うな 」 とお怒りの御仁もいるようだが、それは、政治を知らない意見だ。
もう少しで政権が取れそうだからこそ、今から アナウンス しておかないと、実行の際に大きな波紋を招き、頓挫する危険が高い。
革命は、政権を奪取することよりも、それを定着させることのほうが難しく、徐々に飼い馴らしておかないと、それに 「 愚民 」 は従わない。
たとえば将棋をする場合、優れたプロ棋士と、稚拙なアマチュアの違いは、「 何手先まで読めるか 」 の違いだといっても過言ではない。
平和憲法を 「 言い訳 」 に、給油もしないし、お金も、兵力も出さないでは、国際社会から批難を浴びることぐらい、小沢 氏 は百も承知である。
いまは、与党を叩く材料として 「 インド洋上の給油は違憲 」 と騒いでるが、それで 「 小沢 氏 は憲法を遵守したいのだなぁ 」 と思うのは単純すぎる。
けして、憲法よりも地位や権力が大事ではないかもしれないが、国政を司るうえで、自国の都合ばかりに固執するなんてことは、まず通用しない。
自民党 とは 「 戦術の差別化 」 が必要なので、現行法案には反対するが、大きな 「 戦略の転換 」 が得策ではないことを、小沢 氏 は知っている。
国民はどうかというと、心のどこかで革命を求める気持ちがあっても、急激な変化は望んでいなかったりするもので、それぞ 「 大衆心理 」 である。
激変を期待するのは、よほど世の中を恨んだり、我が身を憂いているような、ごく一部の少数派であって、それは 「 破壊的な衝動 」 に近い。
大半の人は、今の生活を維持しながら、ちょっぴり住みやすい環境になるとか、ほんの少し暮らしが楽になるだけで、十分に満足できるはずだ。
そんな 「 愚民 」 こそが、幸福なのであり、地味ではあっても、他人に多くを期待せず、自分の力で生きている 「 良民 」 ではないかと思う。
美辞麗句を並べ立てず、現実論を語り始めた 小沢 氏 を評価するのか、期待はずれと動揺するかで、各人の 「 良民性 」 が計れるかもしれない。
2007年10月16日(火) |
紀元会 : 宗教のマイナス面 |
「 教会とは、天国へ行ったこともない紳士が、天国へ行くはずもない
人たちに向かって、天国はこうだと吹聴するところ 」
ヘンリー・L・メンケン ( アメリカの批評家 )
A church is a place in which gentlemen who have never been to heaven brag about it to persons who will never get there.
Henry Louis Mencken
私は、「 宗教 」 というものに価値を感じず、したがって信仰心などない。
初詣も、クリスマスも、一種の 「 イベント 」 に過ぎず、信仰心は伴わない。
一億歩譲って、「 神様や天国は存在する 」 としても、神社の神主さんやら、お寺のお坊さんや、教会の神父さんは、そこへ行ったわけではないだろう。
つまり、科学的根拠の無い話を、自分で体験したこともない人から聞いて、それを信じろという 「 宗教 」 の仕組みに、同意する理由がわからない。
ましてや、オウム真理教をはじめとする 「 得体の知れぬ新興宗教 」 だけでなく、ほぼすべての宗教が、活動に際して 「 お金 」 を要求する。
一般人が、ただの水道水を 「 この水を飲めば元気になるよ 」 などと言って千円で販売すれば、詐欺や、薬事法違反などの罪に問われる。
ところが、「 私が経を唱えると、死者が天国に行けます 」 という珍妙な理屈で3万円の布施を取っても、お坊さんが逮捕されることはない。
そんな私でも、父親が亡くなったときには、さすがに、葬式をしないわけにもいかないので、兄と相談して段取りを整え、お坊さんに来てもらった。
本来なら、「 家族で勝手に見送ればいい 」 とも思うが、大勢の人が弔問に来るし、その中には、信心深い人もいるはずだ。
だから、自分には信仰心など微塵も無いけれど、敬愛する父親と、弔問客への 「 感謝の印 」 として、彼らのために葬儀を行った次第である。
さしずめ、結婚式の披露宴にプロの司会者を招くのと同じ感覚で、お葬式という セレモニー の 「 MC 」 として、お坊さんに 「 ギャラ 」 を支払った。
それが 「 出演料 」 だと思えば、お金を支払うことも納得できるが、亡父を 「 天国へ送る費用 」 などと理解するのは、とてもじゃないが不可能である。
こういう意見を他人に漏らすと、「 なんと “ バチ当たり ”な! 」 などと揶揄されることが多いけれど、この 「 バチが当たる 」 も意味がわからない。
子供の頃、たとえば、ご飯粒を残したら 「 バチが当たって、目が潰れる 」 などと叱られた経験のある方も、多いのではないだろうか。
我が家では幸いにして、両親が 「 お米を収穫するのには、農業に従事する人の大変な苦労がある 」 ことを説明してくれたので、素直に納得できた。
しかし、親戚の中には 「 バチが当たる 」、「 目が潰れる 」 と叱る人もいて、私は 「 誰が、バチを当てたり、目を潰すのか 」 と尋ねた記憶がある。
すると彼らは 「 神様 」 と答えたので、私は 「 そうか、神様というのは、ご飯粒を残した程度のことで、子供の目を潰す残虐な者か 」 と思ったのだ。
実際は、「 神様に目を潰された知人 」 もいないし、現在まで幸福な人生を歩んでこれたと思うので、神様の悪口を言うつもりなど毛頭ない。
むしろ、現実的な事例を挙げ、正しく子供を教育できない人々から、「 子供の目を潰す悪魔 」 扱いされ、躾に悪用されていることを気の毒に思う。
つまり、私が嫌いなのは、神様、仏様、イエス様ではなく、それを躾の材料にしたり、商売の道具にしている 「 不埒な人間 」 のほうである。
だから、達観した宗教家を立派だと思うことはあっても、その宗教を信じることはないし、当然、資力や労力を注ぎ込むことなどない。
ところが、世の中には信仰心の深い人がいて、かなり無謀な要求をされても、信じる教祖のためならば、何でもやってのける御仁がいるようだ。
長野県のすし店経営女性 ( 63 ) が宗教法人 「 紀元会 」 の信者に集団で暴行され、死亡した疑いで、長野県警は本部などの家宅捜索を開始した。
死亡当日、夫ら家族4人が犯行を認め、逮捕されたが、その後の捜査で、多数の信者による暴行があったとされ、さらに信者21名が逮捕された。
この宗教には、「 家族全員が入信しなければならない 」 という規約があるらしいが、家族が暴行され、殺されても、誰も止めなかったようである。
家族といえども、その価値観は同じでなく、誰かが特定の宗教を盲信するように 「 マインドコントロール 」 されても、普通は、他の家族が矯正させる。
殺害された理由は不明だけれど、洗脳度の浅かった被害者が、何らかの抵抗を示した際に、盲信する他者から殺害された可能性が高いと思う。
科学的に解決できない問題や、どうしようもない問題に直面した際に、人は 「 溺れる者は藁をも掴む 」 という現象に陥ることが多い。
元気な人には想像し難いが、たとえば、余命いくばくもない人が、絶望しないで生涯を全うするために、宗教が安堵を与えることもあるのだろう。
その一方で、宗教は、まっすぐで純粋な人たちを取り込み、場合によっては悪意をもって蝕み、本人だけでなく、家族や周囲までを不幸に巻き込む。
あるいは、宗教が 「 原理主義 」 と化し、戦争の火種となり、さらに大規模な不幸の連鎖へと導くことも、周知の事実だといえよう。
私のような 「 へそ曲がり人間 」 は染まりにくいので無縁の話だが、個人的に 「 すべて、宗教なんか要らない 」 と、常日頃から思うのである。
2007年10月15日(月) |
古びたルールに縛られたい日本人気質 |
「 われわれ全員が自由でありうるために、全員が法律の奴隷となる 」
マルクス・トゥリウス・キケロ ( 古代ローマの政治家、哲学者 )
We are slaves of the law so that we may be able to be free.
Marcus Tullius Cicero
規則や、伝統的な価値観は、秩序と文化を保つために必要な指標だ。
ただしそれが、時や場所を越えて普遍なものだとは、けしてかぎらない。
せっかちな日本のビジネスマンが、イギリスの田舎を歩いていたら、湖畔で釣りをする老人を見かけ、しばらく、その様子を眺めていた。
よく見ると、釣り竿には糸も針もついておらず、不思議に思った日本人が、老人に理由を尋ねると、逆に、「 糸や針をつける理由 」 を問い返された。
日本人は、当然のことのように 「 魚を得るため 」 と答えたが、すると老人は、「 魚を得てどうするのか 」 と、再び質問を返した。
その問いに、「 食べるため、あるいは販売するため 」 と答えると、老人は、「 魚を獲り、販売して儲かったら、何をする 」 と、また問い返した。
しばらく思案した後、日本人は 「 そうだなぁ、のんびりと田舎で釣りでもするかなぁ 」 と真顔で答え、老人は、「 それなら、もうやってるよ 」 と笑った。
これは、「 エコノミックアニマル 」 などと呼ばれる日本人への風刺を込めたイギリスのジョークだが、多くの日本人にとって、重要な教訓を含んでいる。
糸と針をつけない老人の 「 非生産的 」 な行動は奇異で、釣り本来の目的から逸脱していると思うのが 「 当たり前 」 だと、大部分の人は感じる。
しかしながら、よく考えてみると、都会で忙しく働き、資産を獲得した人々が 「 ノンビリと田舎で釣りをしたい 」 と願うのは、釣果が目的ではない。
仕事において、「 なるべく最少の時間と費用と労力で、最大の成果を効率よく挙げる 」 という考え方は、日本も、諸外国も、そう大きくは変わらない。
ところが、たとえ余暇の時間でも、日本人は自分の行動に効率性を求め、そのせいで、本当の意味での 「 骨休み 」 にならないことが多いのだ。
欧米に比べ、長期休暇が少ない ( 短い ) 影響もあるが、日本の旅行社による観光ツアーには、異常に 「 ハードスケジュール な プラン 」 が多い。
利用者も、1箇所に留まって 「 旅の思い出 」 をつくることより、片っ端から名所・旧跡を数多く巡ることに、価値を感じる人が多いように思う。
一部には、ノンビリしたいが、「 誰かがルールで縛ってくれないと、何をしてよいのかわからない 」 理由から、自由度の高い企画を敬遠する人もいる。
せっかくの余暇を、規則に縛られず、羽を伸ばしたいと思う気持ちは誰でも同じだが、規則がないと、何をするかは、自分で考えなければならない。
余暇の過ごし方を、情報を集め、それを参考に 「 自分で意思決定を下す 」 タイプ が欧米人には多く、それを苦手とする タイプ が日本人には多い。
私も長年に亘って携わってきたが、日本では有名ブランドの衣料品が珍重され、ノーブランドの商品に比べると、とにかく無条件によく売れる。
これは、顧客の 「 審美眼 」 に自信の無い表れでもあり、「 有名ブランドの服さえ着ていれば、少なくとも恥はかかないだろう 」 という意識の賜物だ。
本来、ブランド・ビジネスとは、品質保証に関する生産者側の 「 誇り 」 を、受け皿となる消費者側の 「 信頼 」 と交換して、成し得るものである。
ところが、日本の場合は 「 自分で何が良いのか決められないので、選択のセンスを代行させる 」 目的で、ブランドに依存する傾向が強い。
ここでも、日本人の 「 自分では意思決定をせずに、何かの指標に頼る 」 という性向が、大きく影響しているようである。
釣りの話、団体ツアーの話、ブランド・アパレルの話を例に挙げたが、既存の価値観、先入観、規則、権威などの 「 呪縛 」 に、日本人は頼りやすい。
インド洋の給油問題を、「 アメリカの言いなりにならず、自分の意志で行動しろ 」 と叫ぶ人もいるが、自分で判断できないのが 「 日本人 」 なのだ。
自民党 にしても、民主党 にしても、「 憲法で決まってるから 」、「 国連で決まってるから 」 と、既存のルールを持ち出すだけで、自分の意志などない。
たまに、安倍前総理のように 「 憲法というルールそのものが正しいのか、一度、、見直そうよ 」 と 「 意志のある意見 」 が出ると、猛反対が起きる。
意志のない国民にとって、正しいか、間違ってるかは問題でなく、「 いままで盲従してきた規則が否定されたら、どうしていいかわからない 」 のである。
赤福餅の偽装問題について、抵触した 「 JAS法 」 は昭和25年に制定された規則で、現在では冷凍技術も進んでいると擁護するブログがあった。
正確には、JAS法は制定後に何度も改定されているのだが、この指摘は正しく、古いルールに縛られるより、現実的な衛生問題を問うべきだ。
ご承知の通り、「 日本国憲法 」 が発布されたのは 「 JAS法 」 の3年前、昭和22年5月3日で、その当時と現在では、世界の様子が一変している。
しかも 「 JAS法 」 と違って、重要な部分や、時代に則さない部分に改定も加えられず、当時 ( 終戦直後 ) のまま、今日まで効力を保ってきた。
そろそろ日本人も、既存の価値や規則に縛られ隷従する習慣を、現状と、将来予測に基づいた 「 自分で考える習慣 」 に、切り替える時期かと思う。
2007年10月14日(日) |
日本信号、パチンコ、民主党 : 無知から生まれる矛盾 |
「 自分の無知さ加減がどれくらいか、それがおよそ計れるようになって
はじめて、人間は賢くなる 」
ジアン・C・メノッティ ( 作曲家 )
A man only becomes wise when he begins to calculate the approximate depth of his ignorance.
Gian C. Menotti
人は皆、やたらと信念を主張したがるが、それに矛盾する言動も多い。
その原因の一つは 「 身勝手さ 」 にあり、もう一つは 「 無知 」 にある。
最近、自転車は 「 歩道を走るべきか、それとも車道を走るべきか 」 という疑問について、色々と思案を巡らせている。
自分が歩道を歩いているとき、そこに猛スピードで自転車がやってくると、咄嗟に 「 危ないなぁ、車道を走れよ 」 と思う。
歩道には、お年寄りや、幼児、身体の不自由な方も歩いているわけだし、「 歩道 = 歩行者用道路 」 なのだから、そこを走るなと言いたくなる。
ところが、自分が車を運転しているとき、フラフラ と自転車が前を走ると、「 危ないなぁ、歩道を走れよ 」 と、まるで矛盾した考えが頭に浮かぶ。
お恥ずかしい話だが、これは私自身の 「 身勝手さ 」 と 「 無知 」 が招いた ジレンマ であり、なんとも遺憾に思う次第である。
交通法規によると、自転車は 「 軽車両 」 の扱いで、これは車の仲間だとみなされ、原則として 「 車道の左端 」 を走ることになっている。
例外として、「 自転車歩道通行可 」 の標識が設置された歩道では、三つの条件を守ることで、歩道上の通行が許されているらしい。
一つ目の条件は 「 中央から車道寄りの部分を通行すること 」、二つ目は 「 徐行すること 」、三つ目は 「 歩行者がいれば一旦停止すること 」 だ。
そうなると、「 歩道を猛スピードで走る 」、「 車道で車の前方を走る 」 などといった例は違法であり、結局、自転車側のマナーが悪いということになる。
つまり、すべての自転車が交通法規を守ってくれていたら、こちらも矛盾を抱えたり、自己嫌悪に陥らず済んだわけだが、現実的には困難だろう。
自転車を運転する大半の人が、おそらく、そんな交通法規が存在することや、遵守の必要性について、認識が薄いのではないかと思う。
単車や自動車と違って、ライセンスを取得・更新する必要もないし、教習所に通う機会もないのが、その大きな理由として考えられる。
いくら頭が良くても、学校や家庭で教えてくれないことや、未体験の事柄は知らないわけで、それは無理も無い話だ。
知っている人には 「 常識 」 でも、知らない人には伝わらないことが、世間にはたくさんあって、知っているかいないかで、物事の判断は違ってくる。
冒頭の言葉が示した通り、自分の無知さ加減を知って、未知の事柄を少しづつ学んでいくことにより、人間は成長していくものなのだろう。
週末、首都圏にある660以上の駅で、「 日本信号 」 という会社の製造した自動改札機が不具合を起こし、作動しなくなるトラブルがあった。
マスコミ各社は、そこまで報道しなかったけれど、この 「 日本信号 」 という会社は、技術開発力の高さだけでなく、「 特殊な事情 」 のある会社だ。
社員の顔ぶれをみると、異常なほど 「 元 公務員 」 が多く、つまり、国会でも問題になっている、典型的な 「 天下り先企業 」 である。
全国の交差点などに設置される信号機の大半を納入しているが、それと、従業員に 「 警察のOBが多い 」 ことが、まるで無関係とは思えない。
マスコミは、不具合を通じて 「 天下り企業の問題点 」 を世論化するべく、あえて企業名を明かしたのだが、それに気付く人は少なかったようだ。
公務員制度改革、天下りの横行を叫びながら、この企業を擁護する御仁もいたりして、「 無知 」 が生み出す矛盾というものを、改めて感じた。
それと同じように、「 北朝鮮の悪行 」 を責めながら、片方で、北朝鮮への資金援助に 「 無意識で協力している人々 」 が多いことに驚く。
パチンコ店の経営者は、在日韓国人が60%、朝鮮人が30%、中国人と、日本人が各5%づつという構成になっていることを、ご存知だろうか。
なかには、「 たかがパチンコ 」 と思われる方もいるだろうが、パチンコ業界の市場規模は30兆円もあり、北朝鮮への莫大な送金ルートになっている。
北朝鮮と親交の深かった 旧 社会党 ( 現 社民党 ) の 土井 たか子 氏 が、パチンコ好きをPRしたとき、「 庶民的ね 」 と騙された人も多い。
物事は、表面だけを眺めてもわからないことが多く、実態を知るや、自分が主張と相反する行動をとっていたなんて話も、珍しいことではない。
この日記でも何度か書いたが、各種の公務員組合と結託している 民主党 に、社会保険庁の浄化など期待していると、たいへんなことになる。
そのためには、自分の 「 無知 」 に気付き、正しい情報を得て冷静な分析に務めることが大事だけれど、何が正しい情報なのかは、判断し難い。
もちろん、表面の情報が正しく、「 裏読み 」 が間違っている可能性もあるし、裏の情報なんてものは、新聞やテレビで公表されないことが多い。
最善手は、とにかく 「 偏った意見に固執せず、他人の意見にも耳を貸したうえで熟慮する 」 ことにあり、少なくともそれで 「 無知 」 は防げる。
「 教訓になったよ。 でも、何の教訓かはよくわからない 」
ジョン・マッケンロー ( テニス・プレイヤー )
This taught me a lesson, but I'm not sure what it is.
John McEnroe
彼は、審判への暴言の多さと、マナーの悪さから 「 悪童 」 と呼ばれた。
しかし、感情の豊かさが人間味を感じさせ、世界中のファンから愛された。
熱戦から一夜が明け、世間の反応は、やはり 亀田 大毅 選手 への批判に溢れ、彼に勝利した王者 内藤 大助 選手 への賞賛で埋め尽くされている。
特に最終ラウンドは、ボクシングというより 「 街のケンカ 」 に近い様相で、試合を棄てた 亀田 選手 が、猛然と意地をぶつけていた印象が強い。
私は年をとったせいか、18歳の “ 悪童 ” に対して 「 可愛い 」 と思う部分も多いのだが、スポーツである以上、「 反則 」 だけは容認できない。
特に、減点をとられた場面よりも、見えないところで コソコソ と、小刻みな反則を重ねていたことに、呆れと、怒りを感じる。
内藤 選手 も試合後に語っているが、「 かなりの資質を持った選手なのだから、もっとクリーンな試合を心掛けるべき 」 という意見に、私も大賛成だ。
スポーツの感動は、鍛錬を積み重ねた選手たちが、堂々と己の死力を尽くして競い合う姿にあり、それをつまらなくしてしまうのが 「 反則 」 である。
つい先日、アメリカ女子陸上界の女王 マリオン・ジョーンズ は、ドーピング ( 禁止薬物使用 ) を認め、メダルを返上したが、これも一種の反則だ。
亀田 選手 の場合は、本人のみならず、セコンドを務めた父親が、指示を出していたとの疑惑もあり、事実なら厳正な処分が下されるはずである。
ある意味、スポーツで反則が厳罰の対象となるのは、日常の世界が不正な事柄で溢れているため、スポーツだけは … との願いがあるかもしれない。
多くの人々が、彼らに向け 「 卑怯者 」 となじるのは仕方のないことだけど、世の中には、いくらでも 「 嘘 」 や 「 ズルさ 」 や 「 反則 」 が満ちている。
身近なところで、私が 「 反則 」 と感じるのは、日頃、男女同権を主張し働く キャリア・ウーマン の中で、失敗した途端に 「 女性の顔 」 を出す人だ。
そんな人を見つけたら、とりあえずは 「 可愛いから許しちゃう♪ 」 と言って油断させ、きっちり評価は下げておくのが最善策であろう。
あるいは、「 骨身を惜しんで働きます 」 と言うから採用したのに、ちっともヤル気をみせない社員なども、経営者からみれば 「 反則 」 である。
つまり、決められたルールを守らなかったり、状況に応じて二つの顔を使い分けたり、周囲に期待だけさせて裏切ったりなんかする卑怯な行為を指す。
もっと重い反則の事例としては、食品偽装や、耐震偽装などの手抜きやら、儲かるはずない投資が挙げられ、そこまでいくと 「 詐欺 」 と呼ばれる。
伊勢の名物で知られる 「 赤福餅 」 は私も大好物だが、この度、30年以上に亘って 「 製造日を偽装 」 していたことが判明し、波紋を広げている。
赤福は創業300年の老舗で、原料となる良質の砂糖が調達できなかった終戦直後は1年以上も営業を自粛し、その間、従業員に給料は支払った。
食品衛生法に抵触するかどうかよりも、そんな先代の心意気を忘れ、顧客の信頼を裏切り、評判を貶めたことが、最大の 「 反則 」 である。
それに比べれば、右も左もわからない18歳の反則なんて 「 可愛いもの 」 だが、問題は、それをどう受け止め、自分がどう変わっていくかだ。
冒頭の言葉のように、「 とりあえず反省しておくか 」 というだけでは進歩がなく、頭を下げさせるより、周りの大人が丁寧に教えることが肝心だろう。
2007年10月11日(木) |
亀田 大毅 VS 内藤 大助 戦 |
「 けたはずれの人物が、人事採用に受かることは滅多にない 」
ポール・グッドマン ( アメリカの作家 )
Few great men could pass Personnel.
Paul Goodman
就職活動で面接に向かうことを、とても不安に感じる学生が多い。
そんな彼らに、私は、「 面接官の不安のほうが大きい 」 ことを教えている。
面接を受ける学生は、失敗しても別の企業に活躍の場を求めれば済む話だが、採用を担当する人事の社員には、選択の 「 失敗 」 が許されない。
とんでもない人物を採用した場合、当事者だけでなく、「 一体、誰が採用したのか 」 という責任を問われるわけで、常に、その不安と闘っている。
そのせいか、どうしても 「 減点主義 」 の評価法を採らざるを得ないので、明らかな欠点のある天才より、無難な凡人を受け入れる傾向が強い。
天才というものは、たいてい 「 ある種の極端さ 」 を擁しており、付加価値も高いかわりに、面接官からみると、深刻な欠点も持ち合わせているものだ。
昔から、「 天才とキチガイは紙一重 」 と言うが、その 「 極端さ 」 を成果に結びつけた者は天才と呼ばれ、害悪をもたらせばキチガイと呼ばれる。
ボクシング WBC 世界フライ級タイトルマッチが行われ、王者 内藤 大助 が、亀田3兄弟の二男で同級14位の 亀田 大毅 を判定で下した。
勝てば最年少王者となる18歳の挑戦者 亀田 と、勝てば最年長防衛記録となる33歳の王者 内藤 による一戦は、試合前から話題を集めていた。
試合は、さほど一方的な展開でもなかったが、体力にまさる 亀田 の攻撃を巧みにかわし、細かくポイントを稼いだ 内藤 の、技術が上回った結果だ。
内藤 は、試合後のインタビューで 「 前の対戦相手より弱かった 」 と語ったが、弱いという印象はなく、未熟さ、稚拙さの露呈が敗因かと思う。
負けはしたけれど、終盤まで衰えない持久力と、闘志は 「 半端 」 じゃなく、これが リング ではなく 路上 の喧嘩なら、違う結果が出たことだろう。
残念なのは、やはり相変わらず 「 マナー が悪い 」 ところで、特に、判定が出た直後、対戦相手と健闘を称えあうこともせず、立ち去ったのは問題だ。
もちろん勝敗は最重要だが、スポーツの真髄は 「 どう闘ったか 」 という点にあり、それを怠ると、勝ったところで尊敬はされない。
試合中の反則が 「 減点 」 対象となるのは当然だが、礼節を欠く言動も、大衆からの広い支持を集めるうえで、やはりマイナスの評価となる。
亀田 一家 への批判が多い中、すべてを擁護するわけではないが、選手としての実力と将来性は素晴らしく、育てた父親の功績も大きい。
そろそろ、当初の 「 極端さ 」 から路線変更すべきかと、彼ら自身も悩んでいるのではないかと思うが、「 ひっこみがつかない 」 のかもしれないなぁ。
「 人生は列車のようなもの。
時に遅く走ることは予測のうちだが、脱線だけは困る 」
ウィリー・スタージェル ( メジャー・リーグのパワーヒッター )
Life is like a train. You expect delays from time to time. But not a derailment.
Willie Stargell
上手く 「 delays = 遅延 」 と 「 derailment = 脱線 」 で、韻を踏んでいる。
39歳で 「 史上最年長の MVP 」 に輝いた、苦労人らしい名言だ。
だいたい、景気が悪くなると、あちこちから 「 公務員が羨ましいよ 」 という、愚痴とも雑言ともつかぬ声を、耳にする機会が増えるようだ。
報酬は必ず定額が保証され、熾烈な競争に打ち克たなくても、特に活躍が見当たらなくても、何の役に立たなくても、加齢と共に確実に増えていく。
逆に言うと、それ以上の収入がまったく見込めないので、大きな借金を抱えたり、大それた野望を持つ人にとっては、あまり適した職業ではない。
そのせいか、私の知る公務員の方々は、同じぐらいの収入を得る民間企業の勤め人よりも、生活が質素というか、ようするに 「 ケチ 」 な人が多い。
公務員なのに羽振りが良すぎると、「 何か悪いことでもしているのでは … 」 なんて心配を周囲がするので、ことさらに堅実さを主張する人もいる。
行き過ぎた競争社会にも弊害はあるだろうが、競争とは 「 切磋琢磨 」 することの同義語であり、それを取り去って、社会の向上は在り得ない。
本当は、もっと公務員にも競争原理を取り入れるべきであり、能力の有無や、やる気の違いが、地位や報酬、雇用にまで及ぶことが望ましい。
私は、自分の会社を創業するにあたり、定款から 「 定年制 」 を外したが、それは、人間の能力や実績や個性を 「 みな同じ 」 と思わないからだ。
公務員の場合も、能力や個性の高い人物がいる一方で、まったく使えない人物や、やる気のない御仁もいるはずである。
それを 「 みな同じ 」 にしているのは、役所ごとに君臨する 「 組合 」 という名の組織による企みで、改革を目指しても、彼らの存在が立ちはだかる。
福田首相は、省庁による再就職あっせんを一元化するため、08年に設置する人材バンク 「 官民人材交流センター 」 の見直しを示唆した。
これは、政府による公務員制度改革の一環であり、いわゆる 「 天下り 」 を減らそうとする試みだが、実際のところ、欠陥や問題点が多い。
下手をすると、今よりも天下りを奨励することになりかねぬ 「 欠陥法 」 で、その弊害を追求する野党の姿勢は正しいといえる。
公務員が退職後、民間企業で才能を発揮するのは良いことだが、退職後のポストと引き換えに、役人から便宜をはかってもらう悪習は断つべきだ。
それを防ぐには、人材バンクの創設を急ぐより、「 官 」 と 「 民 」 の接触を制限するガイドラインを敷くことが、優先課題だと思う。
年金問題もそうだが、社会保険庁などをはじめとする公務員制度の改革について、民主党 の追求は、いつも 「 肝心な部分 」 にまでは及ばない。
管理が杜撰だ、不祥事が多いと叫びつつ、与党が 「 では、解体しましょう 」 と提案すると、途端に トーンダウン して、省庁の擁護にまわる。
これは、自治労などの組合を 「 票田 」 に持つ 民主党 の事情によるもので、与党は叩きたいが、どうしても組合とは対峙できない宿命がある。
組合から 「 膨大な内部情報の リーク 」 を得て、いくらでも与党を追求できるのだが、決して自分たちの手では役所を 「 浄化 」 できない。
民主党 こそが、公務員組合の 「 御用組合 」 になっているわけで、彼らが政権を獲ったら、それこそ、組合の 「 やりたい放題 」 になってしまう。
物事を良くする意味で使う 「 改革 」 と 「 改善 」 の二つの言葉は、既存の ルール に基づいて、変更を加えるという点では一致している。
異なる点は、通常、「 改革 」 が 「 上から ( トップの指示で ) 行われる 」 のに対し、「 改善 」 は 「 下から ( 現場の努力で ) 行われる 」 違いだ。
つまり、自民党 は、上から バッサリ と組合に メス を入れようとし、民主党 は、それを阻止しながら、下からの努力こそ必要だと騒いでいる。
公務員の方を愚弄するわけではないが、競争の激しい民間企業でも困難な 「 己との闘い 」 に挑み、各人の自己努力で、この問題が解決できるのか。
果てしなく続く長い線路を、安全第一で緩やかに進んできた車両が、突如、乗客の期待に応えて、脱線を覚悟で突き進むとは、想像がつかない。
2007年10月09日(火) |
最近、民主党 小沢 代表 の様子がおかしい |
「 私は ミス に寛大だ。 特に、自分のに対しては 」
英語のジョーク
I'm generous to a fault - especially if it's my own.
Engkish joke
私の父親は、自分を厳しく律し、他人には寛容な態度で接していた。
子供心に 「 立派だ 」 と思ったが、その息子は、なかなか真似できない。
口で言うのは簡単だが、「 自分に厳しく、他人に優しく 」 という姿勢を継続するのは、実に難しく、揺るぎない平常心と、強い忍耐力の要る作業だ。
私の場合は、「 自分に時々は厳しく、他人に時々は優しく 」 てな程度だが、それでも、常に、一つだけ気をつけていることがある。
それは、「 自分に出来ないことを他人に要求しない 」 という心掛けで、それさえ守っていれば、あまり他人から後ろ指を指されることはない。
たまに、「 自分に甘く、他人に厳しい 」 人がいて、それも一つの生き方ではあるけれど、なんとも 「 みっともない 」 もので、恥ずかしくないのかと思う。
自分も怠け者のくせに ニート を批判したり、ロクな働きもしないのに他人を無能扱いする連中が、近頃、どこにでも居て目立つ。
自分のことは棚に上げ、他人を批判する輩のことを、昔は 「 自分勝手 」 と呼んだが、近頃では 「 自己愛性人格障害者 」 と呼ぶ傾向にある。
自己愛性人格障害者は、「 自分は優れている 」、「 自分は特別である 」 という思い込みによって、自分という存在を守っている。
自分は特別だから、何をしても許されるし、自分は優れているので、賞賛されるべきだと考えており、現実の自分は 「 仮の姿 」 くらいに考えている。
彼らにとって周囲は 「 その人に賞賛を捧げるための取り巻き 」 にすぎず、けなしたり、批判した者は、無能呼ばわりして切り捨てる。
ブログの掲示板で、少しでも批判めいた書き込みがあると、烈火の如く怒り出す人もいるが、そういう 「 賞賛以外は要らない 」 人が、このタイプだ。
政治家では、民主党 の 小沢 一郎 氏 にその兆候が強くみられるようで、過去の同盟関係が破綻した経緯、現在の言動にも片鱗が現われている。
この度、小沢 一郎 氏 の資金管理団体である 「 陸山会 」 が、政治資金で購入したマンションを他者に賃貸し、家賃収入を得ていたことが分かった。
現在、彼が代表を務める 民主党 が、「 政治とカネ 」 の問題で与党を追及し、政争の ネタ にしていることを、彼が知らないはずはない。
必然的に、自分のやっていることが 「 政治資金規正法 」 に抵触するか、仮にしなくても、問題視されることぐらいは想像がつくはずである。
普通なら、「 身の回りをキレイにしておく 」 ものだが、そうした工作の足跡もないし、発覚してからも、まるで反省した様子がみられない。
また、比較的安全な 「 インド洋上での給油活動 」 を憲法違反とした上で、実弾が飛び交うアフガンへの派兵を、不思議と積極的に推進している。
そのため、同党内からも反対の声が上がっているけれど、反対意見には、まったく耳を貸さず、怒りこそ表面に出さないが、いぶかしげな顔をみせる。
現在、民主党 は与党へと 「 年金問題 」 で激しい質問をぶつけているが、小沢 氏 自身は関心が薄いようで、ほとんど議論に参加していない。
実際、安倍前内閣時で代表質問に立った 小沢 氏 は、「 私は年金のことに詳しくないですが … 」 と、責める野党らしからぬ発言も残している。
これらの要素を総合的に分析してみると、「 他人の本当の心には無関心で、自分の目的と、賞賛だけを欲する 」 自己愛性人格障害に当てはまる。
私としては、民主党 でも 自民党 でも、どっちでも良いのだが、政権を担う政党の代表が 小沢 氏 というのは、実に不安を感じる。
発言の内容だけでなく、記者会見などにおける彼の表情や、話し方をみても、どこか 「 上の空 」 な様子が多く、少し違和感がある。
安倍前総理 が失脚したように、政治家は政策が マトモ でも、その人物像に問題があると、国民の支持が得られず、政局は混迷をきたす。
民主党 の代表には、以前、つまらない 「 デマ・メール 」 の責任を取る形で降りた 前原 氏 のほうが適任で、政策面でも、人物面でも好感がもてる。
本気で国政を担う気があるなら、民主党は 「 脱・小沢 」 を考えたほうが、彼らにとって望ましい形になるのではないかと思う。
2007年10月08日(月) |
年金着服職員を告発しない自治体 |
「 専門家とは、いつも同じ間違いを繰り返す人たちのことである 」
ヴァルター・A・グロピウス ( ドイツの建築家 )
Specialists are people who always repeat the same mistakes.
Walter A. Gropius
ある特定の分野に詳しいからといって、何でも知っているとはかぎらない。
むしろ、まったく逆で、バランスを欠いているケースが多いかもしれない。
冒頭の名言が示すように、専門家と呼ばれる人の一部は、特定の分野に精通するあまり、同じ間違いを繰り返しても、それに気付き難いことがある。
高名な大学教授が、小学校で学ぶ漢字を間違えて覚えていたり、庶民派を名乗る政治家が、バスの初乗り料金を知らなかったりする例も珍しくない。
そういうのは、概ね 「 世間知らず 」 と呼ばれ、一般常識が足りないとか、世の中の実態への把握度が低い結果として、軽い嘲笑を誘ったりする。
また、世間の通例からみたら 「 非常識 」 だが、特定の業界では 「 慣例 」 となっている事柄は多く、その大部分も、笑って済まされるものである。
唯一、笑い事でないのは、世間で 「 犯罪 」 と判断されることが、ごく一部の業界で、長年に亘り容認され、習慣化されてしまっているケースだ。
過去において年金を着服した全職員に対し、舛添 厚労相 は 「 刑事告発 」 する準備を進めているが、自治体の多くは、それが気に入らないらしい。
各自治体からは、該当者が 「 全額弁済した上で懲戒処分を受けている 」 という意見が寄せられ、既に厳正な処分が行われたことを主張している。
なかには、厚労相 に対し、「 大臣が何を指摘しようが、告発しない方針を変えることはない 」 と、かなり強気な対決姿勢を示す自治体もあるという。
たしかに、「 一度、罰した者を、再び処分する 」 ことに反論する気持ちもわからないではないが、組織内で罰すれば、すべて帳消しになるのだろうか。
この問題がどのように決着するかは、単なる 「 政界の内輪モメ 」 でなく、国民の監視が必要な事項として、見守る必要があるように思う。
たとえば、民間企業の従業員が金品を横領した場合、それは刑事告発の対象となり、当事者は 「 犯罪者 」 として警察に突き出される。
例外的に、よほど 「 やむを得ない事情 」 があったり、被害が小額であった場合などは、警察に届けず、社内の処分で済ますこともあるだろう。
その判断は普通、経営者によって下され、温情に厚い社長さんが、部下の不始末をかばって助けた話なども、美談として聞いたことがある。
そう考えると、市長が窓口の公務員をかばっても、不思議はないように思われがちだが、民間企業と公務員では、「 お金の出場所 」 がまるで違う。
私企業と違い公務員の場合は、「 会社のお金 」 でなく 「 市民の公金 」 を横領しているのだから、市長が勝手に処分の軽重を決めてはいけない。
話は変わるが、所属力士の死亡した責任が問われていた 時津風 親方 は、日本相撲協会から 「 解雇 」 の処分が下されたらしい。
解雇の理由として、北の湖 理事長は 「 協会の信用、名誉を著しく失墜させたことが一番大きい 」 と語ったが、この発言には憤りを感じる。
最も責任重大なのは、世間の誰がみても 「 力士を死なせた 」 ことであり、協会の信用や名誉など、ごく一部の人々を除けば関心のないことだ。
また、理事会がすべきことは、協会として当事者をどのように処分するかではなく、警察の捜査に協力し、犯行の全貌を解明することである。
たとえば 「 八百長疑惑 」 だとか、内部的な信用や利害の範囲内に関する事柄なら、内部で裁いてもよいが、「 殺人 」 まで同様に扱われては困る。
年金着服問題に関する自治体の対応や、殺人事件に関わる日本相撲協会の発言などは、まったく常軌を逸しており、当然、世論の反撥は大きい。
彼らの場合、「 世間知らず 」 というよりも 「 思い上がり 」 の要素が大きく、自分たちに与えられた裁量というものを曲解し、過剰に捉えすぎている。
殺人や公金横領などの 「 重大犯罪 」 に処分を下す権限は、彼らに与えられておらず、それはすべて警察機構に委ねなければならない。
市長だ、理事長だ、と肩書きが付いたことで、内規に裁量を振るってもよいが、職権を乱用して、「 司法の分野 」 にまで介入することは許されない。
今後は、「 刑事告発しない自治体の首長 」 も、犯人隠蔽の罪により告発をすべきであり、もっと国民は怒りをぶつけるべきかと思う。
2007年10月07日(日) |
国連決議に従うことが、本当に重要なのか |
「 自由は、決して圧制者の方から自発的に与えられることはない。
しいたげられている人間のほうから、要求しなくてはならないのだ 」
キング牧師 ( アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者 )
Freedom is never voluntarily given by the oppressor ; it must be demanded by the oppressed.
Martin Luther King, Jr.
文中の “ oppressor ” は、圧制 ( 迫害 ) 者、暴君 などの意味を指す。
外国新聞の海外取材、政治欄などをみると、よく登場する言葉である。
その国の文化的成熟度をはかるうえで、大きな尺度となるのが、「 不当な手段によって、誰かが圧迫されたり、服従させられているか 」 という点だ。
どんなに経済力が高い豊かな国でも、強大な軍事力を誇っていても、そのような問題を抱えているようでは、先進国という名に相応しくない。
アメリカも、一連の公民権運動などを経て、やっと 1970年代になってから、世界中が認める先進国への仲間入りを果たした国の一つといえる。
現在も、大国と呼ばれる中では、ロシアと中国の一部において、「 少数民族への迫害や弾圧 」 が横行し、頻繁に人権問題として取り上げられている。
オリンピックを来年に控え、経済発展の著しい中国が、いまだに 「 巨大な開発途上国 」 と呼ばれる一因も、そのあたりにある。
5日、国連安全保障理事会では 「 ミャンマー問題に関する公式会合 」 を開き、この問題について初めての公開協議を行うことになった。
安保理によるミャンマー問題への介入に難色を示し続け、ずっと最後まで非公開協議を主張した中国が、国際世論に押し切られた形である。
中国やロシアが反対の態度を示す背景には、「 安保理が人権問題を扱う前例を作りたくない 」 という思惑があり、今後も、その調整が難しい。
組織的な人権侵害を 「 脅威の前兆 」 とみなし、安保理が積極的な介入を始めると、それは将来、彼らの抱える問題にまで飛び火する恐れがある。
国連決議を 「 正義の象徴 」 だと語る政治家もいるが、けして一枚岩ではなく、常任理事国の思惑や利害により、左右されやすいものなのだ。
中国が拒否権を行使してまでも、ミャンマー制裁に反対する別の理由としては、ミャンマーとの間における 「 エネルギー問題 」 が考えられる。
相互間には、資源の輸出入において多額の実績があるうえ、地理的な問題などもあって、ミャンマー国内には中国のパイプラインが走っているのだ。
万が一、大規模な紛争やら戦乱に発展すれば、中国としても甚大な被害が発生するので、そのような事態は避けたいと願うのが普通だろう。
また、たとえ平和的な解決方法でも、現在の軍事政権と取り決めをしている一元的な協定が、白紙になる危険があるので、民主化に転換しても困る。
つまり中国としては 「 ミャンマーが現体制を維持し、欧米先進諸国や、国連安保理などの介入を受けない 」 ことが、彼らの理想なのである。
日本はミャンマーにとって、最大の主要援助国であるうえ、今回の騒動ではジャーナリストの命まで奪われたが、国連での発言力を持たない。
ミャンマー問題を解決する機能は中国が握っており、国際世論との調整をはかりながら、いかに沈静化させるのか、彼らの手腕が問われている。
このような現状をみるかぎり、やはり国連という組織は、開設当初における 「 第二次大戦での戦勝国間の利益調整機関 」 から、何も変わらない。
大国が集まって、お互いの利害を調整した話し合いの結果が、小国のためになるとはかぎらないし、それが 「 正義 」 である保証など、どこにもない。
ミャンマー問題だけでなく、イラクやアフガニスタンの問題も、同じような調整の結果が 「 国連決議 」 であり、鵜呑みにする政治家は思慮が足りない。
2007年10月06日(土) |
コンビニ店員刺殺事件 |
「 その同じ人物が、死んでしまえば愛される 」
クィントゥス・ホラティウス・フラックス ( 古代ローマの詩人 )
The same man will be loved after his death.
Quintus Horatius Flaccus
人が死ぬと、「 仏さま 」 や 「 お星さま 」 になると説く人がいる。
子供の頃から私は、「 そんなわきゃ、ねーだろ 」 と思い続けてきた。
どれほど利口な人物であっても、その様子を窺い知ることのできないものが 「 死後の世界 」 であり、その全貌は謎に包まれている。
誰かが一度、試しに死んでみて、それから戻ってきて報告するという作業ができないので、この謎だけは永遠に解明されることがないだろう。
たまに、九死に一生を得たという人物が現われ、死の淵をさまよいながら 「 あの世を見た 」 なんて話も聞くが、なんとも信じ難いものだ。
それは 「 死後の世界 」 ではなく、その人の 「 死にかけた状態で見た夢 」 だと考えるほうが、科学的には説明をつけやすい。
人が死ぬと何処へ行くのか、どういう状態になるのか、電源を切ったテレビ画面のように プツッ と消滅して何も無くなるのか、誰にもわからない。
なのに、「 天国とは、こういう場所だ 」 とか、「 地獄とは、こういう場所だ 」 と語る宗教家が世界中に溢れ、それを信じる人間も倍以上にいる。
死期が目前に迫ると、それ ( 死んだ後のこと ) が気になるのかもしれないけれど、元気なのに、そんなことを考える気持ちが、私には理解できない。
いづれにせよ、よほど年老いたり、不治の病にでもならないかぎり、死んでからのことを考える暇があったら、今を楽しんで生きたほうが賢明だろう。
大事なことは 「 死んで、どうなるのか 」 よりも、命のある間に 「 どう生きたのか 」 であって、「 死に方 」 より 「 生き方 」 のほうが、何万倍も重要だ。
マトモな生き方をしなかった者を、死んだからといって 「 仏さま 」 だとか 「 お星さま 」 なんて扱い方をする風潮には、ずいぶんと疑問を感じる。
偶然だと思うが、この1ヶ月間に 「 店員が、万引き犯人を乱暴して死なす 」 という事件が 3件も連続して起こり、いづれも傷害致死などで逮捕された。
多少の怪我を負わせたとしても、万引き犯人が死に至らなかった場合は、むしろ 「 お手柄 」 として、犯人検挙の功績が認められたかもしれない。
店員は、「 生け捕りにすれば功労者 」、「 犯人が死ねば加害者 」 であり、万引き犯人は、「 生きていれば加害者 」、「 死んだなら被害者 」 である。
たしかに、いくら犯罪者といえども、いたづらに生命を奪うことは許されないが、たとえ死んだからといって、「 悪人 」 が 「 善人 」 に化けはしない。
特に日本人の場合、どんな生き方をした者でも、死者に敬意を払いすぎる傾向があり、それが 「 自殺 」 を多く生む元凶にもなっている。
大阪府のコンビニ店で、今度は 「 逃走する万引き犯人を捕らえようとした店員が、犯人の隠し持ったナイフで刺殺される 」 という事件があった。
マスコミは、被害者を 「 正義感の強い青年 」 と称え、犯人を憎悪の対象として報道している。
前述の 「 傷害致死に問われた店員 」 と、この 「 正義感の強い青年 」 とは、一体、どこが違うのか、その点について疑問に思う。
① 犯人が万引きをする ⇒ ② 犯人を追跡する ⇒ ③ 犯人を捕らえる までの経緯については、前者も後者も、まったく同じである。
唯一、異なる点は 「 犯人が死んだ 」 か 「 店員が死んだ 」 かだけで、その差が 「 殺人犯 」 と 「 正義漢 」 を分かつのは、いかがなものだろうか。
傷害致死に問われた店員の場合、万引き犯人を捕らえてからの拘束した状態で、必要以上の暴行を加えたのかもしれない。
しかし、もし手加減をしていたら、あるいは、もし万引き犯人が凶器を持っていたら、彼らの方が生命を奪われていた可能性もある。
見ず知らずの万引き犯人が、どの程度の格闘力を持っているのか、凶器を携えているのかなど、その場で瞬時に見極めることは難しい。
まして、どのような持病があるのか、どの程度の攻撃で死に至るのかまでは知る由も無く、「 犯人が死んだから、お前が犯人 」 では何もできない。
もちろん、そっと盗まれるのを眺めているだけなら、少なくとも加害者になることはないが、それでは店舗の損失を招くし、店員の職責を果たせない。
武道の心得がある人なら、ご理解をいただけると思うのだが、向かってくる敵を倒す以上に、逃走する敵を確保するのは難易度が高い。
基本的に、「 死なない程度に動けなくする 」 ためには、足を狙うのが一番だが、それでも犯人が転倒して頭でも打ったら、死なないとはかぎらない。
それも、ある程度の知識と経験がなければ、どこに打撃を加えれば効果的かということが、わからないし、教えてあげても実践できないだろう。
偉そうに言う私とて、長い間、そんな経験はしていないし、年もとったから、若くて威勢のいい巨漢に絡まれたら、正しく対処できるか自信がない。
ある日突然、暴漢に対峙して、相手を死なせてしまう危険は誰にでもあり、獄中から 『 今夜の気分 』 を綴る可能性が在り得ないわけではない。
この世界に 「 生まれてこないほうがよかった人間 」 はいないが、生き方により、もはや 「 死んだほうがいい人間 」 というものは存在する。
たとえば死刑囚は、「 死んだほうがいい人間 」 と成り果てたわけであって、万引き犯人の場合、そこまでいかないが、罪人であることに変わりは無い。
罪人は、警察官や、現行犯の場合は一般人にでも捕獲される 「 理由 」 があるわけで、その際に抵抗すると、死傷するリスクは覚悟すべきだろう。
暴論かもしれないが、明確に故意と認められないかぎり、民間人が罪人を現行犯逮捕する際、犯人が死傷しても咎めない法を適用すべきと思う。
どんな輩であろうと、「 死んだら善人 」 みたいな風潮では、万引き犯人は死なないかもしれないが、世の中から 「 正義 」 が死滅する。
2007年10月05日(金) |
南北首脳会談で不安に感じたこと |
「 共通の敵を持つほど堅固な友情の絆 ( きずな ) はない 」
フランク・フランクフォート・ムーア ( イギリスの作家 )
There is no stronger bond of friendship than a mutual enemy.
Frank Frankfort Moore
日暮れ時、仕事帰りの社員が居酒屋に集まり、上司の悪口で盛り上がる。
普段、さほど仲の良くない者同士が、にわかに 「 同盟 」 を組む瞬間だ。
友達の定義は様々で、お互いを親友と認め合う関係もあれば、知り合いに毛が生えた程度のものまで、色々な友達関係がある。
私の携帯電話は、アドレス帳を 「 仕事 1~5 類 」、「 友人 」、「 便利帳 」、「 親戚 」 の 8グループ に分類し、フォルダ登録している。
仕事の関係は、あらかじめ決めた規則に基づき 「 1 ~ 5 」 に振り分けるので簡単だが、新しい友達をどこに登録するかは、判断に迷うことが多い。
たとえば、友達付き合いもあるけれど仕事仲間でもあるとか、まだ友達とは呼ぶほど親しくない場合に、どのフォルダを選択するべきか悩んでしまう。
万が一、彼女に見られた場合のことを考えると、女性の友達は 「 便利帳 」 に入れておいたほうが、「 飲食店の名前 」 とか言って誤魔化しやすい。
韓国 盧 武鉉 ( ノムヒョン ) 大統領と、北朝鮮 金 正日 ( キムジョンイル ) 総書記は、「 南北関係発展と平和繁栄のための宣言 」 に署名した。
7年ぶりの 「 南北首脳会談 」 は、インフラ整備などの支援を取り付けたい北朝鮮と、朝鮮半島の安寧を望む韓国側で、意見の合意を得た模様だ。
流れに乗じて、現在も 「 休戦状態 」 のまま継続している 「 朝鮮戦争 」 を終息に持ち込めれば 「 歴史的快挙 」 となるが、はたしてどうだろうか。
繰り返し、何度か協定を結んでは、「 北朝鮮が一方的に約束を破棄する 」 現象が続いてきただけに、宣言の効力は疑わしいと言わざるを得ない。
同じ民族、同じ言語なので、話し合いそのものは スムーズ に進行するが、国際社会が認める両国間の位置付けは、あまりにも違いが大きすぎる。
少し気になったのは、会談中に 「 北京五輪に向け、両国の合同応援団を組織しよう 」 という提案が出され、本格的にまとまりつつあるという話だ。
韓国、北朝鮮、そして中国は、スポーツの国際大会で 「 日本を敵視する 」 傾向が強く、反日感情を主張する舞台として利用する側面がある。
たとえば中国の場合、最初は愛国教育などの政府主導で煽られてきたが、最近では政府が抑制しても、大衆の 「 反日コール 」 が止まらない。
私も中国には会社を持っており、たまに訪ねていくけれど、同じ中国内でも上海と北京では、「 対日感情がまったく違う 」 ことを肌で感じている。
昔から貿易を中心に栄えた商業都市の上海では、日本人を 「 客 」 とみて接する人も多いが、北京は首都の誇りから、愛国心を主張する人が多い。
そんな北京で開かれる五輪に、南北朝鮮の合同応援団が詰め掛けたら、日本が参加する競技では、強烈な反日コールが起こるものと予想される。
冒頭の名言が示す通り、「 共通の敵を持つ 」 ということは、手っ取り早く、短時間で 「 友達 」 をつくるのに、簡単なうえ、強力な効果を発揮する。
韓国と北朝鮮は、「 軍事的敵対関係 」 でありながら、「 同胞 」 でもあるという矛盾を抱えた関係にあり、とても微妙で複雑な間柄にある。
お互いが、相容れない部分を持ちながら、仲良くなりたいという意識もあり、普通の方法で 「 真の和解 」 へ辿り着くには、相当な時間が掛かる。
当然、日本を敵視し合うだけで 「 親友 」 にはなれないが、表面的な和睦を保つために、お互いのわだかまりを 「 反日 」 へ向ける可能性が高い。
中国、韓国、北朝鮮の三国が、過去における歴史問題などをはじめとして、強い反日感情を持っていることは、既に周知の事実である。
ただし今までは、たとえば靖国参拝問題や、歴史教科書問題などに対し、三国が独自に声明を発することが大半で、協調する場面は少なかった。
懸念されるのは、中国でも対日感情の悪い北京に、合同応援団が現われ、反日をテーマに意気投合し、一つの 「 ムーブメント 」 に発展する怖れだ。
それは、南北朝鮮の和睦には利用されても、拉致問題の解決など、日本の国益にとって、悪い影響はあっても、プラスに作用することは考え難い。
韓国、北朝鮮が仲良くなることや、朝鮮半島の緊張緩和、平和保障に水を差すつもりはないが、「 合同応援団 」 に一抹の不安を感じる次第である。
2007年10月04日(木) |
民主党 小沢 代表 : 武力行使でも憲法に違反しない |
「 最近の我々は、必需品を買えぬほど、贅沢品にお金を費やしている 」
英語のジョーク
Nowadays we spend so much on luxuries we can't afford the necessities.
English joke
20年間も続く喫煙習慣をやめたのは、2年前の10月からだった。
以来、私にとって煙草は 「 必需品 」 から 「 不要品 」 に変わった。
前回の日記で、「 ヤクルト、大相撲、郵便局 」 が不要だと書いたが、要る、要らないの判断は、個人の嗜好的な問題でもあるだろう。
たとえば、私が喫煙していた頃に、もしも 「 煙草なんか要らない モノ 」 だと言う人がいたら、あるいは反論していた可能性もある。
ヤクルト にしても、「 敵チームの優勝に手を貸す姿が大好き 」 なんて人にとったら、かけがえのない大切な存在かもしれない。
大相撲 も、常に八百長疑惑があり、最近では、密室殺人まで引き起こした 「 裸の デブ による押し合い 」 が大好きな人には、必要な競技なのだろう。
郵便局 も、たとえ不正の温床であり続けようが、無駄使いを繰り返そうが、民営化によって数を減らすことは好ましくないと、考える人がいるらしい。
何が必需品で、何が不要かについては、人それぞれ意見の分かれるところだが、特に、趣味、嗜好の分野においては、考え方の違いが大きい。
たとえば、私は 「 パチンコ 」 なんて要らないと思うけれど、ギャンブル好きの友人によると、「 それなしでは、生きていけない 」 ほど大切らしい。
若い人の中には、「 携帯電話がないと生きていけない 」 なんて人も多いのではないかと思うが、中高年の大半は、それを必需品とは考えないだろう。
もしも、「 あなたにとって、何が必需品で、何が不要ですか 」 という内容のアンケート調査をしたら、その人の価値観や、行動が窺えるかもしれない。
煙草やパチンコや麻雀を必需品と答えた人は、おそらく愛煙家で、余暇はギャンブルを楽しむのがお好きなのだろうということが、簡単に推察できる。
日本国内では、毎年3万人以上も自殺する人がいるけれど、彼らにとって 「 自分の命 」 なんてものは 「 必需品ではない 」 らしい。
たぶん大部分の人は、贅沢をしたり、見栄を張ったりすることよりも、命の方が大切だと考えるのではないかと思うが、そうでない人も存在する。
お金が無いことを理由として自殺する人もいるが、「 自分の命など不要 」 とする価値観の人に、お金を与えたところで、有意義には使わないだろう。
そのあたりは、必要、不要というよりも、物事への 「 優先順位 」 に対する考え方の違いであり、命を粗末にする人と、そうでない人は折り合えない。
いくら立派な御託や、賢そうな理屈を並べても、自分や他人の命について、優先順位の下位に置いている人の意見には、ちょっと警戒が必要だ。
民主党の 小沢 一郎 代表は、「 政権を担う立場になれば、アフガニスタンでの国際治安支援部隊への参加を実現したい 」 と、党機関紙で述べた。
これには、「 憲法が禁ずる海外での武力行使 」 にあたるのではないかと、民主党内にも異論があるようで、今後、意見の調整が必要になるだろう。
小沢 氏 は、「 国連決議に基づく国連の活動であれば、海外での武力行使でも憲法に違反しない 」 と、「 国連決議 」 の効力を重視しているらしい。
ちなみに、「 アフガニスタンでの国際治安支援部隊への参加 」 の内容は、後方支援でなく 「 実戦 」 だから、交戦して死傷者の出る危険が高い。
ご存知の通り 小沢 氏 は、比較的に危険度の低い 「 インド洋上での海上自衛隊の給油活動 」 は、憲法違反だからという理由で猛反対している。
つまり、小沢 氏 の持論によると、「 国民の命 」 が危険に晒されることよりも、「 国連決議 」 や 「 憲法 」 を守ることの方が、優先順位は上である。
自衛隊に、「 インド洋の仕事は安全だが、違憲だから中止せよ 」 と伝え、「 アフガニスタンの危険な実戦は、合憲だから参加せよ 」 と言う予定だ。
私は、頭が悪いせいか、「 国家や人々の安全を守るために、憲法や国連がある 」 と思い込んでいたが、小沢 氏 の考えでは、まったく逆らしい。
国連決議は何よりも優先され、そこで決まった事柄は無条件に合憲となり、国民は憲法と国連決議のために、命を捧げるのが本筋という理論である。
安倍前首相が改憲を提起した際には、「 戦争をしたいのか 」 とお怒りの方もいたが、小沢 氏 は何の手続きも経ずに、前線へ派兵する予定らしい。
日本が名誉を重んじ、国際貢献に参加することは意義があり、それが安全な仕事ならなによりだし、多少の危険を伴っても、必要とあらば断れない。
ただ、給油活動をするにしても、前線で戦うにしても、「 人命が最も重要 」 という概念は、全国民、ましてや首相には持っていてほしいと思う。
どうして、人命が 「 憲法 」 や 「 国連決議 」 よりも軽く扱われるのか、そこのところが私には、まったく理解できないのである。
安全な仕事で他国を助けることは 「 憲法違反だから行くな 」 とし、危険な任務でも 「 合憲だから、死ぬ率は高いけど行け 」 では、本末転倒だろう。
自民でも、民主でも、どっちでもよいが、「 憲法 」 や 「 国連 」 を偏重して、「 人命 」 や 「 国際貢献 」 を軽視する傾向は、見直すべきかと思う。
2007年10月03日(水) |
不要なモノ : ヤクルト、大相撲、郵便局 |
「 無能なる者は、時や場所の壁を越えて存在する 」
ローレンス・J・ピーター ( 教育学者 )
Incompetence knows no barriers of time or place.
Laurence J. Peter
ただ存在するだけでなく、無能な者の存在は、すべてを台無しにする。
そのお手本が、今夜の 「 ヤクルト VS 巨人 」 戦であった。
あまり興味のない人には ピン とこないだろうが、今年のプロ野球は、終盤まで楽しめる展開で、特に セ・リーグ は、上位3球団の三つ巴で白熱した。
昨年の覇者 「 中日 」 が安定した推移をみせたのに対し、「 巨人 」 は序盤戦を順調に駆け抜け、「 阪神 」 は最下位から怒涛の追い上げを図った。
ペナントレース終了後、今年からは上位3球団参加による プレーオフ 制の 「 クライマックス・シリーズ 」 が行われ、3位までは優勝のチャンスがある。
逆に言うと、ペナントレース に優勝する価値というものは、昨年までに比べると低いのだが、それでも、ファンや選手達は、一位通過を願っている。
今夜の 「 ヤクルト VS 巨人 」 戦は、優勝マジックを 1 とした巨人が勝てば優勝の決まる試合であり、多くの野球ファンが注目を集める試合となった。
結果から先に言うと、1点を ビハインド した巨人が9回裏に逆転勝ちして、見事、1位通過を果たしたのであるが、なんとも後味の悪い試合だった。
勝負事なのだから、勝者があれば敗者もあるわけだし、巨人が勝ったことにも、ヤクルトが負けたことにも、それ自体には何の問題もない。
ただ、問題は 「 ヤクルト の負け方 」 で、1点をリードしつつ、2アウトから 「 最後のバッター ( になるはずだった ) 」 も、簡単に凡打に抑えた。
ところが、平凡なセカンドゴロを悪送球し、優勝決定戦としては前代未聞の 「 逆転サヨナラエラー 」 によって、巨人の一位通過を許したのである。
それを喜んだ人もいるだろうが、巨人ファンの中にも、なんだかしっくりこないような、後味の悪さを感じた人が多くなる結果となった。
何の根拠もないから、「 八百長 」 とは言わないが、その程度の技術力と、その程度の緊張感、集中力しか持たないチームは、加盟すべきでない。
上位3球団の緊迫感ある熱戦が、「 一体、何だったのか 」 と シラケ させた幕切れを演出したのは、4位に10ゲームも離された弱小球団であった。
ヤクルト では、今期の低迷した責任をとる形で、古田 監督 の退団が決定しているが、この試合の責任をとり、チーム自体が 「 解散 」 してほしい。
皆が一生懸命やっているときに、やる気のない者が一人でも混じると、全体のレベルが下がり、すべては 「 水の泡 」 になってしまう。
だいたい、都道府県別にみて、東京都だけが 「 巨人 」 と 「 ヤクルト 」 の二球団を擁するのも公正さに欠けるし、さっさと解散すべきだと思う。
野球以外のスポーツに目をやると、とにかく最近は 「 監禁殺人 」 まで引き起こした大相撲に対し、憤りを感じている人が多いのではないだろうか。
もはや犯罪集団と化した 時津風部屋 はもとより、責任の重大さを認識している様子のない 相撲協会 の、無責任な 「 隠蔽体質 」 には呆れてしまう。
国技だから、なんとか平穏に継続させたいという気持ちも理解できないではないが、このままだと、国技であるがゆえに 「 国の恥 」 になりかねない。
最近では、外国人力士の台頭が目立ち、文化や慣習の違いから、様々な弊害も噴出しており、伝統的な国技という色彩にも影が出始めている。
原則的に、スポーツというのは 「 健康 」 という要素が伴うはずが、閉鎖的な闇部を容認し、超肥満体型を推進する大相撲なぞ、廃止すべきである。
スポーツではないが、郵政民営化の初日に、68の簡易郵便局が閉鎖されたという報道を目にし、郵便局という存在も、不要になってきたと感じる。
発想の貧困な御仁は、「 銀行の支店もない田舎では不便になる 」 といった主張を展開するが、「 郵便局が不要 = 郵便制度が不要 」 ではない。
たとえば、イギリスの田舎などに行くと、日本でいう 「 よろず屋 」 みたいな小さい商店が、葉書や切手を販売し、郵便の集配も代行してくれるのだ。
海外への渡航経験が浅い人は理解し難いかもしれないが、平均的な日本の田舎より、もっと人里離れた場所でも、それで十分に機能している。
民営化で郵便局が減ると、「 田舎の人が困る 」 というのは、組合員を票田に持つ野党と、マスコミの流した デマ であり、事実とは異なるものだ。
不要な 「 モノ 」 として、ヤクルト球団、大相撲、郵便局を挙げたが、世の中には、他にも多くの 「 不要品 」 がある。
それらの共通点は、「 公正さに欠ける 」、「 情熱がない 」、「 時代の要求に応える能力や姿勢がない 」、「 他者との競争力に乏しい 」 といった点だ。
もちろん、たとえ能力が低くても、時代遅れであっても、人様に迷惑を掛けないものなら、一つの個性として残すことに問題はない。
今夜は珍しく、少し 「 過激 」 な主張となったけれども、9回裏 ヤクルト の 「 あの守備 」 を観たら、「 お前ら、やめちまえ 」 と思って当然だろう。
世の中、真面目に努力する者ばかりでなく、冒頭の言葉が示す通りだとは思うけれど、なんとも困ったものである。
2007年10月02日(火) |
福田首相の所信表明演説 |
「 評論家の言葉に耳を貸すな。
評論家のために建てられた銅像など、いまだかつてない 」
ジャン・シベリウス ( フィンランドの作曲家 )
Pay no attention to what the critics say ; no statue has ever been put up of a critic.
Jean Sibelius
他人の意見に耳を傾けるのは、けして悪いことだと思わない。
ただ、自分に自信があるなら、「 批判にめげない 」 ということが大事だ。
福田首相が就任後、初となる 「 所信表明演説 」 を行い、前任者の小泉・安倍両氏とは明確に違う 「 野党との協調路線 」 を打ち出した。
当然、その背景には、夏の参院選で民主党に惨敗し、従来のように強気なリーダーシップが発揮し難い現状があり、野党に譲歩する姿勢がみられる。
一部の報道番組は、かつて小泉・安倍両氏が所信表明で強硬姿勢を示したとき、「 独裁政治だ 」、「 もっと野党に耳を貸せ 」 と大衆を煽っていた。
ところが、その同じテレビ局の、同じキャスターが、福田首相の協調路線について、「 物足りない 」、「 野党に迎合するのはどうか 」 と批判している。
視聴者 ( 有権者 ) は、政治家も吟味しなければならないが、情報を伝達する者、批評家についても、信頼に足る存在かどうか、判断が必要だ。
批評家というものは、たとえ世の中が平穏でも、常に 「 えらいこっちゃ 」 と騒ぎ立てる必要があり、いわば大衆の不安が 「 メシのたね 」 である。
どんな状況でも、「 新首相の所信表明は、良かったですね 」、「 ミャンマーに比べれば、日本は平穏で幸せですね 」 なんて語ることはない。
つまり、福田首相が何を話そうとも、批判する計画しかなく、賞賛するつもりなど皆無に等しいのである。
そのため、先に述べたような矛盾が起こり、前任者を咎めた点が改善されていても、そんなことはスッカリ忘れて、別の批判を始めるのだ。
もちろん、すべてのマスコミや批評家が一律ではないので、注意深く観察すると違いが見えるから、視聴者の 「 評論家に対する採点 」 が必要となる。
所信表明の中に、「 自立と共生 」 という言葉を織り込んだことで、民主党の 小沢 代表 が、「 俺の台詞を使った 」 と文句を言っているらしい。
それに対し福田首相は 「 政治家の使う言葉なんて似たようなものだろ 」 と、サラッと交わしていたが、まったくその通りだと思う。
だいたい、「 自立 」 も 「 共生 」 も昔からある言葉で、小沢 氏 が発明したものでもなければ、特許を取得したものでもない。
こういった小学生レベルの 「 せこさ 」 が、民主党の軽薄さにつながっていることを、もう少し認識したほうがよいのではないかと思う。
それに、与党が 「 自分たちと同じ考えを示した 」 のならば、野党としては歓迎すべき事態のはずで、それにケチをつけるのは筋違いであろう。
いまのところ、支持率の上下に関係なく、野党もマスコミも、前任者に比べて福田首相は 「 強敵 」 と考え、警戒しているようにみえる。
人望や統率力を持たずに、理想だけ掲げて突き進む 「 ひ弱なボンボン 」 よりも、隙を見せない 「 老獪な古狸 」 のほうが、組し難いのだろう。
長期的にみると、日本の政治は 「 世論に導かれる 」 という正しい法則に従っているわけで、幸いなことに、誰がリーダーでも、そう大差はない。
もちろん、無能な者が頂点に立つ間は、経済成長が停滞したり、一時的な損失を招くことになるが、それも、長く続くものではないはずだ。
所信表明をみるかぎり、福田新政権は 「 無難な立ち上がり 」 を感じさせるものだから、偏重的なマスコミに不安を煽られ、病気になると損である。
2007年10月01日(月) |
郵政民営化がスタート |
「 初めてのことをする時は、いつも ナーバス になります 」
グウェン・フランコン・ディビィーズ ( イギリスの女優 )
I'm always nervous about doing something for the first time.
Gwen Frangcon Davies
この言葉は、彼女が 百一歳 のとき、死期を目前にして語られたものだ。
最後まで粋な台詞を綴ろうとした 「 女優魂 」 には、感服させられる。
10月1日から、ついに “ 初めてのこと ” である 「 郵政民営化 」 が始まることになり、利用者の多くは、やはり “ ナーバス ” になっているらしい。
一部、手数料が値上がりしたり、効率化のために窓口が減らされたりして不便を感じることもあるだろうが、それでも、民営化は実施すべきだった。
長年に亘り、郵政事業に関連する資金は、財投債などを通じて特殊法人や公共事業に使われ、「 行財政の無駄を生む元凶 」 となってきたのだ。
今後は民間企業との競争を通じ、事業の効率化を図りつつ、莫大な資金を民間で活用できるようになるわけで、メリット は デメリット より大きい。
利用者の 「 国営による優遇措置が無くなる懸念 」 も理解できるが、数々の 「 ひづみ 」 を思うと、それは 「 本来あるべき姿 」 ではなかったのだ。
民間企業と同じ土俵に立てば、優遇措置はなくなるが、国庫負担が減るうえに、法人税などの税収入をもたらすことで、国益には プラス となる。
儲かっても法人税を支払わない 「 腐った日本の銀行 」 よりは優良なので、金融機関としての位置付けが損なわれることはない。
当面、他行との連携に問題点はあるが、それも徐々に改善されるだろうし、総資産338兆円の巨大企業なのだから、いくらでも打つ手はある。
よほど無能な経営者が関わらないかぎり、運営上の問題は少ないと思われるが、既存の同業他社、市場との調整だけが、唯一、不安要素といえる。
総資産の3割を占める 「 国債 」 を急激に放出しないことと、アホな国内の銀行より、海外の優秀な金融機関の助言を得ることが、成功の鍵だと思う。
社会保険庁も同じだが、官僚機構と組合の 「 馴れ合い 」 によって、国営、公営の事業は大半に無駄が多く、しかも、不正の温床になっている。
民主党は、自治労など官僚機構、組合を票田に持つことで、郵政民営化や社会保険庁の解体に反対し続ける傍ら、不正情報を政争に利用してきた。
郵政と同時に、社会保険庁も民営化を決めていれば、与党への不信感を防げたはずだが、そこまでは小泉政権も手が回らなかったのだろう。
今後、郵政の民営化が成功を収め、国民の信頼を取り付けるかどうかは、別の特殊法人や、公共事業の民営化に対する判断にも影響が大きい。
支障なく軌道に乗せて、いくら “ 組合擁護 ” の民主党が反対したところで、社会保険庁を解体できる土台をつくることが、国民のためになるだろう。
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