甚大な悲しみを注ぎ込むと狂気に押し流される。
壮絶な苦しみを継ぎ足すと茫然自失に逃げる。
幸福と快楽を慈愛の雨のように降らせると根本的な不安に支配される。
思いこみが激しくて自意識過剰の被害妄想で目も眩む程の醜さをさらけ出す。
それは女。
無限の行が加わっていくだろう。
無限の行を加えたい衝動が植えつけられ、方法によってこそ対象が決定するのだから。
注記:「カスバ」は、モロッコにある小さな村名 無名の天地のみの地域の例として挙げる
執筆者:藤崎 道雪
秋の夕暮れの気持ち良い涼しさが汗を撫(な)でる
もう少しでつりそうな両脹脛(ふくらはぎ)
ホームの人々の静寂と遠くの、ブルルルゥーという車の囁(ささや)き
わずかながら湖面にポコリ、ポコリと泡を奏でる安心
根源的な悔しさや怒りは青びた湖面の下にぼかされて
合理的な慰めは湖面に漣を起こす風のように吹き抜けて
キラキラと夕日に染まる水面に倒れこむような肉体的な脱力感
微(かす)かに湖面から意識を遠ざけようとする意思
不意に残りて通り過ぎていく薄桃色の香水
まとまらなかった1つ1つの流動的な各々がコツコツと離れていく後姿へと向かう刹那(せつな)
抑えつけずとも湖面から噴水できない、どうしようもない咆哮(ほうこう)が全てを、自らまでも消し去った
執筆者:藤崎 道雪
張った自らの臀部をまさぐってみる。脂肪の柔らかさを増した腹筋を力ませてみる。両肩を張り両肘を近づけながら筋肉を巡らせる。
サラサラと抜け零(こぼ)れるように両脹脛(ふくらはぎ)がスカートのように広がったような錯覚に。
両手の人差し指のつき指は永遠に解消しないかのように痛みを長年訴え続けては消えずに隠れ遊ぶだけだ。
2ヶ月に1回の心臓痛はもう慣れっ子になって、朝起きた時の奥歯の痛みも、コンタクトをする時の視力の低下も、全てがもう過ぎ去った現在のように。
圧倒的な、圧殺されるこの四肢、そしてその仕組み。ああ肉体という私よ
偶発的な、謀殺されるこの精神、そしてその不可解。ああ自我という私よ
合理的な、啓蒙されるこの意志、そしてその崇高さ。ああ社会という私よ
決定され嬲られ穢され取り込まれ満たされ遊ばれ苦しめられ悩まされ放られ喜ばされ悲しまされ呆然として唖然として、合理も感情も肉体も植えつけられた、この私よ
私よ 私よ 私よ
さて私よ 私、とは何であろう。いや、私とは何処に、何時、どのように、誰のもの、なのであろう
どれにも該当しないのに、どれにもありはしないのに、その私よ
私よ 私を探す事など無意味なのだろうか 無駄なのだろうか 無益なのだろうか 無駄、無明なのだろうか
サラサラとスカートは腰まで舞い上がって、その内その砂のハリケーンで両目の視界が塞(ふさ)がれるのが観えている
手を合わせろ コーランを唱えろ 神の名を呼べ 帰依しろ 感謝しなくとも救われる 捧げ物を
これら全てが砂のハリケーンの防護策にならないのも、観えているのだ
粛々と 全てが静寂へ 粛々と 1つが可憐に 粛々と これがある
追記:原題は「粛々と これがある」です。
執筆者:藤崎 道雪
大雨が海の波のように渡ってくる台風の日に、僕らは駅のホームに腰掛けた。
焼け野原の向こうに薄暮れて見える谷津山と、羽虫が溜まるように白電灯に
照らし出される雨滴をドキドキと行き来した。
怖ろしくて緊張して立ちすくんでいた君の手を、いつものように引き寄せてみたら座ってくれた。
深夜のメールで別れを切り出されて、けれどそれは僕の人間不信で傷つけてしまったから。
他人を今まで全部信じたことなんてない。
家族にすら自分を全部見せたことはない。
自分をこれまで全部受け入れたことなんてない。
すっと自然に君は座ってくれて俯(うつむ)いた。
台風の大風がホームの屋根を超えて2人に吹き付けてきて、君はまくっていたブラウスを戻したね。
それがもう1つの勇気をくれた。
何十回も触れてきた細い手弱かな右手をゴツゴツとした左手で握った。
台風が直撃するのは後2時間ばかり。
この吹き付けるフラットホームに2人では居られない。
この拭き荒む精神的遅延に2人では居られない。
覆いかぶさる台風の紺色の波を振り払うように、僕は言い聞かせるように語り出したんだ。
追記:タイトルはRAMJAの「追憶」を聞いている時に考えていました。
執筆者:藤崎 道雪
預金が宝くじで当たった2億弱ある。株が2000万と、ドルが10万㌦とリスク分散している。
彼女が158㌢のぱっちり二重の可愛い系と、細身171㌢のロングストレートの2人。
真性マゾとゴムまりの肌のギャルとたまに会う人妻が3人のセフレ。
家は200坪弱の鉄骨で駅まで徒歩9分。
車は乗らない主義でコネは多少ともある方だ。
金のメモリ、女の種類、家の広さ、人の数が増えれば安楽感が与えられ、満足が足し算になっていく。
各駅停車から快速、快速から特急へ次々と乗り換えていく幸せに似ている。
外の風景のスピードが変わって、遠くへ速く行けるという観念が満足と安楽をもたらす。
車中の平常さや内装は何も変わらないというのに。
いや、むしろ快速に、特急へ乗りたいという観念が苦しみを与えてくるだけなのに。
安心するがいい。
どの列車も2度と停止して下車など出来ないのだから。
この車中から決して出られないのだから。
うすうす気がついていても、耳元で大声で説教されても聞こえない振りをして忘れてしまうんだろうけれどね。
メモリ、種類、広さ、数が増えていくのを心の底から喜ぶがいい。自分の人生の目標にして基準にするといい。
景色は流れる速さによって美しさが換えられないものだ。
そしていつか人は景色の美しさを忘れるのだ。
だから私はあなたなんです。
だから私は私なんです。
だから私は人なんです。
だから私は原子から飛び出せない物なんです。
飛び出せないんです。飛び出せないんです、慣性力から。
慣性の支配する列車の中から。
追記:題名の「週末」は、週末に欲求を解消するから。
執筆者:藤崎 道雪(校正H17.9.9)