ゼロの視点
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2009年05月29日(金) 日中戦争勃発?

 週末には、パリから2組の夫婦、①中国人妻Jとフランス夫Fと、②11歳の娘S連れの、フランス人妻Dと、その夫P(2007年秋に日本旅行を共にした仲間)と、別荘地からクルマで30分のところに住む夫婦、生後11ヶ月の娘連れの、日本人妻Mとフランス人夫Fが、うちの別荘に集結して、総計10人でのガーデンディナー。

 さて、この日仏夫婦はダライラマ大好き・・・・って書くと、ミーハーな感じのみが先行して、当事者に怒られそうなので、ちょっと言葉を変えて、《ダライラマを崇拝している夫婦》とでも表現してみる。ゆえに、何気に“フリー・チベット”とか書いたTシャツなどを、普段から着てたりする輩。

 一方、パリからやってきた中国人Jは、何度もチベットに足を運んでいるとはいえ、ダライラマに対しては一意見ある、あるいみ典型的な中国人。そんな輩をあえてここに集結させて喜んでいる私もアレだが、少しでも会話を間違えると、ここLa Bauleで、日中戦争が勃発する恐れもあるゆえ、料理しながらいい意味でスリル満点冷や冷やしつつ、背筋をピシッと伸ばしている私。

 ちなみに、私も夫もダライラマに対しては、特別な思い入れがないのだが、なぜか、パリから来ているもう一組の子連れフランス人夫婦が、別荘に招いてくれたお礼にということで、6月上旬にある、パリでのダライラマ講演会のチケットをわしらにプレゼントしてくれたこともあり、突如、ダライラマ・・・、というキーワードが、テーブルでの会話に上がりやすい雰囲気でもあるのだ。

 が、幸いなことに私の杞憂は無用だった・・・・・、ホッ。皆、想像以上に大人(笑)だったので、日中戦争が勃発することもなく、夜中過ぎまで宴会が続いた♪。めでたし、めでたし。



2009年05月25日(月) 自転車をゲットするまで・・・

 5月22日より6月上旬まで、La Bauleの別荘へひきこもり。で、別荘地というか、地方での生活に欠かせないのがクルマ。だが、わしらはクルマがない。で、クルマがなくともなんとかなる別荘地でもあるわけで、今までなんとなく過ごしきた。

 しかし、ここ近年、なんども日記に書いているように、チャリンコ熱が高まっている我が家ということもあり、別荘地にチャリンコを投入しようということになった。

 実はわしらは、パリにちゃんと2台、自分たち用自転車を持っている・・・、が、アノ有名な貸し自転車ヴェリブのほうを好んで使っているので、実際にはガレージの肥やしと化しているだけの、この2台の自転車。で、この2台を別荘地に運んでしまえばいいじゃないか♪、と思ったのだが、日本のように○○急便とかそういう便利&迅速&確実&格安なサービスなんつーものがないのがフランス。

 TGVで運ぶにしても、色々な規則があって面倒くさい。おまけに自転車輸送用バックなどを購入していると、この値段に少し足せば、新しい自転車を購入したほうがよっぽどまし、ということになり、別荘行く2週間前からネットで自転車探しをスタートさせる。

 日本よりちょっと割高?、ってな印象があったものの、それなりにいいデザインと機能をそろえた自転車を次々にネット上で発見。大型チェーンスーパーから、大型スポーツ量販店、自転車専門サイトなど、しらみつぶしに探す日々。

 が、どれもこれも、いざ購入するきマンマンで色々とクリックしていくと、最後に同じ難関にぶつかって断念するはめになった。というのは、配達日について。購入したらすぐ配達などというサービスが存在しないフランスに、あらためて虚脱感。配達日指定するのもほぼ不可能だし、注文してから2週間後とか3週間後の配達というコンディションはザラ・・・・・・・・・・(涙)。

 となると、限られた滞在日数の間に、きちんと自転車を受け取ること自体が難しくなってくる・・・・。とはいえ、それでもあきらめずに、滞在期間の最後に自転車が配達されるだけでも凄いような気がして、購入する気になってクリックしていくと、今度は別の問題が発生・・・・・・・・・・。送料が馬鹿高いのだ!。

 結局、配達日は“およそ”3週間後ぐらいで、配送料がバカ高いとわかった私は、別荘地に到着してから、現地で自転車探しをすることにした。しかし、現地で、別荘から徒歩でいける範囲のところにある、個人でやっているような自転車屋は、妙に高い・・・・。たまにくるだけの別荘地に、日本円でいうところの4万、5万円クラスの自転車を2台投入するのは、どうも気が引ける私・・・・・・。

 ゆえに、この条件で自転車を購入したいとなると、徒歩ではとてもいけないところにある、大型スーパーや大型スポーツ量販店へでむかないとだめ・・・、ということになる。クルマのない私たちは、バスを2台乗り継いで、ようやくSaint-Nazaireの駅からとても遠い、大型スーパー・AUCHANに到着。バスの乗り継ぎなどを含めて、別荘から実に、1時間半の旅・・・・・。これがクルマだったら、20分で到着できる場所だというのに・・・・・、だ(号泣)。

 AUCHANに到着する頃には、大雨になりはじめ、ここで自転車を購入したとしても、わしらはどうやって家に戻ればいいんだ?、という感じ・・・。が、せっかくここまで来たのだから、ということで、意地でもお目当てのチャリンコに乗って家にもどりたいっ!。

 店頭で迷いに迷った揚句、マウンテンバイクを2台ゲット。外の天気と、すでに暗くなりはじめた時間を考慮して、この自転車に乗って帰ろうとしている、頭がすこしいかれた日仏夫婦に向かって、店員が恐る恐る

『これから、どこまでこの自転車に乗ってお帰りになられるのですか ?』と尋ねてくる・・・・。

私たち『La Bauleで~す♪』

店員『(真っ青になりながら)・・・・・・・・・それはちょっとおススメできない!』

 と、マジになって、私たちのことを心配してくれている店員殿。だが、私たちも見た目よりは、ちょっぴりバカじゃないので、自転車に乗ってこのスーパーからSaint-Nazaire駅まで行き、そこからは電車で帰ることを伝えると、店員の顔に赤みが戻った。

 レインコートも購入して、いざスーパーを後にして外にでると、天はわしらを祝福してくれたのか?、先ほどの大雨から晴天に♪、ううーん、ラッキー!。快調に新しい自転車を飛ばして、あっという間にSaint-Nazaire駅に到着。

 あらかじめSNCFに電話して、確認しておいた《自転車を運ぶことができる車両》のある列車に乗り込み、無事帰宅。TGVは色々と自転車の持ち込みに規制があるものの、それ以外の列車は自転車持ち込み料を取られることもなく、快適に旅をすることができるので、興味のある方はお試しアレ。

 最寄り駅から別荘までは、1キロ弱あるのだが、この日に限って、駅と家がもっと遠ければ、もっともっとたくさん自転車にのることができたのに~、と、妙に残念に思ったゼロでした。



               赤が夫用、白&オレンジがアテクシ用♪


2009年05月18日(月) じゃ、またね

 2007年の夏に、癌が再発して闘病中だった友人DNが、緊急入院した・・・・、というニュースを耳にし、考えに考え抜いたあげく、彼女がいる病院へ、夫と一緒に足を運んでみた。

 私たちが足を運んだ前日に、DNの見舞いにった人からの情報だと、DNはかなり弱っていたけれど、意識もちゃんとあり、簡単な会話もできたとのことだった。が・・・、実際に私たちが病院に到着した数時間前から、DNの意識はなくなっていた。

 モルヒネを処方され、こん睡状態にある友人の姿を見て、ボロボロと涙が出てきてしまった。それにつられて、夫も“うっ”と嗚咽し、これにつられて、朝から病室にいるという、DNの叔母までが泣き出してしまった。この叔母は、DNの母親がわりで、恐らくこの日は、朝からずうっと泣いていたのだと思われる。

 彼女の余命については、推測したりすることを避けてきた私だったが、ここまで決定的な姿をみてしまって、
もうすぐDNが、この世からいなくなることを痛感。脳にたまった血流を吸い出すために、彼女の鼻に通された透明な管をの中を、どす黒い血が延々流れ、ベット脇にあるボトルの中に吐き出されていく。

 そこに、友人PGがやってきた。彼もまた深刻な表情で病室に入ってくるや、DNに話しかけるように彼女の手をとった時、PGの顔色が変わった。《ゼロっ、DNの手が冷たい!》というので、私も彼に導かれるようにDNの手を握ってみた。

 なんという冷たさ・・・・。どんなに長いこと彼女の手を握っても、私の体温に応答し、彼女の手が温まり始める兆候すらない。確実に、私たちの目の前で、彼女は違う世界へ旅立ち始めている・・・・、ということか?。

 毎週日曜日の夕方、夫がやっているボランティアの太極拳教室に、機会をみつけては、DNは友人MGと一緒に顔をだしていた。

 今年の4月26日に、ひさびさに教室に顔をだしたDNは、最初は皆と一緒に太極拳にトライしたものの、さすがに体力が続かず、ベンチに座りながら、上半身だけ皆に合わせて参加した。それでも最後にはつらくなったのか、ベンチに横たわりながら、皆の姿をながめていたDNだった。

 体育館をうろちょろしていた私を、DNが呼びとめるので、彼女の隣にすわり、おしゃべりをしはじめると、彼女が徐々に元気になってきたのがわかった。そして、さっきまで横たわっていた彼女がおきあがり、普通にベンチに座り直し、表情も活き活きとしだしたDNと、時間を忘れて話し込んでいた私。いつまでもいつまでも彼女とこうして話していたいと思ったほど・・・・・・・・・・・・・・。

 が、これが本当に彼女と最後の会話になってしまった。私たちが病院を訪れた日の深夜、DNは永遠の眠りについた、享年52歳。

 後日聞いた話だが、彼女が亡くなった時、友人らはそれぞれのやり方で彼女が旅立ったメッセージを受け取っていたことがわかった。一緒に太極拳に参加していたMGは、夢にDNが出てきたとのこと。病に倒れるまで、ずうっと自慢だった長い髪と、スーツとハイヒールに身を包んだDNが颯爽とMGの前に現れたかと思ったら、スッとDNがパソコンの前に座り « Au revoir ! (じゃ、またね) »とキーボードを打って去っていったとのこと。

 またDNと20年来の友人だったVGは、DNがいつもつけていた香水の香りが突然したので、これでDNが亡くなったのだ・・・・、とわかったとのことだった。

 そして私たち・・・・。床につく直前に、夫と私のどちらからともなくDNのことを話しはじめたあげく、ふと《今、この瞬間にDNが亡くなったような気がする・・・》と、これまた二人で口を揃えて発言し、時計をみると午前1時3分。翌朝、この時刻に、DNが本当に亡くなっていたことを知った私たちだった。

DN、今まで本当にお疲れ様でした。これからはゆっくり休んでください。そして、色々とありがとう。あなたのことは忘れません、というか、忘れようがありません。



2009年05月15日(金) 本当の働きモノとは?

 その日の朝も、いつもように私は起きなかった。が、一足もふた足も、私より早く起きる夫が、この日もアパルトマン内をガサガサと動き回り、その音をちゃんと耳にしながら、ベッドでまどろんでいた私。

 足音自体は私のほうが大きいのだが、いかんせん“夫がガサガサと蠢く音”というのはとても独特で、音の行方を追う気があろうとなかろうと、気がつけば“あ、オッサン今、サロンにいる”とか、“あ、オッサン、いつものように探し物している”とか、夫の発生源からの距離、音の種類などでいやがおうにも、夫の行動が手に取るようにわかってしまう・・・・・・・・・(汗)。

 で、だいたいは、こうやってガサガサしたあと、“パタン”という音がする。で、この “パタン”という音は、玄関のドアが閉められる時のものであり、夫が家を出て会社に向かっていったサインでもあるのだが、この日の朝も、いつのように“パタン”という音がして、夫が家から出て行ったことがわかった。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



??????????????????????



 っていうか、《今日は祝日じゃなかったっけ ?!?!》と飛び起き、とりあえず夫は、家を出て行ったものの、近所に買い物にいっただけなんだと、自分に言い聞かせてみる。

・・・が、やっぱり会社に担いでいくモノなどが、なくなっているを発見して、オッサン、もしや・・・・・・・ ?!?!?!。と、思いつつ、“パタン”という音から、2時間弱ほど自分の用事などを済ませるごとくアパルトマン内で、ゴソゴソと動いていた私だったが、さすがに夫が帰ってくる気配がないので、彼の携帯に電話してみた。

 すると、イライラした様子で夫が電話にでた。

私『どこにいんの?』

夫『会社にきまってるじゃないか!』

私『会社にいるのぉぉぉおおおおお?!??!?!』

夫『当たり前だ、ボクは働き者なんだ!』

私『・・・・・・・・・』

夫『社員バッジと鍵を忘れちゃったから、社内に入れなくて困ってるんだ !!!!!』

私『・・・・・・・(休日に会社にいってんのに、いつもように忘れ物だらけな夫にアタマクラクラ・・)』

夫『いつもだったらやさいいガードマンいるのに、今日はいないんだっ(怒)』

私『今日は誰もいないんだよ、会社に・・・・』

夫『なんだそれ?』

私『・・・・・・・・・祝日だから・・・・』

夫『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』

私『こんな時に会社にいるアンタが、アタマいかれてるんだと思う・・・・残念ながら・・・』

夫『MERDE!!!!!!!!!!』


こんな夫に対して、もう長いこと彼はADHDじゃないか、という疑いを抱いているゼロでした~♪。





                意味もなく焦ることのないように~っ♪


2009年05月11日(月) 歯医者が怖いっ!

 幼少のみぎりに、歯医者で文字通り“痛~い目”に会ってから、というもの、歯医者というものが、大・大・大・大嫌いだった私。このトラウマとなった治療の時は、まだ幼稚園だったが、あまりにも恐怖と痛さで、即座に自己防衛体勢にはいった私は、なんと、なんと、なんと、歯医者の指に噛み付いて離さなかったほど。

 渾身の力をこめて、歯医者の指(さすがにどの指だったかまでは、覚えていない)に噛み付いていた時に記憶と、その直後に診察室へ母がやってきて、ひたすら歯医者に、ペコペコと平謝りしていた記憶は、ハッキリとあるほど。ま、そのくらい記憶に焼きつくすごい経験だったのだ、私にとって・・・・・。

 そんな私が、歯医者嫌いになっていくのは、至極まっとうなこと。とはいえ、ものすごく几帳面というわけでもなかったので、定期的に虫歯が発見されたりして、歯医者に足を運ばねばならない事態を避けられずもにいた。

 気がつけば成人し、口をあけてみれば親知らずも生えてしまっていた頃、なんだかんだと青春まっさかりで遊びほうけていた頃に、親知らずとその手前の歯などが徐々に蝕まれていったことなど、気がつくこともなかった。

 で、気がついたときにはもう手遅れ、というか、そうとう酷くなっていたにも関わらず、歯医者に行くかわりに一時しのぎで痛みを抑える方法、つまりは市販鎮静剤に頼る生活を選択。これがあだとなり、ある日、クスリもなにも効かないほどの歯の痛みに襲われ、これまた文字通り、家の床を“七転八倒”する羽目に陥った。

 幸か不幸か、この痛みは、幼少時にトラウマとなった歯医者での治療の痛みを、数十倍、いや、数百倍した痛みだったこともあり、背に腹をかえられぬ状態になった私は、すぐさま元・歯科衛生士だった従姉妹H嬢に半泣き状態で電話をしたものだった・・・・・・・。

 従姉妹H嬢には、“けッ!”と、軽く一笑に付されながらも、とある歯医者I氏を紹介してくれたので、さっそく恐る恐るI氏のもとを訪れた私。

 診察椅子に座ったものの、身体は硬直し、I歯科医とその助手の、一挙手一投足を瞳孔が開ききっちまうんじゃないか?、というぐらい凝視し続け、感情的には“誰も信じない!”という感じだった私。

 I歯科医とすれば、《H嬢のヤツ、また面倒くさい患者を送り込んできたな》って感じだったのではないか、と今になって思うほど、私は恐怖心&不信感いっぱいで大変な状態だったはず・・・・(汗)。

 こんな感じでスタートした私の治療だったが、やはり痛みを長いこと放置プレーしすぎた結果、そんな簡単には済むことはなかった。とはいえ、何度通っても一度も痛い思いをすることなく、クールに治療してくれるI歯科医に対して、だんだんと信用するようになり、最後には《歯医者なんて怖くなぁあああああい♪》と、胸を晴れる状態になった私だった。

 さて、この逸話から10数年が経過した今月、ひっさびさに近所の歯医者に定期健診にいってみた。I歯科医からススメられた歯間ブラシと、歯の磨き方のコツってやつを、いちおう地道に続けてきた私だったが、近所の歯医者が私の歯をみて、感動してくれたぁ♪。

 担当女性歯科医が、《WOW、これはどこの歯医者でやってもらったの?》と、あきらかにI歯科医が治療してくれた“作品”を目の当たりにして、ポジティブに興奮しているのがわかる。《東京でやってもらった》と答えると、この女性歯科医は《えっ、フランスじゃないの、この治療・・・》と、ちょっとガックリしているのが、なんともおかしかった。

 このあと、今度はレントゲンでチェックということになったのだが、撮影されたレントゲンをみている担当女性歯科医のところに、他の歯科医や助手もあつまってきて《ううーん、これは素晴らしい出来だねぇ♪》などと、感動のコメントを交わしているのが待合室に聞こえてきて、思わずニヤニヤ。

 ということで、I先生、すごいっすよ、ものすごい評判っすよ、先生の作品っ♪。おまけに、作品がほめられただけじゃなく、歯のケアもバッチリで問題なしということでしたぁ。I先生、ありがとーーーーーーーーー、先生のおかげで、歯とそのケアが誉められるまでアテクシは成長しましたっ♪。で、従姉妹のH嬢、I先生紹介してくれて、メルシーボクーだよぉぉおおおん。



                     モロッコの入れ歯屋にて


2009年05月07日(木) TPOをわきまえる

 友人の北京出身の中国人女性J(46)のフランス語は、すばらしい。で、何が素晴らしいか?、といえば、ほとんど中国人としてのアクセント、つまりは訛りがないこと。おまけに、ほとんど文法的にも間違えることがない彼女は、私がパリで生活するようになってからの、語学習得の目標みたいな存在でもあった。

 私がパリに住み始めた頃、彼女はすでに在仏10年といったところだった。で、私が今、在仏暦がようやく11年になろうとしているところ。さて、Jと、久しぶりに中華料理屋でランチしていた時のこと。私からすれば、フランス語がペラペラになってからの彼女しか知らないわけだが、そんな彼女でも色々と昔は苦労していたということがわかった(←ま、当たり前なのだが・・・)。

 今から20年も前のこと。学生としてパリにやってきた彼女は、闇で中国から来る旅行者などのバスガイドなどをやって小遣いかせぎをしていたとのこと。来る日も来る日も、一緒に会話するのはバスの運転手。中国人相手には、母国語で仕事しながらも、非常に気さくなバスの運転手連中に、必死にフランス語で会話しながらも、根気よく相手にしてもらっていたらしい。

 そして数年後、気がついたら自然にJの口からフランス語が流暢に出るようになった時、彼女は、中国人の文化人やアジアに関係する仕事をする、フランス文化人などの集まりに出席する機会が巡ってきた。出会う人、出会う人、彼女の持ち前の明るく社交的な性格をもって、フランス語で交流し、この世の春とばかりに気分がよかったJのところに、とあるフランス人がやってきて次のように言い放ったそうだ。

 『君は本当にフランス語が流暢だが、それにしても、なんだかトラックの運ちゃんみたいな話し方をするのはなんでだ?』と・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 不意をつかれたJは、すかさず『運転手は運転手でも、トラックじゃなくてバスなんですが♪、それが?』と答えたとのこと。のちに、こう率直に突っ込んできたフランス人Pと彼女は、親友になっているのだが、とはいえ、Pは『とりあえず、もうちょっと違う話し方をしたらどうだ?』と、Jに注意したそうだ。

 ま、確かに運転手のように話そうがそれはそれでいいのだろうが、とはいえ、その場に応じた話し方というのは、どの国にもあるわけで、そうやってハッキリ、Pに指摘するまで、Jは気がつくことなく、小柄でパンダのような可愛らしい顔しながら、運ちゃん連中のなんともオトコ臭く、独特な単語や表現方法で皆とコミュニケーションしていたわけだ。

 この話を聞いた時、あまりにもおかしくて、食べていたご飯を噴出しそうになった私。が、人のことは笑っていられない。私も結局、運ちゃんではないが、基本として毎日耳にしているフランス語が夫、つまりはオトコの言葉であるゆえに、時と場合によっては妙にがさつというか、下品にもなりかねないことがある。

 と、同時に、日本人女性と一緒に、日本に住んでいる、一見日本語がペラペラなフランス人男性、もしくはあらゆる外国人男性の多くが、女性の話し方を基本に日本語を学んできているため、ものすごく胸板もあつく、胸毛ボーボー、長身で、顎が割れたような、野獣のような西洋人でも、話し出したとたんに、オカマのようだったりすることが多々あるのを思い出した。

 知人夫婦のフランス人夫は、ちょっと見がジョニー・アリデー風。ジョニー・アリデー風というだけで、もうプッと冷笑したくなってしまうのだが、そんな見かけの彼が、可憐な乙女のような日本語を話すから、もう笑いが止まらない。相手に失礼なので、笑わないようにするのだが、葬式などで笑わないように意識すればするほど、笑い出してしまうような感じで、彼の話をなかなかまともに聞くことができないのが申し訳ないのだが・・・。

 ま、これからも引き続き、一極集中ではなく、できるだけ多くの人にあい、できるだけ多種多様の階層の人と触れ合うことで、言葉のバリエーションを増やせていけたらと思う昨今である。とはいえ・・・・・・言うが易し、行なうは難し(汗)。



              こんな姿カタチで、乙女チックな話し方♪


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