与太郎文庫 DiaryINDEX|past|will
そもそも死亡情報は、つぎのルートから収集されるはずだ。 ふつう、本人からの申告はありえないから、身内や所属団体が葬儀の 都合で死亡通知または死亡広告を出す。 当初は広告代理店のあつかいであるが、ふだんから有名人をチェック する担当者もいるらしい。 事故や事件では、警察や消防署の記者クラブなどで氏名が公開される。 大病院や養老院には、あらかじめ関係者に通じていて、通報があれば 何がしかの謝礼が送られるというが、噂の域を出ない。 さらに、以上のどれにも該当しない場合はどうか。 たとえば、ほとんど忘れられた、かつての有名人が、ひとりずまいの アパートなどで、ひっそり亡くなった場合も、隣人や町の噂をもとに、 通信社が暗躍するのだろう。 心あたりのある人は、深夜の怪電話で「えっ?」と云われたら、知人 の誰かが死んだと考えてよさそうである。最後に死亡記事として扱うか どうかは、全国紙・地方紙それぞれ各社の判断による。 念のため、業界最大手の共同通信社に電話で問いあわせてみたところ、 担当者の応対は次第にあやふやになり、つぎに代った上司らしき男は、 なぜか怒ったような切口上で、とりつくしまがない。 参考になるような文献でもないかと聞くと、即座に「ありません」と いう。かくなる態度の豹変は、あまりにも不可解なので、あるいは何か のヒントが秘められているとも推測される。 通信社や新聞社では、それぞれ年鑑も出しているので、巻末の追悼録 に(間に合えば)掲載される。ただし各社の評価やスペースに応じて、 きわどい人々も多い。 とくに同姓同名で同世代の準有名人の情報を得ることが困難である。 死亡記事の内容は、現職または過去の仕事から賞罰など、ときに誰か の縁戚にあたる場合など、有名人の家族には二通りの扱いかたがある。 すなわち、天寿をまっとうした老人の場合は、どちらかというと葬儀 日程の案内を目的とする。そうでない年令で死亡した家族については、 年が若くなるほど、いわゆる三面記事にちかづく。 あるいは誕生日については、よほどの大物でなければ記載しないのは、 なにか不文律があるらしい。行年を記載するには、さきに誕生日が判明 していないと計算できないのだから。 日外アソシエーツの物故者事典《ジャパン WHO WASWHO 》が、かつて 数年ごとに出版されていたが、現在は電子版に限定されている。 犯罪者や事件関係者、有名人の家族などを省略していたのも惜しい。 (19890621-20051103)
三月一八日の午後六時一八分、夜の取調べが始まってすぐ、神垣検事が突然取調室を出て いった。二〇分ほどして、取調室のドアを勢いよく開け、再び中に入ってくると、バタン! と大きな音を立ててドアを閉めた。私はただならぬ気配を感じた。 検事はすぐに私のそばに寄ってきて、声を荒らげて言った。 「おまえは嘘をついていた。眞藤はさっき落ちた! 眞藤はお前から直接電話を受けたと話 している! これまで俺に嘘をついていたな! 俺にこんな態度をとったのはお前が初めて だ!」 言うや否や、私の椅子を窓側の横から蹴り上げた。その勢いでキヤスターが横に滑り、私 は頭から反対側に転げ落ちかけたが、素早く検事が反対側に回り私の身体を支えた。その身 のこなしから、検事の動作は計算ずくだ、と思った。身も心も揺さぶられるような体験だった。 検事はたたみかけるように怒鳴った。 「立て! 窓側に移れ!」 取調室の窓側で、私は検事と向き合う形となった。 「俺に向かって土下座しろ!」 検事は私に殴りかからんばかりの剣幕であった。恐怖心から抵抗できず、私は屈辱的な思 いで床に座った。命じられるままに、検事に向かい手をつき、頭を下げた。そのような姿勢 を続けているうちに、私は検事のマインドコントロール下に入っていった。 「お前は眞藤に直接電話している。忘れているだけだ。思い出したか。……思い出したなら 席に着くことを許す」 私はこれまでずっと真実を述べてきていた。だが、恐怖心に駆らわれた(ママ)私は、悲しいこと に、小声で「分かりました」と答えてしまった。 すると、検事は事務官に口述をして次のような調書を作成した。 「私は、検事に土下座してお詫び申し上げます。いままで検事に対し、眞藤さんに直接声を かけたことはない、村田さん個人にお譲りしたものであるなどと嘘を申し上げてきました」 抵抗する気力を失い、私は言われるままに調書に署名した。私が署名を終えると、「よし、 これでよい」と、検事は急いで取調室を出ていった。 二時間ほどで戻ってきた検事は満足げな表情で言った。 「よし、調べは終わりだ。下がってよい」 悪夢のような体験だった。房に戻されたが、房はいつもより寒々としていた。 保釈後、房内ノートを見ながら新聞記事のスクラップファイルを繰っていたところ、「江 副の株譲渡持ちかけ 眞藤に直接だった 収賄罪成立、確実に」という、毎日夕刊の一面ト ップの大きな見出し記事が目に留まった。 「今までの調べや関係者の証言で明らかになった」との記事だが、日付は三月一四日。私が 土下座させられ調書を取られた四日前の報道である。合同会議あたりでそのようなシナリオ があらかじめできていた、と私は思った。 しかし、眞藤さんは本当に私から電話を受けたという調書に署名されたのだろうか。私は その後も疑問を抱いていた。 NTTルートの裁判が始まってから、私が土下座させられた日と同じ日に作成された眞藤 さんの調書が開示された。そこには「江副から連絡を受けた村田秘書から知らされた」と書 かれていて、私から直接電話を受けたという記載はまったくなかった。 保釈後に弁護士に言われた。 「検事は、眞藤さんが江副さんから電話を受けたと供述したように告げて江副さんから調書 を取り、眞藤さんにはその調書があることを告げて自供を迫ったのでしょう。このような取 調べを“切り違え尋問”と言い、違法な捜査手法ですが、思うように調書が取れないと、検 事はそんな手段も取らざるを得ないんです」(P187-190) http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/4120040763 ── 江副 浩正《リクルート事件・江副浩正の真実 20091023 中央公論新社 20100810 中公新書》 http://www.sinkan.jp/special/recruit/invest.html …… 俺に向かって土下座しろ!↓昇る太陽にひざまづけ ── コールドウェル/大橋 健三郎・訳《のぼる太陽にひざまずけ Kneel to the Rising Sun 》 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19640120 《世界短編文学全集(全17巻集英社》 http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/4641030650 ── 渡部 保夫&大野 正男《刑事裁判の光と陰 ~ 有罪率99%の意味するもの 198901‥ 有斐閣》 海野 義雄 Violin 19360214 東京 /N響コンサートマスター/1975‥‥東京芸大教授/石田 真二の娘婿 /19811201“ガダニーニ”芸大バイオリン事件 1208 逮捕/198504‥ 収賄免職、懲役一年半、猶予3年。 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19700331 よど号の人々 ~ 赤軍派ハイジャック事件 ~ (20120511)
19890206骨片や歯片を入れた段ボール箱が今野家の玄関に置かれた。 19890210インスタントカメラで撮影した今野真理ちゃんの顔写真を添付、 「犯行声明」のタイトルをつけたB4判のコピー用紙3枚を入れ、差出 人を「所沢市 今田勇子」として東京都中央区築地の朝日新聞東京本社 宛てに、19890211同じ封書が今野真理ちゃんの母親宛てに届く。 19890301遺骨DNA照合により戸籍抹消 ── 失踪の日付 19880822 と容疑者供述の犯行日時は一致したが、物 的証拠(通常は遺体の司法解剖など)がなく、遺族に送られてきた焼骨 照合に数十日を要して「埋葬許可証」発行の 19890301 が戸籍上「命日」 となった。 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920613 ── 《六月十三日の死と愛 19920223-06‥ 歴史研究》 http://accounting.cocolog-nifty.com/zakki/cat4919708/index.html 事件によって命を奪われた子供たち (20080617-0622)
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