与太郎文庫 DiaryINDEX|past|will
ピアノと弦楽器のための左手 http://q.hatena.ne.jp/1171876752 あなたの左手の“指から指まで”は、何センチありますか? 与太郎の左手 http://d.hatena.ne.jp/adlib/20060606 絵空事 ~ ダゲール以後の画家たち ~ Never too Late ! http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2764617.html アマチュア・チェリストの回想 ──────────────────────────────── いそがしい指 ~ 小林 道夫リサイタルのあとで ~ http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710217 幻の《弦楽技法》 ~ 出谷 啓氏あての未投函書簡より ~ http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030115 落第生は二度眠る ~ 寒月の右手 ~ http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030114 《初演366年譜》 ~ モーツァルトの左手 ~ http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040127 ラヴェル《左手のためのピアノ協奏曲ニ長調 19321127初演19330127再演》 関西モーツァルト協会 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710127 (20070219)
>> 峰山 峰造(1899~1987年) 峰造の父は峰山宮蔵と言って、優れた宮大工であったが、兵庫県播磨 に当時東洋楽器という会社があり、そこでVnの製作に携わっていた。 峰造はこの父宮蔵からVnの製作技術を学び、生涯Vn及びチェロの製作 に携わる。 峰造の作ったVnは優美なものであり、特に裏板の楓の模様は美しかっ たと云われている。 そして自分の満足出来る作品のラベルには毛筆で龍の字が添え書きさ れている。辻久子が当時「日龍、月龍」と命名された彼のVnを2挺使用 していたが、「私の生涯でこれ以上のVnを持つことは無いでしょう」と 云ったと言うエピソードが残されている。 然し辻久子はその後(筆者の記憶ではそれから30年くらい後)家を売 ってストラディヴァリウスを購入しており、ヴァイオリニストとって、 ストラディヴァリは、やはり憧れであるものと思われる。 (筆者の師匠から聞いた話では峰造は、このほかにも鷲の彫刻を施した Vnも作っていたと言うことであった。) ── 錦生 如雪《ヴァイオリン物語 20020523 音楽よもやま談義》 http://godmuses.hp.infoseek.co.jp/hafuna-48-13.html << Mail'20040119 「日龍」か「月龍」か? 錦生 如雪 様 一年前、鈴木鎮一・無量塔蔵六氏についてメールをさしあげた者です。 → Mail《音楽よもやま談義》読んでいます 20030210 与太郎文庫》 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20030210 このたび気づいたことですが、<峰山峰造>(1899~1987年)とある のは「峰沢峯三 1899~1978」の誤りではないかと存じます。 わたし自身は、当時の京都新聞で「峰沢峰造=みねざわ・みねぞう」 と記憶していたのですが、下記の人名録では、「みねざわ・ほうぞう」 と振っています。無条件には信頼できませんが、わたしの知るかぎり、 唯一の活字による出典です。 峰沢 峯三 弦楽器製作 1899・・ 京都 19780515 79 ── 《昭和物故人名録 19830720 日外アソシエーツ》P476 辻 久子の依頼で製作された「日龍・月龍」が、ストラディヴァリウス にとって替わるまでの期間を「筆者の記憶ではそれから30年くらい後」 とありますが、私の記憶によれば「1957年秋から1972年夏までの15年後」 であろうと推定されます。 わたしが峰沢工房を訪問したのは、1958春でしたから、辻さんのソ連 演奏旅行は前年の1957年秋ごろ、と推定されます。 京都新聞で「日龍・月龍」が写真入りで掲載されたのを読んだあと、 高校二年のわたしが愛用する、傷ついた古いチェロ(鈴木政吉・作)を 修理してもらえるかどうか、意を決して見てもらったのです。 (このエピソードは、岩淵龍太郎氏あての未投函書簡・他にも詳述) さらに1973年秋ごろ、くだんの銘器を手にとる機会があったのです。 そのときは「辻さんから譲りうけた」ときいただけで、かの銘器とは 気づかなかったため、いまとなっては「日龍・月龍」いずれであったか 特定できません。 しかし当時の所有者の状況を総合すると、まさしく思いあたるのです。 「生涯でこれ以上の銘器を持つことは無い」と言った辻さんは、15年後 ストラディヴァリウスを買うため、家を売るついでに、古くなった愛器 を、二人のお弟子さんに譲ったのでしょう。 ケースを開くと(松脂が粉を吹いていて)よく手入れされていました。 久しぶりに(わたしのヴァイオリンは、3年前に壊れてしまったので) 弾いてみたかったのですが、その場(神戸の知人宅)では、ピチカート だけにしました。 きちんと調律されているものの、ピーンと張りつめた緊張感があり、 あとで聞いたところでは、そのころ辻さんの教室では、一斉に「440h」 から「444h」にチューニング・アップされたそうです。 いま思うに弦楽器の調律は、まことにメンタルな感触があり、思わず 手にとって抱きしめたくなるような気分になることがあります。反対に、 弾くことを拒絶されるようなピッチもあるらしいのです。いまもなお、 謎につつまれた疑問のひとつですが……。 ことほどさように《ヴァイオリン物語》は、わたしにとっては記憶の 源泉であり、いまのネット情報における空白の時代を伝えています。 なお、このメール本文と、別掲の部分を、わたしの《与太郎文庫》に 引用させていただきたいのですが、よろしいでしょうか? また、たったいま気づいたのですが、東儀哲太郎の名を(意外や意外) 次のところで引用していました。 → 《おやおや? ~ 続・親の顔 ~ 20031224 与太郎文庫》 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20031224 ぜひ、ご研鑽のほど、ご精励ください。ではまた。 与太郎 こと 阿波 雅敏
再録のための前口上 思いたって書きはじめたものの、未完のまま投函しなかった手紙は、 あるいは(与太郎の場合)実際に投函した手紙より多いかもしれない。 たとえば《未投函書簡の未完草稿》というタイトルにまとめて、読み かえしてみたら面白いはずだが、それはそれで差しつかえもあるだろう。 このところ、巌本さんや岩淵さんのことを書いていたら、いもづる式 に古い資料が出てきた。 ここでは、ちょうど七年前の元日から、ワープロに眠っていた手紙を 公開してみよう。三十五年前には公表できなかった些事も、もはや時効 であるし、出さなかった手紙だから、何が書いてあっても受取人に責任 がおよぶこともないはずだ。 難をいえば、これまで書いたものと重複する部分が多くて、いささか くどい印象もあるが、ほとんど手を加えないで再録しておく。 あらためてポストに入れてはどうか、という案も無いわけではないが、 ほとんど忘れていた者から、あまり突然に手紙を受けとるのも、迷惑な 話である。七年前なら、久々のテレビ出演だから、さまざまの人たちの 反応が寄せられたはずで、それに紛れるつもりだった。 岩淵 龍太郎 様 前 略 先生とNHKのご関係が浅からぬことは当然ですが、まさか将棋番組 の画面でお目にかかるとは意外でした。 堂々たる穴熊の布陣、悠揚迫らざる居飛車で、桂頭からの7七歩成、 もはやこの局面で下手が投了しても当然と観ていました。逆転にいたる 経過は(私の棋力が初段におよばないため)ついに理解不能です。 あまりになつかしかったので、一筆啓上いたします。 中学生のころに、ベートーヴェンの《ロマンスF》をラジオで聴いて 以来、二十八年前には親しくお話をうかがう機会を得ました。 その対談録《月刊・アルペジオ 19691112》は、校閲を省略したため、 先生のご意向に添わない箇処もありましたが、私の長年の敬意が、やや 無遠慮な表現になったものでしょう。 当時「京都市立芸術大学には女子学生もおおいから、そのほうの配布 は控えてほしい」旨のお申し出は、そのとおりに手配しましたが、身辺 の友人たちの反応は「いかにも、カラヤンらしいエピソード」と概して 好評でした。私の判断は(真偽はともかく)おそらく楽屋のうわさ話が 伝説化したもの、とみていたのですが(いま思えば)先生のお立場や、 ご懸念にまで配慮がおよばなかった次第です。 そのあと、江藤俊哉氏との対談は(私の都合がつかず)、海野義雄氏 とも機会を逸し、当初の構想である“日本の弦楽四重奏談”シリーズは 完成できませんでした。 巌本真理・黒沼俊夫両氏も故人となられて寂しいかぎりですが、先般 は「世界室内楽コンクール」審査委員長として活躍される先生のご健在 を知りました。先生の教え子のひとりである、チェロの白石将氏とは、 あるとき数時間におよぶ長電話で室内楽を語り合ったこともあります。 同志社から京都芸大を経てパリ音楽院にわたり、現在カンヌ管弦楽団 に在籍するバスーンの若林通夫は、私の高校オーケストラの後輩です。 幸運にめぐまれた音楽ファンとして、自伝草稿“天才少年少女列伝” を書きかけています。たとえば、先生が独奏された《ロマンスF》は、 辻久子さんが、指揮者エッシュバッハーとの意見が合わなかったので、 急拠コンサート・マスターの代演となった経過(当事者には複雑な感想 もあるかと存じますが)など、微笑ましいエピソードであり、いかにも 起こるべくして起った伝説的珍事ですね。 辻久子さんとは、直接お目にかかることはなかったのですが、かつて 家を売り払ってストラディバリウスを買うという、象徴的なニュースの 後で、それまで愛用されていた双子のバイオリン“月龍・日龍”には、 数年後に一方の月龍・日龍(いずれか不詳でしたが)を手に取ったこと もあります。 その製作者である峰沢峯三氏(19780515没)については、鈴木政吉氏 (18591211? < 19440131)製作のチェロを高校時代に手に入れて、修理 を依頼すべく、訪問したことがあります。(註) 峰沢氏は一瞥して「なかなか良い楽器だな、イタリア風に真紅に塗装 すればいい。この傷も、すっかり綺麗にしてあげよう」といってくれま した。「いかほど用意すればよろしいか」とたずねると、「学生さんの ようだから、六千円にマケテあげよう」といわれたものの、その予算は 他のことに消えてしまい、楽器そのものも現在では手許にありません。 私が学んだ弦楽器は、すべて鈴木製ですが、初代のチェロだけは大量 生産以前の風格があり、その感触はいまも記憶に残っています。 他に弦楽器製作者・無量塔蔵六氏と語り合ったことなど、それぞれに 関連するエピソードは、尽きることなく、いわば“双頭の龍・外伝”と いうところでしょうか。 * 昨年、学習院中等部の数学教諭をされていた新井正夫氏(アイザック ・スターン独奏ベートーヴェン協奏曲のファンであり、いまの私にとっ ては暦法研究の先輩です)が、各種パンフレットを送ってくださった中 に、若き日の先生の文章が載っていましたので、コピーを同封します。 《Farewell Recital Isaac Stern 19531027-1029 日比谷公会堂》 ご返信にはおよびません。 * 新春三夜連続の再放送、NHKスペシャル《映像の世紀》を視ていま す。この番組の音楽は悲愴感にあふれた傑作で、はじめて聴いたときは シベリウスの作品かと思ったものです。調べてみると大阪出身の作曲家 ・加古隆によるもので、彼はシューベルト生誕後、満百五十年に生れて います。現代音楽がたとえ映像に依存しながらも、ときに感動的な新作 が成立することに、激励の手紙を出し、二度目には返信無用と伝えまし た。若い芸術家は、ファン・レターに返事を書くよりも作曲に専念して もらいたいからです。 私は、まだ老人ではありませんが、親しい友人には老兵を自称してい ます。世俗をはなれて研究に没頭するためです。(Let'19970101 未完) (註) 峰沢工房を訪問したとき、はじめ案内を乞うてあらわれた中年男性は 峰沢泰三氏とみられる。想像したイメージより若すぎるのでとまどって いると、「しばらくお待ちください」と引きこまれて、主人の峯三氏が あらわれたのである。 * ── 新春お好み将棋対局・早指しペアマッチで指し初め「岩淵龍太郎 ×神野明」「清水市代×斎田晴子」「森本レオ×渡辺徹」「高橋和×中 倉彰子」解説・田中寅彦 501468 ── 19970101 12:30-14:30 NHK-TV ┌─────┤ ┌─────┤ ├─────┐ (上手下手/先手後手) 清水+岩淵 高橋+神野 中倉+渡辺 斎田+森本
与太郎は、十六歳のとき(やみがたい衝動によって)ヴァイオリンに 取りくんでいる。 あらゆる楽器の中で、いちばん大きな音が出るのは、トランペットや ティンパニではない。ヴァイオリンこそが、耳元から顎の骨を伝わって、 脳天をつらぬく大音響を発するのである。 そのころ《弦楽技法》《カザルスとの対話》を読んで、高名な弦楽器 奏者にインタビューする夢は、さいわいにも三十才で実現できた。 対談にあたっては、手に入るかぎり、経歴を調べておく。 生年月日を記憶しておくのは、そのことを話題にするためではなく、 ほかの人たちとの“長幼の序”を見はからうことが重要だからである。 いかに嫌いな相手でも(その人にとって)年長であれば、敬語で語ら なければならない。あるいは(自分にとって年長であっても)身内の者 を語るときは敬語を用いない。 つきつめていくと、相手が、どのような人に対して敬語を用いるかを 観察すれば、ききての身分をどの程度に評価しているか明らかである。 与太郎の雑論だが、もともと日本語の敬語文法は、天皇を頂点とする 序列が基本だった。長幼は補助的な尺度にすぎない。したがって、最近 の若者が敬語を乱しているのではなく、身分制度としての天皇制が崩壊 したためである。 そこで、文法上の敬語は、すべて丁寧語や謙譲語に併合されたので、 時と場合に応じて流動化してしまった。たとえばタクシーの運転手が、 家族旅行で観光地のタクシーに乗った場合に「おい、運ちゃん」などと 呼びかける可能性もある。市民生活では、つねに金を払う者が優位で、 その場かぎりの関係にすぎない。 与太郎の(実際の出生日は分らないが)戸籍上の誕生日は、一月廿日 である。(与太郎にとって)ふしぎな偶然だったが、巌本さんの誕生日 が一月十九日、岩渕さんは二十一日だから、どちらも忘れようがない。 いまや与太郎のパソコンには、十万行におよぶ生没データがあるが、 どういうわけか「一月生れの音楽家」が多い。さらに偏在しているのは、 ざっと抽出しただけでも連続5日間、まさにヴァイオリニストの季節で ある。 このことは、日付と季節における統計上の“ゆらぎ現象”であって、 ただちに宿命や運命に結びつくものではない。むしろ、そうでないこと を証明するための、希少なサンプルであろう。 杉浦 日向子・解説《お江戸でござる 20040115 NHK》によると、 江戸の長屋では、新入りの者に対する「三つのマナー」があったという。 「一は生国を聞かず、二に家族構成を質さない、三に年令を訊ねない」 江戸文化を愛してやまない女史ならではの、近来の成果にちがいない。 コマーシャルや映画で人気絶頂の美女・川井郁子さんは、生年不詳で ある。すくなくとも、ファン・クラブなどの公式HPでは、その部分が 空白になっている。かりに所属事務所の方針だとしても、いまどき時代 おくれのセンスではないか。 ところが、Google で「川井 郁子+年齢」を検索したところ、つぎの ようなサイトに出会った。── 老子《天網恢恢、疎而不失/第73章》 川井 郁子 - 36歳 情報提供者 - 1968/01/19(更新時刻2004/01/15) 《芸能人の背いくらべtop(みんなでつくるデータベース)女性(2)》 http://www.kurabe.net/geinou/woman2.html 諏訪根自子・植野豊子(現姓=服部 豊子/譲二の母 19261123 東京) とならぶ元祖“三大美少女”だった巌本さんは、初対面の与太郎にも、 みずからの年令については「昭和とおんなじだから」と屈託がなかった。 ── あどけない少女の頃だったわけですね 巌本 つまり 17才ぐらい(笑)ってわけね ── そして21才の音楽学校教授も誕生しましたね 上のやりとりは、与太郎が(遠慮するふりをしながら)カマをかけた ところ、ズバリ実年令で答えてくれたため、つぎの話題につながったの である。ここでもし彼女が、当時43才の年令を明かしたくない素振なら、 教授就任の話題は、別の表現にならざるを得ない。 ここで「21才の教授」と言いたかったのは、21才の教授が22才の生徒 に教える光景を思いうかべて、無意識のうちに前ふりをしたのである。 なお、カッコ内の「(笑)」については、書きとめたいことがあり、 いずれ「表記凡例」の項に追記する。 誤解されているようだが、インタビューは質疑応答の記録ではない。 あるいは、自分に都合のよい意見を引きだすための“やらせ”でもない。 分りきったことを訊ねて、知らなかったことを引きだすのが妙味である。 著名人にインタビューする対談形式としては、セシールとバーナルの 経営者がCM史上二大成功例である。前者は新聞紙上で、後者はテレビ 各局を乗っ取ったかのごとき勢いだった。 この手法が、これほど効果的だとすると、ストッキングや化粧石鹸に かぎらず、教育や政治に応用されれば、画期的な成果が得られるのでは ないか。
表記凡例 ~ Awa Library's Rules ~ 「上旬・中旬・下旬、月初・月末」などの表現は、無条件に信用でき ないが、まったく日付がわからないよりは優位に扱うために、ここでは (Excel の日付セル内で)つぎのように表示する(すべて一月の例)。 「上旬=010. 中旬=011. 下旬=012.」「月初=01初 月末=013.」 また、まったく日付がわからないものは「01..」とする。 (年号表記には「1900年代=19.. 2000年代=20..」「1990年代=199. 2010年代=201.」、年令は「十代=1. 二十代=2.」のように表記する。 この点々は、当初「半巾カナ=ナカグロ」を用いていたが、通信言語 に変換すると「全巾カナ=ナカグロ」に化けることがあるらしい。 《与太郎文庫》では化けないが、《はてなダイアリー》では化ける。 したがって、最近では「半巾英小字」に統一しているが、旧いデータ では未修正のままになっている。 これらの措置は(エクセル以前から)ソート機能を意識したもので、 数万行のレコード(行単位のデータ)を自在に並べかえるために必要な 手順であった。 しかし、データベースの現況は、いまだに一月一日を「1.1」と入力 するのがほとんどで、そのままソートすれば「1.1」「11.1」「12.1」 のつぎに「2.1」「3.1」がつづく。 優秀なオペレーターなら、頑迷な注文主や凡庸な上司には(無断で) 「01.01」「12.31」と入力しているはずだが、印刷段階で元の木阿弥に されてしまう。いまなお「ゼロの概念」が理解できないからである。 「1月1日」は、外国人には理解できないが、0101なら理解できる。 だが、欧米人もまた頑固に「1st. Jan., 2004」などを保守している。
>> ノイズ ~ 自動制御用語「悪魔の辞典」 ~ fujix(19431012) 仕事をしているそばで、くだらない話をぺらぺらやられると本当にい らいするするものだ。アメリカの物理学者クロード・シャノンの通信理 論によれば、ノイズとは「元の情報が相手側に正確に伝わることを妨げ る存在」としている。これによれば、ノイズによるいらいらが問題では なく、ノイズが思考だとか、仕事を正確にできなくすることが問題であ ることになる。このようなノイズの影響を少なくするため、シビアさを 要求される情報系では、難しい言葉だが「冗長度」を高める必要がある。 すなわち同じ情報を2度送るとか、違う情報システムを併用するとかが それに当たる。当然ながら手間とか金が余計にかかりシステム全体の効 率が落ちることになるのだが、それはしょうがないと考える。 しかし、ノイズが必ずしも有害ではないという説が最近の情報理論で は有力である。そう言われてみると確かにそうかもしれない。暗い部屋 を描いた重厚なタッチの昔の有名な名画を調べたら、実は長年の“汚れ” が絵の表面にこってり付着しており、本来は明るい部屋を描いたつまら ないものであった、という話を聞いた。なんのことはない。名画を鑑賞 しているつもりで汚れ(ノイズ)を見ていたのである、人間を判断する 基準になる外観も実はノイズだらけかもしれないし、存在そのものがノ イズである人間もいるかもしれない。 以前、ゴミを掃除するロボットをある会社が制作したが実はなにがゴ ミでなにが大切な物かをロボットに教えるのが難しくて商品化出来ない、 という話を聞いた。なにをもってゴミと判断する基準が難しいし、もっ と言えばないのである。 同様にノイズも個人差、人種によっても受取りかたが異なるため完ぺ きな定義は不可能のような気がする。バイオリニストの巌本真理が音楽 以外に一番好きなのは雷の大音響だというのだから。 (1991年1月) ── http://home10.highway.ne.jp/fujix/dv16.htm (ノイズ) 投稿者:与太郎 投稿日: 20010911(水)06時23分05秒 「バイオリニストの巌本真理が音楽以外に一番好きなのは雷の大音響」 は、すばらしい発言ですね。ぜひ出典ご教示ください。かつて私の対談 《弦楽四重奏談 19690712 他》で、彼女の直截な感性に打たれました。 はじめて出会った、ほんものの芸術家として、いまなお忘れることがで きません。 << 上記の質問には回答なし。アメリカ人の貿易商ミセス・ジェーンも、 雷鳴を「自然の展覧会」と表現した。自立した女性には、共通の感性が あるのかもしれない。 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19690712 ── 《日本の弦楽四重奏談 ① 19690712 月刊・アルペジオ》 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19710901 ── 《英対話 19710901 Awa Library Report》 >> 烈女列伝 ~ アーティストたちの矜持 ~ 前原 政之 戦前・戦後を通じて日本を代表するバイオリニストとして活躍を続け た巌本真理は、晩年、ガンと闘いつつ演奏活動を続けた。最初に現れた のは左胸の乳ガンで、そのために左乳房切除の手術を受けた際、彼女は 執刀医にこう訴えたという。 「先生、バイオリンが弾けなくなってしまうなら、救っていただいても 生きる意味はないのですが・・・・」 なにか、背筋に震えが走るような言葉である。「仕事だけが私の生き がいだ」と口で言うのはたやすい。だが、死が眼前にやってきたとき、 仕事への執着が生への執着を上回るような人が、いったいどれだけいる だろう。 そもそも、彼女が胸のしこりに気づいたのは、入院より半年以上も前 のことだった。自らが率いる「巌本真理弦楽四重奏団」の公演予定を優 先し、病院へも行かずに地方公演を続け、12月の定期演奏会を終えてか らようやく入院したのだ。もし、公演をすべてキャンセルしてすぐに入 院していれば、早期発見でガンは完治したかもしれない。だが、彼女に とって、演奏活動はすべてに優先すべきことだった。たとえそのために 自らの命を縮めようとも・・・・。 その巌本真理と同じ1926年に生まれ、1年違いで「毎日音楽コンクー ル」に1位入賞して世に出たのが、同じくバイオリニストである辻久子 だ。 11歳でのデビュー以来60年以上、彼女はバイオリンとともに歩んでき た。いまや女性バイオリニストの代名詞ともいうべき存在であり、大阪 にはその名を冠した「辻久子記念弦楽アンサンブルホール」もある。 辻久子といえば、73(昭和48)年、バイオリンの名器「ストラディバ リウス」を買うため、自宅を手放したというエピソードでよく知られて いる。兵庫県西宮市の自宅を3500万円で売却し、3000万円のストラ ディバリウスを手に入れたのだ。20数年前の3000万円はたいへんな 金額であり、マスコミにも騒がれた。 彼女はのちに、このときの心境を振り返ってこう語っている。 「家のローンはいいけれど、バイオリンのローンはイヤ」 そう思ったからこそ、家を売ってまでストラディバリウスを買ったの だと・・・・。 つまり、こういう意味だと思う。バイオリンをローンで買うことは、 残ったローンの分はまだ“自分の所有物”にはなっていないということ である。彼女にとってバイオリンは武士の刀のようなものであり、それ を弾くことは真剣勝負だ。なのに、ローンが残っているという“負い目” が心の片隅にあっては、それが無意識の遠慮となって、バイオリニスト としての技量を百パーセント出しきれないかもしれない。たとえ家を売 ってでもそれは避けたい、と・・・・。 辻久子と巌本真理。日本を代表する女性バイオリニスト2人の“名言”。 そこには、音楽に人生を懸けたアーティストの矜持が、にじみ出ている。 ── http://www3.ocn.ne.jp/~sitemm/onna1-4.htm << 昭和十二年の音楽コンクールは、支那事変(満洲事変は昭和六年)の ために一年延期された。 かくて昭和十三年の春と秋に、あいついで巌本 真理と辻 久子、その 翌年は、江藤 俊哉と岩渕 龍太郎が登場して、それぞれ十二歳(数えて 十三歳)でデビューしたのである。 かつて与太郎は、巌本 真理と岩渕 龍太郎にインタビューしたので、 いずれ《弓ひく天才少女少年たち》というようなタイトルにまとめたい と考えていた。 これを“本伝”とすると、与太郎の音楽自伝は“外伝”にあたる。 ただし、与太郎は一介のアマチュアであって、指導を受けたわけでも ない。縁もゆかりもないのだが、どうしても書きとめておきたいことが いくつかある。ひとつは、インタビューのなかで、活字にできなかった エピソードである。もうひとつは与太郎の楽器を通じて、意外なルート が判明したことを記しておきたい。二人の弦楽器制作者に会った記憶も、 今となっては希少な体験にちがいない。 いますぐにまとまった内容にはならないが、いずれは《双竜外伝》と あわせて《弓ひく天才少女少年たち》を完成したいものだ。
Mozart《Motetto“Alleluja”K165-3(158a)》→全文検索《与太郎文庫》アレルヤ ──────────────────────────────── Wolf,Hugo Phiipp Jakob/Goethe,Johann Wolfgang von《Ob der Koran von Ewigkeit sei?》 いまこそ、イスラム経済概論を! 投稿者:adlib 投稿日:2004/01/15 22:01:48 作家・山口瞳は、長期連載《男性自身》で、くりかえし述べました。 「ポケットから千円札を一枚とりだしながら、経済学を論じるべきだ」 その後、ノーベル経済学者・フリードマンがTV講演《自由への選択》 で、胸ポケットのエンピツを取りだして、アフリカ産の木や芯の産地、 接着剤や販売元などの関係から、世界経済を説きおこしています。 京都大学経済学部創部X十周年の記念講演では、ある名誉教授いわく、 「どうも、われわれ経済学者は、道をあやまってきたかも知れません」 ── 「彼(マルクス)は一大発見、数世紀に一つという驚くべき発見 をした、と妻に語った。……経済は世界を支配する力だという発見であ った。」 ── 宮城 音弥《天才 19670220 岩波新書》P39 前半は、ややうろおぼえの記憶ですが、160年前には、だれひとり 経済学が哲学にとってかわるとは思わなかったらしいのです。いまこそ 哲学にもどるべきか、いっそ実学に転じるべきか。あるいは財務大臣に は学者でなく、経営の勝者を迎えるべきか……。 link:http://www.diplo.jp/articles01/0109-4.html → Ibrahim Warde/萩谷 良・訳《イスラム金融の現代的発展》 ──────────────────────────────── いわし掲示板 [ ツリー ] 6558 ← はてな http://www.hatena.ne.jp/1074158756 Friedman,Milton/西山 千明・訳《選択の自由 19800525 日本経済新聞社》
→《バルトークの後妻 20040208 初演366年譜》
Happy Birth-Day to Mr.Tanimoto 早々に賀状をいただき、ありがとうございました。 ことしのお誕生日は、いかがお過ごしですか? 昨年秋の《恵まれた二日間 20031117-1118 74歳のキャッシュ》は、 一日一刻のよろこびが伝わってきて、まことに感動的でした。(*1) 六月には、先生とおなじ京都女子大学で教鞭を取られた杉井六郎先生 が“傘寿”に到達されました。不肖の教え子でしたが(先生を見習って) うまくいけば、あと十五年も生きられることを痛感しています。 一方おなじころに、かけがえのない同級生もひとり失っています。 友人たちの退場あいつぐなかで、本宮先生はじめ、諸先生のご健康も 気になりますが、日々思いうかべることが、わたしの祈りの作法です。 やりとげたい作業や、済ませるべきことなどが残されているものの、 あれこれ手順を考えるだけではかどらないので、昨年暮に思いたって、 36年前の作品《音楽100年表 19680801 Awa Library》を引っぱり だして手を加えはじめました。 先生の、3才のお誕生日には、56才のラヴェルが《ピアノ協奏曲》 をラムルー交響楽団を指揮、53才のマルグリット・ロン夫人の独奏で 初演(旧版では、それぞれ57才58才と誤算)した、というわけです。 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20040114 クラシック音楽の“初演年月日を”日付別にならべたもので、いわば 不急の「不思議シリーズ」の処女作であり、いまだに愛着があります。 ことし一月一日から《与太郎文庫》に連載する予定が、本日ようやく 追いつき(先生のお誕生日に)アップロードできました。 年末年始の約3週間にわたって集中したので、ほぼ(約1800曲)完成 したのですが、誤植の訂正や検証、折々の感想を(このメールのように) 織りまぜることにしています。 ではまた。 与太郎 こと 阿波 雅敏 ──────────────────────────────── (*1)《恵まれた二日間 20031117-1118 74歳のキャッシュ》 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tbc00346/component/sentiment140.html#minoo
>> ルナール《博物誌:第三曲“Le cygne 白鳥”》 ゴデブスキー家出のエドワーズ夫人に捧げられた。これはロマンチッ クなセンチメンタリズムに対する皮肉を吐露している(楽譜3)。 〔歌詞大意〕池にうつる雲を追って白鳥は水面を泳ぐ。この雲に白鳥 は食欲を感じるからである。しかしやがてこの影を追いつかれて、死ん でしまうだろうに。だがしかし白鳥は水をくぐるごとに泥の中からみみ ずを一匹くわえ、鵞鳥のようにふとってゆくのだ。 ── 牧 定忠《名曲解説全集16 19651020 音楽之友社》P364 ── Ravel/Renard《Histoires naturelles 1907》 <<
|