スカーレットの心のつぶやき
つぶやき 目次|過去|未来
このところのPCのブルーバック現象はまだ続いている。
昨日は富士通のサポートセンターに電話して相談をしてみた。
結論はリカバリすることになった。
もしリカバリしても直らなければ
ハードディスクに問題があって修理しないといけないそうだ。
PCに疎い私は「リカバリをしてください」と言われても
「ああそうですか」と言って直ぐには出来ない。
夫に相談したらリカバリをするためのCDロムを出してくれた。
でも、自分でしないといけないようだ。
近々やろうと思っている。
PCはリカバリをして買った時の状態に戻すことが出来る。
そんなPCが一寸羨ましくなった。
私の人生もリカバリすることが出来たらどんなに良いだろう。
もし、人生をリカバリして
生まれた時に戻ることが出来たら、
今までの私とは違った人生を歩みたい。
小さい頃から将来の夢や希望のない人生だった。
心臓の悪い私には何もないと思っていた。
だから半ば投げやりな生き方をしてきた。
もう一度人生をやり直すことが出来るなら
心臓が悪くても夢を持ち、
その夢や目的に向って生きて行きたい。
好きなことを見つけて一つのことをやり遂げたい。
小さな幸せに目を向けて
今の自分に満足できる人間になりたい。
明るく笑って生きて行きたい。
私が居れば周りの者たちがほっとできるような
そんな癒しを与える人になりたい。
勿論恋もいっぱいしたい。
そして失恋しても心の病気なんかにならずに
また違う恋のできる強さを持ちたい。
あのスカーレットのような強さを持ちたい。
明日のことは明日考えようと思える
積極的な心を持ちたい。
くよくよせずいつも笑顔で居たい。
リカバリできたらそんな人生を歩みたいな。
でも、それは無理だ。
リカバリなんて都合のいいことは出来ない。
それなら今から残された人生を
リカバリしたつもりで歩めば良いのだ。
明日は明日の風が吹く。
ケセラセラで生きて行きたい。
この頃化粧ののりが良くなった気がする。
毎朝鏡の前に座ってそれを実感している。
化粧品を変えたのではない。
今までと同じだ。
心が満たされているからか?
(~ヘ~;)ウーンそれも違う。
だって、心の中ではまだまだ引きずっているものがあるし
今も忘れられずに涙が出そうになる時だってある。
じゃあ何で?
それは体の中にあるものを入れだしたから。
それは核酸。
必須栄養素の一つである核酸を飲みだしてもう直ぐ5ヶ月になる。
胃薬のお世話になって30年だった私が
一切の胃薬を飲まなくなったが
胃の具合はとても良い。
そして何より肌が綺麗になった気がする。
先日も母と姉に
「肌がつやつやして綺麗だ、化粧ののりが良い」と言われた。
自分でもそう思っていたから余計に嬉しかった。
年齢を重ねると肌も老化していく。
シミやしわやたるみが出てくる。
今はお金さえあればしわ伸ばしもできるし
エステに通えばそれなりに綺麗になることもできる。
でも、何より一番良い方法は
体の中に栄養を摂ることだ。
コラーゲンも化粧品でとるのではなく
食べものとして体に摂るのが良い。
もしかしたら自己満足かもしれない。
今度親友に会ったら
何も変わってないって言われるかもしれない。
でも、確かに体調は良くなっている。
女は何歳になっても若く居たいし綺麗で居たい。
そのためにも心を元気にして
核酸を飲み続けながら
ウォーキングをして体を引き締め、
いつまでも若く綺麗で居たい。
そうしていたらもしかして
恋をするかもしれない・・
なんて淡い期待をしながら明るく過ごしたいと思う。
昨日ここに書いたブルーバック現象について
数人の友人からアドバイスもらった。
ローカルディスクのチェック方法や
クリーンドライブする方法など
今までしたことのない経験だったが
教えてもらって本当に助かった。
ある人からは有料ではあるが
相談できるサイトを教えてもらった。
本当に有り難いことだと思う。
昨日の夜早速試みてみた。
スタートメニューから入り、
アクセサリの中にある、システムツールに行き
ディスクデフラグツールでCドライブを最適化した。
その後、ディスククリーンアップをしてみた。
そうしたらウイルスが10個ほどあるのが分かった。
ウイルスバスターを入れているのだが
最近は手動で隔離しないといけなかったので
そのままにしておいたのがいけなかったのだろうか・・・
今朝はそれらのウイルスを駆除しようと思っている。
それにしてもPCって厄介なことが起きるものだ。
人の体も栄養を摂りすぎると病気になるし
ウイルスに感染すると大事になる。
いくら大丈夫だと思っていても
どんなことが起きるか分からない。
PCはもし駄目になってもやめてしまうことが出来るが
体は死ぬまで元気で居たいものだ。
栄養は摂り過ぎないように
摂るのなら心の栄養を摂ることにしよう。
自分自身の生活をエンジョイするためにも
いい人たちと付き合い、
いい気分になれることをして
心を元気にして
どんなウイルスがやってきても
それを退治できる強い心を持ちたいと思う。
今回のPCのトラブルでつくづくそう思った。
さあ、これでブルーバックが起きなければ良いのだけれど・・
この最近の私のPCは
電源を入れると二回に一回くらい
背景がブルーになり英語の文章が出てくるようになった。
しばらく放っておくと普通に立ち上がる。
面倒で時間もかかるけれど
立ち上がるからマア良いか?と思ってそのままにしておいた。
でも、これって大変なことになるかもしれないと聞いた。
ネットの友人のPCも同じ状態になり困っていると言っていたが
訪問サービスを受けて解決したと聞いた。
私は友人にどんなにしたら良いのか尋ねていたけれど
やはりその状態になったときに
ちゃんとみてもらうのが良いみたいだ。
今朝も同じような状態になった。
英悟を読んでいくと
どうもマイコンピューターの中にある
ローカルディスクCをチェックせよとのこと。
でも、方法が分からない。
PCに疎い私にはお手上げ状態だ。
夫に聞いても分からないと言う。
後は友人の言う通り
専門家に頼んで解決してもらうしか方法がないようだ。
もしかしてこのままの状態で放っておくと
大事なファイルも消え、
ハードディスクそのものが破壊されるおそれもある。
いっそ破壊されてPCが使えなくなったら
私はこれをきっかけにPCをやめることが出来るのだろうか?
PCを始めて4年になる。
今では私の日常生活の一部にもなっている。
それをやめると淋しい気もするし
ストレスも貯まりそうだ。
存在するということが当たり前になると
失くすことはきっと辛いだろう。
思い切って連絡して来てもらおうかな・・
人生は楽しくありたい。
若い頃なら少々のことなら辛いことがあっても耐えていける。
まあこれくらい・・って思えることもある。
体力的にも精神的にも強さがある。
でも、年齢を重ねるごとに
段々とそういう事柄が煩わしいと思うようになる。
自分自身の人生が残り少なくなった時、
人は自分のためだけに生きても許されるのではないだろうか。
子どものため、夫のため、妻のため・・
皆それぞれ守りたい者達のために
自分がやりたいことを抑えて献身する。
そんな自分自身のことを振り返ってみて
後残りの人生を楽しく悔いのないように生きたいと思っても
それは当たり前のことだと思う。
ネットも然り。
人のためにするのではない。
自分が楽しくしたいからネットの繋がりを大事にするのだ。
人のためにやるのではない。
人に振り回されるなんてごめんだ。
誰かを誹謗中傷したり
言葉の刃で傷つけることさえしなければ
自分の思うようにしても良いと思う。
私もHPを開いて4年が経った。
何回か閉じたり開いたりしながら今に至っている。
今は自己満足の世界で楽しむようにしているが
これが一番だと思うようになった。
人のためではなく私のために続けて行こう。
結局は自己満足と自己責任の世界なのだから。
この間から自分自身の身辺整理をしている。
私の血液型は純粋A型。
割り切るのって苦手だし
優柔不断なところもなくはない。
神経質だし細かな所がある。
でも、生活はシンプルイズベストと思っているから
要らないと思うものは置かないことにしていた。
思い出の品々も
それが私にとって一生大切なものかどうかを考えて
処分するかどうか決めている。
あれほど大切にしていたあの人との思い出の品も処分した。
私のPCに残っていたメールも皆削除した。
アドレスも写真も削除して何も残っていない。
思い出を大切にしたいと思う気持ちと
いつまでも引きずりたくないという気持ちとの間で
揺れ動いていた私だったけれど
最近は未練がましいことが煩わしくなった。
PCの中にある色々な写真や絵手紙類も
皆削除しようと思う。
残しておいても見ることはない。
前のHPに使っていたものも捨てようと思う。
もしこのPCが壊れても惜しいと思わないようにしたい。
メル友さんたちの中でも
長くメールが来ない人のアドレスは削除しよう。
フォルダの整理もしよう。
要らないものは要らない。
後でしまった・・と思うことがあるかもしれない。
でも、それはそれで仕方ないと思うつもりだ。
冷淡だと思われるかもしれないけれど
生きているっていうことがつまりはこういうことなのではないだろうか。
私がもし死んでもその後残しておかないためにも、
身辺整理をしたいと思う。
肉体的にも精神的にも
すっきりするのが一番だ。
心身ともに贅肉は要らない。
身軽になって春を迎えたいと思う。
2006年02月22日(水) |
心配だけれどこれで良いのかも・・・ |
「行方が分からない。」
昨日Kから電話が入った。
Hの連絡先を調べて教えてくれることになっていたが
考えてみたら
それは私の一方的な思いであって
Hの気持ちを無視したものだったと思った。
だから、もしKから連絡がなかったとしても
それはそれで良いと思っていた。
Kからの電話は
Hが三年前に仕事先を辞め、
住んでいた家も転居して連絡がつかないという知らせだった。
Hは私と別れた後ずっとホテルマンとしての仕事をしていた。
付き合っていた頃もアルバイトでホテルの仕事をしていたから
大学を卒業後もホテルの仕事に就いたみたいだ。
Hはマナーがとても良かった。
いつも感心するくらいだった。
真面目でやさしくて几帳面で・・
今思うと本当に良い人だった。
私は彼に対して謝っても謝りきれない思いがある。
せめて一言ごめんと言いたかったのだ。
でも、連絡が取れなくなってしまった。
KはHと小学校からの親友だから
Hの居場所が分からないことをとても心配していた。
私も心配になってきた。
Hは若い奥さんをもらったという。
幸せな生活をしていてくれたらそれで良い。
でも、職場を転々として住むところも変わり、
落ち着いた暮らしをしていないのなら、
それは私が原因している気がする。
私と知り合うことがなかったら
もっと違う人生を歩んでいたに違いない。
KはHの居場所が分かったら連絡すると言ってくれた。
どうか元気で幸せになっていて欲しい。
心からそう思う。
そしてHの居場所が分かったとしても
もう私はHに連絡をしないようにしよう。
そっとしてあげよう。
それがHへの一番の謝罪になるような気がするから。
いつもの通り11時過ぎに床についたが
先ほど娘がお腹が痛いというので目覚めた。
救急病院をネットで調べた。
我慢できないものなら
病院へ連れて行こうと思って着換えて待機している。
盲腸炎かもしれない。
放っておいて大変なことになってもいけない。
夫は明日の朝まで様子をみるべきだと言って
自分の部屋へ帰って行った。
娘は今ベッドの中。
気を紛らわせるために試験勉強のための本を読んでいる。
心配をしてはいけないと言うがやはり心配だ。
明日の朝まで待てるのなら良い。
でも、明日の朝まで待って手遅れになったらどうしよう・・
私は今直ぐにでも病院へ連れて行きたいと思う。
何でもないかもしれない。
それならそれでとても嬉しい。
大げさだと笑われるくらいの方が良い。
今は夜中の0時を過ぎたところだ。
普通私が起床するまで4時間。
今寝ても直ぐに起きる時間になる。
このまま起きていた方が良いかもしれない。
娘の腹痛が治れば良いが・・
治るものと願っている。
朝まで待つのって長いな・・
--------------------------------------------------------------------- 結局2時まで起きていた。
娘が眠ったので
いつもの起床の時間である4時まで2時間は眠るつもりだったが
熟睡は出来なかったので頭が重い。
娘の腹痛は今朝は治まっているみたい。
心配していたような大事にはならないみたいで良かった。
明日から高校の定期考査が始まるので
今日は登校すると娘は言っている。
本当は今日一日休んで病院へ行って
診てもらうのが良いと思うのだけれど・・
それでも落ち着いているようで良かった。
本当に良かった。
今まで生きてきた私の人生の中で
一つだけ心残りなことがある。
若い頃、
大きな心の傷を受け、色々な意味で苦しんできた。
裏切られ、謗られ、憎まれたこともある。
でも、私は勘違いしていたような気がするのだ。
それは、いつも私が被害者意識しか持って居なかったことだ。
私が人を傷つけ苦しめていたことだってある。
敢えてそういうことに目を瞑り、
自分のことしか考えて居なかった。
私が今も一つ心に引っかかっていることは
数年を共に暮らしたHのことだ。
あの博多空港でHへ別れを告げ
彼の涙を見て以来、
Hとは全く音信普通だった。
でも、50歳を過ぎた頃から
私がHに対してしてきた行為を恥ずかしく
またとても申し訳ない気持ちでいっぱいになってきている。
出来るならHと会って
土下座をしてでも謝りたい。
会えないのなら
せめて電話で謝りたい。
そんな気持ちが最近の私の心の中に沸いてきていた。
思い切ってNTTの104に電話して
Hの電話番号を聞いてみた。
でも、佐賀には居なかった。
その時Hの親友のKのことを思い出した。
初めてHと会った時、
Hは親友Kと一緒だった。
Kに連絡を取ればHの居所が分かるかもしれない。
そしてKに連絡することが出来たのだ。
Kは30年前のことを覚えていてくれた。
そしてとても懐かしい気がすると言ってくれた。
Kも50歳になったという。
30年という月日が経っているのだ。
Kが今日Hの連絡先を教えてくれることになっている。
Kに連絡が取れる。
でも、連絡先が分かったとしても
一体どういう風に話をすれば良いのだろう・・
教えてもらったとしても
私はHに電話を出来ないような気がする。
でも、Hに心から謝りたい気持ちはある。
葛藤がある。
私の中で迷いがある。
昨日、東京に住む友人から
携帯へ画像が送られてきた。
何所でしょう?との質問に添えられたヒントは
「檸檬」だった。
私の脳裏に閃いたのは
さだまさしの「檸檬」という曲。
そして画像はその曲の中に出てくる「聖橋」だと思った。
答えを送信したら
「ピンポーン」という返事が来た。
懐かしかった。
勿論私は東京の「聖橋」に立ったことはない。
東京へ行ったことはたった二回、
夫が大学生だった頃に遊びに行った二回しかない。
だから御茶ノ水へ行ったこともない。
でも、送って来てくれた
「聖橋」から見る景色は
私をさだまさしの世界に連れて行ってくれた。
夕食が終わりさだまさしのCDを出して
この「檸檬」を聞いた。
私はこの「檸檬」という曲は大好きだ。
さだまさしの曲は歌詞が良い。
檸檬もそうだ。
♪ 「或の日湯島聖堂の白い石の階段に腰かけて
君は陽溜りの中へ盗んだ檸檬細い手でかざす
・・・・」
ここからが好きなフレーズだ。
「食べかけの檸檬聖橋から放る
快速電車の赤い色がそれとすれ違う
川面に波紋の広がり数えた後
小さなため息まじりに振り返り
捨て去るときはこうして出来るだけ
遠くへ投げ上げるものよ」♪
良いなあ・・
私を青春時代に引き戻してくれた気がした。
梶井基次郎の「檸檬」も読んだ記憶がある。
確か最後の所で檸檬を画本の上に置き
立ち去ったような気がする。
彼の作品は暗く重いものが多い。
檸檬もきっとそうだった。
久しぶりに「檸檬」を再読してみようかと思う。
友人の一枚の写真は
私の心をさだまさしの世界へ誘ってくれた。
思い出という言葉とおりに。
二年前、このつぶやきがまだ「思うままに」だった頃、
「痛み」という題名で書いたことがある。
その時に書いたのは、
痛みはその場所がどこであれ本当に辛いものである。
肉体的な痛みは原因が分かり
その治療をすれば治るけれど
精神的な痛みは簡単には治らない。
傷ついた心を元に戻すことは難しい。
精神的な痛みの方が私にとっては辛いものだ。
というようなものだったと思う。
確かに痛みは肉体的にも精神的にも辛いもので
出来たら痛みを感じないって良いと思っていた。
でも、昨夜のTV「難病の子ども達」の中で
「無痛無汗症」に苦しむ子ども達の姿を見た。
痛みというものは人間を救うものだと分かった。
痛みを感じるからこれは大変だと医者にも行く。
痛みを感じなければ
体に無謀なことをしてしまう。
骨折の繰り返しで骨がバラバラになり
歩行すら出来なくなった子も居た。
熱さを感じないから火傷をしても痛みもなく
そのために命を落とすこともある。
母親達は子ども達に
痛みをいかに伝えるかということで悩み苦労していた。
痛みは悪だと思っていた私にとって
昨日見たこの放送は私の痛みに対する概念を変えた。
痛みがあることを有り難いと思えるようになった。
今私の心の痛みは存在している。
落ち込むこともある。
心の痛みがなければどんなに良いだろうと思う。
また突然の胃の痛みが来ることもある。
でも、痛みを感じることって大切なことなのだ。
生きているからこそ痛みを感じるのだ。
痛みを感じるからこそ
危険なことや自分にとって怖いことから
逃げることが出来るのだ。
そう思ったら
今痛みを感じていることに感謝できるようになった。
人の心ってそういうものなのだ。
心の持ち方で何でも良いように思えることができるのだ。
痛みを有り難いと思えるようになった私が居る。
母が心身ともに疲れている。
この二三日の母の様子を見ていると
とても心配になってきた。
父が去年の末に退院して以来、
母が父のことで頑張ってきている姿をずっと見てきた。
勿論、私も出来るだけ母の助けになるようにと心がけてはいるが
やはり同居していないから全てを把握して手伝うことは出来ない。
今年85歳になる母、
足腰が悪く本来なら自分のことだけでも大変なのに、
父の食事のことや身の回りのことなど
誠心誠意しているのがよく分かる。
そんな母を見て
父も心の中ではきっと感謝しているはずだが、
父の口から出る言葉は
時に母の胸を痛めることが多い。
元々好き嫌いの多い父の食事のことは
母にとって一番負担になっているようだ。
朝昼晩と三食を栄養面を考え
また父の好みも考えて作るのって本当に並大抵のことではない。
献立を考えることだけでも大変だ。
買い物をして材料を購入し作る。
長時間台所に立つと腰の痛みが激しくなる母は
休み休み作るからそれだけ時間もかかる。
朝から夜まで母の家事に費やす時間は多くなる。
好きな本を読む時間もない。
まだこれだけなら母も我慢するという。
でも、父が機嫌の悪い時は
本当に母のことを口汚くののしるのだ。
私が居て側で聞いていても耐えられないことを言う。
本当はとても優しい父だ。
そんな父が口汚くののしる言葉を聞くと
信じられないし
反面父の体のことを思ってしまう。
自分が元気だったらきっとそういうことは言わないはず。
きっと父自身もストレスがいっぱい貯まっているのだろう。
母が倒れたら父はどうなるのか?
私が母の代わりをすることは無理だ。
やはり父にとっては母の存在は一番だから。
母には元気で居て欲しい。
体だけではなく心も元気で居て欲しい。
姉と母に気分転換をしてもらおうと話し合った。
今日は姉に父の家に来てもらって
その間母を高島屋へショッピングに連れて行こうと思う。
母も何か買いたいものがあるみたいだ。
数時間のことだがきっと母にとって気分転換の機会になるだろう。
母を救ってあげたい。
今年もかまぼこ板の絵展の作品の応募が始まった。
去年は父の入院もありなかなか描く時間がなかったが
今年は父も安定して時間はある。
でも、何を描こうかと悩んでしまって
なかなか筆をとることが出来なかった。
一昨日ピエロの絵手紙を描いたのと同じピエロを
かまぼこ板の絵にしてみようと思い
昨日は殆ど一日中板に向っていた。
初めて描いた時に比べると
少しは上達してもいいはずなのだが
これがなかなか難しい。
一年に一回しか描かないのだから無理はない。
色づけが難しい。
アクリル絵の具なので重ね塗りが出来る。
描く時に油絵のように筆の跡が残るのが嫌だ。
でも、重ね塗りをしていると
どうしても筆の線が残ってしまう。
昨日も何回もやり直した。
私の頭の中には昨日描いた一枚ではなく
もう一枚描きたいと思っているものがある。
ピエロは練習台のようなものだ。
バックが真っ黒だったのでピエロが浮き出るようになった。
娘は怖いと言ったけれど
夫はピエロのイメージは暗いものだから
それで良いのでは?と言ってくれた。
もう一枚は明るく綺麗な色づけの出来るものにしたい。
板いっぱいに咲き乱れる秋桜を描きたい。
さあ、どうなることやら・・・
私の楽しみの一つにもなっているこのかまぼこ板の絵、
絵手紙と同じで描いていると時間を忘れる。
夢中になれる。
今の私にはとても大事なことだ。
絵があって良かった。
素直にそう思える。
私の家の冷蔵庫に小さなピエロのマグネットが
貼り付けられている。
ひょうきんな顔をして
小さなうさぎをポケットに入れ、
だぶだぶのズボンを穿いて立っている。
そのピエロを昨日絵手紙に描いた。
添えた言葉は
「人生泣いたり、笑ったり」
ピエロの顔を見ていると
人生の悲哀を感じる。
笑っても一生、泣いても一生、
同じ一生なら笑って暮らしたい。
でも、今までの私の人生は
嬉しかったことよりも
辛かったと思うことの方が多い。
人に裏切られたこともある。
人から謗られたこともある。
心を土足で踏みにじられたこともある。
それでも今まで50年生きてきた。
今も時々落ち込んだり、
食事が喉を通らないくらい
悲しいこともあるけれど、
どっこい生きている。
年を重ねる毎に
あれほど繊細で壊れやすかった私の心が
何枚かの鎧をつけるようになった。
時々は、
その鎧を通して鉄の刃が私の胸を突き刺すこともある。
傷を負うこともある。
でも、血や涙を流しても死にはしない。
踏み潰されても、
また芽や茎を出す雑草のようなたくましさを持って
甦っている。
昔の私には考えられない奇蹟だ。
この力って何だろう。
このエネルギーは何所から沸いてくるのだろう。
後何十年か経ったら
今よりももっともっとたくましい私になっていたりして・・
その頃には何も怖いものなんてないと思える私になっているかな・・
こんなことを言っていても、
またいつ落ち込み、
部屋の隅っこで膝を抱えて
蹲っているかもしれない。
そんな時は大きな声で笑ってみよう。
このピエロの顔を見てみよう。
人生なんて泣いたり笑ったりの繰り返しだ。
明日は明日の風が吹く。
なるようになれと思って楽しく過ごしたい。
今日は2月14日、
恋人同士にとっては一番楽しい日だ。
私が若い頃には
バレンタイン・デーはなかったような気がする。
もし、あったとしたら
この私だ、
きっと私の愛する人へ
心を込めて愛のチョコレートを贈っていたはず。
ああ~なんであの頃にはなかったのか?
ちょっと悔しい気もする。
結婚してからは
本命チョコを上げる人もなくなった。
夫へ上げれば良いのだけれど
夫はそういうことがあまり好きじゃないみたい。
だから、上げるこちらも何となく気遅れする。
でも、毎年心ばかりのものをプレゼントしてきた。
今年も早くからデパートへ買いに行った。
チョコ売り場は女性で賑わっていた。
今年は父と夫と義兄とメル友と
そして・・・
これが皆笑うだろうな・・・
毎日私が歩いている道の途中で
道路工事がされているのだが、
その工事にガードマンのおじさんがいつも立っている。
顔を合わせると、
「おはようございます」
「今日は寒いですね」
と言った簡単な挨拶を交わしていた。
先週は風邪のために歩けなかったが
昨日、久しぶりに歩いた。
おじさんは、私を最近見かけなかったから
どうしたのかな?と心配していてくれていたようだ。
私は「風邪を引いて寝込んでいたのです」と言ったら、
「気をつけてね」と言ってくれた。
たったそれだけの会話だったけれど
私の胸はじ~んとした。
嬉しかった。
今日、そのおじさんにもチョコを上げようと思う。
変に思うからやめたほうがいいと親友は言ったけれど、
私は「寒いから風邪引かないように仕事頑張ってください」と
メモを書いて一緒に渡そうと思う。
私の気持だから。
一日に五人以上の異性と話をすることにしている私。
でも、なかなか難しい日もある。
おじさんはそんな人の一人だ。
今日、渡したらきっとびっくりするだろうな。
でも、喜んでくれるかもしれない。
夫にはハートチョコケーキの絵手紙を描いて、
チョコと靴下を一緒にプレゼントするつもりだ。
父は父の好物を。
一大イベントにもなったバレンタイン・デー、
今夜は日本中の熱々の恋人同士にとっては
最高の夜になるだろう。
ちょっぴり羨ましい気がする。
世の中皆偽りだらけ・・・
耐震偽装マンション、ライブドアの粉飾決算疑惑、
東横インの嘘、
分からなかったら何でもありの今の世の中。
せめて自分の心だけは嘘をつきたくない。
他人に迷惑をかけない限り、
自分の思うままに生きて行きたい。
自分を抑えることが必要な時もあるだろう。
でも、ストレスが出るほどには
抑える必要はないと思う。
人生の折り返し地点を過ぎたこの頃になって
あの三十年前のことがいつも頭の中にあることに気付いた。
今の私の原点にもなっているあのことを
私のこころの中から消してしまうためにも
私は改めてそのことと対峙する必要があるのではないかと
思うようになった。
従兄に直接会って昔のことをはっきりとさせたい・・
父や母に向かって
何故あの時に私を守ってくれなかったのか?
聞きただしたい・・・
そんな気持ちになってきている。
無駄かもしれない。
今更そんなことを言っても何もならないかもしれない。
また、私の中に嫌な思い出だけが
大きく膨らむだけかもしれない。
その確率の方が高いだろう。
私の中ではもう終わってしまったことである。
過去のこと。
でも、こころの中ではまだ終わっていないこと。
いつまでも拘り続けている私が居る限り、
私の中であのことは終わらないのだ。
こころを偽って生きてきた。
文句一つ言わず、私はこれで良いのだと思ってきた。
一生あのままで終わらそうと思っていた。
あれでよかったのだと思っていた。
それなのに、この最近、無性に腹立たしく感じる。
私の本当のこころが私の病気に出たのだから、
私が私のこころに嘘をついたから駄目だったのだから。
そう思っているうちに
今、新しいこれからの人生を歩いていこうと思うのなら
言わないといけないのではないか?と思うようになった。
でないと、
このまま偽りの世界で生きている限り、
私のこころに平和は訪れないし、
私自身も幸せにはなれないような気がする。
もう偽りの世界で生きるのは嫌だ。
後悔のない人生を送りたい。
そのためには少々嫌な思いをしても
これからずっと引きずるにの比べたら
大したことではないような気がする。
従兄にちゃんと真正面から向き合って
私のあの時のこと
あの時の気持ちを言おうと思う。
今CD作りに凝っている。
先月の初めに聞いた
TVのCM。
私が青春時代だった頃、
そう70年代から80年代にかけて流行った
フォークソングやニューミュージックを集めたCDから
懐かしい歌声が流れてきた。
朝、家事をしている手を休めて
しばらくTVの画面に見とれていた。
本当に懐かしい気がした。
まさに青春そのものだったあの頃。
私の青春は皆とは違い病気との闘いの日々だった。
今回買ったCDの中の曲たちは
皆私が闘病生活の間に流行った歌ばかり。
私が入院しているベッドの枕元では
いつもさだまさしの曲が流れていた。
彼の曲を聞きながら何度涙を流したことだろう。
彼の歌詞の中に私を投影させながら
きっと私にもステキな恋がまた訪れると信じていたあの頃。
あの頃の私がこころの支えにしていたあの頃の曲ばかりが
今私の側にある。
多数の曲の中から
ベスト19を集めて一つのCDを作った。
そして親友やメル友にプレゼントすることにした。
ああ~あの頃は確かに辛かったけれど
違う意味でとても幸せだったような気がする。
あの頃は自分のことだけ考えていればよかった。
あの頃は皆が私のことだけ見ていてくれた。
あの頃は父も母も若かった。
今の私の年齢だった。
そして私は丸々子どもで居られた。
あの頃に戻れたら?
もしあの頃にリセットして戻ることが出来たら、
今度は決して病気にはならないで
思いっきり青春を謳歌しようと思う。
陽水やさだまさしやたくろうや、
イルカや赤い鳥やかぐや姫・・・
本当に本当に懐かしい。
やっと気付いた。
気付くのが遅すぎた。
今までにも何回も同じようなことを思ってはいたが
実行に移すことが出来ていなかった。
私の年齢を考えてみても
後何十年生きられるか分からない。
今、こうして生きていることすら
明日はどうなるか分からない。
それなら、残りの人生は
自分の楽なように生きたいと思う。
無理をしない。
私にとって一番難しい問題だけれど
心して無理をしないようにしようと思う。
普通の暮らしの中でのことは
少々の無理をしても大丈夫だという自信がある。
例えば家事を無理して頑張って後でしんどくなっても
一晩か二晩寝れば直る。
でも、精神的な無理はなかなか修復が難しい。
だから、メンタルな部分での無理をしないようにしようと思う。
夫とのことも無理して話しかけたりするのをやめよう。
去年心療内科へ行って医者に言われた。
「奥さんからご主人へ色んな意味で働きかけをしてください。」と。
私なりに努力はしてみた。
話しかけもしたし
映画にも誘ったし、
一緒に居られる時間を少しでも多く持とうと思って
一生懸命に努力した。
でも、結果は何も変わらなかった。
私が一生懸命になればなるほど虚しくなった。
だから、もう今日からは無駄な努力はやめようと思う。
私の人生だ。
私の思うように生きよう。
相手にばかり気遣うことをやめよう。
他人は他人だ。
私は私だ。
私自身が気持よく楽しく生きられるように
私に関わる人を選ぼうと思う。
私の心がちょっとでも苦しくなるような人とは縁を切ろう。
捨てることも人生では必要だ。
何事も自己責任だ。
自分の人生に新たな決心をして
今日から歩いていこうと思う。
柴又の寅さんの「男はつらいよ」ではないけれど
主婦って本当に辛いなと思う。
先日の日曜日の朝、起きてみると
喉が痛い、風邪の引き始めのような気がした。
昔から言われるように
「バカは風邪をひかない」の言葉の通り
私はめったに風邪を引かない。
一年に一回引くか引かないかだ。
そんな私が今度は本当に風邪を引いてしまった。
風邪は私の心臓病に影響を与える。
医者から「風邪を引かないようにしてください」と
いつも言われている。
熱が人工弁に影響があるのだ。
風邪なんてとバカにしてはいけないのだ。
だから、日曜日の朝喉の痛みを覚えたときも
大変なことにならねばいいが・・と思った。
幸いインフルエンザではなさそうだ。
家族や両親にうつすおそれもない。
それでも体はだるく
熱も最高38度まで上がってしまった。
初めは朝もいつものとおりに起きていたが
さすが二日目は起きられないくらいしんどかった。
でも、主婦って本当に辛いものだ。
朝はお弁当も作らないといけないし
ご飯の支度をしないといけない。
「私一人なら食べなくても良いから寝ていられるのに・・・」と思いながら
起きていつもの通り家事をこなした。
あれから6日目になる。
症状は少しずつ回復してきた。
熱は出なくなったが
夕方になるとだるくて食欲も出なくなるほどしんどい。
夫や娘は私のことなど全く気遣うこともなく、
当たり前のことと受け取っているみたいだ。
ああ~本当に嫌になる。
一人になりたいと思う。
家族なんて誰かが悪い時こそ
その有り難さが分かるものだと思うのに・・・
主婦って損だな・・・
夫婦というものは合わせ鏡だと聞いたことがある。
夫と私との関係がうまく行ってないのが
全て私一人に原因があるということはないと思うし、
誰かに話してみたときに
いつも私が悪いのだと言われるのは心外だ。
夫と結婚した初めの時から
今のように気持が全てすれ違っていたとは思わない。
長く付き合っている間に
勿論新鮮さやときめく心は消えて行った。
そして、馴れ合いの気持ちがいつの間にか
夫婦という男と女の関係というよりも
同士、家族というものに変化していったのだと思う。
私に至らぬことはいっぱいある。
でも、私は私に出来ることを一生懸命にしてきている。
家事の全て、
育児の全ては私がやってきた。
最近よく話題にされる「熟年離婚」
この言葉が私の心の中に大きな意味を持って訴えてきた。
夫は真面目で文句の言える人ではない。
子どものことも可愛がり、
仕事以外のことで遊ぶ時間もほとんどなくても
文句一つ言わない人だ。
でも、何か違うのだ。
私の方を見てないのだ。
このことは私が断言できる。
決して私のことを思ってないということはないのだろう。
でも、私には夫の愛が感じられない。
夫の優しさは私には感じられない。
私の心が夫以外の男性に向いたとしても
これは私が一方的に悪いのではないと思う。
私の心の中に穴を空けたのは
ほかならぬ夫だと思うから。
私の我儘だけではない。
私の心を満たしてくれるもの、
それが子どもだったから
今そのものが私から離れて行っていることが
私の淋しさを余計に大きなものにしているのかもしれない。
私の心の中の淋しさ、
虚しさ、
ぽっかりと空いた穴に
誰かが入ってきたとしても
それは仕方ないことだと思う。
ペルソナとは
仮面舞踏会にかぶる仮面のことだ。
私はまさにこの仮面をかぶって暮らしている。
夫との離婚はしないだろう。
でも、私はこれからの何十年という長い月日を
ペルソナをかぶり
傍目には幸せそうな家庭を保っていくのだろう。
本当は激しく私を受け止めてくれる人を探しながら・・・
人生の折り返し地点を過ぎ、
これからが私の人生だと思っていたが
さあどんな人生になるのだろう。
そして・・・
私は自分の人生を後悔することなく
最期を迎えることが出来るのだろうか。
夫との心のすれ違いは
娘が生まれてからひどくなったような気がする。
娘が生まれるまでは
休みの時など二人でドライブにも行き、
二人だけの時間を持つことが出来ていた。
でも、娘が生まれ
私は夫と娘が仲良くなることを嫌ったが、
反対に夫は娘との時間をとても大切にするようになった。
私が娘を出産したとき、
普通なら私の手を取り
「大変だったね。
お疲れ様、有難う」と言ってくれると期待していたのに
夫は何も言わなかった。
そして娘の方しか見てなかった。
私が娘を産んだのだ。
産んだのは私なのだという気持は
夫には通じなかったような気がする。
あの時から
私の心の中に夫への不信感が生まれ、
娘と会わせたくないと言う気持ちになり、
夫と娘が仲良くしているのが
とても腹立たしいと思うようになった。
あの時に私の手を取り
夫が私への労わりの言葉を言っていたら
その後の私たちはきっと上手くいっていたに違いない。
たったそれだけのことだと思う人も居るだろう。
夫はきっと心の中ではそう思っていたのだろう。
でも、人は言葉にしなければ伝わらないことって
いっぱいあると思う。
言葉は人間にだけ神様が与えてくれたものだ。
だから一言で良い、
私へ優しい言葉を言ってくれたら・・・
もう遅い。
今の私と夫の間には殆ど会話が存在しない。
これは二十年という月日の間に
少しずつ出来て行った心の亀裂だと思う。
私の病気が今でも時に再発しているのも
きっと夫との関係が上手くいっていないからだと思う。
私の心は私にしか分からない。
夫と離婚したいと何度思ったことか。
でも、それが出来ない私が居る。
私は一人では娘を育て上げる経済力がなかった。
私のことをいつも思ってくれている
両親へもう二度と心配をかけたくないという気持ちもある。
でも、私の人生だ。
私の心のままに、
私のために生きて行きたい。
心の中で誰かを思いながら・・・
これから数十年の月日を
私は今の心を大切にして生きていこうと思う。
たとえ、それが倫理に反することであっても、
私は私の心に素直になりたいと思う。
子育てがこんなにも大変なものだとは
あの頃の私は毎日が驚きの日々だった。
今まで生きてきた私の人生は
自分の思う通りにならないこともあったけれど
それでも、皆が私に合わせてくれたこともあり
病気を抱えながらも生きてくることが出来ていた。
でも、子どもはそうはいかなかった。
私のしたいことも我慢しなければならない。
私の思うようにならない。
そのジレンマに毎日がイライラの日々だった。
夫の元へ戻った私の心臓の具合も悪くなり、
電車で30分かかる道のりを
実家の母は回数券を買って
娘と遊ぶために我が家へ来てくれるようになった。
母と娘が遊んでいる姿を
私は横になって眺めていた。
楽だった。
あの息の詰まるような娘との二人だけの時間を
過ごさないで済むということだけで
私の日々は明るいものになった。
母への感謝の気持ちは今も持っている。
私が娘を産んだことが
私の唯一の親孝行だと母は言った。
姉には子どもは居ない。
だから一人っ子である娘は
父や母にとって唯一の孫になる。
私の心臓のことを考えてみれば
結婚しても子どもを産むことは出来ないと思っていたから
母たちにとっても
孫の顔を見ることは夢にも近いものだったに違いない。
それは言わないけれど分かっている。
だから私が娘を産んだことが
母たちにとっては私の唯一の親孝行だと思ったのも無理はない。
そんな母だったから
毎日毎日通ってくれた。
そして娘は母と本当に仲良く遊んでくれた。
娘が幼稚園の年中さんの時に
私が心臓の二回目の手術をしたのだが
その時も母は娘を預かってくれた。
母と娘は今でも信頼関係がちゃんと築けている。
私と娘の間に欠落している信頼関係が
母との間には築かれているのだ。
これは仕方ないことだと思う。
私にとって娘は大事な存在ではあるけれど
私を悩ます存在でもあるのだから。
私は結局私だけのために生きていきたかったのかもしれない。
皆が私の方だけを見てくれる
それで初めて私は自分の存在価値を見出すことが出来る。
異常だけれど不安の中で生きている私にとって
誰かに必要とされていること、
誰かに愛されているという実感、
それがあれば私は普通に生きていける。
だからこそ、夫が娘の方ばかり見るようになったことが
私の病気の再発の原因になったような気がするのだ。
夫と別れたい、
本気で思うようになった。
夫の元へ戻りたくない、
このまま実家で母に支えられて
娘と二人で過ごせることが出来たら・・
一番幸せだと思うようになった。
でも、それは私一人の我儘であって、
父も姉も私が娘と実家に居続けることに
嫌悪感を顕にするようになった。
いつも私を見る目は冷たかった。
娘は生まれたときから
父親と会う機会が少なかったので
父親を求めることはなかった。
たまに会っても泣くようになっていた。
夫は悲しそうに、
でも、私のことを気遣い帰って行った。
それが一年半くらい続いた後、
突然、本当にそれは突然、
夫の二番目の兄が
私と母の前に現れ、
私に「弟と別れてくれ」と言いに来た。
夫はその兄の横に座っていたが
何も言わなかった。
夫の気持ちは分からなかった。
本当に別れたいのかそうでないのか?
自分の気持すらはっきりと言えないほど
義兄の態度は厳しかった。
今でも私はその義兄にいい感じを持っていない。
私の母のことを他人だと言った義兄を
私は許すことは出来ない。
結局、私は娘のことを考えて
厭々ながら夫の元へ戻った。
でも、私は一人では娘を育てることが出来なかった。
その頃には心臓の弁も大分悪くなっていたし、
昼間一人で娘と遊ぶのにそても疲れを覚え、
ストレスもたまり
娘が泣き叫ぶのを尻目に
トイレに籠もり吐き続ける日々がやってきた。
私に生きがいが生まれ
私の病気も治ると信じていたのにショックだった。
やはり私の病気は再発するのだろうか・・
毎日の忙しさの中で
私の不安はまた大きなものになっていった。
娘が生まれてからの私は
それまで生きがいがなかったのが
私に一番生きていく目的が出来たような気がして
子育てにのめりこんでいった。
未熟児ではなかったけれど
小さく生まれてきた娘に
申し訳ない気持ちがしていた私は
どうにかして一人前の赤ちゃんにしようと必死だった。
あの頃書いた育児日記を見てみると
毎日毎日、一生懸命だったようすがあらわれている。
ミルクをいくら飲んだか?
離乳食の献立がびっしりと書かれている。
病気をさせてはいけない、
怪我をさせてはいけない、
娘に何かあったら私は生きていけない・・・
必死だった。
この必死さが、私には良いことだったのだが、
娘にとっては負担になっていたのかもしれないと思う。
小さい頃から過保護に育ててしまった。
外で思い切り遊ばすこともしなかった。
娘が5歳の頃までは
私の心臓も悪く、一緒に外で遊んでやれなかったこともある。
また生まれて一年半は実家に居たから、
父親との接触もなかった。
夫が実家に来ると
私は追い返していた。
夫に娘を取られるような気がして怖かった。
娘が夫になつくのが嫌だった。
娘は私一人のものだと思いたかった。
母や姉に娘がなつくのはそうでもなかったが
夫、つまり娘の父になつくのがたまらなく嫌だった。
今思うと本当に不思議だしおかしい気がする。
あの頃の私はやはりまだ本当ではなかったのかもしれない。
娘は私の宝物であり、
私が占有したい物だったのだ。
そして、それが夫との間を険悪なものにしていった。
離婚・・
そう思うようになっていった。
母は強しと言うけれど
まさにその言葉の通りだった。
私の体重は依然として増えなかった。
最後のひと月の間に二キロは増えたけれど
それでも38キロか39キロを行ったり来たりしていた。
あの下腹部の痛み、
排尿の時の痛みの原因は
お腹の赤ちゃんへ母体からカルシウムが取られて、
私の恥骨が骨折していたのだ。
婦人科の医者も分からなかった。
あの何とも表現できない鈍痛の原因が
骨折によるものだたとは!
意外だけれど、これで良かったのだと思った。
お腹の赤ちゃんは私の体の栄養を全て
吸収して育って行っていたのだ。
私が弱るのは当たり前だ。
それでも、私は頑張って十ヶ月を持ちこたえることが出来た。
娘が生まれたのは四月、
桜の咲くとてもいい季節だった。
桜がちらほら咲き始めると
私は大きなお腹をかかえて
毎日毎日桜を見に出かけた。
私の目に映るものは
薄ピンク色の桜の花びらと
その花びらがそっと風に揺れる姿、
満開の桜の木から覗く青空、
そして花びらの絨毯。
本当に綺麗だった。
胎教など全くしなかった私が
唯一お腹の赤ちゃんに見せてあげることの出来た
美しいものが桜だった。
あの頃の私にとって
桜を見ることは
私の未来を見ることだった。
桜の花は春の訪れと共に綺麗に咲き、
そして満開の花で皆を楽しませ、
そして潔く散っていく・・・
そんな桜の生き様に心惹かれるものがあった。
心とは本当に不可解なものだ。
心の中で色んなことを思い、
それを頭の中で理解しようとしても
出来ないことが多い。
私の場合は本当にその通りだ。
頭では分かっているつもりでも
心の中で納得していない限り
理解しているということではないのだ。
私の人生で
一番辛いことはこのギャップに悩む時だ。
過去も現在もそして未来も・・・
ずっとずっと私はこのギャップと闘うのだろう。
娘の誕生に寄って
私の人生は180度変わった。
本当にそれまでの私では考えられないことが
いっぱい起きた。
まさに奇蹟だとしか言えないことも起きた。
娘の誕生は私を生きる道へ誘ってくれた。
それからの私はただ娘を育てることに必死になり
いつの間にかあの我儘だった私が
娘を一番に思えるような人間に変わって行ったのだ。
あの頃の私を思うと、
今でも非情な母だったと思える。
あの十ヶ月という期間は
私にとってまるで牢獄に入れられているような
懲役刑を受けているような
そんなとても辛く苦しい日々だった。
娘がお腹に居ることへの
喜びよりも嫌悪感の方が勝っていた。
何とかして頑張って産みたいという気持ちと
反対にもう良い、こんな苦しい思いはもう嫌だという
私の我儘な気持がいつも闘っていた。
名前までつけて
私の気分の良い日には
外へも出るし呼びかけも出来たが、
いつもイライラし、
嘆き、悲しみ、時には憎しみさえ覚えるという
最悪状態の日々が続いたこともあった。
夫の元へは時々帰った。
それは親や姉と衝突をして
私の行き場がなくなったから、
夫の元へ逃げ帰っていたのだ。
夫に会いたいと思ったのではない。
実家に居るのが嫌だったからに過ぎない。
父も姉も私の体のことを気遣って
色んな心配をしてくれているのだということは分かっていた。
でも、その心配は私を窮地に追い込んで行った。
「そんなに食べたものを吐いてどうするのか?
お腹の赤ちゃんに影響が出るじゃないか。
自分のことばかり思わないで
母親としての自覚を持たないといけない。」
私の顔を見るたびに彼らはそう言った。
母だけは私の辛さを分かってくれていたのか、
私の前ではそういう言葉を口にすることはなかった。
勿論心の中では相当心配もしていたようだ。
私は投げやりになっていた。
病院へ行き、赤ちゃんの命がもうないと言われても
仕方ないとさえ思っていた。
でも、私が痩せていく分
お腹の中の赤ちゃんは大きくなったのだ。
私の体重はお腹の赤ちゃんや羊水を入れても
38キロしかなかった。
あまりにも少なすぎた。
こんな状態で生きているのが不思議なくらいだった。
食べては吐くという行為は
九ヶ月間続いた。
十ヶ月目に入り、
後少しで帝王切開の予定日になる頃、
ようやく少し食べることが出来るようになった。
残りの二週間くらいで私は一気に体重を増やした。
二キロは増えたかもしれない。
その頃私の下半身に痛みが現れた。
何とも言えない鈍い痛みだった。
排尿の時には最高に痛かった。
原因は分からない。
でも、耐えるしかない。
排尿のたびに涙が出た。
後少しの辛抱だ。
自分自身にそう言い聞かせて
痛みと闘った。
あの時の私の心の中は
真っ黒状態だった。
灰色ならまだ良い。
前も後ろも見えず、
そのどちらにも進むことが出来ない状態。
それでも時間だけは過ぎて行く。
本当に地獄の日々だった。
私はとてもずるい人間だ。
我儘な女だ。
いつも自分の思うようにならなければ
そのことがとても辛く悲しく感じられる。
そんな私だったから
あの時も夫の気持ちなんて考えもしないで
ただ、もう一度子どもが欲しいと願い
夫に毎日せがんでいた。
夫の態度は頑なにも思えるほど否定し続けた。
勿論子どもは欲しかっただろうが
あの辛い思いを二度としたくないと思う気持ちの方が
勝っていたに違いない。
そんな夫の気持ちを知っていたくせに
私は毎日基礎体温をつけながら
ひそかに妊娠可能な時期をねらっていた。
一言で言えば
夫を騙したのだ。
安全日だと偽ったのだ。
そして私の計画通りに妊娠した。
夫や母や医者に対して
私は私自身の命と引き換えてでも
産みたいという気持ちを伝えた。
皆諦めもあったのか
私の今回の妊娠に反対するものは居なかった。
夫に話し、両親に話し、
私は妊娠と分かった時点で実家に戻った。
今度こそ無事に十ヶ月を過ごしたかった。
今度こそ自分に負けたくないと思っていた。
また、前と同じことを繰り返したくないと思っていた。
実家に戻り私は母に甘えて生活を送ることが出来た。
しかし、案の定また食べられない日々がやってきた。
あの頃の私の体重は35キロあるかないかだった。
病院へ行き体重や血圧を測って記録する時に
あまりにも少ない体重に恥ずかしさを覚え
勝手に書き換えていた。
少しだけ体重を大目に書いていた。
母になる喜びを感じる前に
また私の最大の問題である
拒食と過食嘔吐が襲ってきた。
夫とも誰とも会いたくなかった。
家に居ても父や姉に心が不安になった。
母だけが私の味方だった。
私はまた食べては吐くという行為に走った。
今度はお腹に赤ちゃんが居るという認識に
私がいくら弱いとは言え、
目覚めると思っていたのに・・
やはり同じことをし始めた。
ああ~本当に情けない。
こんなことなら妊娠なんてしなければ良かった。
お腹に居る赤ちゃんがエコーで女の子だとわかってから
私は「めぐみ」という名前をつけて
いつも話しかけていた。
それは胎教という良い物でなく
いつもめぐみへ恨み言を言っていた。
「早く生まれてきてよ」
「私はあなたのためにこんなに苦しい思いをしてるのよ」
などと、毎日お腹をさすりながら言っていた。
バカな母だった。
もっとあの頃に娘に色々ないいことを話したり
いい音楽を聞かせていたら良かったのにと
今頃になって後悔している。
それでも月日は経ち、
私の苦しみも最高のところまでやってきた。
あの時の私の心の中は
色で言えば真っ黒とグレーと赤と・・・
綺麗な淡い色でなかったことは確かだ。
心の中を真っ白や淡い色でいっぱいにしていれば
今の私の幸せもそんな色に包まれていたかもしれない。
人は同じ過ちを犯してはいけない。
間違いは誰にでもあるが
同じことを繰り返してはいけない。
それは何も学習できていないということだ。
でも、私はまた同じことを繰り返してしまった。
最初の子を闇に葬った私は
もう二度と子どもを持とうと思わなかった。
悲しかったことよりも
あの私自身の体調の悪さが
妊娠に対する恐怖感を覚えさせたのだ。
それなのに・・・
また、私は妊娠してしまった。
今度こそ頑張ろうと思っていた。
どんなに苦しくても負けないようにしようと思っていた。
母は諦めていたみたいだ。
医者も仕方ないけれど
母体を一番に考えましょうと言ってくれた。
そして5ヶ月になるまで私は頑張った。
やはり体調は前と同じで最悪状態になった。
ものが食べられない。
食べたら直ぐに吐いてしまう。
ただの悪阻とは違っていた。
私のあの一番嫌な過食嘔吐を伴って現れた。
私を徹底的に破壊してしまいそうになった。
それでも頑張った。
4ヶ月目頃に切迫流産の危険があるということで入院した。
ベッド上しか動けない。
点滴をして安静にしていなければいけなかった。
その時の同じ部屋の人たちが
次々と出産していくのを見て、いいなあと思った。
もしかしたら私もあの人たちのように
可愛い赤ちゃんをこの胸に抱けるかもしれないと思っていた。
でも・・・・
でも、やはり駄目だった。
5月目でわたしは根を上げてしまった。
諦めてしまった。
この時の堕胎手術は言葉では表現できないくらい
激しい痛みを伴った。
麻酔の出来ない私にとって
麻酔なしでの手術は死ぬより辛いことのように思えた。
そして、何よりも私の心にこたえたものは
生まれてくるはずだった赤ちゃんが
男の子の形をしていたということだった。
夫は埋葬許可をもらいに市役所へ行き、
夫の実家のお墓に埋葬してくれた。
名前もつけた。
「希」と。
今もあの日のことは忘れられない。
初めての子は「歩」と名づけた。
この二人の子に対して
今の私は心から申し訳ないと思っている。
夫は二度と子どもを作らないと言った。
もう二度とあのような辛い思いをしたくないと言った。
私も同じ思いだった。
でも、人の気持とは不可思議なものだ。
私の悲しみや辛さを越える幸せは
もう一度子どもを産むことによって
得られるのではないかと思った。
夫に話してもまるで相手にされなかったが、
私の中では固い意志となっていた。
スカーレット
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