2003年01月31日(金) |
1979年のポーランドの寒波 |
最近、ポーランド語の授業で新聞記事を読んでいる。すごく難しいけど、興味深いコラムだったので、辞書と首っ丈ながらもまじめに予習をしていっている。
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1979年1月2日についての新聞記事の要約。 その冬の年末から年始にかけ、ポーランドは寒波に襲われ、4昼夜ふぶき続け、グダンスクでは-20℃。北ポーランド一帯では、発電所が損害をうけ、極寒の中、町の機能は完全に麻痺した。グダンスク港では、係留した船がしけの波をかぶり、甲板で氷の厚い層ができ、氷の重みで船は転覆寸前。汽車も車も雪に埋もれ立ち往生。ワルシャワも市内麻痺。 これはポーランドだけではなく、地球規模で寒波が訪れ、英国で死者15名など、世界各国でも被害があった。 マスコミは突然の寒波到来を国民あげて乗り切ろうと訴えたが、政府は自然災害の混沌の中、有無を言わさず、生産現場に平常通りの操業開始を要請した。 * * * * * * * *
この年の1年後、1980年の夏、ポーランド政府の食料品値上げに反発した労働者がストを起こしたのをきっかけに、民主化運動に発展し、ワレサ委員長率いる独立自主労働組合の「連帯」が発足した。 1990年に社会主義が崩壊してワレサが大統領に就任する、10年ほど前の話である。 当時、ワレサはグダンスクのレーニン造船場の労働者。上の記事でも特にグダンスクは寒波の被害が酷かったと書かれている。しかし、政府は卓上の討議だけで、現場のことは何もわかってはいない。 こういう小さな事件や出来事が積もり重なって、政府への不満が爆発し、ストへ、更には民主化改革へと発展していったのであろう。
単細胞な私は辞書を繰りながら、20数年前のポーランドがいかに寒波の被害が大きかったか、という話を延々読んでいるものだと思っていた。が、そうではないらしい。これは、歴史が動くまでの貴重な出来事の一幕について書かれたものに違いない。ぼんやり読んでいる場合ではなかった。 他人が訳した文章を手っ取り早く読み流すより、原文で読んだほうが数倍、胸に響くものがある。それを私の未熟な筆力では、上手にお伝えできないのがつくづく残念。
歴史や社会情勢は私の知識の死角でもある。今回の記事を読んで、遅ればせながら、少しポーランドについて調べてみようという意欲が起こってきた。 今現在、自分が暮らしている国なんだからさ。
机の引出しを整理していたら、新聞の小さな切抜きが出てきた。
2001年1月8日(火)朝日新聞家庭欄 「地元のおむすび全国で」日本ごはん党党首で作家の嵐山光三郎さんの話 新米の時期に全国の駅で、地元の米を使ったおむすびを売ることを提案したい、とのこと。
ドイツにいたときに切抜きしたのだと思うけど、なぜか今日まで後生大事? にとっておいたらしい。 ご丁寧にも新聞のコラムの余白には、自分のおむすびにまつわるエピソードのキーワードが書き込んであった。(あぁ、私って、ひまだったのね・・・) 今回はそれらのうちのひとつを紹介しましょう。
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大学を卒業して、会社で働いていたころ。23、4歳の頃だったと思う。当時、会社の同期の男の子とよくドライブに行った。 何回目かのドライブのとき、決して家庭的ではないこの私が、何を血迷ったか、おにぎりを作っていこうと思い立った。
その日の行き先は、赤倉。自宅出発予定時刻、6時。当然、家族全員まだ寝ている。 今でこそ、三角おにぎりはきゅっきゅっきゅっとお手の物だけど、当時の私にしてみれば、形よく作るのはちょっと難しかった。一人で四苦八苦しているうちに、時間ばかりが過ぎていって、ふと気が付くと出発時間まであとわずか。 大急ぎで、梅干用のビンもおかかもお皿もアルミホイルもボールもお塩も、ぜーんぶそのまんま台所のテーブルに出しっぱなしにして、とにかく遅れないように家を出た。
目的地に着いて、ちょっと小腹もすいたし、珍しくも私がおにぎりを作ってきたのだから、さぁ、頂きましょう! ということになった。アルミホイルの包みを友達に渡し、私は傍らで水筒のお茶の用意をしていた。
彼はアルミホイルを剥いている。視界の端に、おにぎりの白いごはんが見えた。彼は嬉しそうにさらにアルミホイルを剥いていく。
「なぁ、タシロ?・・・(←私の旧姓)」 といったまま、ちょっと長い沈黙があった。私は、 「うん?」 といったまま、熱い湯気のたったお茶をこぼさないよう、二人の間にコップの置き場を確保していた。 「なぁ、タシロ、おにぎりの海苔は?」 などという。 私が彼の手元を覗き込むと、な、な、なんと・・・。白いご飯の塊。つまり海苔を巻いてない白いおにぎりが・・・。が、が、が、が~ん・・・。 慌てて私のおにぎりのアルミホイルをひっ剥がしてみても、どれもこれもぜーんぶまっしろけっけのおにぎり。 「タシロのシロおにぎりか?」 などと、彼はかろうじて下手なだじゃれをひとつかましてくれた。 ぐぁ~~、はずかし~、慌てて家を出たので、海苔を巻くの忘れてた。 でも忘れるか、普通・・・。(いや、私普通でないもん)
帰宅して、母に報告すると、ひとしきり笑った後、 「お母さんも不思議に思ったのよ、ボールとか梅干とか出ていて、おにぎりを作った形跡はあるんだけど、海苔が出てなかったの。海苔だけちゃんと片付けていったのかな、とも思ったけど、まさか祐子ちゃんがそんなことするわけないしな・・・とも思ってね。あははは、やっぱりそうだったの・・・」 だって。 学生時代はほとんど自炊をすることなく4年間を過ごし、社会人になってからは自宅通勤していた私は、果物をむくとき以外、一人で台所になど立ったことがなかった。あーー、弁解にもなりませんね、こんな言い訳は・・・。
別の機会に信州にスキーに行ったとき、サンドイッチのからしバターを塗るつもりが、わさびバターを塗ったのを持っていったことがありました。 がー、これも今まで忘れていたのに思い出してしまったー。
昔の私を知る人たちへ。 祐子は10数年後の今もちっとも変わっていないんだよ。おにぎりに海苔を巻き忘れることはないけどさ。 いやはや、おはずかしい・・・。でもなんともまぁ、祐子らしいというか。 今の私を知る人へ。 今の私の原点とも言えるエピソードだったでしょ? ふふふ。
先日、ガレリアモコトフのエンピックで、「マジソン郡の橋」のDVDを買ってきた。
A面がドイツ語でB面が英語。字幕は欧州19ヶ国の言語。欧州版なので、残念ながら日本語は無い。 私は馴染みのあるドイツ語の音声で観た。普通の映画より、これはよく理解できた。 初対面の男女のやり取りだから、会話がシンプルで聞き取りやすいのだろう。事前に文庫本のほうでも読んでいたこともあり、原作に忠実に再現されているから、会話が頭に入りやすかった。 DVDはうまく利用すれば、外国語のヒアリングの訓練にもなると思った。数少ない日本語のDVDの映画で、英語の音声で観たのがいくつかある。 ヒアリングだけの理解力では心もとないので、いつも同じ言語で字幕も入れる。でも、字幕の文章は意訳で結構シンプルな文が多く、単細胞な私は、耳からと目から入ってくる情報が違うので混乱してしまう。 英語の場合は、まず読んで理解してから、音声を聞いて、 「あ、そう言っていたのか・・・」 などと認識することが多い。ネイティブの英語はわかりにくいからね。
「マジソン郡の橋」はドイツ語の音声なら普通にほとんど聞き取れる。英語はまだ試していないけど、ドイツ語ほどの理解力は期待できないと思う。 頭だけで勉強した英語と、現地に暮らして体を使って勉強したドイツ語では、断然理解力が違うだろうから。
それにしても、フランチェスかとロバート。 あぁ、なんて美しい大人の恋愛。 女は何歳になってもオンナ。 この話に触れた世の中の既婚者女性なら誰しもが、自分の配偶者を見てため息のひとつぐらいついただろうな。 「そうよ、あなたはリチャード(夫役)そのものなのよ、はぁ・・・・・・」 なんてね。 思い出と記憶を胸の裏側に封印したまま。
2003年01月24日(金) |
モノトーンのワルシャワの街 |
今朝のワルシャワの街は、濃く深い霧。車の運転に気を使うほどに視野が狭い。
8:45に自宅を出て、ポーランド語の授業のためサディバへと向かった。グヴァルディア・サッカースタディアムのあるラクワヴィツカ通りから、テレビポーランドが面するヴォロニーチャ通りへ抜ける。 このあたりは、周りに近代的な建物は無いせいか、少し前の時代を彷彿させる。 今朝は特に、白く濃い霧が他の街中の色彩を吸収してしまっているせいか、どこもかしこも、モノトーンの世界。 霧の合間からうっすらと見えるのは、排気ガスと泥炭のすすで薄汚れた灰色のモルタルのアパート、古いモデルの路面電車、電信柱と黒い鉄柱、やせっぽっちの枝と幹だけの街路樹。手前に霧、遠くに霧。 いつからかずっと時間が止まっているみたい。 唯一、現実の時間が流れていることを教えてくれるのは、信号の霧をも貫く赤いシグナルのみ。 ポーランドに住み始めて2年足らず。今朝ほど、あぁ、なんてポーランド的な光景なんだろう、と感じた日は無かった。
ポーランド人は、日常的に木いちごシロップをよく使う。
ポーランド料理では、肉料理に木いちごソースかけというメニューもよく見かけるし、デザートにも赤紫色の木いちごシロップがアクセントに添えられている。
この木いちご、ポーランド語で、malina 文字通り「マリナ」という。 息子たちのお友達にも、万里菜ちゃんという子がいるので、この単語は難しいポーランド語の中でも、かなり早い時期に頭に入った。
最近、かなりはやいペースでこの Sok malinowy (木いちご濃縮シロップ)を消費している。 紅茶を普通に入れ、お砂糖の代わりに、このシロップをたらす。すると、木いちごティーにはやがわり。少し甘味もあって、とてもおいしい。 聞くところによると、ポーランド人の民間療法として、これを風邪の引き始めに飲むらしい。
ビールでカクテルも作る。 少し前から、お酒が弱くなってしまったせいか、若いころのように勢いよくビールを飲まなくなった。 ドイツにいたころは、ドイツ人と同じペースでビールをがぶがぶ飲みつづけると、絶対こちらが先につぶれてしまうので、ビールをスプライトで割った「ラートラー」というものを飲んでいた。アルコールもこれだと普通の半分の摂取量ですむ。(カクテルという、おしゃれなものではないですね、ハイ、ただ薄めただけです) ここでは、そのスプライトの代わりに、木いちごシロップと炭酸水でまず木いちごソーダを作り、それとビールを1:1で合わせる。 ファンタやスプライトで割ったものも作るけど、木いちご味もポーランド風でなかなかいけるものだ。ちょっと甘味のあるビールが私の味覚には合う。ベルギーにもフルーツ味のビールがあるから、これも邪道ではないだろう。
もしドイツ人おじさんたちが味見をしたら、 「こんなもんビールじゃないぞ~」 なんて、お髭にビールの泡をつけながら、苦虫をつぶしたような顔をするのがまぶたに浮かぶようだ。 おじさんたち、徹底的に生粋の生ビール好きだったからな。
隣接した国で、農産物とかも似通っているけど、やはり国ごとに料理法や味付けが違う。木いちごだってドイツにもあったけど、これほど頻繁には使わなかった。 わたしもこちらで、すこしずつポーランドの味覚に慣れてきたのだと思う。いつかドイツに帰ったときに、ドイツ料理が「あぁ、懐かしい味・・・」って思えるようになったかもね。
かつて住んでいたドイツの片田舎の町は、年2回の全独熱気球大会が行われる会場でもあった。 春と秋にはドイツ各地から集まった40基近くの熱気球が、町外れの広場からスタートし、次々と風任せに空を流れていく。 風向きによっては、我が家の真上を、「ゴーッ」というガスバーナーの音を立てて通過していくこともある。 そんな町だから、熱気球の離着陸を見かける機会がよくある。 普通の小さなワゴン(側面には必ず気球のイラストが書いてある)で広場に乗り付けて、籠とバーナーと小さくたたんだ気球の部分を芝生の上に出し、準備を始める。球の部分に熱を送り込んで熱気球を立てるまでが大変そうだなぁ、っていつも思う。 でもこちらは離陸する瞬間を見守るのは楽しいもの。みんなの思いが、あがれあがれって伝わるの。持ち上がってしまえば、あとは見送るのみ。大きな熱気球が、だんだん遠く小さくなって、山の稜線の向こうに見えなくなるまで。
子供たちが小さいころ、この熱気球に乗って家族で旅行するお話を即席で作って聞かせてやった。空の上から、誰が何をしているのが見える・・・というのを延々話すだけなんだけど、自分の知り合いが出てきたり、知ってる場所だったり、その日の出来事を再現させて空から見ているように話したり。 詰まんない話もあったけど、ママが作るお話は、ママの手作り料理と同じくらいおいしく感じるものらしい。子供たちの空想力も手伝って、結構喜んで興味深く聞いてくれた。
それにしても熱気球は夢があるよね。熱気球を題材に、本格的な面白いお話を作れたらおもしろいかもな。
2003年01月17日(金) |
親愛なるニーナへ No.2 |
親愛なる私のニーナ
今回はあなたのほうからきてくれて、ありがとう。 あなたからのメッセージ、ストンと心にはいり込みました。 ここのところ、日常生活に忙殺されて、自分自身を見失っていたみたい。 あなたが、私の中の「もう一人の私」を呼び覚まさしてくれました。
あの日、私がニーナの気配を感じたとき、 あれは本当に気のせいじゃなかったんだね。 「もう一人の私」が感じ取っていたみたい。 こうして私の元へ来てくれるとは、思ってもいなかったよ。
ありがとう、ニーナ。 「もう一人の私」をずっとそばで見守っていてね。
先月、実家の母がコウジ味噌5KGを航空便で送ってくれた。 幼馴染のお母さんが作っている本格的なお味噌で、今が一番おいしく熟成しているから、私たちにも是非食べさせてやってくれ、ということらしい。 郵便局の不在受取票があり、そこに読み取りにくいポーランド語のメッセージが添えてあった。とにかく訳わからぬまま郵便局に取りに行った。 ようは、容器が破損して、中身が少しもれてしまった、ということだった。 いざ、自宅の台所で開けようとしたら、なにやらえらく頑丈に梱包されているようだった。外側から、クラフト紙、ダンボール箱、ビニール(空港のスーツケースをぐるぐる巻きにするサービスみたいな感じで)にさらにビニール。タッパを直接巻いてあったビニールには、お味噌の一番おいしい上澄み液が滲み出て、ひたひたびしょびしょになっていた。はぁ、そうだったのか・・・。
「あー、おばちゃんが作る懐かしいお味噌のいいにおい・・・」 とラップに鼻を近づけてくんくん匂いをかいで、しばらくノスタルジックな思いに浸っていたけど、ある時、体中の感覚がふと切り替わったのか、思考回路が瞬時にヨーロッパ的になった。大げさに言えば、順調に流れていた血液が瞬時に逆流するような感覚であった。
「うわ、くっさー。ポーランド人には、このニオイ、絶対我慢できないわー」 ヨーロッパでこの日本的な発酵のにおいはかなり異質であろう。 それにこの発酵臭は、一旦手についたら、いつまでもどこまでも離れてくれないカオリだぞー。 このマンションもオフィスと大家さんの住居があるから、我が家から発する日本食のにおいには極力気をつけているのだ。 実際にこれを担当したポーランド人もさぞかしびっくりしたことだろう。 容器を破損させたから、郵便局側で梱包しなおそうとしたんだと思うけど、異常な臭いを放つこれを開けて見て、またびっくりしただろうな。 臭いこそは違うにしろ、あの色といい、やわらかさといい、ま、ま、まるで、う、うんこじゃない・・・。しかも5KG相当。麹はうじ虫に見えるかもしれない。 もし、担当が私であったなら、びっくりしてこっそり涙を浮かべたにちがいない。
そしてまた、妙な嗅覚の記憶。 この湿気を含んだすえたようなニオイ、どこかでかいだ覚えがある。それも、ドイツの家にいたとき。 そうそう、日本から引越し専門業者に船便で荷物を送ってもらったときの、ダンボールに染み込んでいたのとおんなじニオイ。
きっと日本から世界各国に向けて送る荷物の中で、お味噌とか醤油、酒や何かが、移動の途中で破損するか、もしくは船で赤道直下を通過するときに、コンテナー内で破裂し、それらのニオイが充満した、ということが、今までにあったのかもしれない。そういうことが何度か起こるうちに、コンテナーにはきっと、日本特有の調味料とナフタリンやその他もろもろが混ざった臭いが染みついてしまったのだろう。 なにしろ南回りで蒸し風呂状態だから、自分の荷物が破損しなくても、コンテナーのその臭いだけはしっかり移る。
確かに、あのお味噌のにおいは、船便で届くダンボールから漂う独特の臭いにも含まれていた。
なんだか、妙なことで懐かしい・・・と思ってしまった。臭いんだけどね。
PS 夕食時のお味噌汁は、おかわりをしたくらいおいしかったよ。炊きたてご飯とお漬物でも十分なご馳走でした。 実家の母にも、幼馴染のおばちゃんにも感謝・・・。
2003年01月14日(火) |
親愛なるニーナへ No.1 |
親愛なる私のニーナへ
ある冬の日の遅い午後。私、面白い光景を見たの。 はだかんぼうのカエデの木の枝で、大きなカラスのつがいが仲睦ましく、内緒話をしていたの。 二羽のカラスの姿格好があまりにも人間くさくって、とあるカップルの生まれ変わりじゃないかな、って思わせるくらい。 そこにはカラス二人だけの世界があって、この私も、木の下を散歩する人も、マンションのやわらかい明かりも、澄んだ冬の空に映る夕焼けも、冬を演出する自然も、ぜーんぶ単なるカラスたちの背景。この地球も小宇宙も、みんなその二羽のカラスを中心に回っているような二人の世界。 私、カラスをぼんやり見ていたらね、あなたの気配を感じたよ。 「感じる心を忘れちゃいけないよ」 私の耳の中にこの短い言葉を残して、あなたはどこかへ消えてしまった。
私ね、あのカラスたちのように、あなたと二人だけの世界を築けたらいいのにな・・・って思ったよ。
また今度、私が感じる心を呼び戻したら、もうちょっと長く私の傍にいてくれる? ねぇ、ニーナ?
2003年01月13日(月) |
鼻をすする音、どう思う? |
人間の生理現象から発する音で、私が一番不快に思うのは、他人が鼻をすする音。「ぐじゅぅーん」って、痰鼻汁をすすりあげる音。 日本人は、人前で鼻をかむことが行儀悪いと思っているのか、鼻の穴から垂れる前に、「ぐじゅぅーん、ごっくん」してしまうようだ。それも、「ぐじゅぅーん」とやっている本人は、その音を更々気にしていない様子。 こちらの人は鼻をすすらない。点鼻薬で鼻詰まりの予防をするが、それでも鼻の中にたまってしまったら、まめに鼻をかむ。 そもそも、欧州のマナーでは人前で鼻をすすって飲み込むのは行儀が悪いとされている。そこらの感覚は、日本とはすこしずれている。 かつて、ドイツに住み始めたころ、ドイツ人の鼻をかむ音にびっくり仰天してしまった。いかなる美男美女であっても「びゃ~~~ん、ちぃぃ~~ん!」と平気で人前でやる。百年の恋も一気にさめるのではないかと思うぐらいだ。 それも、食卓の目の前で正面を向いてやられちゃうから、たまらない。慣れないうちはこんな私でもその都度、度肝を抜かれてしまった。 それにしても、あの甲高くて豪快な音は鼻の低い日本人には真似できないだろう。 ここで生活をはじめて10数年もするうち、私は鼻をかむ音より、すすって飲み込む音のほうが、断然不快な音として認識してしまうようになった。 だから私は鼻かぜをひいたときは、極力すすらないように我慢して、こまめに体外に排出するよう心がける。
日本在住の日本人は、他人が「ぐじゅぅーん」って鼻をすすり上げる音聞いても、あまり不快に思わないのだろうか。 そもそも痰鼻汁を飲みこんで気持ち悪くないものなんだろうか?
2003年01月12日(日) |
市街地は暖かいのね・・・。 |
車で家を出たら、大きなボタン雪が降っていた。
大通りに出て、ワルシャワの中心部に向かって走っていくと、ミゾレ混じりに。ソビエスキーホテルのあたりから雨。中央駅とマリオットホテルのあたりは、雪も融けてびしょびしょ。ガレリアセントラムと文化宮殿の間も雨。
ところが、一本外側の通りになると、再び雪。 新世界どおりなんか、真っ白。
帰りは逆の方向に車を走らせて、中心部を縦断したけど、雪、ミゾレ、雨、ミゾレ、雪というように、自宅付近は再び、目もくらむような白い雪。
市街地は街灯や、公共機関や車が吐き出す排気ガス、その他諸々によって、上空が温暖化しているのであろう。
ワルシャワの街はこじんまりとしているから、そんな気候の変化までわかりやすかったりする。文化宮殿もすっぽり雲の下だったりするし。
2003年01月11日(土) |
階上の大家さん、うるさいです・・・。 |
私たちの家の上に住んでいる、ポーランド人の大家さん、今晩、家でパーティーでもしているみたい。音楽か、映画の効果音みたいなのが、ボリュームいっぱいで、すっごくうるさいんだもん。うちの床まで振動が伝わってくるくらい。 こっちも負けじとテレビのボリュームを上げてみたけど、かなわない。 深夜まで続くようだったら後で苦情を言おう。今はまだいいとするか。
そんなこんなでいつもになくイライラして、先程、夜10時を過ぎてもはしゃいでいる息子たちに、強烈な雷を落としてやった。こ、こ、これは、上まで聞こえただろうな。いくらパーティーでうるさくしていたとしても・・・。
2003年01月10日(金) |
My ポンコツ アルファロメオ |
アルファロメオと行動を共にし始めてから、一年半足らず。 その間にいろいろトラブルを起こしてくれました。 詳しくは、HPの「祐子のワルシャワ裏日記」のほうに書いてあります。
そして目下、バッテリーが上がって、地下ガレージで静かにしている。バッテリが上がったのは、これでもう、二回目。 一回目にあがったのは一週間前。そのときはケーブルでつないで、バッテリーを充電するために、主人が深夜のワルシャワの街を走ってきてくれた。その後、ちょくちょく乗っていたらよかったのかもしれないけど、私自身も風邪を引いて外出する気力もなかったので、ほったらかしにしておいた。 そして、昨日は、マイナス20度。日中気温が上がったといっても、マイナス10度までは上がらなかっただろう。そうしたら、案の定、バッテリーがまたやられてしまいました。 そろそろバッテリーの交換時期なのかなぁ。
でもさ、私のアルファロメオはホントにしょっちゅう、どこかが壊れている。人に話すと、さすがイタリア車・・・とみんな口をそろえていう。
車の購入時、私がアルファロメオを欲しいと思ったのは、ごくごく単純な理由。かつてのドイツ人の隣人が、私が引っ越す直前に、アルファロメオのスポーツワゴンを新車で買った。すっごくすっごくかっこよかった。 そして、引越して入ったここのマンションの大家さんも、なんと同じ型の車に乗っていた。大家さんとお役所やディーラーに行くときに、アルファの助手席に乗せてもらったけど、内装よし、外装よし、乗り心地もエンジン音もいい! あ~ん、アルファがほし~い!! ねぇ、パパ、買って~、買って~~モードになったのだった。
私のは156の1,8lだから、排気量の大きいスポーツワゴンに比べるとおもちゃみたいなものだけど、・・・・・・そう、おもちゃみたいに壊れちゃうの。 でもさ、私のあの赤い車には愛着があるんだな。ところどころ傷だらけだけど。
アルファ君、今年は君を大切にするよ。だから、これ以上故障しないでね。
ゲームばかりしている息子たちを見て、とある知人からアドバイスされた。 「小学生の男の子っていうのは、エネルギーをもてあましてるもんだから、ちゃんと親が発散させてやらないといけないもんなんだ。親子で本気でボクシングでもしたらいいんだよ。こっちが本気になって殴っても、大丈夫。でも、うちの子は一度脳震盪を起こして心配したことあったけど・・・」 などと過激なことを真顔でいわれた。 とっさに夫と理人の顔を思い出し、苦笑いしてしまった。我が家の場合、あの二人がボクシンググローブをはめて戦う姿は全く想像できないからだ。 それ以前に、夫と子供たちが親子で体を動かしてコミュニケーションをはかる、ということ自体が考えられない。 どちらかといえば、いっしょに図鑑を見たり、レゴで何かを作ったり、ゲームをしたり。父親は正真正銘のインドア派。
それでも、かつてはゲームに明け暮れていた理人も、最近になって、いろんなスポーツをやりたいと自らいうようになった。身体の成長とともに運動機能が少しずつ発達してきて、体を動かすことが楽しくなったのであろう。 親としては喜ばしいことである。 そこに必要なのが、手ほどきをしてくれる大人。 父親がスポーツを一通りこなす人なら申し分ないのだけれど、わが夫の場合、あまり興味は無いようだ。そもそも忙しすぎて、精神的にも体力的にも余裕が無いであろう。
理想の父親像を掲げ始めたら、きりがない。 父親にも得て不得手があるであろうから、すべての面で子供の模範になるというのは、難しいことかもしれない。 我が家の場合、しいていえば、技術系に関することなら、ほかのお父さんたちに引けは取らないだろう。夏休みの工作を考えているときは、父子共々とても楽しそうだった。
私が思い描く理想の父親像は、前述の格闘技系スポーツパパ、またはアウトドア派パパなんだけど、父親で補えないアウトドアやスポーツなどは、習い事や別の機会でカバーすればいい。だから、我が家は我が家でこれはこれでいいのかも・・・と最近思うようになってきた。
たまに、ママがキャッチボールくらいなら付き合ってあげるよ・・・。 球拾いばっかりでお互い大変かもしれないけど。
2003年01月08日(水) |
最近見てるJSTVの番組 |
ホンマに、まんてんのおとうちゃんは今までどこに行ってたんや。 アー、ホンマに・・・。
珍しく、朝の連続ドラマ「まんてん」を毎回楽しみに見ている。 ちゅらさんもさくらもあんまり好きではなかった。ふーんてな感じ。
試してガッテンやHEY!HEY!HEY!もよく見る。
ほかには、大河ドラマの「武蔵」も見ることにした。 市川新之助はもろ好みだし。原作吉川英治というのも興味深い。 西田敏行の死ぬシーンはよかったぞ。 「どんなに追いつめられても生きようと思え」 「利家とまつ」はキャストが好きでなかったから全く見なかった。
ドラマは・・・、どうするかなぁ。 一月のプログラム、どっかいってしまった。 どっちにしろ、キャストが若すぎて、つまらん。 ・・・という当の私は何歳なのさ。 日曜の晩あたりは、たいてい理人の宿題の読書が残っている。 私たちが、「クイズ日本人の質問」をげらげら笑いながら見ていても、理人は思いっきり集中して本を読んでいたりするから感心する。
最近は、自分の書斎を出て、家族とリビングで過ごす時間が多い。 いいことだと思う。
年末年始にかけ、クリスマスカードやらメールやら、いろんな付き合いの人からいろんなメッセージが届く。 返事を書こうとして、長々と何やら書き始めると、そのうち支離滅裂な文章になって、結局何も出さずに終わってしまう、ということが今までにあった。 便りのないのはよい便り・・・でもないの、今は。 伝えたいこといっぱいあるの。ちゃんとしっかり伝えなきゃ・・・。
昨日から何通か手紙を書いた。 でもさっき書いた手紙、短すぎたかも。
私が元気に暮らしている、と伝わればそれでいいわけでもないのに。
新年にふさわしくないお話で恐縮ですが・・・。
昨年11月、母方の伯父(享年77歳)が亡くなった。 最終的な死因は、肺がんということらしいが、伯父は20年前に脳梗塞をわずらい、以来、ずっと入院と自宅療養を繰り返していたのだった。左半身が不随で、強度の言語障害を持っていた。 優しくて穏やかで、大好きな伯父だった。今までの一時帰国の際には、どんなにスケジュールが詰まっていても、お見舞いがてら、必ず顔を見に行っていた。 かれこれ14年前、私たちは結婚式を挙げた。 その結婚披露宴に伯父を招待した。伯母は、自宅療養中の伯父が健康体ではないことを気にしていた様子だったけれど、海外赴任を控えた姪の祝いの席ということで、何とか車椅子で出席してくれることになった。 伯父は実母の長兄である。普通披露宴では、花嫁の母方の親族の代表として、何か一言挨拶をしてもらうことになっている。 披露宴当日、伯母に付き添われた伯父は、車椅子でマイクの前に進み出た。長い沈黙の後、 「・・・ゆ、ゆ、ゆ、ゆうこ、ち、ち、ちゃん、け、け、け・・・けっこん、お、お、お、お、め・・・・で、で、と・・・」 伯父の私への思いがこもった渾身の一言であった。会場一同から大きな大きな拍手が沸いた。 それまで、親戚、友人、みんなに祝福されて、自分の人生の最高の日がうれしくって仕方がなくて、始終、満面の笑を耐やさなかった私が、伯父のメッセージを聞くなり、嗚咽をこらえきれず、顔をぐじゃぐじゃにして泣きだしてしまった。 伯父が披露宴の席で、私に一言でもきちんとしたお祝いの言葉を送れるようにと、伯母はこの日のために、言葉がままならない伯父に言葉を発する訓練をしてくれたのだった。そして、幼い赤ちゃんが言葉を教えるのと同じように、舌を動かして発声する訓練をするうちに、脳のどこかを刺激したのか、まったく不随だった伯父の左手の指が少しずつ動くようになったという。
親族の暖かい血がかよいあう、熱い涙であった。
伯母は20年来、病身の伯父の介護をしてきた。その苦労は、私の貧困なボキャブラリーではとても言い表すことができないだろう。 今は、はるか彼方、日本の空の下の伯母のことが心配だ。伯父亡き後、穴がぽっかりあいた心で、この雪の季節、どう暮らしているのだろう。 今から、自分なりの言葉で伯母に手紙を書いてみようと思う。
テネリファ島、ホテル近郊の海辺でのこと。
岩で造られた防波堤の上で、私は一人、沖を眺めていた。時間を贅沢に使って、ただひたすらぼんやりしていた。 主人の同僚で、私の同期でもある孝一さんが、砂浜で戯れている子供たちから離れて私がいる岩場まで上がってきた。二言三言、私と言葉を交わし、孝一さんはそのまま一人で防波堤の先へと歩いていった。
その防波堤のちょうど中ほどで、沖からの荒波が直接ぶち当たる。数回に一度は、白いしぶきが防波堤の内側にまで覆いかぶさるように流れ込んでいる。 孝一さんは、その少し手前ほどで立ち止まり、ずいぶん長い間、沖のほうを眺めていたようだった。きっと生まれ故郷の徳之島の沖を切々と思い出していたのだろう。
そのうち、かなり大きな波が防波堤に勢いよく打ち寄せ、それを機に孝一さんはこちらのほうにすたすたすたと戻ってきた。 「孝一さん、波が大きくなったから、心配したよぉ」 「なぁに、大丈夫だよ、あれっくらい」 「波に呑まれたら、どうすんのよぉ」 「ホントに大丈夫だって。それよりもむこうの岩場にこんなにでかいカニがいっぱいいましたよ」 と私の目の前で、全長40cmくらいのカニの姿を両手で作って、くりくりと無邪気に笑って見せた。 孝一さんは、私から少し離れて、私とはまた別の方向の沖を見てぼんやりしているようだった。主人もそこに上ってきて、沖に向かって立った。三人銘々の方向を向き、お互い言葉を交わすこともなく、ただじっと海を眺めていた。 その時、防波堤の中ほどにざっぱーんとひときわ大きな波が押し寄せ、高波は全体の三分の一ほどの岩場を勢いよく飛び越えた。 「先端で釣りをしていた人がいたけど、戻ってこられるかなぁ」 などと、のん気に孝一さんが言う。 私は驚いてその方向に目をやると、慌てて帰り支度をした一人の釣り人が、防波堤の先端から中ほどに向かって、岩づたいにひょこひょこ歩いているところだった。 一番波が勢いよく打ち寄せている難関を通らないとこちらまで戻ってこられない。 先ほどから何度も何度も波が打ち寄せて、大きな白いしぶきが宙を舞っている。大波を目前に、釣り人の躊躇した足取りが遠くからも痛々しいくらいによくわかる。 「おいおい、大丈夫かよぉ」 と主人。私も何度も釣り人の安否を遠くから気遣った。 「ホントに大丈夫ですよ。あのくらいの波だったら、全身濡れはしても、波に呑まれることはまずないでしょう。まぁ、滑ったら怪我するかもしれないけど」 私たちの切羽詰った表情をよそに、孝一さんは涼しい声でそんなことを言う。 海辺で生まれ育った人が、波っ面を見てそう言うのだから、そうなのかもしれないけど・・・。 沖の遠くを眺めていた孝一さんは、 「あ、もう大丈夫だな・・・」 とぽつりと言って、釣り人を最後まで見守ることもなく、主人と二人で岩場から砂浜へと降りていった。 私は一人残って、その釣り人と波の様子を見守っていた。すると、本当に徐々に波の勢いが弱まってきて、タイミングよく、彼は素早くその難関をくぐり抜けることができた。その間、孝一さんが大丈夫と言ったとおり、彼を濡らすほどの白いしぶきすらあがることはなかった。 釣り人は早足で、私が立っているあたりまで戻ってきた。 「もう、心配しましたよー」 私は釣り人が近づいてくるのが待ちきれずに、笑顔交じりのドイツ語で、見ず知らずの相手に大声で叫んだ。 「次々波が押し寄せてきて、危なかったんだよぉ!」 といったような大げさな身振りで、ヨーロッパの言語らしい彼の母国語で何やら答え、釣り人は私の目の前を足早に通り過ぎていった。 やみくもに波を怖がる山育ちの私とは違い、幼いころから波を見て育った孝一さんは、きっとうねりや波の勢いを見分ける正確な目を持っているのだろう。ネクタイ姿の孝一さんしか知らない私としては、彼の意外な一面を知って、へぇーと密かに感動してしまった。
私が知っている故郷の海は、深くて荒々しい日本海。 しかも富山湾の蒼さは、湾の深みへそのまま呑み込まれてしまいそうな色あいでもある。幼いころからそんな海が怖かった。 だから私は、自分の故郷の海と言えば、ほんの浜辺の波打ち際か、波が届かないような堤防の上から見た海しかしらない。そして、漁船が係留している漁港と。 いつか家族で孝一さんの生まれ故郷の徳之島を訪ねてみたいなと思う。いつも彼が話してくれる徳之島の穏やかな珊瑚礁の海は、メジャーな観光スポットとはまた違うところ見たいだから。 でも、今はずいぶん変わってしまったのかな、私たちが長年海外で暮らしてきた間に・・・。
最近、和製英語で「アグレッシブ」という言葉をよく耳にする。 「前向きな、積極的な」というポジティブな意味で使われる。ビジネス上では、特に好んで使われる単語かもしれない。
英語では、aggressive ①侵略的な、攻撃的な、けんか好きな ②(米)精力的な、意欲的な、積極的な
とある。この米英語の②の意味が日本で定着したのであろう。一方、
ドイツ語では、aggressiv ①攻撃的な、好戦的な、挑戦的な ②押し付けがましい ③安全を無視した、乱暴な、むちゃな
である。どれをとっても、好意的なニュアンスは微塵もない。
この「アグレッシブ」にまつわる小さなエピソードをひとつ。 かつてドイツに住んでいた頃、義兄が出張の足を伸ばして、 片田舎の我が家まで訪ねてくれた。久しぶりの対面に話に花が咲いて、 深夜まで話し込んだ。私も、今までの近況を聞いてもらいたいと、 こちらでの奮闘ぶりを話して聞かせた。そこで義兄がポツリ。
「祐子ちゃんは、アグレッシブだねぇ」
私は、思わず言葉を失ってしまった。 義兄は営業の第一線で働く人当たりのいいビジネスマンだ。義妹への最高のほめ言葉として、その単語を使ったのだと思われる。 が、目下ドイツに住んでいて、とっさにドイツ語の意味しか頭に浮かばない身にしてみれば、aggressivとは、普段よく使うことはあっても、決して相手に面と向かって発するような単語ではないのだ。 お酒が入って饒舌になって、お調子よく何かぺらぺらと余計なことでも話したであろうか? 親戚中で異端児と思われるだろうか? と何だか気になって心配で眠れなくなった。 一旦ベットから抜け出して、ドイツ語の辞書をひっくり返し、改めて目に飛び込んできたのは上記の意味。やはりすべてネガティブな表現である。 私は、今日の自分の奔放な言動や、日ごろの無鉄砲な素行を脳裏に描きながらも何とか眠りについた。
翌朝、どうしても腑に落ちない私は、改めてその「アグレッシブ」という言葉の意味を、義兄に身内のよしみで聞いてみた。何のことはない、ドイツ語の「aggressiv」とはニュアンスが違うとわかり、一同、朝っぱらから大笑い、ということがあった。
ドイツ語を日常的に話さなくなって、二年近くになる。 ドイツ語で「aggressiv」という単語を日ごろ使わなくなったせいもあるけど、日本語のほうを耳にしても、すぐさま攻撃的な・・・とは思いつかなくなった。 ましてや今では、この「アグレッシブな」という表現を耳にするたび、その物事や状況を前向きな姿勢で捉えている自分の視点に気がつく。 最近の私のお気に入りの表現の一つでもある。 今年の私は、アグレッシブに生きる。30代のラストスパートとして。
2003年01月03日(金) |
宿題ラストスパート! |
冬休みが終わるまでのカウントダウンが始まった。 ワルシャワ日本人学校は、7日(火)が始業式。 私はなんと、つい昨日まで、7日までが休みだと勘違いしていた。 なんともはや、抜けているというか、祐子さん的ともいうか・・・。
子供たちはクリスマスから、のんきにゲームボーイに明け暮れている。 今、子供たちが夢中になっているのは、ゲームボーイアドバンスの ポケモン・ルビーとサファイヤ。 理人がサンタさんに手紙まで書いたので、私がインターネットで注文した。 クリスマスの朝を迎えた休暇先のホテルで子供たちの手に渡った。 無邪気な彼らは旅行先にサンタさんが届けてくれたものだと いまだに信じて疑わない。
以来、ずーっとやっている。ずーっと。 清二は、やりすぎて頭が痛い、などとのたまっている。 さてかたや、冬休みがあと4日しかないと気づいた祐子ママ。 あわてて子供部屋のおもちゃとごみとプリントの山をひっくり返し、 二人分の宿題一式を見つけ出した。 う! い、い、いっぱいある・・・。 こんなんじゃ、絶対に終わらないじゃない。 思わず、発狂。
「のりひとー! せいじー!! ゲーム、もうやめいぃぃっ!!!」
理人は子供心に、宿題の山を前に本当に休み中に終わらないと思い始めたのか、オイオイ泣き始めた。 あのね、泣いても宿題の量は減るわけではないんだけど、理人ちゃんよ・・・。
今、この日記を書き込んでいる私の傍らで、さっきから理人は静かに宿題をしている。
うん、今終わったようだ。昨日のノルマが。
理人の顔をまじまじと見た。く、く、黒い。
休暇中、一日中飽きることなく、魚のように水の中にいた。 ママが日焼け止めを持って、水辺に到着するのが待ちくれず、 すでに水の中。日焼け止めを塗るからあがってきなさい! と 怒鳴るのも結構エネルギーを使うので、毎度のことだし、そのままにしておいた。 夏の日焼けが抜けていないから、追い焼きしてもそれほど皮膚に ダメージはないだろう。
テネリファ島の気温は、朝晩は長袖を着ないといけないけど、 日中は20数度まであがる。 プールの水温は多少加熱してあるかもしれないけど、海は自然のまま。 ホテルの近くの海辺では、水が冷たくてもみんな泳いでいた。 私も遠浅の海をちょっとだけ沖のほうまで歩いて、 腰あたりまで濡らしてみたけど、さすがに首までつかる勇気はなかった。 あとは太陽の光を浴びて、岩場の防波堤の上から一人海を眺めていた。 子供たちは波打ち際で貝を探したり、楽しそうに波と戯れていた。
沖では、何かを呑み込むような高波がいくつもできていた。 あっという間にサーファーお兄さんがいっぱい集まってきた。 波を待っているサーファーの頭が、アザラシみたいに波間に浮かんでいた。 根気強くいくつもの小さな波をやりすごして、遠くから迫ってくる大きな波を待つ。次こそは・・・という、彼らの気迫が岸辺のこちらまで伝わってくるようだった。
こうして沖のサーファーを眺めていると、 かつての学生時代がよみがえってきた。 周りにたくさんサーファーの友達いたからなぁ。
学生気分のまま夕食時にワインでもあけよっかな、なんて思いながら、一番上手なサーファーを目で追った。
2003年01月01日(水) |
あけましておめでとうございます。 |
新年、明けましておめでとうございます。
今年もいいことがいっぱいありますように。 今年はまいた種がちゃんと芽が出ますように。 今年は想いがちゃんと相手の胸に伝わりますように。
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