あお日記

2002年08月31日(土) 違和感


 7月の後半に開催した花火大会をはじめとして、この部の中核をなすメンバーの持っていた求心力は部外者も多く追随させる結果となった。3年になってから正式に部の一員になった私は、この時期に至ってもまだ部外者のような感覚でいた。目まぐるしく移り変わる部員たちの動きに着いていくのはいささか大変な感じだった。すっかり行動力の無くなっていた私に巡ってきた最初で最後の能動的な学園活動は、いささか目先の甘美に囚われすぎていたきらいがある。

 当時2年生だった部長のいっちゃんを中心にして部が動いていた訳だが、そのいっちゃんの側には常に同学年の舞ちゃんの姿があった。実際彼女ら2人は仲がよさそうに見えたし、性格の対照的な2人の間に主導権の衝突など皆無であったので、なおさら周囲には理想的に集団がまわっているように見えていたのだろう。ただその中心にいたいっちゃんの影には彼女が大好きな先輩である杏さんの影があったのだ。

 花火大会の終幕、一人でちょっとした買出しに出かけた私は、一足先に帰宅の途についたいっちゃんの姿を図書館前の電話ボックスの中で見た。暗がりの中それを影で見続けるような趣味など無いので、私は用を済ませつつ、会場に戻るその足が彼女の帰宅の足と交わることを期待していた。が、彼女はまださっきの電話ボックスの中で話を続けている。その表情は先ほどまで歓喜の中心にいた満面の笑みを持つ彼女の顔ではなく、何か神妙な面持ち。それが杏さんとの会話であると見抜いたのはラザだった。私は彼の味方を自認していたので、違和感のある彼女の表情が気になったので、その旨をラザだけには話したのだった。

 実際それはかなり早くに帰宅してしまった杏さんとの電話だったらしく、いっちゃんとしては現在の部の抱えるノリと、それに参加できないでいる杏さんの板ばさみになっていたようだ。当時の私はそんな彼女の状況などに気がつく訳も無く、ただただ気分のおもむくまま、目先の欲求を満たしているだけの矮小な人間だった。





2002年08月30日(金) いっちゃんと私②

 高校2年まで遅刻も欠席もしたことのない優良な生徒然としていた私の生活態度に変化が現れたのが3年になって暖かくなってきた頃だった。まず1学期はよく授業中に眠るようになった。特に数学はお経か呪術の時間のようによく眠れたものだ。おかげで赤点。

 遅刻や欠席は2学期に入ってから頻繁にみられるようになった。学校に行く楽しみが放課後の部活なので朝が起きられなかった。盲目的に信じていた大人たちのいう規律や道徳・秩序というものに不審を抱いて、考えてもよく分からないことに失望もして、思考をめぐらすことすら面倒になった。何をするにも考察をしてからでないと動かなかった自分は、その考察が結局自分の身に都合のよいものでしかない空々しさを十分理解していた。見事な悪循環である。まるで自分が「子供だ」と見透かされることを恐れているようだった。

 そんなボヤボヤとかすれていた心に浸透していった快楽が部活での人との交わりであり、あれだけ人間不信を装っていた自分の姿がそこには全く片鱗すらなかったのである。環境に慣れるにつれて本来私が持っていた協調性が発揮されていった。人との交わり方など忘れてしまっていたと思ったのに、冗談を言って周囲を笑わせてみたり、あれだけ嫌っていた集団行動を苦もなく楽しんでいくのだ。

 それはあの人間たちの中にいっちゃんという一人の女性がいたからだ。私は彼女の笑顔を見たかった。彼女と話をしたかった。彼女に会いたかった。

 私を無害たらんとするものは、それが彼女のみを求める欲求に変化していかなかったところだ。周さんや銀さんの小話に一喜一憂する彼女の表情があればそれでよかった。部室の中でたまたま彼女の隣に座った時に他愛無い会話ができれば満足だった。夏休みになって部室に行けば朝からずっと彼女と一緒に過ごせる時間さえあればそれでよかった。ひとつの集団の中に存在している彼女が好きだった。

 
 あの夏から10年後に再会したいっちゃんはそんな当時の私を評して「仙人」と言った。





2002年08月29日(木) いっちゃんと私


 自分にとって居心地の良い居場所というのは裏腹に「逃げ場所」という事実を簡単に覆い隠してしまう。快楽だけをきらびやかに具現したあの夏はまさに私にとって居心地の良い逃げ場だった。それに気づかなかった私は、あの時の熱狂と人を動かす力が有限である未来などを思った瞬間もなかった。

 特に印象的なのは彼女の笑顔だった。彼女が笑えばそこにいる全ての人間が楽しんでいる証だった。問題はそれが心の底から得たかった快楽ではなかった点だ。人間にはその数だけの思考があり欲求があって、年頃の学生だった我々の中で語られる重要な未来などはせいぜい恋の増減くらいのものだった。愛することを知らず、愛されることを知ろうともしない。少なくとも私は、孤高を気取って周囲の人間から一歩離れた場所にいたがる人間だった。

 端的に言ってしまえば、いっちゃんもまた私の嫌っていた「容姿で簡単に人を判断できる女性」だった。後から本人に聞いたことだからまず間違いはないのだが、彼女はこの私の容姿が大変気に入っていたようである。もっとも、高校生の頃の私は全くと言ってよいほどおしゃれなどに縁のない人間だった。また自分の容姿を徹底的に飾らないことで自分の嫌いな人間たちを遠ざけてきたのだ。そんな私であっても、日々接する時間が多くなるにつれ、彼女はこれ以上ない笑顔で喜ぶのが手に取るように分かるのだった。

 ただ、彼女の私に対する態度が終始変化しなかったのは、これまた私が「無害」という事実によるところが大きいのだった。彼女が好きになったものは、私の容姿ももちろんだったのだが、それよりもなお、私の持つ傾向のほうだったのだ。それに気づかなかった私はこの夏が終わる頃には、どうしようもないくらい彼女のことを好きになってしまっていたのだ。

 余談ですが、いっちゃんに片思いのラザは私から言わせれば男としてかなりイケている部類であり、彼女が彼のことをフリ続ける理由が分からないのだった。そして私は彼の気持ちを超えることの出来ない自分の気持ちを信じていたのだった。


 我ながら救いようのない考え方をする自分だった(笑)。まあそのおかげで私は今ある恋に自身を持っていられるのだから、バカだった自分の過去も恥ずかしくはないのだ。





2002年08月28日(水) 初めてのバイト


 1学期の期末テストが終わった頃だっただろうか、デパート内の寿司屋でバイトをすることにした。特に欲しいものがあった訳でもないし、暇を持て余していたわけでもない。当時違う高校に進学した友人で唯一音信の途絶えなかった『勝』くんの紹介で面接をすることになった。
 そんな状況だったので私に「仕事」に対する責任感など皆無だったし、社会というものから隔離された学生生活だったので今思うと全くもって子供も子供、大子供だった。バイトの面接というのは「採用の有無」を決めるためにあるのかと思っていたが、実際私が受けた時には採用が決まっていて、「君は進学校だから進学希望かい? それなら大学生になっても続けられるね!」とか「そのうち勝くんに変わって店を任せられるくらいになって欲しいよ」といった自分すら見知らぬ先の展望まで語られて、正直私はかなり引いてしまったのだ。まあ人にもよるのでしょうが、こういう場合の男子は同い年の女子に比べて全くもってだらしないですね。

 当時から生モノが苦手だった私ですが、仕事自体は面白かったのだ。寿司屋とは言っても所詮はパック詰めの廉価版なので味のほうがどうだったのか、知りたくはない。シャリは工場で個々に握られたものが届く。そして冷蔵庫から10食分くらい入ったイカやエビ、タコ等の既製品のネタパックを目の前に並べて造りました。食べたくなったらその場で食べても良し。店長はほとんど顔を出さないので私の母ほどあるパートのおばさん連中は3個に1個くらいは胃袋の中だったかもしれない(笑)。そんな中で私が食べることが出来たのが玉子だけだった。流れ作業なので間違って玉子にもサビを入れてしまって、それがまたけっこう美味かったのである。

 結局私は勝くんに迷惑をかける形でバイトをやめることになる。それは夏休みの楽しみがバイトではなくて部活のほうにむいた、といった単純な理由だった。つまりは「いっちゃん」のほうに向いていったということだ。





2002年08月27日(火) ハマちゃんと私


 入部当初から人なつっこい姿を見せていた新入生のハマちゃんはどうもその言動が特徴的でそれを生理的に嫌う人間もいれば平気な人間もいて、彼女に対する評価はまちまちだった。もうお互いが高校を卒業して少したった頃であろうか? 私が彼女に下した評価は「多くの人から愛されてしかるべき人であるのに、愛され方を知らない人」というものに落ち着いた。そう考えた当時の私が恋愛に燃えるただの青年だったならきっとあんなに長い時間彼女との縁を維持できなかっただろう。まあそれは後で語るとして...。

 入部してからまず彼女がとった人と違う行動は、周さんやタケダなど部室に集まる男連中を全て「おにいちゃん」呼ばわりしたことだ。中でも私だけは長いこと彼女に親しみのこもった言動を受け続けたのだった。もちろん、私はタケダが彼女におネツだということは知っていたし、ラザはラザでそういった系統の女の子は嫌いだし、全く私の立つ瀬がない状況で、それでも私は成り行きに任せるしか能がないのだった。それはハマちゃんが私に寄せる親愛(少なくとも表面上は)が、彼女が本能的に私という人間の無害を感じたからだということを知っていたからだ。まあ実際、私は無害だった(笑)。もっとも無害でいたかった訳ではないが。

 ともかくも、彼女の示す無邪気で馴れ馴れしい信頼を「若いから」という責めだけで拒絶するのははばかられた。その裏に若かりし頃の彼女の身に起こった事実を容易に想像できたからだ。それは私自身が幼少の頃受けた「いじめ」という事実。
 ハマちゃんに対する周囲の評価が二分するにつれて私は彼女の過去がまたこの部室と同じように二分していった様を想像して、「子供」と呼ばれる人間の本質を「無邪気」とか「純粋」という言葉で単純にくくってしまう愚かさを感じたものだった。

 まあ、私は私なりにハマちゃんに対していくしか道はないのだ。

 
 どうもこの頃の話になると「私=中立」といったどこにも所属せずに舞台を静観していた人物のごとき印象を皆持っているのですが、まあ実際のところは、多くのことに深入りする気力がなかったというだけかもしれません。





2002年08月26日(月) 渦の中心


 私が当時部長だった1つ年下のいっちゃんに好感を持つようになったのが果たしていつのことでどのようなきっかけがあったのか、明確なものは覚えていない。というか無いかもしれない。ただ私の中だけでなく部員の大半が公認となった「ラザの片思いの相手=いっちゃん」という図式に抗ってまで強い思いにはならないというあきらめというか自負といおうか(笑)そんな気持ちがあった。

 夏休みという学生特有の所有時間の中、その経過に比例して私は確実に彼女に魅かれていった。それはまた他の部員たちも男女問わず同じであったと感じている。彼女のいない我々など考えられないくらいその存在というのは特別なものだった。今思えばそれも良し悪しなのだが、年長である周さんや銀さんも彼女を中心に集団が回っている事実を実に良く盛り上げて、そのノリは秋の文化祭に向けて留まることなく加速度を増していったのが7月の後半だったと思う。

 そんな中、私の書いた『秋』は評判がよろしく、巻末いわゆる「トリ」を務める作品として認知されたのだった。





2002年08月25日(日) 夏のプロローグ

 周さんの同級生でこの学校のOBでもあった銀さんと出会ったのがいつのことだったのかはっきりとは覚えていないが、気がついたら部室の雰囲気が「誰でも来い!」という状態で、初めて遊びに来た人間でもごく普通に場に溶け込めるようなノリがあった。中でもそこに集まった人間たちに愛されたのが銀さんだった。その後、周さんと共に集まった仲間たちのけん引役を自らかってくれることになるのだが、個人的に私は彼のことがうらやましく写ったのだ。彼がいたおかげで私はそれまでは会話も交わさずにいた後輩の女の子たちともそれなりに付き合っていけるようになったのだと思います。

 1学期の終業式、ホームルーム終了後は部室に行っていつものようにラザや陸上部のN、 
ミルらとだべっていた。その席で先日日記に書いた私の赤点の話を通知表の赤い文字と一緒にバカみたいに話していた。(まあ実際バカだったが/笑)その時に思いがけず私の言葉を静止するように横ヤリを入れたのが1つ年下の後輩、『舞』ちゃんだった。当時の私は彼女の印象について(恐れながら)全く関心を向けていなかったのだが、あの一言は今でも覚えている。

「自慢にならないぃ!」

 彼女がどんな気持ちでこの言葉を放ったのか私は確認できなかった。あまりにも意外な方向から言葉が飛んできたので彼女の表情を確認できなかったのだ。それきり、赤点の話は終わりにした。

 舞ちゃんの声はかなり長く私の心に残っていた。抗議の声にも聞こえたその音が「やさしい」音色に聞こえた。
 まあ今でも彼女の声は、あえて言えばアニメ系でボヤボヤした感じなんですがね(笑)。


 なんでもないような始まりで、あの年の夏が始まった。



2002年08月24日(土) 停学


 直接私に関わる事件ではなかったのですが、私の最も近い友人であるタケダとラザという人間の一面を見ることの出来るエピソードなので書くことにします。
 
 高校生活で最後となる春のクラス対抗演劇発表会を明日に控えた日、この時ばかりは部室に集まっていた面々も自分のクラスの準備でそれどころではない。その準備期間が2週間ほどあり、その間私は部室に顔を出すことがなかったのでタケダやラザが自分のクラスでどんなことをしていたのかなんて何も知らなかった。

 で、発表会も終わった後だったと思う。本人が直接打ち明けたので停学はまず本当のことであった。なんでも発表会の前日に陸上部の部室で酒盛りをしており、それをよりにもよって体育教師にみつかって説教を小1時間ほど食らったというものだった。学生の立場で飲酒は厳禁ですよ~というか学生ごときに酒の楽しみは分からんだろう。それはタバコと同じで不良っぽい自分の演出でしかない。
 それはさておき、説教していた体育教師もまた学校の近所の酒場でいっぱいやってきた帰りだったので、今思うと説教できるような身分かオラ! と突っ込みたくもなります。
 私はタケダやラザの言い分を聞いていたのですが、どちらにしろ弁護するような気にもならず、かといって昔の道徳人間だった頃のように呆れかえって毛嫌いするようなこともなく、成り行きを見守っていました。
 タケダの母は彼を迎えに来た帰りに「お前もこんなことするようになったか」とかいって返って喜んだそうです(笑)。当時の彼は母のことを疎んだ発言が多かったのですが、私にはそれほど悪い母と写りませんでした。
 ラザは停学の日に通学してきて部室で自習中の後輩たちとトランプなぞやってるし(笑)。

 基本的に、私たちは学校にしか居場所がなかっただけなのだ、と思います。自立していない学生にとって、家族というのは意のままにできない社会そのものでもあり、逃げ場である学校というコミュニティに返って強く依存していく構図が出来あがっていったのかな?





2002年08月23日(金) 批評会


 この部の活動は主に定期刊行物を隔月に作っているくらいで、毎日のように部室に行って活動するようなことなど何もなかった。それでも私が入部した頃から部外者も含めた人の往来が次第に増えていった。悲しいかな、男というのは女性のいるところに群がってしまう習性があるようで、私やタケダ・ラザといった男子部員の思惑に関わらず、クラスの知り合い等がやってきては部室でダベって帰っていく放課後が多かった。かつて自分も同じようにこの部に遊びに来ていたので、そういった彼らの一部を疎ましく思いつつも何もいえない立場であった。

 そこで思いついた題材を入部してはじめての作品として刊行物に寄せたのだ。まあ出来上がってみたらかなり趣の違う文章になってしまって、自分としてはかなり不本意ながらも安易に載せてしまったのだ。
 内容は、まあこの部を小さな社会に模しての問題提起であった訳だが、部員には堪えたのか、思わぬ反響を食らってしまったのだ。部員の姿勢がどうのと確かに書いたが、それを言いたかった訳ではなくてその行間を読み取って欲しかったのだ。

 まっ、初めての批評会の日はいつもの和やかな社交場の雰囲気と違って何かマジメくさったムードがあったので、この日ばかりは部外者など近寄れなかった。私がこの作品を書いた目的も少しは果たせた訳だ(笑)。
 
「私たちのことそんな風に思ってたんだ」←マジメ~な顔したいっちゃん
「今日○○さんがここに来なかったのはあなたに対する抗議の姿勢からだ」←同学年の前部長
「モーツァルトのことバカにしてるでしょ!」←音楽好きなハマちゃん

批判は全て同学年から下の世代に集中。なお上の世代はといえば...

「やれやれ~ もっとやれ~」←杏さん
「弁護する気はないが、オレは共感するとこもあるよ」←周さん

と年上には評判がいい。

 まあともあれ、この作品で私の鮮烈デビューは見事に弾けたインパクトとなったのだ。多くの女性部員が思っていたであろうただの物静かにスカしていた私のイメージはこれで変化したのだろう、多分。





2002年08月22日(木) 冷めたヤツ


 理系クラスということでクラスの大半が男子ということもあったのだろうが、何故か私の周囲は休み時間になると男子の輪が出来て、正直自分でも不思議だった。ほとんどが2年の頃知り合った隣のクラスの人間たちで、陸上部のNをはじめ、山ちゃんの取り巻きがほとんどだったのだが。遠い未来に再開するNと山ちゃんのエピソードはその時にお話しするとして、ここでは写真部のアイツについて話そうと思う。

 仮にヤツの名をミルとでもしておこうか。彼と初めて交わした会話は今でも覚えており、あまり大きな声ではいえないが、それはそれは子供じみたものだった。
「ねえ、そこ僕の席だからちょっとどいてくんない?」
「...」反応がないのでもう一回同じ事を言うと
「やだよ」「ここがあんたの席だっていうけどこれは公共物だ」
そう言われればそうだな、とか思う私はかなりお人好し(笑)。なんか馬鹿らしい言い争いになる予感がしたので私はそれで切り上げたのだが、この時は特に不愉快でもなかったのだ。それは彼の冷めた物言いに自分に共通するものを見たからなのか、その辺は自分でも分からない。
 ミルはどちらかと言えばそれまでクラスで目立たない存在で私も名前すら知らなかったのだが、あのやり取り以降、私たちはなぜかよく話をするようになった。卒業アルバム委員となった私は彼の写真がかなりの腕前だと言うことも知っていたこともあって、写真の心得のある彼にクラスの写真を行事の際は取って欲しい旨をお願いした。最初は渋っていた彼もそのうちやる気になって、春の演劇発表の準備からかなりの枚数を撮ってもらったのだ。

 私が部外者で文芸部へ連れて行った人間は後にも先にも彼一人である。2年の頃にクラスで浮いていた自分と同じ境遇にいるミルを一人にする気にはならなかったのだ。





2002年08月21日(水) 投げやり


 嶋さんから春休みのおわびとお礼の返事が来たのは新学期が始まった頃だった。私が彼女の手紙を心待ちに待っていたのは文通の最初の頃、まあ2年の2学期頃までであり、それまでは彼女に手紙を出すと毎日のように帰宅した足でポストを確認していた。それが意見を話しても文通には限界があって、彼女の意見が帰ってくる前に自分でどんどん悪循環を繰り返すようになったころからポストを覗かなくなった。
 こんな姿や考え方で嶋さんが喜ぶはずはない、ということは分かっていた。自分の中に押し寄せるこの無気力をそれまでは彼女に隠していた。それが春休みに私のあんな姿を見せたにもかかわらず、彼女のその手紙に「何でも話せるあいだがらでいようね」という一句を書いてくれたのを見つけて、自分の現況や周囲の人間関係で感じていることを素直に話したくなって、吟味して書き連ねた返事を書いた。
 今振り返ると私も嶋さんもお互いを求めながらも自分のことだけで精一杯な状態だった。私は今のように相手の考えを聞く余裕などはなかったし、まして反論を受け入れる体制など整ってはいなかったのだ。彼女の返事はまるで子供に言い聞かせる母親のような口調で、家族というものに冷淡だった自分に初めて反感を抱かせる手紙だったのだ。


 嶋さんのその手紙を今ひも解くと、反感を抱いた当時の自分が全く残念でならない。まあ私も時間を経てただ生きてきたのではなく、そういう思いになれるような変化をもたらす出会いがあったのだ。それは望んでいる時に得られるものではなく、あるいは不意に、またある時は偽物だったりして自分なりに判断してきたからこそ得られたのだ。そして何より「自分」を探し出したこと。あの頃の私はまだそれを探すことすら侭ならないちっぽけな子供でしかなかった。

 私の人生にこんな素晴らしい人がまた一人関わっていたと発見できたのも、この日記を書き始めたからである。私の過去も捨てたもんじゃないな、と思ってみたりした今日(笑)。 





2002年08月20日(火) 『秋』


 9月の3週に開かれる文化祭目指して、我が部でも活動が始まったのがまあ6月頃でしたかねぇ。印刷屋に原稿を依頼してオフセットで売り出す本と学校の印刷室でわら半紙に刷って製本する付録と2冊構成でした。学年は最年長でもこの部に最も遅く入部した私はほとんどの作業が初体験のことで、周さんをはじめたまに来てくださった先輩方や経験者たちの指示に従っただけで私はかなり何もせずに出来上がった気もします。

 で、印刷屋に出す原稿の締め切りが確か1学期の終業式の日だったのでそれに向けて作品を用意することになりました。といっても私の中ではすでに題材が決まっていたので1学期の中間テストあたりから勉強はそっちのけで創作に励んでいましたね。そういうやらなきゃいけないことがある時に限って別なことにやる気って出るものなんですね(笑)。例えばテスト前の部屋掃除とか(経験アリアリ)。

 
 当時、日々の沈んだ心持ちの中で私が素直に「楽しい」と感じたのが体育のバスケットだったので、中学の部活を参考にしてバスケット物の小説を書き始めました。そういえばこの頃中学に行ったのも「取材」という目的があったのを今思い出しました。なので他の部員よりもかなり早くから文化祭にむけての題材は決めていたといえるのでしょう。

 内容はまあ読んでもらえば分かるのですが、かなり真面目に書きました(笑)。実体験とフィクションが半々って所でしょうかね。やっぱり私は純粋に作品が書きたかったのではなくて、自分の感じている気持ちを誰かに伝えたいという思いのほうが強くて主人公を自分に模してしまうのは当然の成り行きだといえるでしょう。それはタケダやラザにも共通の気持ちであったと今もって信じている(笑)。傍から見てもあまりかっこいい手段ではないですが。


 『秋』を彼女さんに読んでもらいたいので近々どこかにアップする予定です(密かに)。
 っていうかこれから冬だよ(笑)。





2002年08月19日(月) 赤点


 高校に進学して2年が経過し、そろそろ周囲も本腰で受験に向けて取り組むようになる頃、私は相変わらずの無気力で生活自体やる気がないのに勉強だけに集中するはずもなかった。2年間でやりたいことなど見つかるわけもなく、信念に欠けた私は目先の興味だけで動くことにしたのだ。

 で、3年の三社面談で進路調査があったとき、嶋さんと行ったミュージカルを思い出してふと放送系の専門学校に行きたいと思ってしまった。言った手前それなりに調べておかないと気が済まないので、2年の頃までは赤本を覗きに行った進路指導室の別の棚を調べるようになった。確かこの頃になると進路関係のダイレクトメールがよく来たもので、専門学校でも色々と分野があってなかなか面白く読ませてもらったものだ。余談ですが、現在私はこれでも建設現場の職人をやっているわけで、実地で役立つ勉強なら今もってやってみたい気がします。きっと私には普通高校より商業や工業といった職業科の高校のほうが性にはあっていたのでしょうね。今更遅いんですがね(笑)。

 で、勢い余って夏休みの体験入学に申し込んでしまった。当時新宿にあった大手の放送関係の専門学校でした。ってこの頃はまだ新宿なんて行ったことすらなかったなぁ~。

 そんな感じだったので学力は落ちていく一方で、生まれて初めて1学期に赤点を取ることになりました。理数系クラスのクセによりにもよって数学で(笑)。

 何事も継続が力を生むのである。





2002年08月18日(日) 後輩


 3年に進級してまあ曲がりなりにも最上級生となった訳で、そんな感覚はあまり気にする性格ではなかったのですが、事実として2歳年下の1年生が入部してくるとこんな自分でも幾分大人じみているようにも感じたのでした。全くもって勘違いヤロウです(笑)。
 
 1つ年上の先輩たちは寡黙な私にもよく話しかける人々だったので私も慣れたせいかそこそこ声を発するようになったのですが、1つ下の2年生にいた女子3人とはほとんど話をした記憶がありませんでした。実際私が比較的気楽に話が出来るようになったのは新入生たちのほうが先で、6人入部した中でも『ハマ』ちゃんという子が何故かすぐ私になついてしまったので、そのおかげといっては何ですが、新入生たちに取っ付きやすい環境を彼女が用意してくれたのでした。


 タケダの顔つきがこれまでのとぼけたものから徐々にしっかりとした目付きに変化したのは、彼の中に具体的な恋が新しく芽生えたからだろう。彼の持つ言動やイメージとは程遠い、学校生活の中に根付いた由緒正しい図式を目の当たりにした私は彼のその心境の変化にいささか戸惑いをおぼえてしまった。「自己紹介で辞めるとか何とか言ったのはなんだったんだ?」って(笑)。

「新入生の中にさ~ これまた美人な子が入ってさぁ...♪」といって本気で喜んでいるタケダの恋はこの時すでに始まっていたのだろう。ラザが『いっちゃん』を好きになった時の場合とほぼ同じ状況だったのですが、すでに対面はしているであろうその子の姿を私は思い出せないでいるのだった。「きれい」とか「美人」という断片的な情報を聞いて知っていても、耳打ちされるまでそれが誰だか確認する気にはならなかったしそんな性格でもなかった。
 で、それがハマちゃんだったわけであり、友人の片思いのその相手が、何故か影の薄いであろう私になついてしまって、3年の1学期は「我ながら子供っぽいことで困ってるな」と苦笑しつつも、これまでの生活にはなかった快楽を感じつつあった。

 自分の容姿だけで判断されることに入学当初ほど嫌悪を感じなくなっていたのではなく、それは「ハマちゃん」という子だったから私は許せたのだろう。「無邪気」という言葉のよく似合う彼女が受けた評価は逆の「わがまま」であったりもして、少なくとも私は彼女の持つその個性を認めるようになっていった。





2002年08月17日(土) ちょっと事件


 3年に進級してタケダは1組、私は10組。正直言って3年の時にあっちの校舎で彼がどんな学校生活を送っていたのか全く知らない。私が知っている彼は文芸部の部室で会っている時の彼だけだった。そんな彼が紆余曲折の末、このクラスで出会った女性と今は所帯を持って一児の父なのだから尚更残念でならないのだ(笑)。

 で、3年のクラスに入ってはじめての自己紹介の時、またタケダ語録が増えることになった。といってもかなり時間がたったので今となっては本人に確認しないと思い出せない(爆)。

「紹介も何も、こんな学校すぐにでも辞めるのでしません」

みたいな事を言うものだから、クラスも騒然となるは担任に呼び出されるは家庭訪問もあったか?  ただ私はタケダがそういったことを言う状況は把握できなくても、彼にそれを言わせた心境はなんとなく理解していた。それはただ若気の至りでしかなかったことかもしれないが、当時の彼や私が思い悩む「対人間」という題名には真剣なものがあったのだ。今でこそ笑い話ですがねぇ。


 そんな私たちに、知的な興味を示してくれる先輩や顧問のいた文芸部は時間の経過に比例して、自分たちの望む「居場所」となっていったのである。

 「恋愛」のもたらす危険な甘美と憎悪、その内包する場所に我々は魅かれていくのだった。





2002年08月16日(金) 正式入部(副題:ニュータイプ??/笑)


 3年に進級してそれまで所属していた生物部が同好会に格下げされたと同時に私は文芸部の入部届けを出しました。この部の慣例かどうかは分からないのですが、この春に卒業した先輩やさらにその上のOBなどが暇を見ては部室に顔を出すような部で、私もその輪の中に共鳴を感じるものがあったのでしょう、学校に行くのが幾分楽しくなってきた時期でした。その中に杏さんや、これからお話しすることになるひとつ年下の『いっちゃん』の記憶はありません。ただ一人だけ、今でも私の記憶に残っている人が『周』さんです。

 どのような形で周さんとの初対面を向かえたのかそこまでの記憶はありませんが、確かあれはよく晴れた日の放課後で、よく陽の当たる中庭と対照的に暗かった部室の中で話しの中心にいたのが彼でした。ここだけの話、私の彼に対する第一印象は良くない(笑)。まず言葉で冗談を言うわりに時折表情の伴わない点が私に警戒感を与えるものでした。そして言い様の無いプレッシャーを発している点。そう感じた私が彼と心から打ち解けて話をするようになるまでにかなりの時間を要すことになります。タケダやラザはすでに面識があったので、私はその2人を盾にしてしばらくは彼を観察するようになります。

 人の出会いは面白いもので、そんな周さんが今では兄のように慕える友人なんだから、過去を振り返ると自分の感覚が面白いというものです。

 実はこの周さんは私と入れ替わりにこの高校を卒業していったOBだったので、直接の先輩ではないのです。しかも私が2年の冬に好きになって、その彼氏の存在の大きさに気持ちを諦めたという杏さんの相手がこの周さんでした。





2002年08月15日(木) 『グッドバイ』


 それから1時間ほどだろうか、私は一人で黙々とシュートをしていた。ただそこには相手がいなかった。いつもそうだ。結局自分は人と相対する状況から逃げているだけだ。いくら理屈をこねくり回してもそれは自分が良く分かっていることだ。世の中は何もかもが自分に都合の良い人間関係があるわけではない。その事実に押された私は中学を卒業後、自分から高い壁を作ってしまったのだ。当時の自分はそれに気づく訳もなく面倒であろうと推測できる人間に近づかないようになった。

 何をやっていても面白くなかった日々。その後嶋さんから届いた手紙の返事も書けずにうつむいていた自分にとって率直に感じた楽しみが、体育でやったバスケットだった。この時かもしれない。下手は下手なりに体を動かすことが好きならいいんじゃないか、と思ったのは。そして自分の居場所を学び舎である中学の体育館に求めたわけだ。

 楽しかった。素直にそう思った。ただ何気ない先生の言葉だけ余計だった。

「高校は中学とは違うからな」

 こんな冷め切った説得力のない言葉がいわば恩師である先生の口から出るとは思わなかった。いや、それが「大人になる」ということなら自分は子供のままで結構だと本気で思った。

 まあどういった形であれ、過去の温室に別れを告げることのできた日であったことに変わりはなかったが。

 この頃だったか、太宰治の『グッドバイ』を読んでいたことは全く今日の日記に関係はありません(笑)。





2002年08月14日(水) 新学期


 3年生になった。理系クラスということもあってクラスの3分の2が男子。まあ女子だろうと男子だろうと、私が能動的に交わろうとしないのは変わらない。

 嶋さんと会った後も特に高揚した気持ちにはならず、かえって無気力な気持ちのほうが増した日々で、新学期だというのに私はかなりへこんでいた。こんな自分でも仲の良かったタケダやラザが最も遠いクラスになったことがより私を一人でいさせる理由になった。
「わざわざあんな遠くまで行く必要もないか...」 あきらめというか割り切りだけはすこぶるスマートに出来る私だった。


 新学期に入って早々だったと思う。

 私は久しぶりに地元の母校である中学校へ行った。そこで世話になった担任の先生に会いにいって放課後の部活の終わった後の体育館を借りた。

 久しぶりに立ったそこは何か新鮮な感じのする場所だった。中学の思い出はほとんどが部活で埋められていたといっても過言ではない。この体育館には辛かった練習の記憶や、休み時間のボール磨きの際ここで悪さをしたのが原因で初めて担任にぶん殴られた記憶とか、淡い憧れだったひとつ年上の先輩がきれいなセットシュートを打つ姿とか、女子バスケ部だった「班長」をマークした練習試合とか、その他もろもろ。

 当時から3年前は部活に出るのが苦痛であった。思うように上達しない自分と周囲との反比例に嫌気が差していて、好きではじめたバスケットが楽しくなくなっていた時期だった。その私が高校に上がり、3年経って結局行き着いた先はその体育館であった。





2002年08月13日(火) 不実行


 公演は夕方には終わっていたはずで、その後のことは正直なところはっきりと覚えていません。食事をしたかもしれないし、そのまま帰ったかもしれない。ただ、電車の中では言葉を交わさなかったことは覚えている。

 地元に近くなるにつれて幾分冷静になってきたのか、あたりがかなり冷えていることに気が付いた。まあ3月下旬といっても春はまだ先な気配。最後の乗換駅で私は販売機でコーヒーを2本買った。「あったかいよ」と言ったかどうかは分からないが、初めて彼女に向かって笑みがこぼれたのがこの時だったと思う。それから程無くして電車が来たため、話をする機会が中断されてしまったのが残念でならない。

 私の地元は終点なので、近づくにつれて乗客も減っていく。彼女と会ってからというもの、私にとって彼女以外の全ての人間が邪魔だった。明らかに私は目の前の女性を理解したい衝動が深まっており、外野が邪魔だった。またそんな自分がこの体の中にいたことに動揺もしていた。周囲の人影が少なくなるにつれて自然と私の口数は多くなっていたのかもしれない。まあたかが知れてるが(笑)。

 地元の駅に着いた時が私の口数のピークだった(笑)。あの時の胸ポケットの手紙は今現在でも私の手元に残っている。缶コーヒーを嶋さんに渡して笑みを浮かべた時点で私はこの日の目的をあきらめたようだ。自分の中にある素直な衝動と、決心したことを実行できない自分の行動力の無さに厭世的でもあり、かなり複雑な心境で家路に着いた。

 「また手紙で」と言った嶋さんから私は、彼女がかぶっていた帽子をもらった。それに込められた彼女の意思は、今現在においても、わからないままである。





2002年08月12日(月) 存在感


 何事においても経験値不足の私には、当時のその状況がかなり難解なものでした。もう「ぐう」の音も出ない感じで公演が終わっても動けずに考え込んでいた。いや、あの場合考えているように傍からは見えただけで、実際は「どうすりゃいいんだ?」という単純な問い掛けに答えられない自分がそこにいただけだ。

 そのうち周囲の客足も徐々に落ち着いてきて、係員の「清掃作業にかかりますのでお早くご退場くださ~い」という声にそのまま反射的に体が呼応してしまい、とりあえず立って出口方面に向かうことにした。出口に向かう人の波が嶋さんとは別方向に動いていたので結果として私は彼女に背を向ける形になった。

 刹那、私の手首が後ろに向かって引かれた。その力は驚くほど強く、歩を止めるには十分すぎるものだ。そこに彼女のしぼり出した勇気がこもっていたことを知ったのは、残念ながら今この瞬間である(^^;;

 思わず振り返って初めて目にした嶋さんは、引かれた手に残る印象とは異なった。目の前にいる彼女はとても背が小さく、交差した視線は彼女がすぐにうつむいてしまったのでよくその表情を感じることは出来なかった。ただ初対面はおたがい苦笑いだったことは確かだ(笑)。不思議と私に照れは皆無で、彼女の短い髪では隠しきれないその目が私とは対照的で、そう感じた瞬間から私は彼女をどうにかリラックスさせる方法はないものかと色々考えたり話したりして、今日ここへ嶋さんを呼んだその目的である胸の内はそっちのけとなった。

 正直な気持ちとは、そんなものである。





2002年08月11日(日) ニセ無関心


 嶋さんは何を思ったか私の前の狭い通路を横切って隣に座らずに別の席へと腰を下ろしてしまった。それははた目にも彼女がかなりの度合いで恥ずかしがっている様子であった。チケットを見て席まで案内してくれた係の女性スタッフも困り果てていた様子(笑)。

 私は今でも人様と目を合わせるのが嫌いで、合ってもすぐに逸らすのは私のほうだ。関心の向かないものにはほとんど目を向けない、というのが社会で生きていくうえでかなりのマイナス要素だということは理解している。逆に関心が大アリでも目を向けない(笑)。この日の場合は正に後者で、自分の視界に入って彼女だと気が付いた時点で私は目を合わせるべきだったのだ。

 極度の緊張で鼓動が速くなる経験は何度もあったはずだった。嶋さんの持って来たそれは少し違っていた。単純に私は嬉しかったのだ、生身の嶋さんが存在するその事実が。


 それからしばらく劇はそっちのけで葛藤の時間。彼女が現れてから自分の抱いた正直な感覚を否定したい胸ポケットの手紙。声すら素直に出てこない自分。

 「いろいろ考えるのは君のよいところだと思うよ」

 「それが欠点でもあるよね」


嶋さんの肉声が、すぐそこにあるのに。





2002年08月10日(土) 鼓動


 公演は2部構成だった。その間の休み時間になっても私の右隣は空席のままだった。ただ私に落胆の色はなかった。むしろ私は嶋さんのことより講演のほうにより注意が向いていた。
 もともと興味があって選んだ劇ではない。それでも私の気持ちを一時的にしろ揺さぶるような圧倒的な人間の動作がそこにあった。普段から黙然として動かないことの多い自分とは全く対照的で、今思えばその程度の興味でしかなかったのだが、当時の自分を引き付けるには十分な劇だった。
 ちなみに『スターライトエクスプレス』というのはその表題どおり汽車が主人公の物語で、役者がそれぞれ機関車や客車、列車等に扮してローラースケートを履いてステージを駆け巡り楽曲で物語を進行する歌劇であった。

 
 いつ以来か分からないほど何かに夢中になっていた私の視界を、不器用そうな歩様で横切った影があった。小さな人間の影。そして私は不意に現実へと戻された。


 それは後半の公演が始まって間もなくのことだった。

 私の中の血潮がめぐる、とめどなく。





2002年08月09日(金) 横浜


 私が選んだわけではないのだが、自宅から最も近い公演場所が横浜アリーナだったので、嶋さんには現地に直接来てもらうよう手紙を書いた。というか同じ街に住んでてその目はないだろう! とか思うんですけど、なにせ目的が「嶋さんとどう縁を切るか?」というところだったので、ヘラヘラと愛想笑いを浮かべて話をあわせて1日を過ごすにはあまりに彼女にとって救いがないのでそんな気にはとてもならなかった。

 待ち合わせ場所も特に指定しなかったのは、チケットにある席順が有無を言わさず私の隣だったからで、彼女が来てくれさえすれば必ず会える。いや、彼女はこういった誘い方でも相手が私なら戸惑ってでも取りあえず来てくれると思っていた。来てくれなければ、コートの胸ポケットに忍ばせた嶋さんへの長文の手紙をそのまま投函すればいいだけだ。

 杏さんへの恋を確認するはずのチケットを「用無し」になったという理由だけで嶋さんに渡したことを責める気持ちもあったが、私の正当化は、全て手紙に書き記した。いや、「全て」かなんて確信はない。彼女へ渡すはずのその手紙を私は何度も読み返した。そのたびにつくづく自分は芯のない人間だと思い知らされる。結局いつも責めるべきは自分、といったところに落ち着くこの悪循環を断ち切れない自分を、好きな女性に対してそのままの自分を見せられる準備がなかなか出来なかったのだ。

 その日の新横浜は曇り空で雪でも舞い降りそうな寒い日だった。あたりを眺めても嶋さんを特定できないことくらい分かっているので、私は一目散に席に付くべく歩を進めていたのだろう。さすがにできたてホヤホヤの横浜アリーナは新しくて暖かだった。といっても3日ほど前に母と見に来ていたので場所に対する新鮮さはそれほどでもなかったが、色々な真新しいものを目に留めておきたくて場内を観察していた。


 そして私は開演時間を告げるアナウンスを一人で聴いた。





2002年08月08日(木) 初めてのデート


 3学期ももう終わろうかという3月の中旬、チケットに短い添え書きと自宅の電話番号を記して嶋さんに送りました。自分にとっては計画的でも彼女にとっては唐突な話、しかも3月下旬と1週間もすれば期限の来るようなチケットを見て彼女が何を思ったのか、いまさら想像するのは失礼というものだ。結局のところ、私はいたずらに嶋さんの気持ちを揺さぶってしまったのだ。それでも私は自分の正直な気持ちに背くことはなかった。

 この際使った『正直』という言葉は正確な表現ではない。淡すぎた彼女への恋は、彼女のことを知れば知るほど細かくなっていく。それは裏腹として、嶋さんに強く惹かれてしまうだろう未来を受け入れたい自分と、持っている冷たい体温とが相殺されて無気力を作っていった。杏さんという身近にある体温に惹かれたのは一瞬のことで、私の中で嶋さんに対するほどの真剣さを生み出すことはなかった。

 
 嶋さんの姿形に対して私は何の予測も期待も心配もしてはいなかった。1年以上の文通で私は彼女が人間として信じることが出来る人だと思っていた。お互いの中にある悪意が2人の間で発揮される機会など有り得ないことを私は知っていた。彼女の内面を信頼しきっていた自分は、私自身を彼女から遠ざけることで彼女を守りたかった...のか?

まあどっちにしろ考えすぎで自己中で子供だっただけで、我ながら、後ろから蹴っ飛ばしたい気分です(笑)。


ただ嶋さんに出会ったおかげで、私は「自分の恋愛」に対する感じ方を確立できたんだと思います。自分は恋愛に何を求めているのか、何が欲しかったのか。

今振り返っても嶋さんは私の中で素敵な女性でいてくれるのだ。





2002年08月07日(水) 大雪


 何月かは忘れたのですが、3学期のとある日は朝から大雪。さすがに自転車では通学できないので電車で行こうとしたのですが、通常よりも遅れ気味。やっと乗った車内は人間の熱気で頭のほうだけムレムレ。これだから電車は大嫌いなのだ。
 朝のホームルームの時間が過ぎてもまだ教室には半分にも満たない生徒しかいない。入学当時の自分ならこの状況をみて不愉快にもなったのだろうが、慣れたのか関心がなくなったのか、それとも自分の器を正確に把握したからなのか、大して何も感じずに人間が集まるのを待った。

 結局この日は授業なしで強制下校。といっても私は生物室で金魚のエサやりとニワトリの世話があったので、再び教室に戻ったときにはほとんどの生徒がいない状況。まったくもって帰るのは早いものである。

 いちおう誰か残ってはいないかと文芸部の部室を訪ねた気がする。案の定、一人だけ残っていたのがラザだった。

 身長が180オーバーで若干細身のラザは性格的に目立つわけではないのに、なぜか会話を交わす前の1年次から私は彼の存在を知っていた。敢えて言えば、かつてテニスで一世風靡したかのイワン・レンドル(知らない方、すいません)に似たルックスで彼には隠れファンが多くいたという噂があった。部室にあったテニスラケットでたまにマネをしてくれた(でも似てない/笑)。

 そんなラザと2人だけで帰宅の途についた始めての日がこの大雪の日でした。今ではそのときの模様など覚えてもいないのですが、人間嫌いな自分にしては特に敬遠する気持ちもなく、ぎこちないながらも不思議と彼との会話に集中する自分がいた。

 彼が想いを寄せる1年生の『いっちゃん』の話もしたのだろうが、残念ながら彼女について彼を納得させるような模範的返答などできるはずもなく、そして私にとっての『嶋さん』の存在を正確に伝えることも出来ず、時間だけは勝手に進んでいくのであった。この時の私は「ラザの好きな人」に対する興味はあったが「いっちゃん」その個人には全く目が向かず姿すら思い出せない状態だった。ラザはラザで、私の中にいる嶋さんのことをタケダから伝聞されただけであったので、傍から見る「浮いたような話」のできない貧しい少年同士だった(笑)。

 この半年後、私はラザといっちゃんの関係について思い悩むようになるのだった。





2002年08月06日(火) 卒業式

 曇天の下で見かけた杏さんの姿を最後に、私は彼女と接触する機会すらなかった。いや、あつかましくなれば部室に顔を出せば遭遇する機会は多分にあったはず。ただそういう「一路邁進」という気分になるような性格ではなかったし、とにかく私は熱するのも早いしその逆もしかり。3年生の卒業式まで指を数えつつも晴れ晴れとしない気持ちで足が彼女に向かって進みはしなかった。

 まあその程度で見切りをつけられる気持ちなら動かないほうがいい

というのは私のよく使った言い訳。そんなことを繰り返しているうちに気がついたら動くことを忘れてしまった。小学生の頃、クラスメートにラブレターを書いてから、いったい私はどれくらいの人を好きになってそして誰を好きになっても同じような言い訳をしてやり過ごしてきたのか? 今思うとな~んかもったいない気がいっぱいします(笑)。

 私は久々に嶋さんに手紙を書きました。彼女の返事はいつも短いのですが、小さな字で簡潔に文章を書く人でした。久しく見ていなかった彼女のその文字が語っていることが果たしてどれほどの本心を含んでいるのか判断のしようはありませんが、少なくとも当時の私にそのようなことを探る必要性などなかったし、彼女を人間として疑う要素など全くあるはずもなかった。
 私は彼女のくれようとした一層の友好、その可能性に簡単に背を向けてしまった。彼女の示す私への親密さの文字列が駆り立てた行動は、当時の自分からすればごく自然発生的なものだった。


 彼女の返事をもらってから私は一心不乱に日記を書き始めた。自分にとって「大切なこと」を相手に伝えるためにまず日記に下書きをする習慣が出来たのはきっとこの時からだ。


 杏さんの卒業式の日、私は部室で彼女に会ったはずでした。ただ私の中でチケットを渡す相手が嶋さんに変わっていたというだけで、何の変化もないよく晴れた卒業式でした。

 その晴れの日にも、私の好きになった杏さんの表情があの頃に戻った気はしなかった。





2002年08月05日(月) 駅伝大会③


 どうも私のクラスは入賞を狙えるほどの位置にいなかったようで、レースが始まって何人かが走り終えると順位の変動がありそうもない中間あたりの順位になってしまいました。

 自分の順番が来るまで私はおそらくいつものように自分の居場所を静かなところにおいて外から周囲の喧騒を眺めていたのでしょう。それでもいまいち盛り上がりに欠ける我がクラスでしたね。

 果たして自分の順番が来たとき、前も後ろも差が離れていたのでマイペースで走りやすい状況をありがたく思いました。本コースは体育で走った外周コースよりは長いのでスパートの場所だけは間違わないように、それでも走りたくてたまらない、はやる気持ちを抑える様にいつもより若干速い流しペースで不乱に走り出しました。


 それでも何人か抜いて自分の決めたスパート地点が見え始めました。
 まだまだ余裕全開。
 そしてスパート。前に目標物があると人間は俄然頑張りが利くもので、追われるほうがよっぽどキツイ。ただ...ちょっと待て。

 ギアをトップに入れたはいいものの、どうも前日に覚えた風景と合致しない。しばらくそのまま走り続けて私が見たものは、もう1件の米軍ハウス(笑)。

やっやられた~!!!!!

 スパート地点を間違えてかなり早めに本気モードに入った自分の気持ちをもはや収める訳にはいかない。もう行くしかなかった。そうして走っていると隣のクラスのタケダ等もいただろうか。そんなものには目もくれなかった自分が一人だけ、U子さんとはチラッと目が合った(笑)。

 いったい何人抜いたのか自分でもわからなかったし、ゴールが遠い、その感覚を自分の余力で天秤にかけるとあまりに絶望的だった。それでもやめる訳にはいかない。ゴールのどれほど手前だったのか分からないが、コースのほとりに我がクラスの女子の集団があった。私を確認したその黄色い声を聞いていると、どうもかなり頑張ってしまったらしい。気がつけば前にいる走者は1人だけだった。 

 さすがに前に追いつくには距離があったのだが、目に見えていたおかげで私はその目標に向けて走れたのだと思う。さらに後ろからは作戦の失敗した私の抜かした走者が4人くらいくっ付いて来ており、どれもこれも全く予定外の終幕。私を含めた5人ほどが横一線でタスキを渡したところがゴールでした。

 明らかに失速した自分を責める気持ちは演劇のときに失敗したそれよりもはるかに小さかった。クラスメートのほとんどが輪になって私を出迎えてくれて色々とねぎらいの言葉をかけてくれたのだった。それが社交辞令であったとしても、自分自身やるだけやった爽快さに添えるエッセンスとしてはまた格別でもあった。でもその時私が聞きたかった言葉を言ってくれたのは意外にも(失礼ながら)彼女であったのだ。

「でも 最後ちょっと...ね~」と嬉しそうに微笑むそのランさんの言葉に、思わず私は同じよな笑みを返したのだった。その記憶が私の中に残っている最後の彼女でした。


 進級も間近に控えたとある冬の話でした。








2002年08月04日(日) 駅伝大会②


 正直なところ、自分でもなぜこんなに周到な準備をしてその日を迎えたかったのか、理由はハッキリしているにせよそれが自分にとって最優先なものである理由などあるはずもなかった。

 以前の日記でも触れましたが、2年のクラスになってから私は自分自身にとってすこぶる不名誉な失態を演じました。文字通りそれは1学期の演劇発表会、あの時のラストダンスの失敗がずっと私の頭の中にあって、それでもダンマリを決め込む私に懲りずに話し掛けてくれるクラスの連中に対していつしか申し訳ない気持ちが育っていたのでしょうか。

 とにかく、私はかなりのリベンジモードでした(笑)。


 選手は1クラス12人くらいだったと思いますが、私の走る順番はまん中くらい。クラスの順位がどうとか名誉回復だとかそんなものはどうでも良かった。最終的にこれは自分自身に対する手前勝手なリベンジ。暗鬱とした日々の生活を忘れようとさせるクラスメートの言葉に応えられない事への謝意。



 ほんとうにこのクラスは素晴らしい人間の集まったクラスでした。
 そして不特定多数のコミュニティに依存する最後の瞬間でもありました。







2002年08月03日(土) 駅伝大会


 高校に入学してから運動といえるのはせいぜい自転車通学だけで、1年の時は久々のマラソンで脇ッ腹が痛くて運動不足を思い知ったものでした。なので2年の時は3学期の体育の授業に合せて何回か体慣らしに夜近所を走りました。思えば運動に対してコンプレックスのあった自分がはじめて人より上になれたのが持久走であり、それを知った小学6年生の頃もクラスで4人だけだった駅伝の選手になれたことが嬉しかった。それからたまに夜走る習慣が身に付いていきました。
 余談ですがそのころクラスの女子と文通していて、駅伝の前の日にもらった手紙に「お願い」としてこう書いてありました。

 1 駅伝大会で優勝すること
 2 好き嫌いをなくすこと


 ...なんか成長してないな、自分(笑)。


 さて、高校の駅伝は隣の駅前にある旧米軍の跡地で今は公園として解放されている場所で毎年行われます。自分なりに準備万端だった2年の駅伝の前日、私は下校途中にその公園へ行きました。

 下見です。前日にそこを走るわけにも行かないので自転車を押しながら禿げ上がった桜並木の間を縫うようにはしる周回コースを徒歩で歩きました。そして決めた場所、とある米軍住宅の跡地前。そこが私にとって「これくらいの距離ならゴールまで全速力を出しても持続する」その地点。そこに決めました。


 当時、色々なものに対して極めて冷めた見方しか出来ない私自身をここまで熱く動かしたものは何だったのか? 




2002年08月02日(金) 冬の体育②


 で、3学期の駅伝大会の選手選抜は体育の授業で何回かタイムを計ってその持ちタイムの順位で決めていました。もちろんそんなことは1年の頃に承知済みだったのですが、どうも私は...テスト勉強で言うなら「一夜漬け」タイプ。競馬で言うなら「追い込み」タイプ(笑)。マラソンのスタイル自体もそうなのですが、どうもはじめっから頑張ると息切れしてしまうんじゃないか? という思いが強くて最初にタイムを測定した日は頑張れませんでした。

 タイムの測定は学校の周回コースで、まあせいぜい1.5キロ。で、1回目のタイムより2回目が30秒速くて、3回目は2回目より30秒速い。←手の抜きようが分かるってもんです(笑)。いやでもさすがに4回目はそうはいきませんでしたけどね(当たり前)。

 毎回スパートをかけるのが市役所の横のいちばんキツイ坂のところ。ゴールから逆算して「これくらいの距離ならゴールまで全速力を出しても持続する」地点がそのあたりでした。だから私の場合、はじめはチンタラポンタラ走ってそこから人が変わったようにペースが変わる。ある程度体慣らさないと動かないんです、特に冬は。女子も同じコースでタイムを計っているのですが、だからって女子の前だけで頑張ってるわけじゃないんです(笑)。追い越しざまの『うわ~ はやーい』という彼女らの言葉は満更でもなかったことは紛れも無い事実なんですけど(爆)。

で、予定通り選手に選ばれました。

そう、予定通り(笑)。





2002年08月01日(木) マラソン大会


 昨日の続きです。

 高校に入ってからマラソンも駅伝もソコソコの力でしか走らなかったので体育の成績は10段階で良くて4とか冬だと5とかでした。駅伝はクラスから12人ほど選抜されたのですが、1年の時は補欠になった程度で走らなくて済みました。

 で、2年のマラソン大会。なんだかんだ本気で走れば平均よりは速いという自惚れがあったのでしょうが、同じように不真面目な考えのタケダと利害が一致。結託して反発しました。

 (ってだからお前らは何に反発したいのさ??/笑)

 といっても別にバックレたわけではなく「スタートしてからぞろぞろと走り出すその最後から走ってラスト1周だけ本気で走ろう」という可愛い反発でした。マラソンコースは湖を3周します。

 いざスタートして学校の男子全員が走り出したのですがさすがに700人からとなると遅々として人の群れが前に進まず、そのうちそれを最後尾で眺めていること自体イライラしてきました。それが焦燥に変わっていったのは1周目が終わって2周目に入ったあたりでした。
 もう体中のアドレナリンとドーパミンが混ざり合って目の前の怠惰な状況を打破したくてたまらない。2周目の半分あたりからタケダと利害を一致させようと思ったがお互いに自分が言い出したことを簡単に放棄出来ない「反発」という足かせがあった(笑)。ペースは上がったが眼前には人の列が湖の対岸にまで伸びてしまっていた。

 そしてその足かせが解かれた3周目。「じゃ」と私がチラッと横目でタケダを見やったのを最後にお互い何も語らず、またそういった状況でもなく、人の群れを掻き分け掻き分け走れやメロス! 

 それでも我々は3百人ほど追い抜かすのが精一杯で、死力を尽くして頑張った感覚のわりに順位は300番台と惨憺たるありさまなのでした...。


続く。







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