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斜めうえ行く「オクノ総研 WEBLOG」

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2005年07月26日(火) フルブラウザをいぢめるなっ!

僕は通常は、変態携帯であるM1000をメインにして、小さいだけが取り柄のPreminiをサブにしている。
一応、危険回避のため、FelicaのためにF900iCもある。
電話番号はひとつなのだけれど、3台の携帯電話を切り替えて使っている。

マゾ体質なので、もう3週間ほどほとんどM1000しか使っていない。
Bluetoothヘッドセットで会話をする際の周囲からの怪しい視線も気にならなくなった(僕が気にしないだけでやっぱり怪しいらいいけど)。

M1000はiモードが使えない。
iアプリも使えない。
当初はどうでもいいや、と思っていた。

が、何気に不便。

僕は、以前から「iモードメールは使わない主義者」だったので、基本的にiモードメールが使えなくても問題はない。
iモードサイトも「携帯サイトにお金を払ったら負け主義者」なので、問題はないはず。
iアプリは多用していたのでちょっと、というか、かなり不便。
必要に応じて、残してあるF900iCにFOMAカードを挿し直してiアプリを使っている。

iモードメール、iモードサイトはどうでも良いはずだった。

が、しかし。

問題アリアリ。

最近の携帯用のサイトは、携帯対応が進んだ結果、iモード携帯からのアクセスからではないとハジキまくるのである。
メールはメールで、ドメイン指定やら何やらでハジかれまくり。
フルブラウザからのiモードサイトへのアクセスのほとんどはハジかれる。
iモードへのメールは配信不可。

おらおらおらおらっ!

どういう事だっ!
僕のように携帯電話でありながら、ほとんどPCと同じように使っている人間は社会のツマハジキ。

本末転倒。

携帯電話によるネット接続が普及してマジョリティーになった結果、本来は進化系であるはずの携帯電話環境からのアクセスがイジメにあっているのである。

iモードサイトからアクセス拒否、iモードメールからドメイン指定拒否。
M1000はSDKが未だにダウンロードイできないので、iアプリに相当するアプリケーションもない。
僕は、携帯電話社会からハジキ出されている。

何とかならんのか?

フルブラウザ経由のiモードサイトからのアクセス拒絶、メールのドメイン指定拒否は想定外だった。
iモード対応サイトが携帯電話のハードウエアIDをこっそり取得しているせいであると想定される。
iモード機能がなくてもどうでもいいのだけれど、フルブラウザからのアクセスを拒否するとは、何事か!、なのだ。

お蔭様で、M1000をメインにしつつも、PreminiとF900iCを同時に使用し続けなくてはならんのである。
1540に電話をかけてPreminiに切り替え。
FOMAカードを差し替えてF900iCに切り替え。
FelicaはSuicaやEdyのカードを両面テープでM1000にはりつければいいので、どうでもいい(意味ないけど)。

今の状況では、未来永劫M1000一台に環境を収束することはできない。

そこで僕は携帯電話事業者およびコンテンツプロバイダに要求する!

①携帯電話のメール受信ドメイン指定にMoperaを加えよ!
②M1000からiモードサイトにアクセスできるようにせよ!

せめてM1000からのアクセスを携帯電話からだと認識するようにして・・・ください。
iモードの公式コンテンツにアクセスできなくてもいいけど、アクセスを拒絶されるサイト多すぎ。
勝手サイトからまで拒絶される。

携帯電話によるネット接続が普及しすぎた結果、アーリーアダプターであるはずのユーザーはイジメにあっているのが現状。
今後、携帯電話へのフルブラウザ、POP/IMAPメールの搭載は加速していくだろう。
でも、そこでは混乱が生じる事になる。
フルブラウザ、POP/IMAPユーザーとiモードユーザー、iモードメールユーザーの間で乖離が生じる事になる。
今のところ携帯電話によるフルブラウザ、POP/IMAPユーザーは少数派、かつパワーユーザーだ。
複数の携帯電話環境を使い分ける事で何とか携帯電話オンリーのデジタルデバイド弱者に歩み寄っている。

でも、何でデジタルデバイド弱者に合わせて、携帯電話を3台も使いつづけないといけないんだよっ、という理不尽さは感じる。
何とかならんのか?
これからこの理不尽さは、フルブラウザの普及とともにどんどんと表面化していく。

と、言いつつ、僕は毎朝、自宅の無線LAN経由でM1000に数十通のPOPメールと巡回サイトのダウンロードをして電車のなかでゆっくり読む、という携帯電話事業者にとっては有料のパケット料が全く発生しない嫌がらせユーザー。
DoCoMoのARPU(Average Revenue Per User)を確実に下げている。

イジメはしかたないのか?

んまあ、携帯電話事業者はFMC(Fix-Mobile Convergence)をマジメに議論して、ビジネスモデルを確立しておかないと、僕みたいなユーザーに出し抜かれる。
携帯電話のPC化と携帯電話事業者のビジネスモデルのギャップ、矛盾を表面化することになるのが、M1000。
M1000のSDKがダウンロード可能になったら、何が起きるか楽しみ。
イジメが過ぎるとアーリーアダプターが逆ギレするぞ(WiFiでVoIPをやられたらどうするの?CPUパワーをヘボくしておいたのでエンコードは無理だから大丈夫、Skypeは動かない、とか言い訳するの?)。

個人的には部外者なので、なま暖かく見守っていきたい。


2005年07月19日(火) 僕らはもう戻れない

コンサルタントは考えることのスペシャリストだ。
ひたすら考えつづける職業。
考えて考えて考え抜くことが宿命づけられている。

あんまり考えすぎると、脳は悲鳴をあげる。
オーバーヒートする。

コンサルタントだからといって、超人的に頭が切れる、という事はない。
同じ人間なんだから、一般人とそれほど違いはない。
生物学的に脳がとんでもなく優れている、なんてことはあり得ない。

後天的に、数学力や論理力を徹底的に鍛えているからこそ成立する職業だ。
求められている能力が数学力や論理力なので、文科系の職業でありながら、必然的に理科系のほうが向いている。

僕は超のつく完全無欠の文科系である。
数学力や論理力が決定的に欠落している。
一般的に見てもそれほど優れてはいない。
それに加えて記憶力もたいしたことがない。

僕の脳は、決して高性能ではない。
ただ、耐久性は高い。
アタマの回転はたいしたことがないけれど、ひたすら愚直に考えつづける事は得意だ。
直観力みたいなものも、優れている、とは思う。
だけど、本来必要とされる数学力や論理力は弱い。

僕が生きていられるのは、コンピュータやネットワークのおかげだと思う。
僕は、運良くこの時代に生まれた。
コンピュータを通して、外部記憶や他人の脳を共有し、活用する事に対する親和性は高い。
自分の脳の拡張として、外部記憶、他者の脳を共有する。
僕自身の脳は、ロクでもない代物なのだけれど、膨大な外部記憶や、優れた他者の脳を自分のなかに取り込み、一体化してしまう能力は、誰にも負けない。
僕の脳は、コンピュータやネットワークと一体だ。

気がつくと、僕は自己と他者の境界線が曖昧になっていた。
どこからが自分の本当の記憶で、どこからが他者の記憶なのか?
いわゆる精神疾患と同じ状況が日常化している。
現代は、「個」が「個」でありつづける事が難しい時代でもある。

コンピュ-タやネットを通じた外部記憶や他者の脳の活用には、いくつかの側面がある。
もともとは、人類が言語を獲得したときから、始まった。
言語を通じて口伝、という原始的なカタチで、他者との意識の共有は始まっている。
次に、洞窟の壁画にあるような絵文字を書くようになり、意識は、時間を超えることができるようになった。
そして、文字の獲得。
文字により、記憶の共有、保存性は飛躍的に高まった。
グーテンベルクの活版印刷の発明は、記憶の共有、保存性を飛躍的に高めた。
時代は移り、電子計算機、コンピュータの発明により、情報処理の力も得た。

現代は、その延長線上ではあるのだけれど、ネットワークの進化により、飛躍的な進化を遂げている。
ほんの数年間の間に人類の脳は、かつて経験したことのない拡張性を得た。
検索エンジンによる瞬時の外部記憶へのアクセス。
メールやメッセンジャーによる他者の脳の自分への取り込み。
コンピュータやネットワークの日常化は、人類の脳のありかたを飛躍的に向上させた。
僕のように、記憶力も数学力も論理力もない人間がコンピュータやネットワークのアシストにより、数年前からみると超人とも言える能力を獲得することとなった。

素の僕は、好奇心が異常に強いだけだけの、ただの人である。
僕の所属するファームで、スタンドアローンの状態で、学力試験でも受けてみれば、たぶん僕は最下位だろう。
スタンドアローンの僕は、ただの一般人だ。

テクノロジーの恩恵で、コンサルタント稼業を続けていられる。
僕の存在はいわゆるハブである。
外部記憶や他者の脳が僕にアクセスする。
僕自身も自分の脳をオープンソースとして開放する。
僕も外部記憶や他者の脳に積極的にアクセスする。
スタティックな外部記憶にも他者の脳にもリアルタイムでアクセスし、自分のなかに取り込む。

僕は、記憶力すらマトモではないので、PDAやOutlookを通じて、スケジュールやToDoを管理している。
今、何をすべきか、ですらテクノロジーの支援を受けなければ、マトモに管理できない。
M1000を使用するようになり、Outlookの情報にどこからでもアクセスが可能になった。
僕は自分が今やるべき事を、自分の脳で管理していない。
OutlookでスケジュールやToDo、優先順位を管理している。
いつまでに何をすべきか。
サーバー上で管理し、ウェブクライアントやM1000と同期を取る事により、自分の脳で必要とされる機能を代替している。
記憶は検索エンジンやデータベースである外部記憶装置。
他者の脳はメールやメッセンジャー、携帯電話。
そこには新たなるコミュニケーション能力が必要とされる。
自分の脳を超えたところにある能力を自分のものとして獲得する。
僕自身の脳は1万年前の人類のから何らの進化もしていない。
ただ、テクノロジーの進化、恩恵によって、僕自身がかつての人類にはあり得なかった能力を獲得することとなった。

加えて、センサーネットワーク、衛星。
僕の脳はセンサーネットワークや衛星ともリンクをはじめた。
僕の脳は、外部記憶や他者との連携を超え、地球そのものの意識とも連動を始めている。
生命体としての僕は何らの進化を遂げていないのだけれど、外部との連携を通じて、飛躍的な進化を遂げた。

一般的な人類は、外部記憶、他者との意識の連携に戸惑っている段階だろう、と思う。
僕はたまたま、その力をほんの少しの時間差で手に入れる事ができた。
僕自身の脳の力は、それほど優れてはいない。
外部記憶、他者の脳、地球に張り巡らされたセンサーネットワークといった外部環境を自分のなかに取り込むことによって、僕は超人的な力を得た。

僕は数学的な論理力といった基礎的な能力が欠落している。
だけど、自分に欠落している部分は外部の力を活用していけば何とかやっていける。
僕には、自分自身の身体で全てを処理しよう、という意識は無い。

ほんの数年前ならば、僕は病院に叩き込まれていただろう。
僕は、スタンドアローンでは存在しえない。
僕は時間や場所を超越した存在だ。
ネットのどこかに接続され、ハブとして存在しつづけている。
僕の身体は「個」だけれど、脳は既に「個」ではない。
だから僕は他者からは理解しづらい存在だ。

外見的には、素であり、個である僕は、スタンドアローンではない。
外部記憶を他者の脳を既に共有化している。
僕自身がどこまで、自分で有りつづけているのか、外部記憶、他者の脳と僕の境界線はどこにあるのか?
ハブである僕に対しては、自分からアクセスしていくだけではなく、外部からも多くの情報がアクセスされていく。
そして、そこには僕の身体は存在しない。
会社のなかで、僕の知名度、僕の思想は多くの人々に理解されている。
恐ろしいことに彼らは生身の僕を知らない。
僕が何を考え、何をやっているか、は多くの人は知っている。
だけど、彼らの多くは、僕の顔を知らないし、僕を見たことすらない。
社員の多くは僕の生身の姿を知らない。
情報存在としての僕は肥大化していく。
僕は小さなチームで仕事をするので、僕と相対して仕事をしたり、会話をする機会はそれほど多くない。
だけど、僕の脳が何を考え、僕が何をしようとしているかは理解されている。
僕はハブなので、膨大な情報が僕の脳を通過していく。
僕の処理能力を超えたら、他者の脳にリソースをわけてもらう。
脳のオンデマンド、というかリソースアロケーションというか。

凡庸な脳しか持っていない僕にとって、外部記憶、他者の脳との連携、センサーネットワークによる拡張は必然である。
僕は、もはや人間ではないのだろうか?と思う事がある。
コンピュータやネットワークを通じた外部記憶や他者の脳との連携は既に日常だ。
僕は堕落していくのだろうか?
それとも驚異的な進化を続けたいのだろうか?
身体はどこに置き忘れてきたのだろうか?

僕は小さな端末を持って移動している。
その端末は、僕の脳の延長線であり、僕と外部を繋ぐ生命線だ。
僕は身体を失い、脳だけが異常に進化している。
ただしくは、脳は今までと何らかわらないのだけれど、外部記憶や他者の脳との一体化により、大きく拡張された。

僕は僕が僕で有りつづけるために、デジタルな脳とアナログな身体を切り離した。
アナログなギターを弾き、旧世代のバイクに乗る。
そこは、僕に残された数少ないスタンドアローン環境だ。
肉体を維持しつづけることの経済的価値は低下している。

僕はデジタル化される事に対する反抗として、ギターを弾き、バイクに乗る。
身体を忘れないために。
きっと僕の身体は経済的にみれば相対的価値は、ほとんどない。
ただの浪費だ。
でも、身体が経済的価値を失おうとも、僕は無駄なエネルギーを注ぎ込む。
それは、無駄な抵抗かもしれない。
僕がコンピュータやネットによって拡張される事に対するささやかな反抗。
身体の価値が低下していくなかで、無駄な抵抗を試みる。
これから数年のうちに、人類は新たな局面にさしかかる。
かつて経験をしたことの無い領域だ。
たぶん、多くの人は、それを受け入れ、順応していくだろう。
でも、その先にあるのは、身体の価値の喪失である。
「個」の消失である。
あと何年、僕らは「個」として存在しつづけていられるのだろう。
一足先に、「個」を失いかけた僕は、アナログ世界に逃げ込んだ。
急速に外部記憶やネットを通じた他者との記憶の共有、時間や距離を越えて自己の境界線が曖昧化していくことに対し、身体性をとりもどそうともがいている。

個人の脳が凡庸であっても、外部記憶や他者の脳を取り込むことにより、人は人を超える。
一方で「個」は喪失されていく。
「個」を維持しつづけることは難しい。
「個性」なんてものは、既に存在しない。
「個性」を押し付けられた子供たちは一様に同質化している。
個性を持たなきゃいけない、という脅迫観念は逆に同質化をもたらした。
個人の価値観ではなく、他者から押し付けられた価値観。
個性化というただの同質化。
同質化していくことはたやすい。
僕の目からすれば、個性的なワカモノは同質化しているようにしか見えない。
消費された存在だ。
本人たちは個性化のつもりでも、ただの同質化された存在でしかない。
同質化されたなかで、微妙な、ほんの少しの差異を個性と呼ぶ。
差異はどんどんと小さくなっていく。
ファッションやカルチャーだけではない、経済や政治も同質化していく。
世界は加速度的に同質化へと向かう。
海外の大都市に行ってみろ、日本と何ら変わらない。
外国人と会話しても何の違和感も持たない。
同じ音楽を聴き、同じ映画を見て、同じアニメを見て、同じ教育を受けて育っている。
異なるのは気候などの環境条件だけだ。

同質化は変化に弱い。
何らかの変化がおきたとき、同質化した集団は簡単に崩壊する。

僕は壊れた脳を持つ。
脳はこわれつつも、コンピュータやネットワークとの親和性により、外部記憶や他者との脳の連携に力を発揮する。
デジタルデバイドは大きな問題だ。
デジタルに適応できない人たちは、確実に人類の進化から取り残される。
だけど、一方で、デジタル環境に異常な親和性を持ちつつも、敢えて距離を置こうとする僕がいる。
僕にとって、身体性の喪失が最も恐い。
僕を良く知る(知ったつもりでいる人)の多くは、僕の顔すらしらない。
初対面で挨拶をすると、相手は僕のことを良くわかっているつもりでいる。
だけど、僕の顔を見るのははじめてなのだ。
身体は置き去りにされ、僕の精神だけがネットを駆け巡り、僕のイメージを作り上げている。
これでも僕は生身の身体を持った人間である。
脳はオープンソース化されているとはいえ、わずかながらの生身の身体を維持している。
人間ドックでオールA評価の身体。
だけど、僕の身体には既にそれほどの価値は認められていない。
コンサルタントとしての仕事は脳が全てだ。
ネットワークを超えて生きる僕の身体の価値は低い。
僕の生身の脳すら、外部記憶と他者の脳との共有化で成立している。

拡張された僕の身体は、どこまでがオリジナルなのだろう?
僕の脳は、情報を処理、編集することに特化している。
記憶力は外部記憶に頼っているし、他者の脳ですらも自分の脳に取り込む。
センサーネットワークにより、地球環境すらも自分の延長線上になりつつある。

「個」というスタンドアローンである存在は、もはや意味をなさないのかもしれない。
自分にとって都合の良い情報のパッチワークが僕自身なのかもしれない。
僕は、僕であることを証明する手立てを持たない。
僕の意識は、すでに消失してしてまっているのかもしれない。

僕が「個」を維持し続けることは困難だ。
全体主義とは言わないけれど、僕は、自分だけの意思では生きていない。
借り物の記憶。
どこまでが自分のオリジナルの記憶で、どこからが借り物の記憶だかの境界線は定かではない。
曖昧だ。

人類の歴史上では、一瞬でしかないたかだか数年間で、僕らは生物学的には何らの進化をすることはなく、コンピュータやネットワークにより大きく変貌を遂げた。
加速を続ける僕たちはどこへ向かうのだろう?
単なるテクノロジーの進化ではない。
僕たちの身体は、人類としての質的変換に晒されている。
そこには、新たなテクノロジーは必要ない。
現在のテクノロジーの延長線上にある。

だけど、テクノロジーは僕らを外部から進化させ続ける。
僕らはどこまで、外部環境の進化に順応できるのだろう。
きっとどこかで破綻を来たすのだろう。

脳で処理すべきこと、外部記憶で処理すべきことの切り分けを全ての人ができるとは思えない。
僕は、自分の脳で処理すべき事、コンピュータで処理すべき事、他者の脳で処理すべき事のバランスを何とか保ってきた。
それは、どこまで維持できるかはわからない。
脆くて危うい。
外部記憶装置の活用はそれほど難しくはない。
多くの人々が順応するだろう。

だが、他者の脳の活用は一筋縄ではいかない。
ネットを通じているとはいえ、その先には感情をもった生身の人間がいる。
そして、それは一対一ではなく、1対n、もしくはn対nのコミュニケーションである。
数百人、数千人とのランダムな脳のぶつかり合いに、個人の脳は耐え切れるのか?
それは、脳の処理能力から言って、困難を伴うだろう。
でも、僕らはそれを避けることができない。
情報が一方的に発信される時代は過ぎ去り、リアルタイムにインタラクティブにやり取りされる。

僕らはもう戻れない。


2005年07月18日(月) ザック・ワイルド レルポール完成!

注文しておいたEMGのピックアップセットが届いた。
EMGへの換装はピックアップだけではなく、ギターの電気系統の全てを交換する必要がある。
フロント用にEMG-85、リア用にEMG-81。
ザック・ワイルドと同じ構成である。
改造の元ギターは先週、新品で買ったばかりのレスポール・カスタム。
ギブソンのカスタムショップ製。

早速、ギターの改造に入る。

EMGは電池が必要なアクティブタイプのピックアップであり、一般的なエレキギターのパッシブタイプのピックアップとは構造が異なる。
購入してから一週間しかたっていないギブソンレスポールの電気系統を総とっかえ。
カスタムショップ製の新品のギターの電気系統をエイヤっ、と全てバラす。
ニッパーで配線をぶちぶちと切っていく。
ああ、何て罪深い。
パッシブからアクティブへの交換なので、ボリュームやトーンコントロールなどのポットやコンデンサなども専用のものに交換する必要がある。
いいのかなあ・・・、と思いつつ新品のレスポール・カスタムからパーツをはずす。

ギターの改造は、学生時代にはよくやっていた。
中学生の頃から、ギターは買ったら即、改造するもの、であった。
安いギターしか買えなかったので、改造してチューンアップするのが当然だった。
中学生の頃、生まれて初めて買ったエレキギターも購入後、1週間でバラバラにした憶えがある。

ギターをバラすのは久しぶり。
電気系統の総とっかえなので、ハンダづけが必要である。
ガキの頃は、市販品のエフェクターを買うお金がなく、自作していたので、回路図をみながらのハンダ付けもよくやっていた。
でも、今は、ハンダ付けなんてやる機会はまずない。
コンピュータはいじるけど、アナログな電気回路をいじることなどない。
高校生の頃以来のハンダ付け。

英文の回路図を見ながらギターの回路を配線していく。
結構面倒。
意外に配線がややこしい。
狭い場所にハンダ付けしなくてはならない。

ハンダ付けは久しぶりなので、おたおたしながらハンダで配線を繋いでいく。
音が出なかったらどうしよう・・・。
ちゃんと音が出るのかなあ・・・。

ギターをバラして、電気系統を全て外し、新たな電気系統の配線を行う。
EMGのピックアップ本体は、コネクターに挿すだけなのだけれど、電気系統はハンダ付け。
2時間ほどかかって、仮組み完了。
思っていたよりも作業に時間がかかった。
ちゃんと音が出るかどうかわからないので、まずは仮組み。

見た目。
カコイイ!
ゴージャスさがちょっと嫌味だったレスポールカスタムが精悍な感じになった。
弦を張る。
ザックワイルド仕様への改造なので、ザック・ワイルドと同じくテールピースの逆から回す変則的な弦の張り方をしてみる。
何の効果があるのか良くわからないけれど、ザック・ワイルドがそうしているんだから、僕も逆に張るのだ。

恐る恐る仮組みのギターをマーシャルに繋ぐ。
ちゃんと音が出るか?
いい加減なハンダ付けがうまくいっているか?
配線忘れはないか?
とりあえず仮組み状態でテスト。
ジャキーン!ザグザグ!ゴリゴリ!
音デター!
問題なし。
ノイズもなし。

音色がどうこう言っている余裕はない。
音が出ただけでうれしい。

仮組みから本組みへとパーツを組み直す。
あれ?
何か変。
ボリュームやトーンのノブの高さが異様に高いぞ。
ノブの位置が通常よりも数ミリ高い。
格好悪い。
何じゃこりゃ?
レスポール用の専用パーツをオーダーしたはずなのに・・・。

もう一本のレスポールであるスタンダードのバックパネルのネジを外し、構造を比較することにした。
んんん?
スタンダードとカスタムでは、電気系統の構造が異なっている・・・。
スタンダードとカスタムの違いなのか、1959リイシューと1968リイシューの違いか。
よくわからないのだけれど、電気系統の構造が異なっている。
1959リイシューのスタンダードは、鉄板の上にパーツが装着されているのに対し、1968リイシューのカスタムは木に直付け。
EMGのポットは、1959リイシューのスタンダード向けに設計されているのか?
同じレスポールでも電気系統の構造が違うのだなあ・・・。

うーむ。

ちょっと工作するか。
余っていたパーツで工作して、何とかノブの高さを合わせた。
工作している途中で、おっとおっ、配線がはずれる。
ハンダ付けが甘かったらしい。
はずれた部分をまたハンダ付け。
ハンダだけでは配線がはずれるかもしれず、不安なので、ハンダの上からアロンアルファで補強。
本組み完了。

音OK、見た目OK。
テスト合格。

う~ん完璧っ!

完成した時点で夜が深けていたので、マーシャルには繋げない。
マーシャルは爆音アンプなので、深夜には使えない。
僕の愛用アンプはマーシャルのスタック。
そもそもマンションに置いておくようなアンプではない。

夜用の小さなデジタルアンプに繋いでみる。
大きな音は出せないので、小さな音でテスト。
音が小さくても、EMGの音はノーマルと全く性格が異なっていた。
繊細な凶暴さ、というか。
凶暴なのだけれど、コントローラブル。
荒々しいのだけれど、ノイジーではない。
ゴリゴリに歪むのだけれど、一音一音が明確。
音が潰れない。
確かに一世を風靡したピックアップだけのことはある。
パッシブのリプレイスピックアップもたくさんあるけれど、EMGはアクティブピックアップであり、構造がそのものが異なるので、変化して当然、ではある。
ローノイズ、ローインピーダンス。
ピックアップそのものは低出力で、バッテリーで増幅させる。
低出力なので、ノイズが乗らない。
爆音にしても音が潰れない。

反面、ノイズが全くないので、少し違和感。
アナログレコードとCDの違い、というか。
音はじゅうぶんに太いし、甘い音も出る。
でも、人工的な感じがする。
感覚的にデジタルな音。

感じ、感覚、という表現は曖昧だ。
何なのだろう、この違いは。
人工的で、デジタルな感じ、感覚の源泉は、ノイズのなさ、音の潰れなさ、のようだ。
全くノイズがない、いくら歪ませても音が潰れない。
冷静に考えれば、利点なのだけれど、慣れないとそれが人工的でデジタルな感じに聴こえる。
EMGはアクティブだけどアナログ回路で、ノイズがフィルタリングされてカットされているのでもなければ、デジタル出力で非可聴領域がカットされているわけでもない。
構造がローインピーダンスであることからノイズが乗らないし、音が潰れない。
パッシブピックアップのノイズ、音の潰れ、のほうが本来はおかしいのである。

ノイズは問題外としても、音の潰れはアナログ楽器であるエレキギターにとってはある種の味、とも言える。
だけど、それはアンプの真空管に過負荷をかけてオーバードライブさせることが王道。
ピックアップで音を潰すのは、おかしい。
ピックアップからはあくまでもクリーンな音を出力し、アンプ側で歪ませるのが正しい。
アンプで音を潰せなければ、ファズなどのエフェクターを使うべきだ。
ピックアップは音響特性に癖があっても構わないけれど、ノイズや音の潰れがないことが正しい。

そういう意味でEMGはピックアップとして正しく機能している。
慣れとは恐いなあ。
ノイズや音の潰れを当たり前、と認識していると、EMGでは違和感を憶える。
EMGはアンプやエフェクターのセッティングがモロに出る。
微妙なセッティングが音にそのまま反映される。
エレキギターとしては最高のシステムだろう。

音響特性は、今回、僕が取り付けたEMG-85とEMG-81でも大きく異なっていた。
僕は、フロントにEMG-85、リアにEMG-81をインストールした。
EMGのカタログサイトから引用。
「EMG-85はEMG-81よりも大きな測定出力持っており、周波数特性は異なります。 EMG-85はアルニコマグネットを使用した2つのコイルに微妙なすき間をとり、 力強いローエンドとファットなトップエンドを獲得します」
音響特性としては、フロントにEMG-81、リアにEMG-85のほうがふさわしい気もする。
僕は、EMGの設計思想からは逆の装着をしている。
僕の場合、フロントは甘いリード専用、リアはハードなリード、ゴリゴリのリフに使うことが多い。
スペックだけから判断すると、本来は、フロント、リアともにEMG-85にすべきである。
リアがEMG-81、であるという点は矛盾がある気もする。
本来ならリアもEMG-85にすべきではないのか?
今日は、低出力のミニデジタルアンプでしかテストできなかったので、後日、マーシャルでテストをして考える事にする。
スペックではなく、自分の耳で判断しなくてはならない。
電気系統は既にアクティブ仕様なので、EMGピックアップの交換は容易。
コネクタをはずすだけなので、さまざまなパターンをテストできる。
数分もあれば、ほかのEMGピックアップに交換できる。
いろいろ試せ、と。

組みあがったギターを見る。
惚れ惚れ。
やっぱり吊るしとは違う。
ギブソン・カスタムショップ製のレスポール・カスタムにEMG。
まさに俺様仕様。
自分でイジってこそ、俺様仕様。
楽器は、ちょっとした(ちょっとしてないけど)改造であっても、自分の手を加える事で、自分のモノとなる。

気合い入り過ぎ感もある。
ギターを弾く時間なんてほとんどないくせに。
マーシャルだって、爆音アンプなので、夜は音が出せない。
ちょっとやり過ぎ?
「盆栽」ともいう。
「盆栽」というのは、ギターでもバイクでも何でもいいいのだけれど、必要も無いのに、高性能をめざしてひたすら改造を行う行為である。
僕のギターおよび、ギターシステムはプロ以上のものになっているし、バイクは280キロくらい出るらしい仕様になっている。

ガキの頃に夢見つつもできなかった事をおっさんになってから、実現してるんだよっ。
ギターのせいで、左手の指先の皮がボロボロだ。
指が痛くてギターが弾けません。
久しぶりにハンダごてを握って、ギターの改造、っていうのも悪くはない。
「盆栽」だって、プロまかせではなく、自分の手でやってるんだからいいじゃん。


2005年07月17日(日) 非戦、非競争主義 その2

僕の生き方が大きく変わったのは、1年半ほど前。
僕は、非戦、非競争主義者のつもりで生きていたつもりだった。
でも、いつの間にか最も競争の激しい世界に巻き込まれていた。
僕は、3時間の睡眠で働き、戦い続けていた。

午前4時に就寝する生活が日常になっていた。
結果的に僕はマトモに歩く事すらできなくなり、転倒して骨折した。
心療内科ではなく、外科に行った。
外科で治療を受けて、そもそもの原因が自律神経がぶっ壊れていることがわかった。
3時間睡眠が日常な人間の身体が正常であるはずがない。
人間ドックでは、いつもA評価だった。
僕は鉄人かも、という驕りもあった。
でも、僕はまっすぐに歩けなかった。

外科から心療内科に移り、医師は即座に休職すべきだ、と言った。
このままだと死にますよ。
会社側からも、すぐに休職すべし、との指示が下った。
うつ病などの疾患は、本人がごまかしていれば、表面化しづらい。
僕は、骨折していて、外科的にも異常が表面化していた。
誰がどうみても異常だった。
原因を追求していくと、極端な睡眠不足に行き着いた。
人間として、生物としての限界を超えていた。
僕は、ただただダラダラと遊んで暮らす休職生活を始めた。

休職して暇になってしまうといろいろと気付いた。
暇なハズなのに、全く退屈しない。
一人でいてもじゅうぶんに楽しい。
異常な環境のなかで生きてきた僕が、忘れていた事をたくさん思い出した。
僕は音楽が好きだったのだな、僕は絵を描く事が好きだったのだな、僕は文章を書くことが好きだったのだな、僕はクルマやバイクが好きだったのだな、僕は本を読むことが好きだったのだな、僕は映画を見ることが好きだったのだな。
時間が取れないせいで、忘れていた感覚だった。
仕事が趣味なのではない、趣味を強引に仕事にしているのだ、と僕は主張していた。
でも、趣味を仕事にしている、といいつつも、多くのものを忘れていた。

僕はかなりヌルい環境で育った。
ゆとり教育世代ではないのだけれど、必死になってお勉強をしなくてはならない、という世界ではなかった。

僕が子供の頃、夕食は夕方の6時だった、
夕方の6時に家族が揃って食事をする。
僕の父は高校教師、母はピアノ講師。
父は、授業が終わったらすぐに帰宅し、仕事は自宅に持ち帰っていた。
母は、自宅で夕方までは子供を対象にピアノを教え、夕食後は音大受験の高校生に受験対策のレッスンを行っていた。
子供の頃の僕にとって、夕方の6時に家族が揃っていることは、日常の風景だった。
夕方の6時に家族が揃って食事をして、その日にあったことを話す。
7時頃から僕は、テレビを見る。
両親はそれぞれ自宅で仕事をする。
今の時代ではなかなか想像しづらい平和な家庭だ。

僕は夕方の6時に家族が揃って食事をする、という世界で育った。
それが僕の原風景なのだ。
僕は独身だけれど、家庭を持ったとして、そのような家庭が築けるか、というと120パーセント不可能だろう。
日付が変わるまでに帰宅できればラッキー、といった家庭にしかならない。
週のうち何日かは仕事で徹夜して帰宅しないだろうし、休日も仕事に出かけていくだろう。
子供はグレるだろうし、夫婦仲はむちゃくちゃになり、あっという間に家庭は崩壊するだろう。
僕の家族の原風景と今の僕の置かれている環境の落差はとてつもなく大きい。
僕が未だに独身である理由はそこにあるのかもしれない。
両親は、戦う事、競争することを僕に強いてこなかった。
僕は、平和な世界で育った。

僕は、たまたまお勉強ができた。
理科や算数は僕にとってゲーム機で遊ぶことと同義だった。
パズルで遊ぶ感覚で、理科や算数のお勉強をしていた。
本を読むのが好きだったので、国語や社会の成績も良かった。
小学生の僕にとっては、お勉強は遊びだった。
遊びだから熱中する。

小学校時代の途中で、僕の特異な性向に担任の教師が気付いた。
担任の教師は、僕を自宅に呼び、特別授業を行うようになった。
僕は、学年に見合った授業や宿題は僕の好奇心を満たせなくなっていた。
担任の教師は、新しいゲームソフトを与えるように僕に特別の宿題を出した。
僕は2学年うえの宿題を与えられ、休日には担任の教師から特別授業を受けた。
遊び、としてお勉強に熱中する僕は、面白い実験材料だったのだろう。
教師である僕の父にとっても、担任の教師にとっても、僕が遊びと同じ感覚でお勉強に熱中す姿は興味深いものだっただろう。

僕にとっての特別の授業や宿題は、新しいゲームソフトを与えられている事と同義だった。
僕はお勉強マニアだったのである。
純粋に算数の文章問題を解く事、実験をともなう理科のお勉強が楽しかった。
遊びとお勉強が同義だった。
僕は特別に扱われる事になった。

そこには戦いも競争もない。
ただ、お勉強がおもしろかったから、遊びとしてお勉強をしていた。
学校で、僕がお勉強ができる子供として扱われる事、同級生に対して比較にならない才能、というような他者を意識したり、相対的な価値観はなかった。
面白いからお勉強をする。
簡単なお勉強ではつまらないし、飽きてくるので、難易度を上げてもらう。
算数のドリルなんかは、ただの作業に過ぎなかったので、面白くもなんともない。
面白くするためには、タイムアタックでドリルを何分で完了するか、が遊びになっていた。
タイムアタックだけではすぐに飽きてきたので、難易度を上げるために2学年上のお勉強をしていた。
子供の頃の僕にとっては、同級生との相対的な比較は興味がなかった。
何なんだこの子は?

競争原理はなかった。
たまたま成績も良かった、に過ぎなかった。
僕は他者との競争を意識することがなかったし、何らかの目標があったわけではなかった。
田舎で育った僕にとって、有名私立中学に通うことは事実上不可能だった。
私立中学には自宅からは通えない。
ただただ、遊びとしてお勉強をしていた。

中学に進学したら興味はお勉強ではなくなっていった。
僕は音楽に傾倒していった。
毎日ギターを弾く事に全てのエネルギーを注ぎ込み始めた。
僕は、お勉強に興味を失い、あっという間に、学業的には普通の子、になっていった。
中学生以降、マトモにお勉強をしたことがない。
事実上の小卒、と僕が自称する理由である。

グレたわけではない。
好奇心が音楽に向かい、お勉強に対する興味がなくなったからだった。
僕は、興味のあることには全精力を注ぎ込むのだけれど、興味のないことには、何もしない。
あっという間に僕の学業成績は普通の子供になっていった。
相対評価に興味ないので、自分の成績が下がっていく事には何の興味もなかった。
もともと非戦、非競争の僕にとって、成績ランキングがどんどんと下がろうと、どうでも良かった。

絶対評価でしかない音楽のほうが楽しかった。
音楽は、ある程度の最低レベルを達してしまえば、あとは感性や趣味の世界である。
好きか嫌いか、合うか合わないかの世界。
音楽の優劣は相対的ではなく、絶対的である。

就職するまで、僕は非戦、非競争のまま育った。
就職して十数年が経ち、ようやく戦争、競争の真っ只中にいることに気付かされた。
身体が人間の、生物の限界にまで達していることに気付かされた。
ぶっ倒れて、仕事をストップさせて、ようやく自分の非戦、非競争主義を思い出した。

僕は二度とハードワーカーにはならない。
僕は、非戦、非競争主義者だ。
立って半畳、寝て一畳。
多くは望まない。
清貧でいい。

相対的に勝つことには、既に興味がない。
地味に生きていければ、と思う。


2005年07月13日(水) 非戦、非競争主義 その1

僕は、非戦、非競争主義者だ。

反戦でも、反競争でもない。
非戦であり、非競争。
消極的に戦いや競争を避けて生きている。

どうして、このような事を書くのか、というと、僕が生きている戦争、競争社会と僕自身の非戦、非競争主義との乖離があまりにも大きいからだ。
ここで言う戦争とは、広義の戦いであり、いわゆる戦争ではない。

職業上、僕の周りにいる人たちは人生の勝ち組みである。
同僚もクライアント日本最高峰、もしくは世界最高峰の学歴、職歴を持っている。
戦って、競争に勝ち続けて来た人たちである。

人生で勝ち続けて来て、自分より優秀な人間には出会ったことがない、と自称する「エリートちゃん」にとっては、僕は、理解不能な存在らしい。
常に戦い、競争で勝ちつづけてきた「エリートちゃん」からすると、僕の行動パターンは理解しづらい。
ステータスにもカネにも興味なし。
野望ゼロ。
相対的価値観が根本的に欠落し、極私的な絶対的価値観のみで生きている。

「今は戦闘中ですよ、競争に勝たなくてはならないのですよ、何をボケた事を言ってるんですか」というスタッフからの非難は慣れっこになった。
僕は、常に戦闘中の身であり、競争に勝たなくてはならない立場にある。
僕が率いる部隊は、戦闘で敵を殲滅して当たり前であり、競争に勝つだけではなく、敵を再起不能にまで叩きのめすことが、飼い主であるクライアントにとっての当然である。
勝って当然、殲滅して当然、再起不能にまで叩きのめして当然。
負けなど想定にすら入っていない。

そのような戦闘、競争世界で勝つためのプロであり参謀が僕なのだ。
非戦、非競争主義者の僕の毎日、毎時、毎分、毎秒が戦闘中であり、競争。
戦争のプロ、競争のプロ。
戦争、競争の参謀。

プロであり、参謀である僕が最も興味がないのが、戦争、競争に勝つことである。
勝つことに興味がないので、僕は戦争や競争を避けることを第一義に考える。
戦って、競争して勝つことではなぃ。
僕は、思考のほとんどを、戦い、競争の現場で、戦い、競争を避けることに費やす。
当事者にとって、戦うこと、競争することは、無駄なエネルギー、資源の浪費だと思う。
戦争や競争のおかげで、僕たちが進化してきた側面は否定のしようもないけれど、当事者にとっては、歓迎できるものではない。

何だか左巻きっぽいぞ。
書きながら某国の主体思想に似ているような気もしてきた。
資本主義社会の申し子のような僕の根源にあるものが、非戦、非競争。
矛盾が大きい。

僕はどうして戦争や競争を避けようとするのか?
ひとつには僕の生い立ちであり、もうひとつは僕の性格に起因するものではないか、と思う。

まず、僕の生い立ち。
僕は生まれたとき、超未熟児だった。
僕がこの世に生を受けた時点で、両親は僕が何日生きられるかを覚悟していたらしい。
成人するまで生きられるか、五体満足か、ではなく、この子の人生は、何日なのだろう、だった。
僕の両親にとって、僕は立派な人間になって欲しい、とか、社会の役に立って欲しい、とか、せめて他人様に迷惑をかけないで生きて欲しい、という期待は存在しなかった。
この子は、何日生きられるのか、生きていけたとしても何らかの障害を持つのだろう、と思われていた。
保育器で濃い酸素を吸って何とか生命を維持していた生まれたての僕の脳は、マトモに機能しない可能性があった。
僕は生きていること、この世に存在している事自体が奇跡、というレベルの期待を持って育てられた。
僕の両親にとっては、僕が言葉をマトモに話す、自分で歩く、という事が既に奇跡だった。
僕の両親にとっては、僕が生きているだけで奇跡なのである。
ただ生命を維持しつづけている事がそもそもの奇跡。
おっさんに差し掛かる年齢に達しつつも、未だに人間ドックでA評価を保ち続けていることが奇跡。
僕は、生まれて3日後も生き続けた、成人まで生き続けた、おっさんになってもまだしぶとく生きている。
死にそうな気配はゼロ。

生きているだけで丸儲け、という期待値で育てられた僕にとって、戦闘で勝ちつづけなくてはならない、競争で勝ちつづけなくてはならない、というプレッシャーは存在しない。
結果的に、僕は戦いでは勝ちつづけているし、競争でも負けることもない。
でも、それは結果論であり、僕は戦いで勝ちつづけようとも、競争で勝ちつづけようとも意識したことはない。
他者からは勝つことを期待されつつも、自分自身のなかで相対的に勝つことは考えない。

僕がこの世に存在し続けていることが、そもそもの奇跡。
僕が生まれたとき、医師は、僕が生後数日を生き延びたとしても、何らかの障害が残る覚悟をするよう、両親に告げたらしい。
幸い僕の脳には障害は残らなかった。
身体にも障害なし。
ただ、眼は未熟児だったせいで、生まれながらにして弱視だった。
でも、それはレーシックの手術により、解消された。

僕は、生い立ちから非戦、非競争の世界で育てられた。
生きているだけで丸儲け、両親の期待値である生後数日を生き延びた、それどころかおっさんになるまで生き続るとは思いもよらなかった、という僕にとって勝ちつづけることの意味合いはない。
僕にとって、戦いつづけること、競争に勝ちつづけること、は想定の範囲外。
生きていることが、そもそもの奇跡。

そんな僕が、常に戦闘モードであり、勝ちつづけなくてはならないのか、はどうでもいい事だ。
でも、僕の職業は、戦争や競争で勝つためのプロであり、参謀だ。
僕は、どこでどう人生を誤ったのだろう?

同僚やクライアントの「エリートちゃん」と接していて、この人たちとは、根本的に異なるのだな、と思いながら日々の最低限の糧を稼いでいる僕なのであった。

長くなりそうなので、つづく。


2005年07月12日(火) M1000を使い始めて一週間

DoCoMoのビジネスFOMAであるM1000を利用し始めて、一週間を超えた。
発売後一週間しかたっていないせいか、M1000に関する情報は少ない。
法人需要はともかくとして、ビジネスコンシューマーからは既になかったことにされている感がある。
ニュース記事はもちろん、掲示板にも情報は少ない。
某大手ニュースサイトに至っては、僕の環境で既に実現されていることが実現できていない、とレビュー記事で批判されているくらいやっつけ仕事にされている。

そんななかで、730ページのマニュアルを精読するエネルギーもないので、ここ一週間は適当にいじっていた。
情報不在のなかで、自分なりにいじってみた。

僕にとってのチャレンジは3つである(コンサルタントはとりあえず何でも3つ、と宣言しなくてはならない)。

①MS OutlookとのBluetoothによる連携
②Bluetoothヘッドセットによる通話
③無線LANによる活用

①MS OutlookとのBluetoothによる連携
楽勝。
これと言って問題はない。
僕が連携させているのは、スケジュールとToDoリストの同期である。
住所録は連携させていない。
某ニュースサイトの記事には、ToDoの連携はできない、と書いてあるけれど、誤認である。
実際に僕の環境ではキチンと動いている。
Outlookとの連携に関しては、問題なし。
メールと住所録を連携させていないのは、メールはギガ単位で溜まっている、住所録は世界中に散らばる会社の全社員のデータが登録されているので、同期させるのが危険だからであってM1000の問題ではない。

②Bluetoothヘッドセットによる通話
これはペアリングそのものは簡単。
常にBluetoothのヘッドセットを耳にかけている人であれば、これほど便利なものはないだろう。
が、一日に数回しかかかって来ない電話に対し、サラリーマンとしては、一日中怪しいヘッドセットをつけっぱなし、というワケにはいかない。
電話が鳴る度にヘッドセットを耳につけて会話をしている。
電話が鳴ったら速攻で、Bluetoothヘッドセットを耳につける。
何度も練習を行った。
素振りみたいなものか。
おかげで、数コール以内で、ポケットに入れたBluetoothヘッドセットを耳に装着できるようになった。
課題点は、Bluetoothヘッドセットを繋いでいると、電話機本体からは電話に出られないことである。
これは何気に不便。
当初は、気づかなかったので、電話機本体から電話に出ようとして、反応しないので、電話を切られてしまったりしていた。
とりあえずBluetoothは安定して繋がっているのだけれど、たまーにヘッドセットの接続が切れている事がある。
M1000とBluetoothヘッドセットの接続が切れていた場合、電話に即時応答できない事態が想定されるので、ちょっと問題。

③無線LANによる活用
これが最大の課題である。
自宅の無線LAN接続に関しては、何の問題もない。
問題は、ホットスポットである。
僕は契約と同時にMzoneというDoCoMoの公衆無線LANサービスにも加入した。
Mzoneは地下鉄を中心にエリアが整備されている。
僕が普段利用している地下鉄駅のほとんどはエリアになっている。
加入前には、便利なのだろうな、と思っていた。
当初は、地下鉄が駅にさしかかる度にブラウザやメーラーをリロードすれば便利かも、と思っていた。

とりあえず地下鉄のなかから半蔵門線、南北線、銀座線で駅にさしかかる度に、電車のなかから無線LANの電波状況の確認を行った。
結果、全滅。
公衆無線LANは、駅全体がホットスポットと化しているのではなく、XXエスカレーター付近、とかホームの端とかの駅のごくごく一部にホットスポットが存在しているのである。
しかも、アクセスポイント設置の場所はバラバラ。
地下鉄駅構内のどこがホットスポットかを事前に確認しておかなくてはならない。
地下鉄の駅構内で、M1000を使って電波探しをしているのだけれど、ほとんど見つからない。
地下鉄の導線を考えると、ホットスポットは線的に展開すべきなのであろうけれど、現実には、点なのである。
しかも、その点がどこにあるのかがわからない。
ネットでXX場番出口の近くのエスカレーター付近、というように覚えておかなくてはならない。
サラリーマンは地下鉄構内でゆっくりすごすごとはない。
ホーム以外では、移動しているのであって、立ち止まる事はない。
地下鉄の待ち時間も、平均すれば2分くらいだろう。

地下鉄の導線は線的である。
地上駅のJRとは異なり、地下を線的に移動する。
しかも、地下鉄のダイヤは過密なので、ホームでの滞在時間は短い。
2、3分も待っていれば、次の電車がやってくる。
どこかで落ち着いて無線LAN、という利用シーンは想定しづらい。
想定利用シーンとして、電車に乗った状態で駅が近づいたら、無線LAN経由でコンテンツをダウンロード、駅間で、コンテンツ閲覧、というふうになるハズである。
でもそれは、実験の結果、不可能であることがわかった。
地下鉄、なかでもホームくらいは無線LAN接続ができるようにして欲しい。

そして、更なる課題が、Mzoneの繋がりにくさ、である。
Mzoneが面でもなく、線でもなく、ただの点の展開に過ぎない事は実験の結果、判明した。
じゃあ、Mzoneのステッカーのそばだとキチンと繋がるのか?と、いうとそれがまた繋がらない。
Mzoneのステッカーの真正面で無線LANのアクセスポイントの検索を行っても、繋がったり繋がらなかったりする。
地下鉄でもスターバックスでも状況は同じ。
接続が安定しない。
と、いうかアクセスポイントの検索ができたので、さあ、接続するぞ、と思ったらアクセスポイントを見失っていたりするのである。
実用どころか実験にも耐えない。
これで有料サービスとは何事か!である。
MzoneはM1000では、現時点では使い物にならない。

M1000を一週間ほど使ってみた感想はこんな感じ。
M1000はアプリケーションが揃って、インフラが整ってナンボの機種。
僕のような人柱な人以外は、しばらく様子見、でいいと思う。


2005年07月10日(日) ザック・ワイルド萌えの悩み

今回買ったギブソン・レスポールカスタムをごちゃごちゃといじっている。
ギターそのもののセッティングは、レスポールは2本目という事もあり、もう1本のレスポールに合わせるだけなので、あっという間に終わった。
いじっているのは、アンプやエフェクターのセッティングである。

僕のレスポールカスタムへの最大の期待はザック・ワイルドの音を出す事であった。
ギタリストは数有れど、ギターの音色に限ると、僕にとっての萌え度ナンバーワンが、ザック・ワイルド。

ザック・ワイルドとは、オジー・オズボーンバンドのギタリストである。
オジー・オズボーンを語るうえでは、一般的にはランディー・ローズなのだけれど、音色に関しては、僕的には、ザック・ワイルドなのだ。
ザック・ワイルドは、いわゆるマッチョ系。
ザック・ワイルドの音を出したければ、ギターの練習よりも筋トレしろ、と言われる。
レスポールに太い弦を張り、ピッキングハーモニクスを多用して、アホのひとつ覚えのペンタトニックをノリ一発で弾けば、ザック・ワイルドになるはずだ。
ザック・ワイルドのギターがレスポールカスタムなのである。

と、その前に断って置かねばならない。
おいおい、以前からレスポールのスタンダードは持っていたんじゃないのか?
今回、入手したレスポールカスタムと、以前から保有しているレスポールスタンダードの木の材質やピックアップ等の仕様は、ほぼ同一。
スタンダードとカスタムで、音色が大きく異なることは、あまり想定できない。

ザック・ワイルドのアンプは、マーシャルのJCM800の改造品。
エフェクターは、BOSSのスーパーオーバードライブにコーラス。
センドリターンで、ディレイ、というセッティング。

僕のアンプはマーシャルのJCM2000。
エフェクターは、BOSSのコンパクトタイプではないが、BOSSのPCでエディットできるマルチエフェクター。
マーシャルのセンドリターンにはラックマウントのデジタルディレイが繋いである。
音色に限って言えは、ほぼ同じ音が出るハズだ。
嫌な大人は、憧れのミュージシャンの音を出すためには、エフェクターやらモデリングアンプを使ってチマチマやるのではなく、同じモノを買って揃えてしまうのだ。
音色オタクである僕にとっては、モデリングアンプやエフェクターでのシミュレーションは、インチキである。
同じ機材を使用しなくてはならない。

吊るしのレスポールスタンダードでは、ザック・ワイルドの音が出なかった。
ザック・ワイルドみたいな暴力的な音にはならない。
品が良すぎる。
まとまりすぎている。
シミュレーションの限界だ。

僕は、決定的な違いは、レスポールのピックアップと電気系統にある、との仮説を立てた。
ザック・ワイルドのレスポールはEMGというアクティブタイプのピックアップが搭載されている。
電気系統がアクティブ型、すなわち電池が必要な仕様になっている。
パッシブとアクティブでは、電気系統のそもそもの構造が異なるので、EMGを搭載しなくては、ザック・ワイルドにはならないハズだ。
EMGからは、その名もズバリ、ザック・ワイルドキット(EMG ZW)が発売されている。
ピックアップと電気系統がザック・ワイルドと同じになるキットが製品として存在するのである。
仮説を立てたならば、検証しなくてはならない。

僕のなかに「ギターを改造したい病」がもりもりと湧きあがってきた。
以前から保有していたレスポールスタンダードはほぼ完璧、と言えるギターだった。
音も見た目も弾き易さも文句なし。
既に完璧であるギターを改造するには、気が引ける。
ピックアップをEMGに交換し、電気系統をアクティブに総とっかえすると、元に戻すのは面倒である。
穴あけ等が必要なわけではないので、元に戻せなくはないけれど、かなり面倒な作業になる。
大人としては、改造用にもう一本のレスポールを買うのが筋だろう。
レスポールをもう一本買って、一本はオリジナルのままで残しておき、もう一本を改造にまわすのが、大人というもの。

という事でもう一本のレスポールを物色し、どうせだったらスタンダードじゃなくザック・ワイルドと同じカスタムにしよう、ということでレスポールカスタムを買う事にしたのだ。
今回のレスポールカスタムは、EMGのアクティブサーキットに電気系統を総とっかえされる運命のもとに購入されたのであった。

自宅でスタンダードとカスタムの音を厳密に比較するまでは、どうせほとんど同じ音がするのだろう、という想定だった。
前提として、同じ仕様のギターをピックアップと電気系統の改造により、別々の楽器に仕立てる予定だったのだ。

レスポールカスタムを吊るしのまま、自宅のザック・ワイルドセッティングに繋いでみた。
・・・いきなりザック・ワイルドの音が出た。
まだEMGのアクティブサーキットに改造していないのに・・・。

レスポールのスタンダードとカスタムは音が全く異なっていた。
スタンダードは、何にでも使える優等生であるのに対し、先日書いた通り、カスタムは漢の音、暴力的でザクザク、ザリザリといった音が出る。

あらまあ。

カスタムは改造しなくても、じゅうぶんにザック・ワイルド。
改造を前提としていたのに、改造の必要性がない・・・。
ギブソンのカスタムショップ製のギターを改造を前提として購入する事そのものが失礼極まりないのだけれど、もともとは購入後に即、改造するつもりだったのである。
購入後の楽器屋さんで改造した状態で納品してもらわなかったのは、一応、吊るしの状態も少し楽しんでから改造しよう、と考えていたからだ。

う~む、困った。
レスポールのスタンダードとカスタムの音はほとんど同じだろう、という想定だったのにここまで音が異なるとは・・・。
レスポールカスタムは改造することが前提だったのだけれど、ノーマル状態でもじゅうぶんに満足。
ここから改造するか?
これはこれでこのまま置いておきたい。
仮説崩壊。

ガーッ!

更にもう一本、改造用にレスポールを買うか?
それは、いくら何でもアホ過ぎる。
ギブソンのカスタムショップ製のレスポールは、エレキギターとしては最高級に属する。
音色の実験用に買いまくるようなギターではない。
金銭感覚が狂っている僕でも、人として道を誤っている気がする。
お金の問題ではなく、ギターに対して失礼である。

ああああ、どうしよう・・・。

レスポールカスタムをEMGのアクティブサーキットに改造するべきか?
ザック・ワイルド萌えの僕としては、レスポールカスタムは、EMGに改造しなくてはならない。
でも、吊るしの状態でもこれはこれで満足。
今の状態を失いたくはない。
しばらく悩むことにしよう。

・・・。

たぶん、レスポールカスタムは、しばらくノーマル状態を楽しんだ後に、EMGに改造されることになるであろう・・・。
ザック・ワイルドになるためには、筋トレもしなくては・・・。


追記;
この文章を書いた後、EMGのザックワイルドセットは入手が困難なので、とりあえず注文しとけ、という結論に達し、注文してしまいした・・・。
ハンダごてがいるなあ。


2005年07月09日(土) またギターを買ってもうた・・・。

また買ってしまいました。
ギターを。
2週間前にアコギを買ったばっかりなのに・・・。

ギブソン・レスポールのカスタム。
ギブソン・カスタムショップ製のブラック・ビューティーと呼ばれる、名前の通りブラックのレスポール・カスタム。
「漢のギター」である。

僕は、以前からレスポール・カスタムのブラック・ビューティーを物色していた。
ブラックビューティーには二種類ある。
1957年のリイシューモデルのヒストリックコレクションと1968年のカスタムショップ製。
両者のスペック上の大きな違いは、使われている木の種類。
小さなスペックも微妙に異なるのだけれど、音としての影響は、どのような素材を用いているかで決まる。
1957年モデルはオールマホガニー、1968年モデルはマホガニーボディーにメイプルトップ。
マホガニーは軽く密度の低い木である。
それに対してメイプルは重く密度の高い木だ。
音の特徴としては、一般的に言って、マホガニーは中域が強く、ドライな音がする。
メイプルは高域が強く出て、ウエットな音がする。
だけどそれは一般論だ。
実際に音を出して比較すべき問題である。

僕は1957年リイシューのヒストリックコレクションが欲しかった。
半常駐のクライアント先からノー残業デーだとか何だかで19時に追い出されたので、楽器屋に行くことにした。
僕は早い時間に帰宅することに慣れていないので、早い時間に仕事を終えると必ず寄り道をしてしまう。

楽器屋には目的の1957年リイシューのヒストリックコレクションと1968年のカスタムショップ製が並んでいた。
プライスタグは1957と1968は全く同じものがついていた。
定価は1957のほうが数万円高いはずだ。
ヒスコレのほうがお買い得感が高い。

店員さんにお願いして1957と1968の両方を弾き較べさせてもらうことにする。
アンプはマーシャルとフェンダーのどちらになさいますか?と尋ねられたので、迷わずマーシャル、と答える。
僕はフェンダーのギターは好きだが、アンプは嫌いだ。
JCM2000のコンボ(アンプスピーカー一体型)を用意してもらう。
僕の自宅のJCM2000はアンプとスピーカーが分かれている巨大なスタック。

1957と1968を交互に繋いで弾き較べ。
音は予想通り。
1957は中域ブーストで音が柔らかい。
1968は低高域ブーストで音が硬くて太い。

好みの問題もあるのだけれど、僕にとっては1968のほうがしっくりきた。
いわゆる漢の音なのである。
ゴリゴリとした硬質の音だ。
優しさよりも強さ。

ネックの感触も全く異なっていた。
1957は太くて厚い。
1968はレスポールにしては薄くて細い。
音も弾き心地も1968のほうが僕に合っている。
定価は1957のほうが高いのだけれど。

1968のほうを買う事にした。
楽器は価値は価格ではない。
あくまでも趣味だし、自分に合っているかどうかが問題だ。
そうはいいつつもギブソンのなかでもカスタムショップ製なので、通常モデルよりはずっと高い。

自宅に帰って既に保有している1959のレスポールスタンダードと弾き較べてみる。
1959と1968を並べてみるとゴージャス。
1959はトラ杢バリバリ。
1968はカスタムなのでゴールドパーツやら貝殻を多用したゴージャス仕様。
両者ともにオーラが出まくっているギターだ。
1959と1968は見た目は全く異なるものの、木の素材等の音に関わるスペックはほぼ同等である。
指板の素材が1959はローズ、1968はエボニーと異なるが、他のスペックは同じ。

マーシャルのJCM2000に繋ぐ。
音が全然違う・・・。
今回購入した1968は、エッジの効いた太くてロックな音。
1959は甘くて繊細な音。
レスポールのスタンダードとカスタムって音に関するスペックはほとんど変わらないのに、実際の出音は全く異なっていた。
1968カスタムは、いかにも漢なのである。

1968は、まだ僕のセッティングにはなっていないので、既存の1959と比較すると弾きづらかった。
弦を緩めて、セッティングを調整。
弦高やらピックアップの高さを調整する。
1968と1959の弾きごこちはほぼ同じになった。

これで自宅のギターは14本。
並べてみると壮観、というかそろそろアホの領域に差し掛かっている。
僕には収集癖はないのだけれど、他人から見ればどうみてもコレクターだ。

どうしてギターは増えるのだろう?
ガキの頃、憧れてはいたものの高くてとても買えなかったギターを、今の僕はいくらでも買う事ができる。
値札を気にせずに気に入ったギターを買える。
値札を気にしないで気に入ったものを買うので、価格帯はバラバラである。
安くていいものもあるし、高くていいものもある。

ローンで買ったコピーモデルを一日2時間練習していた中学生時代。
エフェクターを買えずに自作していた高校生時代。
楽器のローンが月額13万円に達してしまい、バイトしまくっていた大学生時代。
その頃と比較して、ギターに対する思いが変わったのか、というと大きく変わっていないように思う。
僕の音楽や楽器に対する思いは基本的に変わっていない。
でも、価格に関係なく気に入ったギターを手に入れられるようになった、という事は変化だ。
買った値段はバラバラだけど、それぞれのギターのお気に入り度合いは変わらない。
高い楽器が欲しい、のではなく、気に入った楽器が欲しい、なのである。

僕がデジタルガジェットを買いまくるのは、仕事として必要があるからだ。
趣味性が全くない、とは言い切れないけれど、仕事を意識している。
僕が買いまくるデジタルガジェットのほとんどは、ビジネス用である。

それに対して、楽器は完全に趣味。
今更、バンドをやるつもりもないし、ライブをやる予定もない。
あくまでも自己完結。
ただ一人でギターを弾く。
誰かに聴かせよう、という思いすらない。
僕のギターに対する思いは純粋だ。
ただただ趣味だけのためにギターを弾きつづける。
バンドメンバーはPC。
ACIDで編集されたデータがバンドメンバー。
ひとりで自分のためだけにギターを弾く。
引きこもりギタリスト。

僕を知る人々のほとんどは僕がギターを弾いている姿を見たことがないだろう。
僕が学生時代にリリースしているレコードは、すべてコンピュータによって作られているので、僕のギタープレイは録音されていない。
僕がひたすらギターを弾き続けている姿を、音を聴いたことのある他者はほとんどいない。

それでも僕の楽器は増えていくし、僕はギターを弾きつづける。


2005年07月05日(火) 過剰にサイバーなBluetoothヘッドセット

先日よりビジネスFOMA M1000を使用している。
自分に試練を課すために、あえてバックアップ用のPDC(初代Premini)は持たず、M1000だけを持ち歩いている。

実際に持ち歩いているのは、M1000とBluetoothヘッドセット。
M1000本体は、暫定的にデジカメケースをベルトに装着して収納している。
専用のケースは海外版のA1000用を輸入することにしたのだけれど、まだ届いていない。
Bluetoothのヘッドセットはポケットに入れていつでも取り出せるようにしている。

さすがにどこから見てもPDAのM1000で直接耳にあてて電話するのは格好悪いかな、と思ったので、電話がかかってきたら、Bluetoothヘッドセットだけポケットから取り出し、耳にかけて応答している。
応答だけならBlueetoothヘッドホンに発話ボタンがついているので、M1000本体に触れる必要はない。

だが、周囲の目からみると、これが異様に怪しいらしいのである。
小さなBluetoothヘッドセットだけを耳につけて会話しているので、電話をしているように見えないらしい。
Bluetoothヘッドセットは、無線なので当然ながらケーブルはない。
僕がぶつぶつ独り言を言っているように見えるらしいのだ。
てぶらでオフィスを歩きながらぶつぶつ言う。
突然、怒鳴りだしたり、笑い出したりする。
電話で会話をしているので、ごく普通のことなのであるはずなのだけれど、電話本体が見えないので、電話で会話をしているようには見えないらしいのだ。

僕がBluetoothのヘッドセットで電話をしていると奇異な目で見られる。
電話機本体は見えないが、耳に何かイヤホンみたいなのはついている。
だけど、ケーブルはついていない。
一人でぶつぶつ言っているように見える。

電話をかけるときは、PDA(本当はM1000)をぷちぷちいじっていたかと思うと突然しゃべりだす。
「すいません、メールの返事が送れまして。速攻で作業やらせてますので、あと少しだけお待ちしていただけますか?あ、いやいやこちらこそ。そんな。わははは、今晩ちょっといかがですか?」
「おいっ、まだファイルが届かんぞ。どないなっとるんや。すぐメールで送る、って言ったやんけ。はよせー。ええかげんにせえよ。あ、届いた。何やこれ?ちゃんとやってよ~。ああ、もうっ、時間がないからこっちでやっとく。おまいは、できたものからプリントアウトしてくれ」
電話を持たずにヘッドセットで会話している。
これまた怪しい。

クルマのなかならともかく、オフィスでうろうろしながら、てぶらでぶつぶつ言っていると怪しいらしい。

世の中ではまだBluetoothのヘッドセットはメジャーではないので、電話機本体をポケットに入れておいて、何かをしながら、ヘッドセットで会話している様子は過剰にサイバーなのらしい。

使い勝手からすれば、両手が開いているので、パソコンをいじりながらでも電話に出られるので楽である。
Bluetoothのヘッドセットは便利だ。

でも、見慣れない風景なので、妙に目立ってしまう。
本来は、Bluetoothのヘッドセットを耳につけっぱなしにしておけば、電話がかかったときの応答も速いし、便利だ。
でも、Bluetoothのヘッドセットをつけっぱなしにしてオフィスにいると、それだけで怪しまれる。
見た目が怪しい。
通話をはじめると更に異様だ。

Bluetoothが一般的ではない日本において、てぶらで電話をすることは、珍奇な目で見られることを覚悟しなくてはならない。
便利なんだけどなあ。
周囲に怪しまれるので、Bluetoothヘッドセットを耳につけっぱなしにしておくわけにはいかない。
電話がかかってきたら、その場でBluetoothのヘッドセットを耳につけて会話をする。

周囲から見れば、電話をしているようには見えないので、ひとりでぶつぶつ言って、たまに怒ったり、笑ったりしている危ない人に見られてしまう。

Bluetoothのヘッドセットを装着していることに気づかない人から見れば、僕は更にとんでもなく怪しい人だろう。
ヘッドセットに気づいた人も、無線接続でケーブルがない。
電話機本体はポケットやカバンのなかに入っており、ヘッドセットしか外部からは見えない。

電話の相手からは、音質その他での違和感はないそうである。
普通に電話に出ているように聴こえるらしい。
電話をしている僕が周りから怪しく見られるだけ。

僕のBluetoothヘッドセットに気づいた人は、間違いなく僕を好奇の目で見る。
Bluetoothのヘッドセットに気づかないひとは、僕がひとりで、ぶつぶつ言ったり、笑ったり、怒ったりしているように見えるらしい。

Bluetoothヘッドセットはまだ過剰にサイバーなようだ。


2005年07月02日(土) M1000すげーぞ

予告通り、ビジネスFOMAであるM1000に機種変更してきた。

M1000は、電話としてはWCDMA.GSM,GPRSと世界中どこでも使え、電波として無線LAN, Bluetoothも使える。
電波だらけ。
カタチはPDAで、PIMやPOPメールも楽勝。
フルブラウザもついている。
と、いうスーパー何でもありあり携帯である。

僕は、本体が発売される前にBluetoothの無線ヘッドセットとUSBスティックも入手しておいた。
同期させるOutlookの情報も整理しておいた。
発売日が待ちきれんかったのである。

お店に行くと、予約取り置きなので、すんなり入手。
世の中では品薄らしい。
オマケでロットリングのスタイラスつきボールペン、液晶保護シール、ふきふき携帯ストラップ、ドコモダケのぬいぐるみがついてきた。

現物を初めて見る。

見事にPDA。
こんなのでどうやって電話すんだよっ、というのが第一印象。
どこからどうみても電話ではない。
早速、電話をかけてみたけれど、まあ普通に電話として使えるのだけれど、ガワは電話には見えない。
ベルトにケースをつけてM1000本体をそこに入れておき、Bluetoothのヘッドセットで会話するのが正しい使い方なのだろう。
電話はPDCも生かしてあるので、深く考えない事にする。

自宅に持ち帰ってマニュアルを取り出す。
何だ、この辞書みたいなのは!
630ページ。
携帯電話のマニュアルなのに辞書みたいな厚さ。

クイックマニュアルがついていたので、基本的なところからセットアップ。
M1000はimodeではなく、MoperaUというサービスを使う。
MoperaUは、またMoperaUで、DoCoMoのFMCちっくな良からぬ戦略(このあたりへの妄想はまた今度)が見え隠れするサービスなのだけれど、簡単に言えばM1000用のimodeサービスみたいなものである。
MoperaUの登録を行なわなくてはならない。
MoperaUはいわばプロバイダなので、ネット接続とメールのセットアップ。
やりかたはほとんどimodeと同じ。

が、しかし。

M1000にはテンキーがついていない。
文字入力その他諸々を全てスタイラスを使ってタッチパネルからやるのである。
僕は、ザウルス、WindowsCE、Palm等々でPDAには慣れているハズなのだけれど、M1000のOSであるSymbianは微妙にインターフェイスが異なっていた。
PDAとPCのインターフェイスはほとんど同じなのだけれど、SymbianはPDAとPCと携帯の融合したインターフェイスなので、少々戸惑う。
セットアップそのものは簡単なのだけれど、Symbianのインターフェイスに不慣れなので手間取った。
MoperaUはサービスが始まったばかりで、ユーザーがほとんどいないので、メールアドレスは取り放題。
好きなアドレスで登録。

MoperaUに登録し、WCDMA(通常のFOMA)での利用ができるようになったら、次は無線LAN。
自宅と公衆無線LANの設定。
こちらは楽勝。
すぐにつながった。

そして、次は初体験のBluetoothである。
僕は、「携帯電話にはBluetoothを標準装備すべし主義者」なのだけれど、Bluetoothを使うのは初めてなのである・・・。
ヘッドセットを繋ぐ。
10秒で完了。
ヘッドセットとM1000で通信させてお互いに認証させるだけだったので、あっという間に繋がった。
ちょっとだけサイバー。

最後は、夢のOutlook連携。
USBケーブルも付属していたのだけれど、完全に無視。
Bluetoothのみで行く。
ケーブルを繋いだら負け、なのだ。
無線だけで行かなくてはならない。

M1000から離れ、PCにBluetoothのUSBスティックをインストールする。
PC側にはM1000との連携ソフトも入れる。
PCとM1000でBluetoothでネゴシエーション。
ペアリングさせて、PCと携帯がBluetoothで繋がった!
Outlookと同期。
おおおおおおおおおおおおおおお!
Bluetooth経由でOutlookのスケジューラーの情報が連携されていくーーーーー!
すげー。
常時連携にしておけば、PC側でOutlookをいじるとM1000側の情報と常に連携が取れるのであるっ。

ちょっと残念なのは802.11.xとBluetoothが同時に使えないこと。
通話用にBluetoothのヘッドセットを繋いでおいて、同時に無線LANを使う、ということができない。
どちらか一方しか使えない。

正直言って、M1000には感動させられました。
これはすごすぎ。
これが未来なんだな、と。

でも、このセットアップは、PCや携帯に相当慣れていないと難しすぎる、と思う。
マニュアルの作りがどうこう、と言う前に、M1000そのものが、ユーザーを選ぶ。
WCDMA+GSM+GPRS+802.11x+Bluetooth+Outlook+POPメール+フルブラウザ。
これらの全てを理解し、必要としている人以外には奨められない。
Bluetoothのヘッドセットとしての利用は、運転中の利用を考えると必須なのだけれど、PCとの連携はまだ敷居が高い。
M1000は、使いこなせれば感動モノなのだけれど、一般的には使いこなせないだろう。

僕個人としては、M1000のセットアップをしただけで、自分自身が3年進化した気がした。

■FOMA M1000
http://www.mopera.net/b-foma/PC/index.html




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