くるくるくろりくくろにくる
いんでっくす|ふるいの|あたらしいの
なぞなぞしよう! あのね、猫なんだけど…猫じゃなくてね。 大きくて、顔が丸いの。 青くてね、耳が無いの。 お手々は丸くて白いの。 足はねー、うーんとね、大きくて丸くて白いの。 それでねそれでねポケットが付いているものなーーーーんだ。
電車の中での幼児と母親のヌルイ会話でした。
どこがなぞなぞなんだ!?と、ツッコミの一つもかましたくなるのは純真さを忘れているってことなんでしょうかね。 でも、子供って時々わけ判んないこと言い出すから気を付けたほうがいいのも事実。
実際この答えも想像を遥かに越え車内を驚愕の渦に巻き込んでいた。
「大人の既成概念なんてちっぽけなものですよ」とでも言いたげに。
いやまいったね。
「はいアルティシアです」 と内線電話を取った瞬間に、 「キャスバル兄さんですけど」 と応えてくれる人が存在する職場。
素晴らしいぢゃないですか。
因みにその人は、こちらが「マッシュですか?」と電話をかけると 「なんだい?オルテガ」と尋ねてもくれます。
ある意味今仕事に行き詰まっていると言うか、いっぱいいっぱいだってことなのかも。
「そんなに発注書を出したければあなたが出せばいいんだ!」
ガンオタぶりを発揮しておちゃらけないとやっていけないのでしょうなぁ。
「僕が一番上手く申請書を出すことが出来るのに…」
サーバーを持って砂漠に逃亡してみるか。
Amazon.comで680円で購入したジョンレノンの長男の「Valotte」を死ぬほどリピートしながら、テオ博士の「アイデンテティ崩壊叙事詩 その無識別の辺に」を読みふける。 コーヒーが飲みたくなるが、本から離れることが出来ずに我慢する。 しかるに、そういった行為の強制的とも言える選択権の無さが我々の自我を崩壊させる第一歩だと読後に気付く。テオ博士曰く、選ばなかった物の価値を選んだものに付加させ本来存在しない価値の上に満足感を見出しているに過ぎず、事実の量だけを認識できない行為は往々にして破綻する、そうだ。
チェッ、コーヒー飲めば良かった。
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