【復活!】ダイエットなDIARY
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2000年11月09日(木) 考古学

実は、今いる職場は博物館である。

最近、あの自分で石器を埋めた事件の余波が結構すごいらしい。
展示されているものを撤収したり、パネルに紙を貼ったりしているそうだ。
もっとも、オレの専門は考古学ではないので、ワイドショウのネタという以上にはほとんど実感はないのではある。

今日、知り合いの若い考古学者に聞いたのであるが、ここ二十年の学説が一挙に怪しくなってしまったそうだ。
もっとも、数年前からあの人は怪しいという噂は流れていた。
インターネットの掲示板などでも実名入りで疑惑が流されていたそうだ。

そもそも、あの人が来ない日には遺物(前縄文遺物というらしい)がでない。
あの人が来ると出る。
そういうワケでディヴァイン・ハンド(Divine Hand「神の手」)をもつ男とか言われていたのである。
つうか、気づけよ(苦笑)。

もちろん気づいていた人は掲示板にあったようにたくさんいた。
むしろ、その疑惑を公に出来なかったことに問題があるのだろう。

発掘は、何も生産しないが、れっきとした事業である。
県や町、村などの地方自治体のお金が動く。
それで発見がないということになると、お金はまったくムダである。
発見があれば、それを町おこしや村おこしの資源として活用できる。
周囲は期待の目で見ているのである。
そういうプレッシャーがあの人にはいつもあったのかもしれない。

もちろん捏造が許されるハズはなく、あの人を弁護しようともいう気などさらさらないのであるが、そういうお金の問題がからむと、学問がだめになる危険がどんどん増すと言いたいだけだ。

学問的な欲求とは、社会的な名声や金などの世俗的な欲求からは隔絶したところにある。役に立つことを第一の目的にしているわけではないし、それを第一の目的にしてはいけないのである。
あるのは「知」に対する純粋な欲望だけである。
それを役立てるかどうかは、利用者、つまりは社会の問題なのである。
モード2の学問とかいわれ、企業や行政との連携が重要であるとか言われている昨今、時代錯誤的かもしれないが、やはり学問の孤高の純粋さと厳しさは再確認される必要がある。


すまん。
今日はどっかの新聞の社説のようなカタイ文章になってしまった。



さて、今日からウォーキングを再開。

今日の歩数。
12945歩。
今日の体重。
68.2kg。
今日の体脂肪率。
25%。

新しいコースを開拓した。確実に1万歩を超えるコースだ。
二日休んでしまったが、恐れていたほどのリバウンドはなし。
順調と言えるのではないか。



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