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日記&サイト再開に向けて。 - 2003年11月01日(土) しばらく全ての更新が止まってました。 サイトの更新どころか、何もする気が起きなかったのです。 サイトの更新を再開するにあたり、また、私自身の気持ちを整理するために この場を使わせていただきます。 今日は読んでくれるかもしれないどなたかに向けて書くつもりはありません。 平成15年7月27日。私は父を亡くしました。 死因は肺ガン。享年55才。 父がガンを患っていることを知ったのは、さらに1年以上遡ります。 母からの電話で私はその事を知りました。 病が発覚した時点ですでに手遅れのところまで病気は進行し、病巣の場所が 悪く、手術は不可能でした。 その後、初めて実家に帰ったのは昨年の初冬だったでしょうか。 抗ガン剤の副作用で一度、全ての髪は抜け落ち、少しずつ痩せ始めた父がいました。 ほんの少し、咳き込むだけで痰に血が混じるほどになっていました。 対処療法で少しでも病の進行を遅らせることしかできず、一時期話題になった 肺ガン用の新薬も飲んでいました。 それでもガンは進行してしまったのです。 年が明けて、平成15年元旦。 予定では2日に実家に行くつもりだったのですが、母からの電話により中止になりました。 年末から発熱が続き、腹水が溜まるようになったので、2日に病院に行って腹水を抜いてくる。私の旦那には「見せたくない」から、とりあえず明日は来ないで欲しい、と。 まだ、その時点で旦那の実家に父のガンの事は話していませんでした。 結局、そのまま実家に顔を出すこともなく、月日は過ぎて行きました。 5月の連休も過ぎたある日。 母から電話があり「とにかく一度、来なさい」と言われました。 話によると正月以降、急激に状態が悪くなり、かなり痩せてしまったという。 主治医の話ではもう夏は越せないだろう、と。だから父がちゃんと話せるうちに お願いだから顔をだして、と。 私は仕事が忙しいことを理由に、実家に行くことが出来ませんでした。 5月末、覚悟を決めて実家に帰ると、驚くほど痩せた父がいました。 すでに話すことも辛く、一人で歩くことも困難なほどでした。 その翌々週、入院。 40度近い熱が出て、自宅にいるのは危ないため、緊急入院しました。 結局、そのまま父は家に帰ることはなかったのです。 父が入院してからは、栃木から東京まで毎週病院に顔を出しました。 いられる時間は少しでも、もう現実から目を背けちゃいけないんだ、と覚悟して。 入院してから、父の体力は急激に落ち始めました。 食べ物を飲み込む時に痛みがあるため、病院の食事が食べられないと言うので、 果物やゼリーなど、食べるのが楽なものを持って行きました。 あんたが来るとお父さんは嬉しそうだよ、と。 この前あんたが持ってきた桃、半分食べたよ、と。 たったそれだけのことで、父が少しでも元気になってくれるなら、私は何故、もっと早くにしなかったんだろう。 何故現実ともっと早く向き合わなかったんだろう。 今更悔やんでも遅いんです。 私は父の病気を信じたくなく、逃げてしまった。 死に行く人と向き合えなかった。 ...
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