つれづれのーと...mizuki

 

 

日記&サイト再開へ向けて。2。 - 2003年11月02日(日)

入院から1ヶ月ほどでモルヒネの点滴投与が始まりました。
どれくらいの痛みに耐えていたのか、私には解りません。
モルヒネを使うと痛みはすごく楽になるそうです。
でも、意識が混濁して行きます。
一日のほとんどをうとうとと寝て過ごすようになり、話し掛けても会話は成立
しなくなって行きました。

7月25日深夜2時33分。
電話が鳴りました。
父の心臓が止まった、と。
電話口の母は涙声で動転していました。
すぐに支度して出るから、と電話を切ったものの、私は足が震えて立ち上がれなく
なり、そのまま20分くらいが過ぎました。
旦那が起きてきたので、支度を済ませると、再度電話が。
とりあえず持ち直したので、大丈夫だから。また何かあったら連絡するので、今夜は大丈夫だ、と。
全然大丈夫じゃなかったのです。
突然の心停止から、再び回復したと思っていたけれど、その時既に父は脳死状態に
陥っていました。
結局、25日9時25分、再度の電話で実家に向かいました。

ちょっとしたことで病院についたのはお昼過ぎ。
もう父は自力で動くことはありませんでした。
人工呼吸器によって自発呼吸はするものの、手を動かすことも、瞬きすることもありませんでした。
ただそこに寝ているだけ、です。
前の晩から寝ていない母と駆けつけてくれた伯母を一度家に帰し、私が一人父に付き添いました。
狭い個室の中でモニターから出る機械音と人工呼吸器の音が響いてました。

母が友人に連絡をしたのでしょう。
何人かの方がお見舞いに来てくれましたが、私は何も話せませんでした。
涙をこらえるのが精一杯でした。
20時過ぎ、母が戻り、私は一度栃木へ帰りました。
本当はずっと一緒にいたかった。

翌日、今度は一人で病院へ行き、一晩付き添った母と交代しました。
看護師さんが用意してくれた簡易ベッドの上でうとうととしながら、モニターから
出る機械音を聞き、一晩過ごしたのです。
父の鼻から1本の管が出ていました。
痰と体内から出るいろいろなものを吸い上げるための管でした。
前日見た時は確か黄色みを帯びた液体だったのが、緑、そして赤く変わり、少しずつ少しずつ茶色く濁っていきました。時々濃い緑色の物が混ざって一気に流れて行
くのです。
私はそれを見ながら、父は少しずつ死んでいくのだと、そう思うしかありませんでした。

8月27日朝。
8時過ぎに母と交代して、代わりに家の用事を済ませました。
前の晩眠れなかったため、2時間ほど昼寝をし、起きたのは16時。
もう一度栃木に帰ろうか、このまま残ろうかと悩み、時間的に帰るなら高速が混む前の今しかないと思ったので、一度病院に顔を出しました。
妙な胸騒ぎに追われるように病室に行くと、朝のうちは100を越えていたはずの
心拍数がすでに70を切るかどうかにまで低下していました。

最期の時は本当に早く過ぎました。
家に戻る母を見送り、旦那に連絡を取ろうと病院から出て電話をかけるまでほんの10分もありませんでした。
通用口から看護師さんが出てきて、父の危篤を告げました。
話し中だった携帯を一度切り、母と弟に電話をしてから病室へ戻ると、すでにモニターからの機会音は聞こえなくなっていました。
医師が心臓マッサージをしていました。お父さんに呼びかけてくださいと言われても、声が出ません。
まだ死なないで欲しい気持ちともう楽になって欲しい気持ちとが、ぐちゃぐちゃになっていました。
目を瞑っている父の顔を見ることしか出来なかったのです。
母はすぐに戻りました。電車が来る前だったそうです。
母と二人、もういいよね、と確認しあい、延命処置をやめてもらいました。

7月27日17時25分。
私は永遠に父と話すことが出来なくなりました。




...




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