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ズバリ!いけにえと書かれているんだなぁ かとを 最初に、誤解を招かないようにする為、敢えて 書きますが、志村くんが神の生贄なんていう 考えはないですし、そういうことは頭をよぎった こともないことをお断りしておきます。 生贄、旧約聖書では確か「子羊の肉をほふって」と いう言葉が何回も出て来ます。生き物を殺して 神に捧げます。自分達の身代わりに。 そして新約聖書。イエス・キリストの話になります。 イエス様は、私達の罪を背負って十字架にかかった。 これを信じる事により、私達の「罪」が赦されると いう教えです。 犠牲。私の好きな言葉です。 2001年、佐々木收氏は、ある歌の中に「僕が生贄に なってやろう」というフレーズを入れてくれます。 收さんは、このことについて、結構お気軽に使ったの かも知れません。 しかし、結局信者にならなかったとはいえ、その 教えは浸透してしまっている私はこのように 思いました。(この人は何もかも解っている!!)と。 そして何もかもを解っているこの人こそ、神の生贄に ふさわしい。 それにより、私の罪は赦される。 どうしてそういう発想になるかな。 イエス様の時点で、新たな犠牲を出す必要がないし、 一見、平和であるこの世の中で、何故、改めて 犠牲を出す必要がある? だけど、そういう発想が頭をよぎるのです。 もう1人の私に出逢った時、ちょっとでも生贄の発想が 浮かんだのでしょうか。 ここの過去を振り返ると、私は、もう1人の私に 号泣で謝っている日があります。その前に入力した ものは1時間経過しないうちに削除しました。 その時、私の為に何かを犠牲にしてくれないか 的な要求をしたのです。それは、噂ではあるけれど 佐々木氏がとったとされる負の行為。それを匂わし、 後は、私自身が放った負のスパイラルです。 入力中、入力直後は気付きませんでした。自分が 何やっているのか。読み返した後で、私はとんでも ないことを口走ったのだ!と慌てて削除し、上記の 通りです。 あなたはこれに気付いていましたか?それとも 必死に謝っているところだけをご覧になったのかな? ちなみに、私が生贄にふさわしいと思う人は 「この世の哀しみをすべて知っている人」で その人がこの世の哀しみを全部持っていってくれたら いいな。って発想。で、マジではないの。 そうだったら救われるのかなぁとか、あくまでも 考えを巡らせているだけ。 普段、私は正しいことを望みます。あなた方がアコで 竹林を選んだ理由はとてもよく解る。 私も自身をそう思います。でも、時折私の中の「悪い子」 って確実にいるんですよね。 総べてがそうじゃないかも知れないけど、(ニヤリ)は どっちかっていうとこっちですよね。 でも、私は(ニヤリ)な自分は大好き。 おっと!話が反れました(^^ゞ 最初に話を戻します。私は犠牲ということばが 大好きです。これは「教え」を刷り込まれたのかも 知れませんが。 犠牲は尊いです、犠牲は美しいです。 私も何かに犠牲になって死にたい。などという 発想が浮かんだりもします。 はい!マジで時間がなくなって来ました(爆) でも、そんな理想的な発想を抱えながら、 日常において、ちょっとでも犠牲となるような そんな尊い、そんな美しい行動を取っているのか?! という話です。 全然そんなことないです。 仏教の方は、私はよく知りませんが、やはり 「赦し」ですよね。私達は悪いことをした、しかも 学ばず、同じことを繰り返しがちですが、 菩薩様…ですか?は見ておられるということ ですね。 悪いことをしても、それに気付いてお祈りすれば いいんですよね。 さて、読み返して纏まっているか?!
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