橋本裕の日記
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私は毎晩、晩酌をしている。仕事から帰り、寝る前に「松竹梅」のお冷を小さな杯で一杯だけいただく。これがたのしみで毎日生きているといったらおおげさだろうか。しかし、この一杯の酒を味わっている数分間は極楽浄土である。
どうして酒がこんなにうまいのか、説明はできない。おそらくこれも「煩悩」だろう。このほかに私はたくさんの煩悩を持っている。通勤途中の電車で、女性たちの色気をたのしむのもそのひとつだ。それでいて、「悟りを開きたい」とか、「人類を救いたい」などという途方もない煩悩もある。
人はだれでも「煩悩」を持っている。私たちは、地獄、餓鬼、畜生、修羅といった六道の境涯に身をおき、ときには女性の色香に迷い、利害得失に走って右往左往し、あくせく生きている。そしてそうして煩悩に使われているうちに、おおかた一生を終える。
仏教はこの煩悩を解脱せよと教える。そしてそのために、「正しい生活」をすることを進める。しかし、私たちはなかなか煩悩から離れられない。そしてそれもまた、じつのところ煩悩のせいである。
それではどうしたら煩悩から自由になれるか。それには、煩悩でとことん苦しんでみる必要があるのかもしれない。そしてさらに、そうした境遇に置かれているとき、煩悩から離れて清らかな境涯にいる人に出会う必要があるのだろう。
しかし、順風満帆の人生を謳歌し、煩悩に安住している幸せな人や、またそうした夢のような生活を求めている多くの人たちには、この出会いは滅多に訪れない。なぜならこうした人たちは、あえて自分の人生を変えようとは考えないからだ。
私たちは私たちが求めている世俗的な幸福を最高のものだと考えている。しかし、仏教ではこうした境遇を六道という。そして、六道ではその最上の天界でさえ地獄の上に浮いていると説く。
俗世のしあわせは移ろいやすい。それは不安や絶望と隣あわせだ。だから、こうした人々が本当に幸せといえるのか疑問である。
仏典はこの世にはもっと別な世界があると説いている。それが「声聞、縁覚、菩薩、仏」の「四聖」の世界である。そしてだれしも「仏性」をもっているので、原理的に私たちがこの世界に入ることができる。
しかし、現実はなかなかそう容易ではない。私たちが自分の仏性に目覚めるには、しかるべき「仏縁」がなければならないが、この仏縁にめぐり合うことはなかなかむつかしい。だから、私たちの多くは「縁なき衆生」として、六道の「迷いの世界」に取り残される。
私たちは仏性を恵まれているが、これを生かすすべを知らない。そして煩悩のまま根無し草のように生きている。人生が苦しみの連続であり、世界に争いや悲惨が絶えない理由がここにある。
しかし、そんな私たちにも救いがある。私たち凡夫も煩悩を断ち切る方法がある。それは「死ぬ」ことだ。どんな凡夫でも、死ねば煩悩かから解放される。そして私たちは必ずいつかは死ぬ。だからだれしもがいつかは仏となり、「仏界」の住人となることができる。
親鸞は「慈悲に聖道、浄土のかはりめあり」(歎異抄第四条)と説く。聖道というのは修行をして煩悩を解脱する道だ。これは私たち凡夫にはとてもむつかしい。そんな難しい修行をしなくても、死ねばだれでも煩悩がなくなり、仏となって浄土に生まれ変わることができる。これは私たち凡夫にとって、ありがたいことだ。
自殺をすることは、もっとも手っ取り早く仏になる道である。しかし、そういわれても私たちはそうやたらと自殺できない。それはまだこの世に未練があるからだ。これもまた煩悩のせいだ。親鸞は「歎異抄」でこう語っている。
<浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり>
<久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養浄土はこひしからず候こと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ>
煩悩のおかげで、私たちはこうして生きている。煩悩が興盛なおかげで生かされているわけだから、これもまたありがたいことである。こう考えると、煩悩に対する考えもすこし変わってくる。
空海は「自らを主となし、煩悩を客人となせ」(一切経開題)と教えている。煩悩を否定したり、捨てたりする必要はない。煩悩も私たちの人生を面白くしてくれる大切な客人だ。ただこの客人に主人の座を明け渡して、のさばらせてはいけない。庇を貸して、母屋を取られてはいけない。
「随所に主となる」という人生の基本さえ外さなければ、煩悩をたのしむことは悪いことではない。煩悩もまた仏様からいただいた宝物である。こうおおらかに考えて、これを客人として大切にもてなせばよい。煩悩具足の凡夫だからこそ、私たちの人生はこよなく面白く、味わいの深いものになる。
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