橋本裕の日記
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第一章 暑さのさかり(3)
木曽川の堤防の片側が桜並木になっていた。少し前までは両側に桜木が並んでいた。それが道路の補修工事で、片側の桜が切り倒された。広くなった道路をかなりの車が通る。これは信夫にとってあまりありがたくない変化だった。
桜並木を透かして、名鉄の赤い鉄橋がみえてきた。その橋のたもとに名鉄木曽川堤駅があって、駅のプラットホームの上に、御岳がかすかにみえる。冬が近づくとそれが真っ白になる。しかし、今はまだ夏のさかりで、御岳も青くかすんで空の中になかば溶け込んでいた。
信夫はこの春にこの堤防を歩きながら、「この川の流れをどこまでもさかのぼっていったらどこにたどり着くのか」という疑問にとりつかれた。そこで家に帰って、地図で調べてみると、どうやら木曽川は御岳を源流にしているらしいことがわかった。
その頃調べたある文献には「御岳火山東麓を源流部に持つ木曽川は,御岳の東麓に厚く堆積した降下テフラを取り込みながら,各地に御岳火山起源の軽石片を多量に含んだ砂礫層を堆積させたことが知られている」などと記されていた。
また、地図を眺めているうちに、そこに描かれている木曽川の形に違和感を覚えた。どうも実際のかたちと違うような気がする。信夫が日頃間近に目にしている川はあちこち大きく蛇行していた。その複雑な様子が地図には描かれていない。
ちなみに木曽川の長さは帝国書院の地図によると209kmとあるが、別の文献では227kmとある。文献によって長さがずいぶん違う。
このことで信夫が思い出したのは、スペインとポルトガルの国境線の話だった。おなじ国境線でありながら、スペインは987kmだといい、ポルトガルは1214mだという。これは両国が用いていた地図の縮尺の違いによって生まれたのだという。
つまり大きな縮尺の地図では細部の変化が省かれているのだ。そうすると線分はなだらかになる。しかし、細かい地図では線分の変化が細かく描かれるので、長さがのびるわけだ。川や海岸線など、自然が形作る生成物の多くはこうした細かい構造をもっている。
樹木にしても、枝から葉、そして葉脈へと、枝分かれのパターンが限りなく続いている。人間の血管の構造もそうだし、消化器管や、大脳皮質も、襞の中に襞が無数に折り畳まれている複雑な構造をしている。
宇宙の構造も、原子核のまわりを電子が運動するさまは、太陽系の縮図のようだし、原子核や電子も、その内部構造があることがわかっている。電子を発見したローレンツという学者は「電子といえども汲み尽せない」という名言を残した。
ギリシャ以来、数学者はすべての曲線はかぎりなく拡大すれば直線になると考えて理論を作ってきた。物質についてもデモクリトスが同様な世界観を提供している。しかしどこまで拡大してもざらざらした凸凹やクオリティを失わないのが自然界の実相ではないか。具体的な自然は人間の「点」や「線」、「原子」などといった抽象的な観念では収まりきらない豊かさをそなえているのだろう。
つまり実際の私たちの世界は、その細部をどこまで拡大しても、最後までその複雑さを失わないようにできているようだ。少し専門的になるが、どこまで拡大してもひとつのパターンが入れ子のように続いて見られる図形をフラクタルと呼ぶ。そして自然界にはこのフラクタル構造がふんだんに見られるらしい。
信夫はこの春に退職してから、いろいろなことに興味を覚え、学生時代に手にした哲学の本など読み返していた。しかし、春江が孫を二人も連れて帰ってきてからはそれどころではなくなった。信夫はいま、久しぶりにそんな現実からすこし身を離し、浮世離れしたことを考えながら堤防を歩いた。そうすると、ふいにやわらかな風につつまれたような気がした。
駅のほうから何人か人影が吐き出されてくるのが見えた。名古屋方面からの列車が少し前に到着したようだ。そのなかの一人に見覚えがあった。迷彩色の短パンにサンダル履きで、のんびり歩いてくる腹の出た男が神岡のようだった。神岡も信夫に気づくと、片手をあげて、「お出迎えごくろう」と大きな声を上げた。
「俺が電車で来ると、虫が知らせたのか」 「そういうわけでもないが、なんだか君に会えそうな気はした」 「お前が出迎えにきているような気がしたんだ」 「そうか、面白いね」
そんな挨拶の後、桜並木の木漏れ日の道を家のほうに引き返しながら、信夫は木曽川の長さが地図によって違っている話をした。神岡はいつものように信夫の話に耳を傾け、共感するようにうなずいた。
「縮尺の違いで海岸線や河川の長さがかわるのか。そうすると、人生の時間の長さも、測り方でかわってくるんだろうな。象と鼠では時間の流れの速さが違うというね。いや、これは別の話かな」
「時間も一直線ではなく、複雑な微細構造を持っているかも知れないね。人間の記憶の構造も、いや、人生そのものがフラクタルかも知れないわけだ」
「フラクタルというのは、全体の構造が部分の構造に反映されているということだろう。人生にあてはめると、今日一日の中に、おれの一生が写されているわけだ。そしておれの一生の中に、宇宙の永遠の時間が反映されているわけだ」
「そこまで大風呂敷を広げられると、なんともいえないね」 「なんともいえないところが、なんともいいね。良寛の歌にこんなのがあったな。淡雪の中にたちたる三千大千世界(みちおほち)またその中に泡雪ぞ降る」
神岡は国語科の教師だったが、幅広い分野に通じた知識の持ち主だった。好奇心が旺盛で、科学や数学について、信夫もいろいろと質問されて困ったものだった。しかし、信夫はそんな神岡のおおらかな無邪気さが好きだった。神岡は仏教についてもひとかどの知識をもっていた。
神岡によると、仏教は「因縁」で世界を考えているのだという。「因」というのが、近代科学の「因果律」である。直線的に原因と結果が繋がった「論理」「数学」「力学」の世界である。世の中を生存競争の原理で割り切るダーウイン主義などもこのたぐいらしい。
これにたいして、「縁」のほうは「偶然」が支配し、変幻自在な出合いがあり、複雑なクモの巣のように森羅万象がからみあっている。神岡によれば仏教は自然や生命現象を、こうした必然と偶然の織りなす織物(曼陀羅)のように考えているのだという。
仏教の教えがもし神岡の言うようなものだとしたら、それは自然や社会がフラクタル構造をもっているという現代科学の考え方に近いのではないか。信夫はそんなことをちらっと考えたが、その前に言わなければならないことを思い出した。
「ついさっき奥さんから電話があった」 「うん」 「とくに用事があるわけではなさそうだった」 「そうか」
遠くの山並みを見る仙人のような表情をしていた神岡が、ちょっと興ざめしたように信夫を見つめた。その変化が面白くて、信夫は笑いながら言葉を継ぎ足した。
「彼女と会っていたのか」 「英会話の先生だ。どうだ、お前も、英会話をやらないか」 「いやだね。英語は苦手だ」
神岡とは、二週間ほど前に一宮駅前の喫茶店でお茶を飲んだ。そのときシュレッグというフィリピン人の女性を紹介された。彼女は名古屋市の居酒屋でホステスをしている。神岡がたまたま去年の暮れにそこを訪れたとき知り合って、それから英語が堪能だという彼女から個人的に英会話のレッスンを受けるようになったようだ。
神岡はフィリピン人の若い女性から英語の手ほどきを受けていることを、妻の英子には伝えていない。「英子に余計な心配をさせたくない」と神岡は言う。これまで前科があったし、ホステスをしている若いフィリピン女性と聞けば、英子が許してくれるわけはないのだろう。
しかし、最近になって英子の監視の目が厳しくなってきた。そこで神岡は定年退職して暇になった信夫を英会話のレッスンに巻き込もうと考えたようだ。
信夫は駅前の喫茶店で神岡とシュレッグの英会話に耳を傾けたが、ほとんど何を言っているのかわからなかった。神岡は「日本人はみんな最初はそんなものだ」というが、信夫はこの先、自分が流暢に英語を話せるようになるとは思えなかった。またそんな必要も感じなかった。
神岡は今日も信夫と会うと言いながら、シュレッグと喫茶店でランチでも食べていたのだろう。そしてそのアリバイつくりにこうして信夫に会いに来たのではないだろうか。そんなことを考えていた信夫に、神岡がからかうように言った。
「どうせ暇をもてあましているんだろう」 「忙しく孫の世話をしている。英語も海外旅行も無理だ」 「春江ちゃんもきれいになっただろう」 「そうでもない」 「孫の世話は楽しいか」 「楽しいわけはない」
信夫の切り口上に、神岡は「おやおや」という風な表情を見せた。そして「そうか。楽しくないのか」と、小さな声でつぶやいた。
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