ヒトリゴト partIII
 Moritty



初日。やる気満々。

2003年01月15日(水)

今年は年初に日記を書こうと決意したのに、既に15日も経った今になって書き始めている。日記を公開することについてはやっぱり抵抗があるのだけど、書きたいことだけ書けばいいや、と思ったら気にするほどのことでもない気がしてきた。(でも、一体何のためにやるのかな?読みたい人などいるのかな?などと考えてしまうと、今この瞬間はまだ公開に踏み切れていないのだけど…)

年が明けて気がつけば既に15日。とても多忙な日々が続いている。自分の事など考える時間もなく、周りに流されてばかりでちょっと自己嫌悪。日記を書くと決めたひとつの理由は、もう少し自分自身に注意を払おうと思ったからなのに。

今日はずっと朝から外出で忙しかったが、ちょうどお昼に打合わせと打合わせとの間がぽっかり開いたので、一緒にいた先輩と丸ビルでランチをした。おのぼりさんの私にとっては始めての丸ビルの高層階レストランでの食事だった。天気が良かったのも手伝って、そのレストランからの眺めはすばらしかった。陰影が妙にはっきりしたわた雲と新宿の高層ビル群、その後ろには奥多摩の山々、そして遠くには日本アルプスが聳えているのだが、空気がとても澄んでいたためか遠近感があまり実感できず、まるで絵のように幻想的なものだった。もちろん、料理はおいしかったけれど、そんな景色を眺めつつ食事をしたことで気分が和んだ。

夜はニューヨーク、ロンドン、シンガポールオフィスの同僚と定例電話会議。もういまさら遅いけど、英語をもっと勉強しておけばよかったと後悔する。いつもいつも後悔する。ていうか、今からでも勉強すればいいのか。そう言えばドラマで草彅君が言っていた。もう1年しかないからって何もしない人は、5年あっても10年あっても何もしないって。そう、その通りだね。目的を達成する為に必要なのは、時間の長さじゃないのだ、やる気なのだ。

今、やっと会議から開放されたので、お風呂に入って寝ることにしよう。明日はまた辛いお仕事だし。



満員電車で思ったこと。

2003年01月16日(木)

今朝の電車は一段と混んでいた。毎朝駅員さんがドアごとに「押し要員」としてスタンバイしているのだが、今日は押しても押してもドアが閉まらずに3人の駅員さんが集まって朝から思いっきり力仕事をしてやっと閉まった。中にいた私は肋骨が折れそうでとても苦しかったし、ポマードくさいおじさんにぴったり身体がくっついて不快だった。でも、もしそのおじさんが知り合いだったらもっと心地悪いだろうなとふと思った。

知り合いじゃないほうがいやじゃないっていうのも不思議だけど、そういうことって良くある。例えば、露天風呂で入浴中に覗かれたとき。知らないおじさんに覗かれたら、それはもちろん不快なんだけど、知っているおじさんに覗かれるよりはましだ。それから、例えばスクランブル交差点でみっともなく転んだとき。知らない人にくすくす笑われるのはもちろん恥ずかしいけれど、たまたま知人に見つかったりしたらもっと恥ずかしい。

日記を公開するということもそうなのかもしれない。読む人が知らない人だと考えると、何を書いても恥ずかしくないのだけれど、知っている人も読むと思うからちょっとためらってしまう。多分、カッコつけているだけなのかもしれない。あんな顔して実はこんなクダラナイことを考えている人間だとばれてしまうのが嫌なだけなのかもしれない。自分はそんなちっちゃな人間なのだ。



強く激しく美しく・・・

2003年01月17日(金)

今朝のニュースで深作欣二監督の告別式の様子を流していた。最期まで映画を撮ることに命をかけていた。壮絶な人生だったと参列者は語っていた。映画好きな私だけれど、深作作品は殆ど観ておらず、思い出すのは草刈正雄の「復活の日」と「蒲田行進曲」ぐらいだが、どちらも印象に残っている映画だ。もちろん、早すぎる死だったのだけれど、最期の最期まで好きな映画を撮ることが出来、そして愛する家族に看取られながら逝くことができた監督は、幸せだと思った。

朝そんなことを考えていたせいか、なんだか無性に映画が観たくなって、仕事をほっぽって映画を観に行くことにした。初めは、会社の近くの名画座で「この素晴らしき世界」と「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」の二本立てを観ようと思ったが立ち観だったので、シャンテ・シネで上映中の「シャーロット・グレイ」を観る事にした。あまり期待していなかったのだが、思ったよりも良かった。ナチス占領下のフランスで反政府レジスタンスの諜報員として働くイギリス人女性シャーロット・グレイ(ケイト・ブランシェット)が主人公だが、悲劇的戦争映画というよりは、一人の女性の激しい生き様を描いた人間ドラマだった。シャーロット・グレイの強く熱く激しい生き様はとにかくカッコよかったし、でもしとやかで美しかった。(舞台がフランスなのに英語を喋っていたのでちょっと混乱したけど・・・)

今日は阪神淡路大震災があった日。8年前のこの日、6,433名の命が、殆ど一瞬の間に消滅した。亡くなった人のその時の気持ちを想像するのは難しいけれど、きっと「なぜ?」と思ったのではないか。私は健康だし、割と安全運転だから死なんて無縁と思っている。きっと、震災で亡くなった方もそんな風だったと思う。先日、人の寿命がわかる能力があるといった霊能者がテレビに出ていたが、寿命なんて神様にしかわからないはずだ。この世に生命を受けたものの使命は、死ぬまで生きること。それは人間であろうが、蝿であろうが、鯨であろうがおんなじだ。明日か10年後か50年後か知らないが、死ぬ時までただ一生懸命生きていくしかないのだ。何のために、なんて考えずにただ一生懸命。でも、何兆分の一か何京分の一かの確率で人間に生まれてしまったからには、せめて、深作監督のように死ぬ直前までしていたいと思うほど好きなこと見つけて、シャーロット・グレイのように強く、激しく、でもしとやかに美しく生きていきたいと思う。(…言うは易し、だけどね)



Lunatic

2003年01月18日(土)

夜、庭に出て空を見たら、満月だった。まるで昼間のように明るく、樹木がくっきりと濃い影を落としていた。

満月の夜と言えば狼男の物語を思い出すが、他にも満月は人を狂わせるという話をいくつか聞いたことがある。英語のLunatic(狂気の)の語源はラテン語のLuna(月)で、それだって月が狂気を呼ぶと考えられていたからだ。驚いたことにイギリスでは、その昔、犯罪が行われたのが満月の夜だった場合、その犯罪者の罪は軽減されるという法律があったそうだ。アメリカでは満月の夜の犯罪率が特に高いということが統計的に証明されている。そんなことまで聞くと、ただのおとぎ話ではなく、本当に満月からは狂気を起こす物質とか波動とか何かが発せられていると思わずにはいられない。確かに、まん丸い月をじっと見ていると不思議な気持ちになる。段々地面がふにゃふにゃになって、夢を見ているような気分になってきた。これが「Lunatic」になるってこと?庭でそんなことを考えていたら、急に恐くなってきたので部屋に戻った。

満月が人を狂わせるという科学的根拠は何も示されていないけど、地球と月の引力の関係で、人間の体内、特に脳内の圧力かなんかに影響して、脳がゆがんで頭がおかしくなるのかも知れない。

…今夜は戸締りを確認してから寝よう。




自己嫌悪。

2003年01月19日(日)

今日は寒かった。天気が悪かったせいか、少々鬱気味だったのかもしれない。入院している母が週末外泊許可がでて実家に戻っていたのだが、寒さと低気圧のせいか手術の傷が痛み、気分も随分悪かったようで、一日中横になっていた。そんな母が心配なのもあって、私も一日外に出ずに過ごした。

私は幸運にも、今まで大きな病気や怪我をしたことがない。だから、絶えられないほど痛いとか苦しいという経験をしたことがなく、とても痛そうで辛い顔をする母に対して、どうしてあげたらいいかがわからない。だから、すごく困った顔をしてしまう。母は、きっとすごく困った顔をする私を見て、すごく困っているのだろう、と思うと何だか情けなくなってくる。思う気持ちはあるのに、うまく伝えられない。伝わらない気持ちなんて、あっても意味がないじゃないか。

どうしようもない無力感に襲われる。



数学ね…

2003年01月20日(月)

昨日に引き続きちょっと鬱だったので、またくよくよ考えてしまった。今の仕事をしていてたまに悩まされるのが数式だ。大抵は影を潜めているのだが、突然目の前に現れて「これくらいわかるよね、バカじゃなきゃ。」と人を小ばかにしたような態度をとる(ような気がする)。今日もそんな風に目の前に現れた。

高校時代、数学は嫌いな科目ではなかったのだけれど、当時世界史に異常なほど興味を持ってしまった私は、数学の勉強を怠ってしまった。そもそも、数学は難しいと思っていなかったから、勉強なんてする必要もないと思っていた。でも、(当然ながら)自分が思うほど私の頭は良くなくて、段々とわからなくなり、次第に「数学なんて生きていくのに必要ないからわからなくたっていいもーん。」と思うようになってしまった。

だいたい、私は「数学は苦手だから」とか「文系だから」とか思って理解しようと努力すらしていないフシもある。ちょっと難しい数式が出てくると飛ばしてしまい、結論だけ見て感覚的にわかった気になり、それで済ませようとしてしまう。でも、やっぱり感覚的じゃだめなんだ。本質的にわかっていないから、応用が全く利かない。数学は語学と同じなんだから理解できないはずはない、と数学者の誰かは言ったが、確かに、数式(数学語)をきちんと日本語に翻訳して、理解する努力をすればわからないはずはないのだろう。でも、その努力ができない。努力をするのすらかったるいと思ってしまうのだ。結局、今日もまた飛ばしてしまった。




すこしだけ、こだわりを捨てた。

2003年01月21日(火)

無罣礙故(むけいげこ)。無有恐怖(むうくふ)。心にこだわりがなければ、何も恐れるものはない。嫌なことから逃げよう、逃げようと思う心が、逆に人の心に恐怖を起こすのだ。こだわりの心を捨てれば、おのずと恐怖はなくなる。(般若心経の教えより)

引き続き、ローテンションではあったけど、底は打った気がする。少しだけ前向きな気分になってきた。今朝、以前同僚だったO君がオフィスにやってきた。2月にニューヨーク出張に行くための事前ヒアリングをしたいという。彼は一緒に働いていた当時からちゃっかり者で、多分優秀なのだと思うけど、自分では働かずにいつも上手く人にやらせていたので、「O常務」と影で疎まれ、恐れられていた。会社も変わり、私もやっとO常務から離れられたと思っていたのに、彼はまたちゃっかりと頼みごとをしにきたのだった。別に、今は受ける義務は全くないのだし、そもそも彼のためになぜ私が忙しい時間を割かなければならないのかと思ったので、断ろうと思って言い出すタイミングを見計らっていた。しかし、朝ごはんを食べたばかりなのか、O君の口元についたごはんつぶのかけらを見ていたら、なんだかどうでも良くなってしまって引き受けてしまった。

まあ、大した事ではないし、過去にこだわってもしょうがないから、一肌脱いでやろうじゃないか。(本当に大したことないんだけれど)
彼にしてやられたので、本当は悔しくてもいいはずなんだけど、なんだかすっきりした気分だった。別に、O君に恐怖を感じていたわけではないが(いや、感じてたかも)、これが、『無罣礙故。無有恐怖。』ということか。

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