■知人の娘さんが亡くなった。 5歳か6歳だったかと思う。 先日も千葉のある会合でお会いしたばかりだった。
子供が死ぬということが、親にとってどれだけ辛いことなのか、察するに余りある。 いままで育ててきたことへの想い。 楽しさ、うれしさ、辛さ、大変さ。 子供への想いと、自分への想い。
娘さんには、生まれながらにして重いハンディがあった。 育てることにも、人一倍のご苦労があったことだろう。 ハンディがなかったとしても、子どもを育てるということは、とても大変なことなのである。 親は惜しみなく愛を注ぎ、子は絶え間なく愛を要求する。 押しつぶされ、踏みつぶされても。 子は少し大人になるとそんなことを、かぐや姫のように忘れてしまう。 しかし、親は、子を失って後悔しない親はいないと思う。
人の死について、殊にハンディを持つ人の死について、いとも簡単に納得してしまう。 或いは、重い病気の人の死について、死にたい人の死について。 年をとった人の死について。 そんな傾向があると思う。 この先、幸せがあるのだろうか、いつになったらこの苦しみや辛さから、抜け出せるのだろうかと、思うのである。 人間いつかは死ぬ。 そんな思いが、人の死を受けとめやすくしているのではないか。
親も、子の死を受けとめる。 しかし、人のそれとはたぶん違う。 どんな子であっても、どんな理由でも、どんなに少ない時間であっても、それまでの想いと時間が、駆けめぐる。 そして未来の時間までもが。
■昨日、つまらない職員歓迎会で、社長の下手な三味線の演奏を抜け出してきたとおもったら、先ほどの電話を頂いた。 今日出社してみると、会社のほうの顧客関係で、お年寄りが亡くなったとのこと。
子どもも死に、年寄りも死んだ。 きっと新しい命が生まれ変わったのであろう。
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