ゆうの日記

2002年04月26日(金) 未来の時間

■知人の娘さんが亡くなった。
5歳か6歳だったかと思う。
先日も千葉のある会合でお会いしたばかりだった。

子供が死ぬということが、親にとってどれだけ辛いことなのか、察するに余りある。
いままで育ててきたことへの想い。
楽しさ、うれしさ、辛さ、大変さ。
子供への想いと、自分への想い。

娘さんには、生まれながらにして重いハンディがあった。
育てることにも、人一倍のご苦労があったことだろう。
ハンディがなかったとしても、子どもを育てるということは、とても大変なことなのである。
親は惜しみなく愛を注ぎ、子は絶え間なく愛を要求する。
押しつぶされ、踏みつぶされても。
子は少し大人になるとそんなことを、かぐや姫のように忘れてしまう。
しかし、親は、子を失って後悔しない親はいないと思う。

人の死について、殊にハンディを持つ人の死について、いとも簡単に納得してしまう。
或いは、重い病気の人の死について、死にたい人の死について。
年をとった人の死について。
そんな傾向があると思う。
この先、幸せがあるのだろうか、いつになったらこの苦しみや辛さから、抜け出せるのだろうかと、思うのである。
人間いつかは死ぬ。
そんな思いが、人の死を受けとめやすくしているのではないか。

親も、子の死を受けとめる。
しかし、人のそれとはたぶん違う。
どんな子であっても、どんな理由でも、どんなに少ない時間であっても、それまでの想いと時間が、駆けめぐる。
そして未来の時間までもが。

■昨日、つまらない職員歓迎会で、社長の下手な三味線の演奏を抜け出してきたとおもったら、先ほどの電話を頂いた。
今日出社してみると、会社のほうの顧客関係で、お年寄りが亡くなったとのこと。

子どもも死に、年寄りも死んだ。
きっと新しい命が生まれ変わったのであろう。


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ゆう [MAIL]

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