無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年02月15日(火) 『のび太の恐竜2006』(仮題)?!/DVD『ダーク・クリスタル デラックス版』

 大阪府寝屋川市中央小学校の教師殺傷事件の続報。
 犯人の少年、取り調べに対して、動機は「いじめがなんたら」とか「誰でもよかった」とか「殺すつもりはなかった」とか適当なことを言ってるらしい。教師への恨みが目的であるなら、「誰でも」なんて無差別に狙う必要もないわけで、やっぱりアタマがイカレてるか、あるいはどうせ未成年だから死刑になることはないとタカをくくって「自分が悪いんじゃない」ってしおらしさを演出しようとしてるんじゃないかねえ。「凶器を捨てろ」と警官に声をかけられて、素直に捨てたってのも随分ものわかりがよすぎるのではないの。人を刺しても「死ぬとは思わなかった」って殺意を否認しておけば、減刑される可能性があることをちゃんと知ってたんだと思うぞ。
 昔、私も似たような事件に遭遇したことがある。通っていた学校で、「苛められた」と思いこんだ生徒が、「苛めた」生徒にナイフを振りまわしたのだ。幸い被害者の生徒はかすり傷ですんだので、警察沙汰、新聞沙汰にはならなかったが、駆けつけた先生たちが止めに入らなければ、大惨事になっていたところである。加害者の生徒は日頃から言動がたどたどしく、確かにからかわれやすいところはあったのだが、パシリにされるとか暴力を振るわれるなどの具体的ないじめはなかった。加害者の生徒は「やらなきゃいつか自分がやられると思った」と供述していたが、全くの被害妄想であった。警察に届けなかった代わりに、加害者の生徒は当然退学。「動機がどうだろうと、やったもんが悪い」と、「加害者の人権」なんぞ知るかとばかりに厳罰を処した点で、うちの学校、結構マトモだったと思う。情状酌量を考えてやらなきゃならん人間と、そうでない人間とは、明確に区別したいものである。
 フジテレビ『とくダネ!』で、犯人の17歳少年の作文を紹介する際、その氏名が判読可能な状態でウッカリ放送しちゃったとか。一応、名前の部分は黒く映像処理して見えなくしていたのだけれど、処理が不十分で文字が透けて見えたということだ。とんだ不手際ではあるが、凶悪事件が起きるたびに「未成年の実名報道」についての論議が喧しい折から、「ワザとやったんちゃうか、フジテレビ」というカングリがネット上では早速展開されている。
 一応、キャスターの小倉智昭キャスターが番組中に謝罪して、広報部長の遠藤龍之介氏(遠藤周作の息子さん)が「技術的なミスで、意図的なものではない」とコメントを出しているので、ワザとじゃないことは確かだろうが(ヘタすりゃ自分のクビが飛ぶのにワザとやるバカもおるまい)、これで実質、犯人の実名は殆ど流布してしまった。
 私自身も、未成年であろうと凶悪事件の犯罪者を擁護するような仮名報道は馬鹿馬鹿しいなと思っちゃいるのだが、ネットのドブネズミどもの陰気な愉しみに組したいとも思わないので、「犯人の17歳の少年」と表記するに留めておきたいと思う。たとえ実名や住所を知っても、その家とか関係者にイタズラ電話やら中傷メールとかしないだけの節度のある国民ばかりならいいんだれども、ここを先途とマス・ヒステリーに乗っかって「某巨大掲示板(^o^)」に実名書きまくるような猿どもと一緒にされたくはないからである。「未成年の犯罪」が起きて喜んでやがるからな、あいつら。
 ヒステリーをいかに沈静化させるか、これくらい難しいことはない。実名報道ができないのは、「実名報道しろ」とヒステリックに騒ぐやつらがいるからである。「被害者よりも加害者の人権の方が守られている」のは、「加害者の人権を優先して、被害者の人権がなぜないがしろにされにゃならんのか」と感情的に叫びたてる連中がいるからである。冷静に論議ができなければ、たとえそれが大方の意見であったり正論であったとしてもそれが規制されるなんて逆転現象も起きてしまう。
 「司法」という権威主義の固まりのようなところが、低俗な「巨大掲示板」なんぞがいくら騒ごうと、それに屈するように実名報道に踏み切るなんてことはありえないよ。犯人の実名をネットに晒す行為自体が、結果的に加害者をなんとしても世間の目から隠す方向に動いてあの手この手を使って擁護する結果になってることに、なぜ2○○○ねらーは気づかんのかね。所詮は鬱憤晴らしのための感情を垂れ流してるだけで、本当に逼塞した状況を変革させていくだけの実効力を持てないところがあそこの限界だなあと思うのである。


 しげが「太極拳」のカルチャースクールで、「二十四式」という紙をもらってきた。
 つまりは太極拳のいろんなポーズを表しているものらしいが、名前は分かっても、肝心なポーズがどんなものか分からない。しげもまだよくは覚えていないので、聞いてもはっきりとしたことは分からない。だもんで、名前から勝手に「こんなポーズであろう」ということを想像してみた。もしかして全然違ってるかもしれないが、そこはそれ、想像は自由だから(^o^)。
 まずは名前から。

1 起勢(チシ)
2 左右野馬分鬃(ズゥオヨォウイエマアフェンゾン)
3 白鶴亮翅(パイフリィアンチ)
4 左右楼膝拗歩(ズゥオヨォウロオシアオブ)
5 手揮琵琶(シオウホイビイバ)
6 左右倒巻肱(ズゥオヨォウダオジュエンゴォン)
7 左攬雀尾(ズゥオランチュエウェイ)
8 右攬雀尾(ヨォウランチュエウェイ)
9 単鞭(ダンビィエン)
10 雲手(ユゥンショウ)
11 単鞭(ダンビィエン)
12 高探馬(ガオダンマァ)
13 右蹬脚(ヨォウドォンジィアオ)
14 双峰貫耳(シュアンフォングゥアンアル)
15 転身左蹬脚(ズゥアンシェンズゥオドゥンジィアオ)
16 左下勢独立(ズゥオシィアシドリ)
17 右下勢独立(ヨォウシィアシドリ)
18 左右穿梭(ズゥオヨォウチュアンスゥオ)
19 海底針(ハイテイゼン)
20 閃通臂(シァントォンベイ)
21 転身搬攔挫(ズゥアンシェンバンランチュイ)
22 如封似閉(ルゥフォンシビ)
23 十字手(シズシォウ)
24 収勢(シォウシ)

で、以下が中身の想像。
1 起きあがって威張る。腰に手を当ててスーパーマンのポーズ。歯が光っているともっといい。
2 左右に馬がいるので、どっちの馬のたてがみを撫でたらいいか分からない。撫でてどうするんだろう。
3 白鶴飲んで熱海に行こう。酔拳である。
4 左右の膝が棒になったので、ヨチヨチ歩きしかできない。あんよはおじょず、ころぶはおへた。
5 ビーバーと言えばエアコン。そよそよと動こう。
6 カルロス・ゴーンを左右からぶっ叩いて倒す。
7 左から雀のしっぽが見える。つまり左の腋毛を見せて匂いを嗅いでもらう。
8 右から雀のしっぽが見える。つまり右の腋毛を見せて匂いを嗅いでもらう。
9 SM。
10 四股を踏む。「ウンショウ!」
11 やっぱりSM。ほーほほほほほ!
12 高いところで馬を探す。山の中に逃げこんだのである。
13 馬を探し疲れて右足を痛めた。
14 ツイン・ピークス殺人事件。死体の耳にはピアスの穴が。
15 馬は結局見つからず、左足も痛めた。
16 実は僕、左の方が大きいんです。だからパランスが取りにくくて。
17 実は僕、右の方が大きいんです。だからパランスが取りにくくて。
18 宮崎駿を左右からぶっ叩いて鼻血を出す。
19 海底に針が刺さっている。これを抜くと地球の綻びが……。
20 マイケル・ベイの作る映画はどれもこれも見てると目がチカチカしてくるということ。
21 人生をもう一度やり直そうとしても挫折が待っているだけだということ。
22 後ろも前もガードしなさい。痴漢に注意せよということ。
23 スペシウム光線。
24 笑止千万。

 「ポーズじゃないじゃん」というのも多いが気にしないように(^o^)。


 しげが「今日はエコ缶さんとこの練習に早めに行かなきゃならない」とか言ってたので、迎えに来てもらえないのも困るなあと思って、仕事を少し早引けした。
 ところが、5時になってもしげが出かけようとしないので、「練習、行かなくていいのか?」と聞いたら、「え? 七時でいいんだよ」なんて言う。どうやら言葉の行き違いがあったらしいのだが、よくよく問い質してみると、しげは裏方だから練習には殆ど出る必要がないらしいのだ。どちらかというと、勝手に押しかけてって、好き勝手なことを言って打ち合わせを引っ掻き回しているような様子なのである。「家事ちゃんとするから」とか言ってパートも辞めたというのに、毎日のように家を空けていたのでは約束が違うのである。叱り飛ばしたらシュンとして「アンタ中心にものを考えればいいっちゃろ!?」なんて口の利き方をする。「自分の仕事が何か考えろ」ということが言いたいのに、どうしてそんな風に自分が被害に遭ってるようなモノイイしかできないのか。
 結局。今日も練習には行かなくてもよかったようで、なんのために早目に帰ったんだか意味がないのであった。居残りの仕事を同僚に代わってもらって有休取ったというのに、こいつは相変わらず自分の都合でしか行動しようとしない。それで何度も劇団辞める羽目になったというのにどうしてこうも学習能力がないかな。
 ケンカでゴタゴタしたんで、テレビもあれこれ見損ねた。ああくやしい。

 しげは空いた時間を利用して、ガードレールに引っかいて前輪の部分がボコボコッとへこんだ車をダイハツに持っていって、代車をもらってきた。「乗り心地は?」と聞くと、「怖い」と言う。
 「アクセルは効かないし、ブレーキは効き過ぎる」……でも逆だとすごく困ることになるんだが(^_^;)。


 今年の春は製作されない映画『ドラえもん』だが、一年置いた2006年の内容が発表された。なんと原点がえりの『のび太の恐竜』のリメイクである。
 総監督には、TVリニューアルシリーズと同じ楠葉宏三氏。監督には『帰ってきたドラえもん』などで、その演出力を高く評価された渡辺歩氏。スタッフ・キャストともに全面入れ替えということで、さてどうなることやらと不安もかなりあったのだが、フタを開けてみると前々からファンの希望も高かった渡辺氏の登板ということで、順当な世代交代だなあ、という印象である。
 藤子・F・不二雄氏亡きあとの劇場シリーズの迷走ぶりを見れば、「『ドラえもん』、もう終わってもいいんじゃないか」の声も巷では決して少なかったとは言えない。ただ、アニメってのはいったん終わってしまえばそれはあっという間に過去のものとなり果てる。手塚治虫が、横山光輝が、水木しげるが、石森章太郎が、赤塚不二夫が、永井豪が、二度三度どころか四度、五度、六度、と尽きることなくリメイクされていくのは「忘れ去られないため」の手段だ。『のび太の恐竜』のリメイクと聞けば、どうせまたぞろ「旧作のイメージを壊すな」とか知ったかなことを一席ぶちたがるやつらはいるだろうが、いったいあれが何年前の映画だと思っているのだろうか。現代の目で見れば旧『のび太の恐竜』はかなり古臭い。それはアニメ技術がまたまだだった、ということだけではなく、「SFとして」見るに堪えない描写が多すぎるのである。
 『ジュラシック・パーク』を見たあとでは、ティラノザウルス・レックスが「二足で直立歩行している」というのは明らかに「おかしい」と分かる。それどころかプテラノドンは「羽ばたいて」飛んでいる。いや、そもそも『のび太の恐竜』というタイトル自体がまずい。フタバスズキリュウは、海棲爬虫類ではあっても、「恐竜ではない」からだ。なつかしアニメとして見る分には構わないが、現代の子供に見せるには不都合な部分が多々あるのである。
 もしも藤子・F・不二雄氏が存命であったなら、SFに拘りのある氏のことだから、何らかの形で『のび太の恐竜』をリテイクすることは充分考えられる。数々のマンガで「ネッシー」を実在の存在として描いてきた氏は、それが完全に「捏造」であったと判明した直後、アニメ『モジャ公』では謎の恐竜として「ルケーレ・ムベンベ」を出してきた。恐竜の滅亡説も新説が出るたびに作中に取りこんでいる。その時その時の最先端の科学に目を配り、それを物語に生かそうとする姿勢が藤子氏には常にあった。だとすれば、「『のび太の恐竜』をリメイクするな!」の声は、単に自分の好きな「アニメ」に執着しているだけのもので、藤子氏の「精神」に共感しているファンのものだとはとても言えないのである。
 私は「アニメのファン」ではなく、「藤子・F・不二雄のファン」であるから、声優が変わろうがスタッフが変わろうが、一向に構わない。というよりも、そんなことで怒りの声を上げる浅薄なアニメファンの方にこそ腹が立つ。あなたたたちが愛しているのは「自分の中のイメージ」であって、「作品」ではないではないかと。オタクの「痛さ」ってのはそういうところにあるんだわ。
 現段階では、『のび太の恐竜』がどんな出来のものになるか分からない。この日記でも何度も繰り返しているが、批評の基本は(それが感想文レベルのものであっても)「見てからものを言う」である。私もリメイク版を見てまだティラノサウルスが直立歩行してたら怒るよ。まだ一年以上先のことでヒステリックに騒ぐんじゃなくて、「不安はあるけど期待しよう」くらいの余裕をカマシてほしいもんだけどねえ。


 DVD『ダーク・クリスタル デラックス版』。
 え〜、『もえたん』でも「ファンタジーの傑作」と紹介されている、『ダークリ』。今更紹介するのもなんなのだけれども、「2枚買ったら1枚タダ」ってキャンペーンに応募したらタダで入手できたので、久しぶりに見返してみたら、いやあ、やっぱり面白いんだわ、これ。1983年製作というと、もう20年以上前になるんだなあ。記憶が定かじゃないが、これ多分、大学時代の夏休みだったかに、当時の彼女と一緒に見に行ってる。映画もよかったから、二人の雰囲気もいい感じになったんじゃなかったかな。ゼミの友達もすっごく誉めてたのは覚えてるんだが。むにゃむにゃ。
 現在のように巷にファンタジー映画が溢れかえっている状況と違って、そのころは「ファンタジー」と言えば、あとは『ネバーエンディング・ストーリー』やら『ラビリンス』やらがあるくらいで、ファンタジーファンにとっては「冬の時代」だった。そんな中で『ダークリ』がどれだけオアシスな存在だったか。
 故ジム・ヘンソンとフランク・オズが、『セサミ・ストリート』以上のマペット技術とスーツアクトで構築したファンタジー世界。善のミスティック族と、対立する悪のスケクシス族(劇場公開時の吹替えでは「スケクシー」)。長きに渡る悪の支配を終わらせるために、悪を封印するというダーク・クリスタルを求めて、か弱きゲルフリン族の生き残り・ジェンは旅立つ……。
 ストーリーはかなり『指輪物語』の影響を受けているけれども、何と言っても素晴らしいのは、次から次へと現れるこの世界の住人たちの造形だ。賢人の気高さを湛え、羊と牛を合わせたようなミスティックス。直立する巨大な鴉のごときスケクシス。花沢徳衛そっくりのオーグラ(^o^)。そしまあ、人間以上に人間らしい表情を見せてくれた美しき笑みと魅惑の唇の妖精・キーラ。「萌え」という言葉が当時あったなら、絶対に「キーラ萌え〜!」なオタクどもが食玩フィギュアを買いあさっていたことだろう。そんなんなかったけどよ。
 なんかねえ。こういうの見てると『ハリー・ポッター』シリーズなんかはどうにもファンタジー“モドキ”にしか見えなくて困っちゃうのよ。いやもう、ファンタジーファンを自称するなら。これを見てないというのはモグリってなもんです。マジで。

2004年02月15日(日) 入院日記14/存在の耐えられない重さ
2003年02月15日(土) 今日はケンカしなかったね/映画『スコルピオンの恋まじない』/DVD『新八犬伝 辻村ジュサブローの世界』
2002年02月15日(金) ニンニクの家/映画『がんばれ!ジャイアン!!』/『キノの旅V』(時雨沢恵一)ほか
2001年02月15日(木) 携帯綺譚/『雨柳堂夢咄』5巻(波津彬子)ほか


2005年02月14日(月)  明日、あなたも刺されているかもしれません/『戦後最大の歌姫伝説 美空ひばり今年17回忌 今甦る愛・幻の絶唱』

 今年は2月、6月と、芝居を見に上京する予定を立てたので、例年ゴールデンウィークに観劇しているシティボーイズのライブは諦めようかと考えていた。なんたって、連休中は飛行機代がめちゃくちゃかかるのである。超割り、特割りに比べて2倍、しげと二人だから、出かけて1泊するだけで一気に七、八万円がすっ飛ぶのである。とても毎月のように上京するわけにはいかない。
 ところが、ついこないだまではシティボーイズのファンサイトを覗いても何の情報も載っていなかったのに、いきなり九州公演が決まったというのだ。
 しげは「『ちけっとぴあ』とか『e+』のプレオーダーにもまだ何の情報も載ってない」と言うから、まさに急遽決定したものだろう。会場が北九州芸術劇場で、しかも平日のみの公演だから、偶然スケジュールが空いてるかどうかして、いっちょやってこましたろうか、ということになったのではなかろうか。
 福岡から北九州に行くのにだって、旅費はかかるのだが、たかだか往復二千円のことである。今や結構見応えのある芝居は、福岡よりも北九州で上演されることのほうが多いから、その程度の出費はもう計算のうちだ。なんたって、WOWOW放送開始から15年、上京して観劇するようになってからも4年になるのだ。毎回毎回、アンケートに「九州公演行って下さい」と書き続けてきた甲斐があった。なんかもー、マジで泣きたくなるくらいに嬉しいのである。
 でもなあ、まだチケット取れたわけじゃないんだよなあ。なんたって、即日完売の超人気ライブである。果たして発売日に取れるかどうか。また電話半日ずっとかけっぱなしということになりゃしないか、今から気もそぞろなのである。


 夜、『ブラック・ジャック』『名探偵コナン』『世界まる見え!』『キスイヤ!』と続けて見る。どれも気に入って見ている訳ではないのに、どうして毎週チャンネルを合わせてしまうのか自分でも謎なのであるが、それが人間の不思議というやつであろう。
 続く『スーパーテレビ特別版 戦後最大の歌姫伝説 美空ひばり今年17回忌 今甦る愛・幻の絶唱』。
 美空ひばりの養子(本当は甥)の加藤和也と、浜田光夫の娘さんとの結婚披露宴に絡めて、美空ひばりの軌跡をたどるもの。それにしてももう亡くなって17年になるんだなあ。美空ひばりを知らない若い人もいくらでもいる時代になっちゃったんだなあ。
 美空ひばりに関する番組はもういやというほど見てきていて、その神格化のされ具合が鼻につく部分もあって最近はあまり見ていない。これも「流れ」で偶然見ただけのことなのだが、まあやっぱり「美空ひばり伝説」を補強するものでしかなくて、その音楽性とか大衆性とかに本気でメスを入れようとしたものではない。本当はそれをちゃんとやらないと、美空ひばりを知らない若い人が見たときに「なんでこんなケバイおばちゃんの特集なんかやってんの?」って誤解を生むことになりかねないと思うのだが。
 従来の「ひばり」特番の何が鬱陶しかったかと言うと、関係者が口を揃えたように「歌が人生でしたね」と繰り返すインタビューばかりが延々流される点なのである。「一卵性親子」も「弟の事件」も表層的になぞるだけでは“にも関わらず、美空ひばりの歌や映画が庶民の心を掴んだのはなぜか”ということが一向に分からない。
 美空ひばりは、よく「昭和」を象徴する歌手として称えられるが、実際は「戦後」を象徴する歌手なのであり、「復興」のイメージと美空ひばりを切り離して語ることはできない。ハッキリ言った方がいいと思うが、昭和も40年代後半になれば、既に美空ひばりは大御所ではあっても「過去の人」であり、時代はフォークからニューミュージック、そしてアイドル全盛の時代へと移り変わっていっていた。美空ひばりが「スター」として時代と“寝ていた”時期は、戦後の20年ほどで終わっていたのである。だからこそ、NHKも「弟の事件」を理由に、彼女を『紅白歌合戦』から“降ろすことができた”のである。
 しかしだからと言って、美空ひばりの価値が貶められるわけではない。妙な神格化がかえって美空ひばりの真価を見誤らせる危険があるというだけで、彼女が大歌手であることは紛れもない事実である。
 それまでにも流行歌手はたくさんいたが、「歌に生き、歌に死ぬ人生」を意図的ではないにしろ、初めて社会的に“演出”したのが美空ひばりという存在であった。マスコミからのバッシングや病魔との戦いは、「私には歌しかない」という熱情を彼女にもたらしたが、それらの「物語」は後続の演歌歌手たちにこぞって“模倣”された。そしてそれは「生きるしかない」敗戦後の庶民の姿にもぴったりと重なっていたのである。その決して上手いとは言えない、聞きようによってはダミ声にすら聞こえる独特の歌声は、どんなに朗らかに歌おうともどこかに哀愁を帯びており、高額所得者に名を連ね、「ひばり御殿」と称される豪邸に住みながら、美空ひばりにはどこか「不幸」の影が付き纏っていた。それらの要素はみな、戦後復興期から高度成長期にかけて庶民が味わってきた「苦労」を体現したものとして受け容れられてきたのである。だからこそ、カツカツの生活の中で、それでも卓袱台を挟んで親子で食事をする暖かさに安らぎを覚えていた「昭和」の人々には、『柔』や『悲しい酒』が、すんなりと我が心の歌として口ずさまれていたのだ。貧乏も借家住まいも知らない現代の若い人たちが聞いたなら、彼女の歌はいったいどのように受け止められるのだろう。ダサイだろうか。お笑いだろうか。だとしたらこんなに悲しいことはない。
 今回の番組にはその手の視点が悉く欠けていて、「こんな歌手がいたんですよ」程度の中身しかなく、その意味ではまるでつまらない。けれど、それでも加藤家に所蔵されていたものであろうプライベートフィルムなどが紹介されていて、息子・和也君への彼女の溺愛ぶりが、そのスキンシップぶりや笑顔とはまるで正反対に、「努力して努力して不幸から脱却しよう」と懸命になっているように見えて痛々しく、涙をそそらないではいられない。ここで哀しみを感じるか感じないかで、「昭和」を生きてきた人間かそうでないかが分別されるのである。この「笑顔の裏の悲しみ」こそが、「戦後の昭和」という時代の本質であった。「昭和」のイメージの色濃い役者たち、例えば渥美清も、中村錦之助も、「無国籍」と言われた『渡り鳥』シリーズの小林旭ですらも、実はその「悲しみ」を映画の中で体現していた。そしてそれは現代の若手の歌手や役者からは完全に失われてしまったものなのだ。
 ……でも、美空ひばりと小林旭との結婚について一切触れなくなったのはなぜかなあ。どちらの家に遠慮してるのかは分からないけれども、本気で伝記番組を作る気なら、避けちゃいけないことだと思うんだがなあ。暗黙のうちに「タブー」になっちゃってるのだろうか。


 夜、外出して、エコ缶さんとこの打ち合わせから帰宅したしげが、「なんかまた乱入事件が起こっとるよ」と言う。「乱入」と聞くと私はどうしてもタイガー・ジェト・シンやハルク・ホーガンやラッシャー木村を連想してしまうのだが、プロレス関係の事件ではなかった(そういう連想をする私の方がオカシイ)。
 午後3時すぎに、大阪府寝屋川市初町の市立中央小学校に、包丁を隠し持った17歳の少年が侵入し、男性教師1人と女性2人を刺した。背中を刺された教諭の鴨崎満明さんの傷は右肺から心臓にまで達しており、間もなく死亡した。駆け付けた寝屋川署員によって少年は取り押さえられたが、取り調べた結果、寝屋川小の卒業生と判明した。
 同じ大阪ということで、どうしても宅間守による池田小殺傷事件を想起してしまうが、今回は犯人が少年で、被害者が教師ということだからベクトルは全く逆である。「弱者」をターゲットにした宅間守に対しては世間やマスコミの怒りは容赦がなかったが、さて今回またぞろ起きた「未成年」の犯罪に対してはやはりテレビなど表だったメディアでは「犯人に対して怒りを覚える」式の発言は聞かれない。その代わり、「警備体制はどうだったのか」という、責任を何としても学校側に求めようとする論調の方が目立っている。「下校時で正門は開いたままだった」「監視モニターの前には誰もおらず、警備員も雇っていなかった」「校長・教頭は出張でいなかった」など、「学校の不手際」「安全対策の不徹底」などが取り沙汰されているが、学校側に油断がなかったとは言わないが、これって、未成年である犯人の「責任」についての言及から問題を逸らそうとしているだけではなかろうか。
 実際、いくら「警備の徹底で安全対策を」と言ったところで、限界があろう。宅間事件のときだって、ああした「乱入」事件が初めてだったわけではなし、行政や教育機関、あるいは地域が、これまでの「教訓」に基づいて何か対処ができるものかどうか、どんなに真剣に対策を取ったところで、どこかに“綻び”が生まれてしまうことは否めないと思う。
 今回も、初め犯人の少年は普通の訪問者のふりをして、鴨崎さんが職員室に案内しようと背中を向けたところを刺したと言う。無害な庶民のふりをされては、身を守ることなんてそうそうできることではない。フェンスを高くしようが、警備員を雇おうが、本気で隙を突こうとする犯罪者にとってはたいした障碍にはならない。佐世保の小六少女殺害事件などは内部の犯行ではないか。
 ネットなどを見てみると、犯人がゲームに熱中していたからということで、そちらに責任転嫁しようとする向きも相変わらずないではないが、さすがにこの手の馬鹿意見は「煽り」的にしか見られなくなっている。少年犯罪がこれだけ異常化し複雑怪奇なものになっている現在、たかがゲームだけに原因を求めることには無理があるし、その手の意見を口にすれば大谷某のように袋叩きに合うことが誰の目にも明らかだからだ。
 その大谷某は、今回の事件に関して「それよりもそういう異常な犯人が現れないような社会環境を形成していく方が重要ではないか」という意見を述べているようであるが、一見、以前よりはマトモなことを言っているようでいて、これとても実効性を考えれば無理な注文つけてやがるなあとしか思えない。社会の基本が家庭にあるとすれば、核家族化共働きが普通で子供とろくろく顔を合わせることすらできず、教育機能が崩壊している状態で、なんの環境が整えられようか。地域だって、休日に子供を受け入れる施設や交流の場を充分に設けていないのが実情である。
 今度の事件の犯人も、両親は揃っているし、兄弟もいたと言うが、それでも何の対処もできなかったのだ。たとえ社会が正常に機能していても、既知外は出る時は出る。「動機は何か」なんてことを追及したって、結局、人間の心の闇など誰に解明できるはずもなく、再発防止にはまるで直結しないことはこれまでの事件が証明しているとおりである。
 「集団下校だって、危ないよなあ。手当たり次第に殺そうと思ってるやつにとっては『狙って下さい』って言ってるようなものだし」と言ったら、しげがサラリとこう言った。
 「だから、誰か一人犠牲になってる間に、逃げたり通報できるから集団で行動するんだよ」
 ……要するに通り魔的犯罪を防ぐ手段など基本的にはないのである。そりゃ、取れる対策は全部取ったがいいに決まっているが、「絶対の再発防止」は夢想でしかない。我々は今、隣にいる人間が突然狂人と化して襲いかかってくる危険性を覚悟して生きねばならなくなっている。しかし、世も末だとは嘆くまい。昔から既知外はいくらでもいたし、そういう危険性がなかったわけではない。逆に現代、世相がこれだけ荒んでいるにも関わらず、凶悪事件を起こす子供が何万人に一人しか出ない、という見方だってできるのだ。
 情報の伝達が、そういう危険性に鈍感だった時代を過去へ押し流してしまっただけのことだ。侃侃諤諤の議論のあとに、最後は少年法の改正を求める声が高まるのは、せめて犯人を死刑に処することでしか庶民の溜飲が下がらないからではないのか。


 で、今日も深夜にしげと『いたスト』。寝たのは3時かなあ(^_^;)。

2004年02月14日(土) 入院日記13/どこまで食えるか
2003年02月14日(金) いろいろあらあないろいろね/映画『火山高』/映画『黄泉がえり』/『爆笑問題とウルトラ7』(爆笑問題ほか)
2002年02月14日(木) 夫でも義理チョコ。……夫だから?/アニメ『七人のナナ』第6話/『金田一耕助の帰還』(横溝正史)ほか
2001年02月14日(水) だから初心者なんだってば/『わが師はサタン』(天藤真)


2005年02月13日(日) 吾妻ひでお復活!/『魔法戦隊マジレンジャー』第1話ほか

 昨日の日記で、「全シリーズを丹念に買ってたのが『いただきストリート』だった」と書いたら、しげから「『アイドル雀士スーチーパイ』はどうした?」とツッコミがありました。そう言や、結構シリーズ買ってたなあ。
 かないみかさんのとっても楽しい声を聞きながら、そうかあ、かないさんは旦那さんの山寺宏一さんと……と想像を逞しくされた声優ファンもいっぱいいたろうと思われる(嘘)。
 まあこれもヒマツブシにはいいんだけど、私、脱がしゲーは萎えるんで。いや脱がせたら脱がせたで一応ちゃんとスクロールして見はするけどさ。


 『魔法戦隊マジレンジャー』第1話「旅立ちの朝 〜マージ・マジ・マジーロ〜」。
 ……タイトル書き写しながらも脱力感が漂っちゃうんだけれども、もう戦隊シリーズつて、タイトルも内容も何てもありっつーか、節操なくなってるよなあ。原作が実は『ゴレンジャーごっこ』だと言われても納得しちゃうぞ。いやまあそれは今に始まったことじゃないんだけれども。
 ともかく今回のキーワードは「魔法」である。またロートルが何を言うとるかと若い人の顰蹙買うかもしれないが、「魔法じゃSFじゃないじゃん」。少なくとも、これまでの特撮番組は、『5年3組魔法組』みたいなまんま魔法ものを除けば、「魔法」的なものが出てきても、何かそれらしいリクツをつけて“SFっぽく”してはいたのである。いや、別に戦隊ものがSFである必要は全くないのだが、SFに拘っちゃいないんだなということが実感されてしまうとなんかまた一つ、心の中に大切に仕舞っていた大切なものが、カタッと音を立てて外されてしまったような、そういう寂しさを覚えるのよ。魔法の変身アイテムが携帯(“マージフォン”だと)って、『プリキュア』じゃん(+_+)。
 でもまあ、そもそも戦隊シリーズに何かを期待しているわけではないから、主人公・魁(マジレッド)がいきなり鉄塔によじ登って子供が飛ばした風船を取ってあげようとしていても、「ワザトラシイつかみだ」なんて思わない。実は魔法使いだったお母さん、「あんなムチャをする子に本当の勇気は分からない」とか言って、魁一人だけに携帯を渡さなかったくせに、他の四兄弟が危難に陥ったところに魁が「何の用意もなく」飛び出していったら突然掌を返して「それこそ勇気よ!」って言って携帯を魔法で転送するってのは矛盾してるんじゃないのかなあ、なんて思わない。ええ、思いませんとも。
 若手五人の芝居はもう毎回アレなんだけれど、一家のお母さん役の渡辺梓さん、随分芝居がしっかりしてる人だなあ、と思って調べてみたら、無名塾の人だった(仲代達矢さんとこね)。まあ当たり前だが、正義側ではマジマザーがイチバンカッコイイのである。

 『仮面ライダー響鬼』三之巻 「落ちる声」。
 一乃巻に続いて、またもやオープニングは「通学サイクリングミュージカル風」だけれど、メロディーが『かえるのうた』(つか原曲はドイツの民謡)で、それを「き、き、き、き、きききききききき、きたえよう」とか替え歌にしているから、1話よりずっとお間抜けな雰囲気になっている。もともとヒビキがこの歌を1話からずっと口ずさんでいるから、それがヒビキに憧れる明日夢にも移った、ってことなのだろう。空に浮かんでいる雲までがカエルの形なのがおかしい。
 どうやらこのミュージカル風演出、今後も定着するようだ。第1話を見たときには「なんだこのお寒い出だしは」とちょっと憤っちゃったのだが、あくまで「お間抜け」路線で行くというのならこれもアリか。明日夢くんの歌う歌がヘタクソなのはもうちょっとなんとかしてほしい。ああいう演出は「歌だけは上手くないと映えない」ものなのである。
 ヒビキ役の細川茂樹の飄々としたオジサンぶりが何となく金田一耕助っぽくて、演出の悪ノリな部分がそう気にならなくなった。明日夢がショックで試験に落ちるかもしれない、と言われて、慌てふためく様子もかわいい。『アギト』のころ、劇中でやたらつまらないダジャレを飛ばしてたのは腹が立ってたものだったが。
 ただ、展開がギャグっぽくなっている分、敵の妖怪との対決が逆に取ってつけたようになってる印象はある。今回の敵はヤマビコ。でも外見は赤面猿といった感じ。前回もオスメス型の妖怪(「怪童子」と「妖姫」と言うのだそうな)と巨大蜘蛛が出てきたから、最後に出て来たデカイのが「巨大ヤマビコ」になるのかな?


 で、あと一日何をしていたかというと、昨日に引き続き、『いたスト』やってました(^_^;)。
 だからゲームは魔窟なんである。


 読んだマンガの感想を最近なかなか書けないが、これだけは絶対書いとく。
 と言っても、旧作の再版が殆どの吾妻ひでお作『オリンポスのポロン』1、2巻。これが「ハヤカワ文庫」から出版されていることの意味も、今の若い人にはわかんなくなってるんだろう。……あのね、ここだけの話ですが実は吾妻ひでおって、「えすえふ」なんですよ。
 『おちゃめ神物語コロコロポロン』と改題されて1982年にテレビアニメにもなったから、20代の人は知らなくても、まあ30代以上の人ならば覚えている人もいるとは思う。ギリシャ神話をベースにして、半人前の女神ポロン(太陽神アポロンの娘)が、一人前の女神になるべく頑張るという、いかにも少女マンガ的な物語だが、実は吾妻ひでおのマンガの中でも、最もロリ度が高い。ロリコンブームの中でこれが吾妻まんがアニメ化の第1号に選ばれたのもそれが理由だろうが、残念ながらスタッフがヘボヘボで、ポロンが全然可愛くなかった(二作目の『ななこSOS』はちょっとマシになった)。今回描き下ろしの「あとがきまんが」を読むと、当時の監督、まるでやる気がなかったらしい。『J9』の監督もやってて、それなりに人気はあった人なんだけれどもねえ。
 今でも私は「こーわくない、でもこっわっいー、はーずかしいー、でもうっれっしー♪」って『ポロン』の主題歌が歌える。でも実はそのころ大学生だった私の下宿にはテレビがなくて、実家に帰ったときくらいしか『ポロン』は見たことなかった。じゃあ、なぜ主題歌が歌えるかというと、吾妻ひでおのファンだった某友人が、学内だろうと道端だろうと、人目も憚らずに口ずさんでいたので、横で聞いてて自然に覚えてしまったのである。私のことをロリだと勘違いする人がいるが(女房と結婚したとき、向こうが18歳だったから誤解を招いたのだ)、ロリ度においてはその友人の方がはるかに上だった。だって俺、吾妻ひでおはともかく、内山亜紀までは集めてなかったもん。これだからオタクはよう。
 本当は吾妻ひでおの世界は更に幅広く、最先端のSFをまんがの形でコアなファンの間にも浸透させていった。『やけくそ天使』『贋作ひでお八犬伝』『不条理日記』『スクラップ学園』『陽射し』『メチル・メタフィジーク』などなど……。
 つまりそれくらい「吾妻ひでお」は80年代の「SFファンの(およびロリコン)のカリスマ」的な存在だったわけであるが、まあ、この『ポロン』がヒットしなかったのは痛かった。多分、みんな次の「吾妻アニメ」に期待したファンはたくさんいたと思うが(特に『スクラップ学園』は誰もがアニメ化されると固く信じていた)、『ポロン』と『ななこ』の二作で、吾妻アニメはその歴史を閉じてしまったのである。
 今、原作マンガを読み返してみると、パロディでありながら、『ポロン』は意外にも原典であるギリシャ神話にかなり忠実である(オリジナルキャラであるポロンですらパエトーンをモデルにしていることを今回あとがきまんがで吾妻さんは明かした)。ペルセウスと結ばれるのがアンドロメダではなくメドゥーサだったりするという改変はあるが、それは吾妻さんが蛇女に変身させられたメドゥーサを哀れんでいるからだろう。ブラックなギャグの背景にある吾妻さんの優しさがこのあたりにも垣間見える(だって、メドゥーサのキャラ、まんま当時吾妻さんがファンだったアグネス・チャンなんだもの)。そういう発見も今読むと新鮮だ。
 2巻の解説で、山本直樹さんがこう書いている。
 「現在の日本のマンガの半分は手塚治虫が作ったものです。あとの半分はつげ義春が作ったものです。で、その二つを一番最初に融合させたのが吾妻ひでおだったと思うのです。」
 山本さん自身、「暴論」と称するこの意見。私も賛成したいと思うのである。
 あ、それからあとがきで、エロースのモデルになったアシスタントの「K君」というのは、マンガ家の沖由佳雄のことだけど、この人もすごいロリな絵を描いてて今でも同人誌は出してるみたいだけど、商業誌ではあまり見かけなくなった。この人も私は好きで『プチ・アップルパイ』とか、この人のまんがが目当てでずっと購読してた時期があったのだが、誰か消息知ってる人はいませんか(やっぱり私もロリか)。

2004年02月13日(金) 入院日記12/退院決定!
2003年02月13日(木) 絆創膏綺譚/『逆説の日本史7 中世王権編』(井沢元彦)/『魔法使いさんおしずかに!』1・2巻(竹本泉)ほか
2002年02月13日(水) たくさん書いてるけど半日は寝ている(^^)/『ギャラリーフェイク』24巻(細野不二彦)ほか
2001年02月13日(火) 明日寂しい思いをする人は読まないで下さい/『コロンブスの航海』(J.P.チェゼラーニ)ほか


2005年02月12日(土) 死んでもゲーム/舞台『BIGGER BIZ 〜絶体絶命!結城死す?〜』

 『ウルトラマンネクサス』、もう19話まで行っちゃってんだなあ。
 カメラマンさんが怪獣(ビーストなんて言いたかねえよ)に踏んづけられて死んじゃったれど、別にジラースへのオマージュじゃないよなあ(^o^)。前作『コスモス』がなんだか「憎むな殺すな許しましょう」みたいな甘ったるいお話しで顰蹙買った反動か、どんどん辛気くさい話になってるけど、妙にシリアスなストーリーに影響を与えたと思しい平成仮面ライダーシリーズが、新番の『響鬼』ではかなりおふざけな色合いを前面に押し出していることを考えると、せっかく復活した新生ウルトラシリーズ、何となく当てた褌を外されちゃった感がなくもない。
 そう言えば、劇場版『ULTRAMAN』のラストで、『ULTRAMAN2』の予告が流れたけれども、これが今度阪神大震災10周年祈念に合わせて作られるっていう次回作のことなのかね?


 昼から天神西鉄ホールで舞台『BIGGER BIZ 〜絶体絶命!結城死す?〜』。
 後藤ひろひと脚本、G2演出による『BIG BIZ 〜宮原木材危機一髪!〜』に続くシリーズ第2弾。1作目を見ていないので、話についていけるかどうか心配していたが、殆ど杞憂。何しろ松尾貴史(未だにキッチュと呼びたくなる)が出てきただけで舞台空間がいきなり「いかがわしく」なってしまうのだから、これまでの背景などの説明は一切無用と言ってもいい。そこにいるだけで他人の神経を逆撫でし、事態を紛糾させ、破壊と混乱を呼ぶトリックスターを造形することは日本的なしっとりした風土の中ではなかなかに難しいことなのだが(『寅さん』だって、人情に流れないと話が成立しない)、舞台をシンガポールという怪しさ満載のトチに設定したおかげか、シメっぽい要素はカケラもない。よくもまあこういう純粋にピカレスクなシチュエーションコメディが作られたものだと感心する。三谷幸喜が失速気味な今、舞台でのコメディはこの二人のコンビが一番旬じゃなかろうか。

 かつて電話一本で幽霊会社を設立して100億円を稼ぎ出した「ドリームチーム」の面々は、今はバラバラになってそれぞれの生活を送っていた。
 「結城ビッグ・ビズ・エンタープライズ」の社長に収まっていた結城(粟根まこと〈声のみ出演〉)は、新入社員・加賀(坂田聡)を連れて、ミラノの大富豪デルベッキオの代理人・川島(三上市朗)との取引契約のためにシンガポールのある古ホテルの一室にやってきていた。偶然にもそのホテルのオーナーはかつて「ドリームチーム」の一員だった絵描きの神崎(後藤ひろひと)。さらに商店街の懸賞に当たったという結城の天敵・いい加減男の健三(松尾貴史)もホテルにやってきていた。かつて健三に散々翻弄された結城は彼に出会った途端に発作を起こし、気絶してしまう。大パニックに陥った加賀は、健三と相談して何とか事態を収拾しようとするのだが……。気弱で押し出しの効かないマニラ支店長・青木木太郎(八十田勇一)は勘違いの連続で更なるトラブルをまきおこし、天才ハッカーの皿袋(松永玲子)はインターポールに追われていたのがなぜか仲間の危機を察知して駆けつけてくる。しかし実はこの契約のウラには、とんでもない陰謀が隠されていたのだった!

 実直で融通が利かない新入社員を演じる坂田聡が、トリックスターである松尾貴史や松永玲子によってどんどん狂気の世界に引きずりこまれていく過程は、まさしくマルクス兄弟以来のナンセンスコメディの醍醐味である。個性的なキャラクターが交錯しドラマを盛り上げていくアンサンブルの具合は実に見事だが、その中でもやはり光っているのは松尾貴史の狂いっぷりだ。ジンバブエ歌劇団の衣裳を次から次へと取り替えて、悪魔、法王、アラブのテロリストと千変万化、更には声色を駆使して詐欺を働いていく様は、ゾクゾクするほどの快感。シナトラ狂いの後藤ひろひととトム・ジョーンズ狂いの三上市朗の「どっちが上か」対決も無意味で可笑しい。
 そうそう、この芝居、コン・ゲームドラマとしても実に周到に出来ているのである。だもんでトリックとかそういうのを詳しくはバラすわけにはいかないのだが、DVDが発売される予定なので、ご興味のある方は御購入してみていただきたい。通販しかないとは思うけど。


 帰りに「ベスト電器」でしげがエコ缶さんの舞台で使うかもしれないというインカムを物色。どれも高い。しげが品を見ている間、こちらはヒマなのでゲームコーナーなどを見る。新撰組のゲームが出ていたが、キャラデザインが和月伸宏さんなのに、映像はCGで似ても似つかない。こんなんデザインしてもらって意味あるんかいな。マンガのキャラクターのままでなぜいけないのか。3Dじゃないと動かしにくいってんなら、キャラデザインをマンガ家に依頼しなきゃいいと思うんだがねえ。

 いったん帰宅して、しげの作ったチョコレートを持って父の店に行って手渡す。
 挨拶もそこそこに、「ヤマダ電器」に回って、DVD−RWと『ドラゴンクエスト&ファイナルファンタジー いただきストリートSPECIAL』を購入。こないだからしげが「買って買って」とうるさかったので根負けしたのである。
 私はゲームの類は殆どやらない。格ゲーやRPGにはもともと興味がなかったので、ドラクエもFFもどれがどのキャラだか全然分からない。アドベンチャーや落としゲー、ボードゲームは昔、ちょっとだけやった。ちょっとというのは『同級生』『to heart』といったシリーズくらいで、これも『センチメンタル・グラフィティ』に腹立てたのが原因でやめた。
 そんな中で全シリーズを丹念に買ってたのが『いただきストリート』だったのだが、これがまあ、クリアーするのにやたら時間がかかるのである。要するに人生ゲーム+モノポリーみたいな双六ゲームなのだが、隠しキャラを探し出すためにトーナメントを全て勝ち進んでいかなければならない。これがまた、1週間や2週間じゃ利かないのである。その間、本は読めない、目は疲れる、頭痛はする、それだけ努力しても何か人生に益するところがあるわけではない、全く時間の浪費以外のナニモノでもないのだが、その「時間の浪費」くらい楽しいことはないのである。だからと言って、「時間の浪費こそ人生の贅沢」とか詭弁を弄するつもりはない。単に馬鹿なだけだ。
 でまあ、買って、早速しげとゲームをやり始めたはいいのだが、これがもう予想通り、全然中断できない。しげは睡眠薬を飲んでいるので、目はしょっちゅう閉じてアタマは舟を濃いでいるのだが、それでもコントローラーから指だけは離れないのである。時々目が白目を剥いていて口は半開きなのに指だけは動いているので気色悪いのである。で、気がついたら朝の6時である。私も頭痛で目の奥が痛い。
 ……だから本当はもうゲームから卒業したかったんだよなあ。若いうちはいいけどよ、40過ぎてゲームなんかにハマッてるとカラダ壊すだけなんだって。でも一度ハマッた経験のあるやつはなかなか足抜けできないものなんだろう。私は酒もタバコもやらんが、ゲームで死んだ、なんてことにでもなったら泣くに泣けんが、冗談じゃなくそうなる可能性があるような気がする。
 「藤原敬之は死んでもコントローラーを離しませんでした」って、教科書に載る……わけねえって(+_+)。


 夜、11時より2時間ほどチャット。前回に引き続き、新設したJavaチャットである。
 参加者は、しげと私に、鍋屋さん、あやめさん、初参加のぴの。さん。
 話題は次回のオフ会についてなど。今月26、27日に上京する予定なのだが、未だに参加人数と場所が確定しない。以前参加された方の何人かにも連絡を取りたいのだが、いかんせん、こないだしげが私のパソコンのデータをいじくって間違ってメールのデータを全部消してしまったのである。そういうわけで、こちらから連絡が取れない状況にあるのだが、初参加の方でも私の馬鹿ヅラを拝んでみたいと仰る奇特な方がおられましたら、メールを下さいませ。
 回線が混雑しているせいか、みなさんやたらと飛ばされる。自分で探してきただけに、Javaチャットが不評で、しげはちょっと腐っていたが、ログが殆ど残らないのはかえってキラクに喋れる分、いいんじゃなかろうか。

2004年02月12日(木) 入院日記11/存在の耐えられないデカさ
2003年02月12日(水) ラブラブブラブラ/『逆説の日本史6 中世神風編』(井沢元彦)/『バロム・1』1巻(さいとう・たかを)ほか
2002年02月12日(火) 気がついたらマヨラー(笑)/『ブギーポップ・アンバランス ホーリィ&ゴースト』(上遠野浩平)/『大秘密』(W・パウンドストーン)
2001年02月12日(月) 来年の『ゴジラ』はあるのか/『アニメージュ』『ニュータイプ』3月号


2005年02月11日(金) 狂っても人生/映画『新暗行御史』

 朝のニュースで、開成中、桜蔭中の合格発表の模様を中継。
 そのへんでハナ垂らしてるガキンチョとはまるでオツムの出来が違ってそうなキリリとしたお顔だちのお子サマたちが「やった〜!」なんて満面の笑みで叫んでるんだけれども、一番喜んでるのは塾だの家庭教師だので既に湯水のごとく投資している親御さんなのであろう(^o^)。お父さんが涙まで流してるの見てると、全く親って辛いよなあと思う。
 翻って私自身も親に大学まで出してもらったわけだが、しょっちゅう言われていたのは「一人っ子だからこそ大学までやれた。お前に兄弟がいたら大学まではやれなかった」である。大学でバイトして奨学金をもらっていても、物価の高い東京では、学資生活費の大半を親に頼らなければならない。ゼミの教授には「大学院まで行かないか」と勧められてはいたのだけれども、当時の親の経済状況がそれを許さなかった。と言っても実家自体が貧乏だったということではなく、何度か日記にも書いてきた親戚どもに金をたかられまくっていたからである(だからその親戚が今更いけしゃあしゃあと借金を申しこみに来たところで、私が相手にするわきゃないのだ)。そんな状況であっても、大学まで出してもらったのだから、親には充分感謝をしているのだが、その半面、高校時代は家業の手伝いばかりさせられていて父には「うちで宿題なんかするな!」と怒鳴られて、受験時ですら勉強に専念させてくれなかったのは今でも恨みに思っている(おかげで宿題が間に合わずにしょっちゅう先生に叱られていた)。全く、教育熱心だったのかそうでなかったのか、よく分からない。要するに子供が自分より勉強ができることに劣等感を感じていたただの馬鹿だったのだ。テレビに映っている親御さんたちも充分馬鹿っぽいが、ウチの馬鹿親は子供の足を引っ張るばかりだったから、それよりゃよっぽどマシだよなあと思う。
 テレビに映っている子供たちの中に、「これからの進路は?」と聞かれて、「それは社会の“混沌”の中で自分で見つけていきます」とか答えていた子がいた。いかにも優等生的な様子で、こまっしゃくれた言葉遣いではあるのだが、こういう年頃は、覚えた言葉をともかく会話の中に使ってみたいものなのである。まだ世間ずれしていない証拠で、かえってかわいらしいくらいだ。ただ親は微笑ましく見守るばかりじゃなくて、もちっと言葉遣いに気をつけるように注意したほうがいいとは思う。
 コメンテーターは「荒れる子供たち」を想定しているのか、「こういう勉強に専念する子供たちもいないといけませんね」とか言ってたのだが、舌の根も乾かぬうちに「塾に通えるのは一部の子供だけで、今のゆとり教育は貧乏な子供たちの学習の場を奪っています」と言って批判したのにはガクッときた。不況不況とは言うものの、そこまで貧乏なうちが今の日本にどれだけいるというのだろうか。1パーセントもいないんじゃないか。
 学力に格差ができて何が悪いのだろう。有名進学校に合格した子供たちは、まさにその「ゆとり」の時間を有効に使って学力を伸ばしたのである。今「ゆとり教育」に文句をつけてる連中は、みんな土曜日曜は怠けて遊び呆けてたやつらや、その親たちだけではないのか。学校の授業というものはどうしても成績が真ん中あたりの子供を標準にせざるを得ないので、トップクラスの子供たちにとっては退屈なものでしかない。「分かりやすい授業」などというものは、そういう子供たちにとっては邪魔でしかないのだ。だから早い段階で勉強する子としない子に「格差」をつけて、する子には「ゆとり」の時間を使ってどんどん学力を伸ばしてもらう。才能のある子が周囲にムリヤリ合わせられて「出る食いは打たれる」状況になっているのを改善することが「ゆとり教育」の目的なので、落ちこぼれのために考えられた施策ではない(いや、落ちこぼれだって、時間を有効に使えば授業に追いつくことは可能なはずだ)。かけっこで横一列にゴールさせて誰も一番にしないような「悪平等」には文句をつけるくせに、自分たちの努力不足は棚にあげておいて、勉強での格差をなくせと文句を付けるというのは卑怯なだけではないか。今、自分たちが唱えている「ゆとり教育」反対の声が悪平等のそのものなのである。
 落ちこぼれて何が悪いか。落ちこぼれたからといって卑屈になり他人を羨むその精神自体が差別的ではないか。その人の人格を見ず、学力だけで内面を勝手に推し量っているくせに、それでどうして自分たちのほうが正しいなどと思いこめるのか。もしも自分が落ちこぼれなかったら、そいつらは決して「ゆとり教育」に反対はしないはずである。目を覚ませ。自分たちが馬鹿なのは誰のせいでもなく自分だけの責任だし、どうしてオレだけひどい目にあっているのだというのはただの被害妄想だ。「ああ、自分は馬鹿なのだな」と気がついたら無理に進学しないで自分の道を探し、さっさと働いたほうがよっぽど人間的には立派だろう。「進学しかない」という狭い判断が自分の人生の道も狭めてしまっているのである。
 「でも、せめて高校まで進学しないと就職口がない」とか文句垂れる馬鹿親もまだいるが、それこそ高卒以上しか採用しない「会社」に文句を付けるべきで、批判の矛先が学校や文科省にというのはお門違いも甚だしい。ゆとり教育はもう十年以上前から推進、段階的に実施されてきたもので、そのことはさんざっぱら告知されてきたにも関わらず、対応を怠ったのは企業や会社の方なのである。安上がりだからとか言って外国人の不法就労者を雇ってないで、さっさと中卒に門戸を開け。日本をダメにしてるのはそいつら中小企業だ。
 それなのに文科省では「ゆとり教育の見直し」とか言って、「内容の削減はともかく、授業時間の削減はよくなかった」とか言っている。これは全然逆で、授業時間の削減を行って内容を凝縮しなければならないのである。伸びる子はどんどん伸ばし、落ちこぼれる子は落ちこぼらせる。そうしなければ、日本の次代のリーダーは馬鹿どもに足を引っ張られるばかりだ。こんな腰砕けの姿勢じゃ、またぞろ愚民にいいように翻弄されるだけだぞ。いい加減、馬鹿はほっとけ。


 夜、シネテリエ天神までアニメ映画『新暗行御史』を見に行く。
 東京では昨年のうちに公開が終わっているのだが、福岡ではやっと今月になって公開、でもってモーニングとレイトの二回のみで一週間のみの限定公開。今日がもう最終日である。なんかもー、泣くに泣けんよ(+_;)。パンフレットを買ったら「単行本10巻12月発売予定!」とか書いてあるのな。とっくに買ってるって。
 長大な原作を1時間半のワクにはとても収められないので、原作の「新・春香伝」と「曼陀羅華」だけを抽出して映像化。そのアイデア自体は悪くないのだが、何と言っても原作の「序章」における「暗行御史」の初登場シーンの意外さ、鮮烈さにはまさに度肝を抜かれたので、これを映像化してくれなかったのはやや恨みに思う。もっとも、原作ファンはとっくに文秀(ムンス)の正体を知っているわけで、製作スタッフは序章を映像化しても今更だよなあ、と判断したのかもしれない。しかし、映画で初めて『信暗行御史』に出会ったという人もいるはずで、そういう人が改めて原作を読んだらかなり興を殺がれることになる。
 本郷みつる脚本は、春香(チュンヒャン)が山道(サンド=暗行御史の護衛)となっていく過程を描く形で二つのエピソードをうまくつなげており、その点でソツはないのだが、ストーリー展開の意外性などは失われていて面白味にも欠ける。いや、それ以前に原作を未読の人間にはかなり不親切な作りになっていて、聚慎が滅びた後、文秀がどうして旅をしているのか、彼がやたら呼吸器を使っているのはなぜなのか、あるいは柳義泰(ユイテ)が島民に外法を施すのはなぜなのか、物語を牽引するための説明が殆どなされない。原作を読んでいる私ですら、画面を右往左往するキャラたちをただ漫然と見せられるばかりで、いっこうに物語に惹き込まれなかったから、初見の方はなおのことだろう。本郷さん、『クレヨンしんちゃん』から身を引いて以降、今一つパッとしないのが寂しい。
 劇場公開ではなく、テレビシリーズだったらなあ、とも思うのだが、そうなると作画のクオリティを図れるかどうかも疑問なので、痛し痒しだ。
 いや、作画がいいと言っても、実際に「見れる」のは山道のアクションシーンくらいのもので、ほかは総じて平板なのである。原作の梁慶一の絵は日本のマンガキャラをかなり意識したものなので、アニメ向きかと思っていたのだが、それでもマンガとしては充分濃密だったのだろう。アニメキャラクターになった途端にその魅力が半減している。
 それでも昨日までに見た『オペラ座の怪人』や『きみに読む物語』よりはよっぽど面白いのである。日本映画はダメダメだという人は多いが(これは日韓合作だけど)、ダメ率で言えばハリウッド映画の方が圧倒的に数は多いので、何でもかんでもハリウッドが一番みたいなマスコミの流したエセ情報に洗脳されないでモノは見ていただきたいものだ。

2004年02月11日(水) 入院日記10/さらば関西人
2003年02月11日(火) 映画を見る以外に休日の過ごし方なんてあるんですか/映画『音楽』/『プーサン』/『エデンの海』/『日本一のホラ吹き男』
2002年02月11日(月) うまいぞもやしマヨネーズ/『ONE PIECE ワンピース』22巻(尾田栄一郎)
2001年02月11日(日) 水の中の失楽/アニメ『も〜っとおじゃ魔女どれみ』1・2話ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)