鮎見時子の日記
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2005年07月18日(月) 乖離の話の続き

昨日分の日記に書いた
トリイ・ヘイデンの新作
「霧のなかの子」読んで
本の子どもは乖離製同一障碍、多重人格と後に診断受ける子って設定で
その子にトリイが説明した感情の話や
どんな気持ちだったか話してって部分がリアルで
自分の話の子どものときの感覚、
日記のどこかですでに書いてるけど
そうか虐待されて他人の注視というか
今日、何食べたい?って問いの答えさえ
無意識パニック起していたんだと
30歳で気が付くまで
実際なぜだかどうして良いかわからない。
答えや行動自分で選択不能。

あれも乖離やっていたのだとは思っていたけど
なんていうのか
今現在説明のない
タイプの乖離で子どもを生きてしまったんだな〜って
この本で悟った。
乖離って乖離性同一障碍は
あまりにどういて良いかわからないむごい虐待を受けたりした場合
感情の処理に困って別々な人格、曖昧な分解した人物や動物やに
別々に記憶引き受けさせる
つまりその感情を再起草して統合するのが
有効って感じ?

でもトリイと女の子のやり取りがリアルで
でじゃあ私は?って思って蘇った感覚って
感情じゃなない。
その場に自分がいることさえどうしていいかわからない
だから歌でも歌ってる感覚で聞きたくない見たくない
からその場を消したというか

感情やおきてることそのものを記憶に入れない無録音無録画という
状態で回避した。
でも実際には無録画無録音なんてないから
ノイズとして記憶の倉庫のに膨大に無意味な不可情報として残って
何かにつけそのノイズでしかない記憶も
引っ張り出されてる感じ?

こういう感覚も多分やっぱり乖離だと思うけど
でもそんな説明多分医学上心理学でも
全くない。
でもあるだと思うそういうパターンの乖離。
だってほか説明しようないもの
あの感覚・・・
小脳がんがん痛くなるくらいなんていうか
血流音みたいテープノイズ無録画の放送電波の画像の
砂嵐・・・
これ感情じゃないよな〜こうやって
聞きたくないことみたくないことに歌も歌って
現実かき消す感じで自主的に現実けしていたんだ・・


実際、そうやってるときなに感じていたかって
やり場のない怒りや切なさや無力感は
感じていたけどあの記憶に
トリイが言うようなこと、つまり
ノイズに感情の色分けして整理するなんて
無理というか

乖離の瞬間の頭の中白くなる感じだけは
思い出していたんだけどあの記憶は

まだ実際それを外からしか思い出してなかったんな〜、
って思った。

実際再体験で体で思い出したら
小脳とかあたまが痛い・・海馬や小脳に
こんな負荷かけてたんだ・・
自分のことだけど子どもをここまで追い詰められた
家族関係むごいよな〜って・・
改めて再認識した。

もう今更衝撃って感情さえわいてこないけど、
こんな話多分、
医学的臨床の場で語ってもそのために
今困ってることへの有効な根治的シェアとか何かが
あると思えない。
でも今、煮詰まったように
実際中年の今大人としての義務無責任という
まっとうなストレスさえ現実逃避して順序良く思考して
行動できない原風景はあの乖離
何かひとつやろうとしても
かつては実際でも今は目の前にいない親たちの幻の視線で麻痺や
過干渉の声でどうして良いかわからない感じ・・
その実際はない嫌なイメージから逃げるために
現実逃避や怠け癖が発動してしまう。

トリイは9歳の子に
自分で直ろうと思わないと助けられないとしつこく言う
そうそれしかないんだろうなと思うけど
40の今の私9歳の女の子じゃない脳の臨界過ぎていて
それ言われてもそんな簡単じゃない。

9才の女の子とは
すでに何もかも違ういまの自分を変えるというのは
方法が違うというか
ただ出来ないなりな方法で自分も他人も
傷つけない自己管理。
大人の責任果たす部分これ
現実逃避を止める努力がスタートなんだろうけど
どうやってって部分が、

心、感情や思考を支える家としての脳での
物理的情報処理って
虐待受けたら土台からなにからら歪んだ欠陥住宅
作ってその家で生活してるようなもので
本物の家と違って住み替え不可
子どものうちなら土台立て直すとか修整の可能性
いっぱいあるけど

中年になってしまったら
今のそれをとりあえず補修して住むしかない。

この補修リフォームも
また其れまでの間違った住宅手入れ方法
どこがどう違うのかとか
とりあえずいま崩壊しないための
最初に最低限できることっってなに?
実態個人で思いつめてやればやるほど
実は壊してるかもしれず・・・

いままでのトリイの本どれ読んでも
ショックな現実認識あったけど
今回の本の感想はそれとは意味が違う気分です。。

なにか限界があるとは思うんで
ヒプノセラピー受けようとしてみたけど
実際予約がそう簡単に取れない縁がないのか
今受けるべきではないって警告か・・

最近は今の自分の状態の現実
自分のせいだと思っていたけど
実際そうなんだけど

この状態の原型まだ思った以上に
子どものときの感情が原型で
まだまだ、虐待されたことに
こだわってるのは今更じゃなく
これから生きるための心の補修のための
状態認識改革の必要性もあるんだと
悟った

ほとんど、理解されないし
実際どうしていいかわからないことだらけなのだけど
なんとかしようと無意味な焦りだけは
マイナスだから手放さないとって思うけど
其れが今一番難しいかも・・
鬱で頭の中かさかさこんなネットやってるのも
実際現実逃避で実際もう現実なんてどうでもいいって
錯覚
怖いことにでも
他人行動してる私は人につられその鬱々心の下のほうに
乖離させて押し込んで行動していて
実際この10年近くって
専業主婦って隠れ引きこもりで自己管理できないで時間を
間違った使い方というか
現実逃避にたっぷり使って
怠け癖増幅させた。
仕事でも趣味でも充実させたら良かったんだけど
でも運もあってか
どっちも軌道に乗らないというか

本来こんなじゃないような気がしてるけど
とにかく気がついたら鬱々から抜けるのさらに
しんどい状況の中年になっていた。

自分でなってみなきゃ
こういう状況気がついたらこうなっていたなんて
自己管理の問題じゃんって思っていただろう
実際そうなんだけど
気がついたらこうなっていたって部分は
誰でもありえることだって実感は
思えなかったと思う。

世の中ってほんと簡単に
自己責任とか人のせいにするなとか
やる気や意思って人生を100パーセント支配する
魔法の呪文みたに思って
でもそれだけじゃない
運不運の部分は知ってるのにだからこそ
自分じゃなくて良かった。ああなりたくない
切り捨てるのよ・・・

今の状況になってみて責任放棄や
自分には誠実さってないな〜って実感や
いいことじゃないけど

こんなになってしまうことへ
自己責任だけ問う残酷さも実感でき
ああでもそこにこだわってそれに怒りを発動させ
るのはやめたいけど
実際それがまた難しい。

もうちょっと他人の弱さに優しい世の中だったら
話全然違うのにな〜・・

**
乖離の話にもどるけど。
虐待の記憶
変化なく繰り返しただ再生装置止められないで
なん百回でもただ語るタイプも存在し。

このタイプを親にした子
私がそうだけどなにせキャッチボ−ルいらない
子どもがどう受け止めるかなんて全く気にされてない。

中年の今ならふ〜んだけど
子どもにはどうして良いかわからない。
聞いてるふりで無視してるしかない。

でいまでも他人の話聞いてても
冷めて事実以上以下なしって感覚で聞いてしまって
かなり冷たいことも平気で口からでてしまうこと
しょちゅう。
ネットは喋る前に時間のクッションあるから
あとからでてくる感情に即した言葉でやすいけど
実際だと瞬間で言葉選んでしまうから。。。


お父さんお母さん、おじいちゃん、おばあちゃん
4人とも
子どもの養育もっとわかってやってほしかった

キャラや育った背景やでまあ仕方ないけど
でも子どもは仕方ないじゃないというか
子どもに配慮のないよくいえば厳格さ
って今思うと典型アスペルガー一族で
自分のルールーがすべてって感じの家族で
まあ大人はそれなりに自分の要求通し合って
勝手にやって成立ってたんだけど
子どもはそのやり方ではパイの取り分ないし
(この比喩もう死語かも。。)

残酷でした。

うちの母の口癖
「あんた(私)殴られないでわがまま放題で育って
幸せ」

その物差しゆがみすぎ・・・

っていうか子どもは聞流す以外どうにもならないわけだけど
そういうのが日常の家で育って
何処に正しい感情理解や処理する場所があったかって
なかったわけで

でも生きるということは感情や情緒で動くわけで
大人の今困ってるんだよ
あんたたちのせいで。

って今思うけどただ今更、非難したいんじゃなく

で今後私はどうすれば変えれるか

心の家の補修は何をどうやれば?ってここが
話の主題・・
難しい宿題親に持ち込まれた
むかつきないかって言えば嘘だけどね・・・



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