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■ リバーシブルチェイン③
画面一杯に映る幽霊だか化け物だか分からない女の顔は、正直別の意味で怖い。
「うげ。メイク気持ち悪いコノヒト」
「そんな冷めるような事言わないでよ」
「だってそーじゃん」
密着が濃くなるのは、さらにもたれ掛かってくるからだ。 完全に風邪が治った訳でもないのに、すっかり椅子代わりに背中を預けられ、仕方ねえなと溜め息を吐いた。仕方なくそれに徹する事にしてみる事にする。
顎の下にくる柔らかな短い髪に、ふと指を伸ばした。
「髪もう伸ばさないの?」
「んー…短い方が楽だもん」
長い栗色の髪が似合っていた姉ちゃんが、項が隠れる程度の長さに切ったのはこの春だった。 たかが髪の、長い短いが随分とイメージを変える事に、驚いたのを覚えてる。 それまでの姉ちゃんは美人だけど、冷たい印象の方が強かった。 どこか遠くを見ているような、距離を感じるような。 勿論俺にそんな距離感は感じなかったけれど、知らない相手ならそう思えるだろうと思えた。
背伸びしていた所もあったんだろうけど、そういう印象だった。
でも髪を切って、随分と幼く見えるようになった。甘えたがりの、女の子のような。そしてそのイメージそのままに、性格も昔のように明るくなったような気がする。
「お昼何食べたい?」
「さっき食ったばっかじゃん」
「お腹一杯の時にメニュー考える方がいいって言うもん、無駄遣いを抑えれるんだって」
何だそれ。
「聞いたことないんですけどー」
「ええー?」
眉間に皺を寄せて派手に振り向いてくれるのはいいけれど、知らねえし、と再度呟く。
「リク、何にも知らないからなー」
なんていう失礼な台詞を吐いてくる相手の頭の上に顎を乗せて、はた、と気付いた。 「それ買い物の時の話じゃねえ?」
「そだっけ」
「そだよ」
「うーん? それよりさっきからさあ、重いんだけど」
振り落とすように顔を上に向けるものだから、後ろに沿って離れる。近い近い。この人はこういう事に、本当無頓着だ。 幾ら弟でも家族でも、距離のとり方ってものがあるだろ。 そう考えてから苦笑する。今の体勢で何考えたって言ったって、説得力ゼロ。
「…なに」
「んーん、何考え事してんのかなーって思って」
気付けばまだ上を見上げたままの体勢で、俺を見つめてくる姉ちゃんの目とかち合った。不意に気恥ずかしくなって、唇を尖らせ画面を指差す。
「姉ちゃんが見ようって言ったんじゃなかったっけ、このビデオ」
「見てるってば」
本当かよ、と声は出さずに唇だけ動かして紅茶のカップを取り、一口飲んだ。 しばらくする内に流れ出すエンドロールの長さには、どんな内容のものだってこれだけの人間が関わってるんだなあ、という事だけを妙に関心させてくれる。
姉ちゃんは黙って画面を見つめる。 黒い画面に白文字だけが浮かぶせいで、俺たちの姿が映りこんでいるのが見えてしまう。 表情まではわからないけれど、楽しそうではないように思えた。
「リッちゃん」
「…何」
変わらず前を見たまま、ぽつりと呼ぶ声に、僅かに身じろぎして答える。 安心しきったようにもたれかかってくる、小さな体。
「――大丈夫だからね」
細い肩を見ながら、首を傾げる。何が、と唇を動かした時、短い髪が揺れて姉ちゃんが振り返った。
「お姉ちゃんがついてるからね」
そう言って微笑む姉ちゃんの顔はやっぱり姉ちゃんで。 だから俺は「それどういう意味」という言葉を飲み込んで、ただその顔をぼんやりと見つめてしまった。
*
「もう風呂入ったの?」
髪のしっとりと濡れた姉ちゃんの姿を見て、もう外が暗い事に気付く。
「今日は早めに寝ようと思って」
どことなく照れたように笑う顔に、首を傾げながら「じゃあ俺も」と風呂場へと向かった。 昨晩かいた汗をシャワーで流すだけで、ひどく心地良かった。 元々長風呂が出来ない性質という事もあり、さっさと体を洗い終えると、バスタオルを取って上がる。肌の火照りに触れる冷気が気持ち良かった。 特に何もしていない一日にも関わらず、身体は何処かだるさを訴える。こんな夜は、さっさと寝てしまおう。
ペットボトル一つ取って部屋に向かおうとしたところで、
「リク、待って」
風呂から上がってきた俺を待ち構えていたように、姉ちゃんがおそるおそる、といった様子で近付いて来る。
「何? まだ寝てなかったの」
「うん。ちょっと、寝れなくて。ね、たまには一緒に寝よう?」
俺たちの間では特に珍しくはない。 どちらかの部屋で長居するうちに、同じ屋根の下だというのに自室に帰るのも面倒くさくなって一緒に寝てしまう。 ただわざわざ一緒に寝る約束なんて、今までした事がない。
「あー…風邪、移るから駄目」
意地悪な気持ちになったわけでなかったけれど、治り切ってないのだから、と至極当然の事として言った。なのに、一緒にペタペタと付いてくる軽い足音。
「だってさ、もう治ったって言ったじゃない」
「平気って言っただけじゃん」
「えー…」
バスタオルで髪を拭き自分の部屋へと入ると、姉ちゃんもそのまま付いて入って来た。 まさかあれか、実力行使ってやつか。普段にはない強引さに若干驚きながらも、少しばかり困ったような顔をする姉ちゃんの顔にふと思い当たった。
「まさか昼のあれ、怖かったーとか言う?」
まさかのまさかだから、そんな筈もないだろうけど、と笑って言えば相手はそうでなかったらしく更に困ったような顔をした。
「…リッちゃんは平気なの」
「え、何。マジで怖いの」
「怖いもん」
女の子が見上げてくる様は、随分可愛いものだと今更に思う。 縋りつくような視線は、大抵の奴は庇護欲をそそられるんじゃないだろうか。 それを姉ちゃん相手に感じるのがどうかは別として、だけど。
「ああそ。それじゃ別に一緒で良いんだけどさ、移っても知らないから」
「大丈夫だよ」
何が大丈夫なのかまでは言わないままに、姉ちゃんは嬉しそうに扉を閉め先に布団にさっさと潜り込む。きちんとスペースを残してくれてるのは、優しさからなのか怖いから離れたくないのからなのか。
「電気消していい?」
「ちょっと待って。あ、いいよ」
ん、と返事にならない返事をしてから、電灯を切ってしまえば暗闇が落ちる。同時に静けさが舞い降りる。暗闇と静止は同時なのだろうか、と思える程静かだった。 布団に潜り込んだ俺に擦り寄る小さな温もり。そんなに怖いのか、とは茶化さなかった。 一人で眠れなくなるくらいなら、見なければいいのに、とは思ったけれど口には出さなかった。
「俺眠いから起こさないでね」
「もー寝ちゃうの?」
「俺は眠いの、薬飲んでるし。だいたい姉ちゃんだってさ、早く寝ようって言ってた、じゃん」
目を閉じれば、眠りに落ちる前の、独特の意識の緩慢さが訪れる。
そっか、と小さな呟きが聞こえ、同時に俺の手がとられる。強引に繋がれた手は少々冷えていた。振り払うのも憚られるけど、さすがに手を繋いで寝るなんて小さい時以来だ。
「…もーすぐ懇談あるね」
睡魔が近くなってぼんやりとした頭に、不意に固くなった声が届く。懇談。そういえばそんなものがあったっけ。
「…だっけ」
「うん。たぶん、叔母さんが来てくれると思うの。去年もそうだったから」
親父の弟夫婦の顔が、にわかに脳裏に浮かぶ。二人共喪服姿だ。冷たい顔して、列に並ぶ後姿。明らかな迷惑そうな顔なのは、親父の親戚と言えばその人達だけだったし、母さんは身寄りがなかったからだ。
無声映画みたいに、二人が何か言っている映像だけが瞼の裏で流れていく。あれは葬儀の後だったかもしれない。ああそういえば、月が変われば命日だった。 風邪薬の影響もあってか、大して動いてもないのに眠気は頭の中を侵食して、夢なのか記憶を思い出しているだけなのか、わからなくなっていく。
「眠い? ごめんね」
返事の代わりに繋いだ手を軽く握り返す。 額に触れる手の感触に、母親の掌を思い出す。
「ごめんね」
どこか寂しそうな声を聞いて、俺は眠りに就いた。
2010年06月11日(金)
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