てくてくミーハー道場
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2008年07月01日(火) |
『道元の冒険』(Bunkamuraシアターコクーン) |
(14日深夜記す)恒例の週末頭痛はするし、口唇炎はできるしで散々なのだが、このままだとどんどんブログの意味がなくなっていくので、できる限り更新します。
2週間ぶりに、またもやコクーンへ見参。
ロビーの雰囲気ががらっと変わっていることに「色即是空」を体感しつつ(←嘘だろ)厳かな心持ちで鑑賞いたしました(そんな重たい作品ではないですよ?)
井上ひさし×蜷川幸雄 at シアターコクーン第三弾ということで、前二作(両方ともちゃんと観させてもらってます)『天保十二年のシェイクスピア』『藪原検校』との完全姉妹作な造り。
ただし今作では音楽担当者が宇崎竜童から伊藤ヨタロウに変わっていたのだが、正直それに起因する「変化」は、あまり感じられなかった。
内容は、曹洞宗の開祖・道元禅師の半生をミュージカルタッチで描きつつ、現代(ただし、改作されてはいたが、中身的にはやはり井上がこの戯曲を著わした当時の「現代」つまり1970年代初頭)の社会情勢とリンクさせたラジカルさを持っている。
禅宗の坊さんの半生などという、抹香臭いというか、よほどマニア(何の?←あとで出てきます)でもないと興味持てないような題材を取り上げてしまうあたり、井上ひさしという人の芸術的体力を実感するわけだが(それこそ、70代の“今”じゃなく、30代の時にこういう題材を書いた、という意味で)
実を言うと、ぼくの実家の檀那寺が曹洞宗なので、昔から道元さんには少々親しみがあった。
ヘンな話だが、寺がくれる道徳の副読本みたいなパンフレットが家の仏壇に置いてあって、活字中毒だったぼくは、信仰心とは全く関係なくそういうものを熟読するクセがあったので、中国に留学(?)中の道元クンと椎茸坊主のエピソードなどを、なぜか昔から知ってたりしたのである。
だから、この作品の主題に対するアレルギーとかは別になかったのだが、実際観てみて、正直「思ったほど面白くない」と思ってしまった。
井上×ニナガワに対して、何と無礼な、傲慢な感想かと言われればそうかもしれないが、実のところ、観てて一番ストレスを感じたのが、“音楽の入り方がカッコ良くない”という点にだった。
(つまりナニ? 井上×ニナガワではなくて、伊藤ヨタロウに対する批判か?)
いや、そうとばかりも言えなくて、実を言うと、前二作も、「音楽が、何だか“いまいち”」という感想を抱いた。
特に『天保十二年〜』の時は、以前いのうえひでのり演出、岡崎司音楽のものを観てしまっていたので、なおさら作品全体を貫くリズム感(役者たちの“演技リズム感”も含めて)の違いに、いちいちストレスを感じてしまっていたのである。
宇崎竜童や伊藤ヨタロウのリズム感を「なんか、ダサくね?」と思ってしまうとは、いかにも音楽偏差値の低い人間の感想かもしれないのだが(好きな洋楽も、70年代ハードロック→リズム&ブルース止まりで、そのルーツである黒人ブルースやジャズまで辿り着けてないという事実がある)、事実そう思ったので正直に書いておく。
ちょっと話が大きくなる。
今、こんだけミュージカル上演がさかんになっている現代の日本演劇界であるが、その実、上演され人気を博しているのはほとんどが外国製ミュージカルの翻訳物であり、正真正銘“日本人作家”と“日本人作曲家”と“日本人演出家”と“日本人俳優”による、純日本製ミュージカル(詭弁だが、この場合宝塚歌劇団や劇団四季のオリジナル作品は除く)の成功作がほとんど見られない以上、日本は未だ「ミュージカル後進国」だと思っている。
だけど、噂に聴く(観たことないから)『日本人のへそ』(1969年初演の井上ひさし作品)は、それこそ、宮本亜門の『アイ・ガット・マーマン』よりも、自由劇場の『上海バンスキング』よりもずっと前に上演され、傑作の名高い「日本初の和製ミュージカル」だという。
これを、是非、観てみたいものだ。
と、思ってたら、(プログラムによると)蜷川は、『日本人のへそ』を上演したいと切望していたらしい。
劇場側の諸事情で『道元の冒険』(と、秋に上演される『表裏源内蛙合戦』)になってしまったそうだ。
何だかすごく残念に思うと同時に、結局『日本人のへそ』もこの調子で上演されるのだとしたら、(都合により中略)と思ってしまっ(もごもご)
何より一番理解しがたいのは、これらの「井上ミュージカル作品」に対する考え方が、制作者側(作者ご本人も含めて)と受け手のぼくたちとは全然違っていて、一般的に考えられる「ミュージカル」とは、全然思ってないのではないかというフシがあるところだ。
というのも、「ミュージカル」という時には、何よりも大切なのは「ナンバー」であり、それらの楽曲が徹頭徹尾大事に扱われるのが当然というか通常のミュージカルオタクの考えなのだが、井上ミュージカル作品では、何と、上演されるたびに「作曲担当者」(当然、ナンバーも)が変わっちゃうのである。
つまり、「この曲」ってのが、残らないのである(その代わり、“歌詞”はすごく大事にされ、一字一句変化せずに残される)
「ナンバー」が大切にされていないので、当然、歌い手も「歌唱力」を重視されない。
今回『道元の冒険』を観ながら一番不満に思ったのも実はこの点で、出演者たちは明らかに「言語的及び身体的演技力」だけを重視され、「歌唱力」にはほとんど重きを置かれていないキャスティングだった。
これは、蜷川(及び製作陣)が、この作品を「ミュージカル」だとは全く捉えていない証拠である(まぁ、『覇王別姫』(この作品に関するてくてく感想はコチラ)なんか観てても、蜷川作品では何が重要視され、何が軽視されているかだいたい判るので、今さらこんな文句を言うのもおかしいのだが)
だが、行きがかり上とはいえ(いや、違うだろう! 言い過ぎだろお前)「詞」を「曲」に乗せて提供している限りは、「言葉」を話す説得力と少なくとも同等以上に「曲」を表現する歌唱力の持ち主に、「曲」を歌わせてほしい。それが観客に対する礼儀ではないのか、と強く抗議したい気分である。
台本に書かれたセリフを、教科書の朗読みたいにただ「間違えずに読める」だけのヤツを俳優とは言わないように、歌を、ただ楽譜から“あんまり”ズレずに歌えるだけのヤツを歌手とは言わない(あれ? なんか、すごーく話が大きくなってきた気が)
何のために、メロディを、リズムをつけるのか。
歌詞の内容を、より直截的に観客に伝えるためだろう。
歌詞そのものの「辞書的な意味」だけでなく、その言葉の持つ響きによって、作者が観客に与えたい感情を、さらに増幅するためだろう。
そんなことを全体的に思いながら観てしまった。
ただし、これ以外の部分では(それこそ、言語的、身体的演技力に相当優れた俳優たちによって演じられたので)、かなり満足のいく部分も多々あった。
キャスト陣は(歌唱力はともかく/クドい)皆実力派で、特に、木場勝己の存在は、それこそ「大船に乗ったような」気分でいられる安心感があった。
彼が中心となって回る場面は、とにかくどれもこれも面白かった。
“芝居力(しばいぢから)”で言うと、やっぱりフィールドの違いからなのか、阿部寛、栗山千明、横山めぐみの三人のパワーが弱めに感じられた(これは、ぼくのいつもの偏見かもしれないが、とにかく、映像畑の方たちは、「声」が聞こえねーんだよ、舞台に出ると)
阿部寛は、確かに背のでかさという点では迫力があるのだが、意外とテレビドラマに出ている時に感じる「迫力」や「濃さ」が、後ろの方の客席にまで届いてこなかった。
前の方の席で観たら良かったのかもしれないが。
栗山千明は、最初、彼女だと全然判らないで観てた。だからむしろ偏見なしで観れてたと思うのだが、最初はどこにいるのか判らん感じだった(まあ・・・他のキャストが濃すぎるってのもあったんだけど)
だが、少年道元が、絵に描いたような美少年で、花丸(←ショタ?)(−−;)黙れ
横山めぐみは、なぜかすごく山本カナコに似ていた。正覚尼が、いつも山本カナコが演ってるような役だったからかな(コラ)
なんか、散々好き放題書いてきたが、やはりラストシーンの「わー!」感(なんのこっちゃ)はニナガワ独自のものだったし、墨衣の坊さんが10人も舞台をうろうろしてる絵は、何かフェティッシュ(は、ここでやっと何「マニア」かが明かされました)で、けっこうなものでございました。
しかしなんですね、人は何故に坊さん(洋の東西を問わず)と軍人という、ある種両極端な職業に同じようなフェティシズムを感じるのでしょうか?(え? ぼくだけ?)
禁欲的だから?
はたまた、どっちの職業も、「死」に関わりが深いから?
そんなんどうでもいいですけど(こら)
井上戯曲の深遠さ(もちろん、言語的面白さも含めて)には、文句の付けようはなく(多少の古さを感じたのは、書かれた年代もあるので、完全許容)
実は、宗教者たちの権力闘争を背景にしている点や、ある男の人生が、もう一人の男の夢であり、またその逆もという枠組み(それが次第に浸食し合っていくところも含めて)が『火の鳥−太陽編−』にすごく似ているところが気になったのだが、成立年を調べると、『道元の冒険』の方が先のようである。
手塚治虫がこの戯曲を知っていたのかどうかは定かではない(もちろん、単純にパクったとはとうてい認定できないほど、『火の鳥』自体、ストーリーは独創的であるし、オリジナリティという点でも秀でている)
天才ってのは、似たところに目線が届くものなのかもしれない。
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