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2006年01月30日(月) 相補的であることと平等の矛盾

男女平等に扱うべきか、という件に関しては、様々な観点から述べられるだろう。ヒト以外の生き物が社会生活を営む際は、雄と雌では役割を分担して生活している。かつてはヒトも同じように役割分担をしていた。社会における女性の位置、男性の位置があり、相補的に生活してきた。

力を持つものが強いという大前提があり、物理的な力と連続性に長けた知性でもって、男性は女性の上に立ち守る側となった。その背景をもってして、男女は平等の権利を主張しなくてもやれるはずだった。

しかし、共産主義が理念通りに機能しないように、力の不均衡は弱者の犠牲を生み出す。思想を生み出した人間の知性と、その社会で生きている人間達の知性とは必ずしも一致しない。
IQ=100を平均として知能検査を行えば、当然其処には分布があり、ヒトはまったく平等に作られていない。そのため導くものが必要となるわけだが、権力を持ったものが知性が高いとは限らず、知性が高いものが道徳的であるとは限らない。

話は逸れたが、結局男女は平等であるといえば、男女はどちらかが劣る存在ではなく、相補的に合わさって生きていくのであり、違う役割を持つものが同等の権利を主張すること事態に不自然があるのだ。

さて、本当は女性の天皇について考察するつもりだったが、考えがまだまとまらない。


ロビン