鼻くそ駄文日記
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2001年08月08日(水) |
『畜犬談』(太宰治 新潮文庫『きりぎりす』に収録) |
国語の授業を除いて太宰治を最初に読んだのは『人間失格』の角川文庫版だった。読んでみて、世間とうまくやっていけないイタイおたくのつぶやきみたいで、好きになれなかった。角川文庫版には『桜桃』も収録されている。ついでだから読んでみて、やっぱり好きになれなかった。胸の谷間のあせもが涙の谷? どうでもいいじゃん、勝手に泣いてろー、と思った。 次に読んだのは『斜陽』。よくわからなかった。だいたい、ぼくら戦後生まれには、華族や平民という階級差がよくわからない。それなのに理解しろというのが無理である。おまけに『斜陽』は登場人物のほとんどがよく悩む。それもわずらわしかった。 では、ぼくは太宰を嫌いなのかというと、どっこいそうではない。『斜陽』の内容はよくわからなかったぼくだが、『斜陽』の文章には驚愕したのだ。『斜陽』の文章はまじですごい。ひとつ試しに引用してみよう。
「どうしても、もう、とても生きておられないような心細さ。これが、あの、不安、とかいう感情なのであろうか。胸に苦しい浪が打ち寄せ、それはちょうど、夕立がすんだのちの空をあわただしく白雲が次々と走って走り過ぎて行くように、私の心臓をしめつけたり、ゆるめたり、私の脈は結滞して、呼吸が稀薄になり、眼のさきがもやもやと暗くなって、全身の力が、手の指の先からふっと抜けてしまう心地がして、編物をつづけてゆく事ができなくなった。」
『斜陽』は全体においてこのテンションで進むので一読した感じではかなり読むのは苦痛だ。しかし、ひとつの文章、段落で抜き取って読むと、すげー文章の宝庫なのである。 志賀直哉で、文章がうまい日本の作家は短編がうまい、と勝手に法則を作っていたぼくは、じゃあ太宰の短編を読んでみようと思った。そして、幸運にもその法則は当たっていた。太宰の長編の欠点だとぼくが思う、うじうじとしたダラダラ感が、短編ではすっきりまとめられていてすごくいいのだ。 『畜犬談』は、個人的に太宰が作家としての才能をいかんなく発揮したと思う中期(昭和十二年)の作品である。まず、
「私は犬については自信がある。いつの日か、必ず喰いつかれるであろうという自信である。私は、きっと噛まれるに違いない。自信があるのである。よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過ごして来たものだと不思議な気さえしているのである。」
と軽妙な語り口でスタートする。私小説とは言え、めちゃくちゃうまいつかみだ。主人公の犬嫌いがよくわかる。 そんな主人公が散歩をしていると犬がついてきた。気の弱い主人公は内心では犬を「ピストルでもあったなら、躊躇せずドカンドカンと射殺してしまいたい気持ち」なのだが、とうとう家の玄関まで犬を連れてきてしまう。 それからずるずると半年も主人公は犬を「ポチ」と名付け飼ってしまう。この間の主人公が語る、犬と主人公の駆け引きも面白い。たとえば、犬が下駄をおもちゃにして、洗濯物を引きずり下ろすと、主人公は犬に「こういう冗談はしないでおくれ。実に困るのだ。誰が君に、こんなことをしてくれと頼みましたか?」と内に針を含んだ言葉をいや味をきかせて言ったりする。当然犬は相手にしないが。 半年が過ぎ、主人公はいいかげん犬を捨てようとする。だが、捨てようと決めたとたん、皮膚病になってしまい、捨てるわけにもいかず、殺すことになる。殺すために主人公は犬に、肉片に薬剤を混ぜたのを食べさせる。 だが、翌朝、犬は死ななかった。犬が生きているのを見た主人公の発言が秀逸だ。
「だめだよ、薬が効かないのだ。ゆるしてやろうよ。あいつには罪が無かったんだぜ。芸術家は、もともと弱い者の味方だった筈なんだ」
ここで太宰の主題がぱっと浮かぶ。おそらく、太宰はずるがしこくて卑屈な犬を、弱い人間と照らし合わせていたのだと思う。どんなにけなされても、弱い人間は生きるために卑屈にならなければいけない。親・兄弟・友達を捨て、卑屈になって卑屈になって殺されかけても卑屈になって、やっと同情を買えば安住の地で生きていける。それが弱い者の生き方だと。 そして、最後に主人公が犬を飼うことを決めると、主人公の妻は浮かぬ顔をするところが、この作品の深さだ。 弱い者がひとりに同情されても、すべては好転しない。 同情されて安住の地を手に入れても、他の人から見たら弱い者は弱いままなのだ。 おそらく、最後の妻の浮かぬ顔にそんなメッセージが隠されているとぼくは考えるのだが、考えすぎだろうか?
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