Sun Set Days
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2001年09月16日(日) 小さな町

 祖母の住んでいる小さな町に着くと、いつも海の匂いがした。
 それは駅が海のすぐ近くにあるためで、生ぬるい風が潮の香りを運んでくるのだ。
 僕は小さな頃からその町を何度も訪れている。それは家族とも友人とも、そして一人でも。
 僕の家から列車で一時間もかからないで行くことができるという利便さも手伝って、気軽に気楽に訪れることができてしまう。
 駅を降りて左側に進むとそこは石浜になり、右側に進むと砂浜が広がっている。
 そういうところも、都合がよい町だよなあと小さな頃からよく思っていた。

 以前はお盆になると、毎年灯篭流しに参加していた。
 数日前に祖母と一緒にお寺に灯篭を買いに行き、数日家の仏壇の近くに置いておく。
 簡素に作られている灯篭を眺めて、またこの季節になったのかと思う。
 そして灯篭流しの日。
 まずはお寺に行き、本堂でお坊さんの話を聞く。
 祖母は当然のことながら知り合いが多いから、いろんな人と挨拶を交わしている。
 僕はもうこんなに大きくなったのかいと何人かに驚かれる(実際には大きくないのに。そういうのがお約束なのだ)。
 おばちゃんのこと覚えてるかい? と訊かれて、覚えてますよとこたえる。
 子供の頃から会うたびに「大きくなったねえ」と言われているのだ。
 背が伸びるのがとまっても。

 お坊さんの話を聞いているときに足がしびれてくると、なんだか自分が不信心な人間のように思えてくる。

 話が終わると、参加者全員がお寺の前に二列になって並び始める。
 そのときにはすでに周囲は夜の闇の中だ。お寺のすぐ前にある駅のホームの電灯の周りに虫が集まっているのが見える。線路を挟んだ改札口に立っている駅員さんが遠く小さく見える。自分が過去の写真の中に紛れ込んでしまったかのような不思議な気分になる。ちゃんとした世界からそうじゃない場所に向かうような不穏な予感めいたものが感じられる。お盆なのだ。普段は目に見えないはずのものと近い距離になってしまうのはたぶんあたりまえのことなのだ。
 列は、それからゆっくりと歩きはじめる。海の近くの路地を、舗道すらない狭い端を、車を避けるようにして、灯篭に蝋燭の明かりを灯しながら。
 灯篭を持つのは僕の係だった。
 たくさんの人に紛れて歩いていく。
 前の方を見ると、結構先の方まで灯篭の淡い明かりが続いているのが見える。後ろを振り返ってもそうだ。
 百人くらいは参加しているんじゃないかと思う。
 一列になって歩いていく灯篭流しの集団。ホタルの群れのような長い列。
 すれ違っていく車のドライバーにはどんなふうに映るのだろうと思う。

 しばらく行くと、ようやく砂浜に出る。
 そこでは大きな焚火が燃え盛っていて、砂浜に辿り着いた人たちはその火の中に灯篭を投げ入れることになっている。
 もっと子供だった頃には、灯篭は海に流していた。
 目の前には、夜の暗く広大な海が広がっている。波の音が途切れない。空は高くたくさんの星が見えている。
 その海の上にたくさんの灯篭が浮かんで波に揺れているのを見るのは圧巻だった。
 その様子は、確かにある種の記憶や魂を彼岸へ見送っているのだと思えるようなものだった。
 いつの間にか、どうしてなのか灯篭は海に流さなくなった。
 海にではなくて、砂浜の大きな焚火の中に放り投げる。
 夜の闇の真ん中で、鮮やかな炎が揺らめいている。時折その勢いをふいに強めるので、たくさんの煙に思わず顔をしかめてしまう。
 他の人と同じように灯篭を放ると、灯篭の紙の部分も木の部分も勢いのある火に溶け込まれてしまうのが見える。

 祖母は結構あっさりと「帰るよ」と言う。
 そして僕らはもと来た道を戻り始める。
 灯篭を火の中にくべてしまうと、あとは自由行動なのだ。
 砂浜を出るときに、やっぱり昔の知り合いなんかがいて、祖母は話し掛けられている。

 帰り道の途中、後ろの方からどんという音が響く。
 花火だ。
 砂浜で、花火を何発か打ち上げるのだ。
 僕らは少し足をとめて、暗い空に広がる光をしばらく眺める。
 祖母が今年の花火は何発くらい打ち上げるのだという話を教えてくれる。
 その後は数年前にできたコンビニに入って、ジュースやアイスクリームを買い込んで祖母の家まで帰るのが常だった。


 学生の頃にはそんなふうに灯篭流しに参加していた。
 社会人になってからは、その時期に祖母の家にいることがなくて参加していない。
 けれども、ときどきその何度かの夜のことを思い出す。
 自分たちが自分たちだけでできあがっているなんてことは思えないし、そういうことを確認することができるのが、お盆などの時期になるような気がする。
 脈々と受け継がれていくはずのもの。それは目には見えない分、記憶の蓄積によるところが大きい。
 おそらくはもう何年も参加することはできないだろうし、思い出すことしかできないのだけれど、それでもこうやって、灯篭流しのことを思い出すようにしてみる。
 お盆じゃなくても。
 遠く離れていても。


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 Text Sun Set が1000Hitを超えました!
 ありがとうございます。
 HPを作り始めたときに、漠然とちゃんとした見通しもなく一ヶ月で1000Hitくらいいけばいいなあと思っていたのが実現していたので素直に驚いています。
 乱暴な計算をしてみると、一日30人以上の人が訪れてくれていることになって、それにもやっぱり驚いてしまう。
 それが同じ人たちなのかそれぞれ違う人たちなのかはよくわからないのだけれど、いずれにしても感謝です。
 劇的なリニューアルも、衝撃的な内容もなくてどちらかというと淡々とした継続になってしまうかと思われますが、これからもよろしくお願いします。


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 お化けぎらい

 今日の最初にお盆についての文章を書いたのだけれど、僕は実はかなりお化けが苦手だったりする。
 苦手なものランキングをつけるとすると、「地震雷火事おばけ」と慣用句を変更してしまいたいくらいには苦手だ。
 ホラー映画とかは恐くても作り事だと思い込めるのでなんとかなるのだけれど、本当の話にはもうどうしても耐えることができない。
 でも恐いもの聞きたさで聞いてしまう。
 そして後悔する。
 その話を聞く前の自分に戻れたらと、自業自得なことを考える。たーいーむーまーしーんーとか思ったり。
 もちろんどうにもならない。

 学生の頃のゼミ合宿で恒例の怪談が始まったときにも、僕は誰よりも多くの布団をかぶりながらその話を聞いていた(いまだにそのときのことをあれはおかしかったと言われたりする)。
 耳に手を当てて「あーあー」とか言うのは基本動作で、布団にくるまったままごろごろ遠くに転がっていき、何もなかったように能天気なふりをしたりする(もちろんみんな許してくれない)。
 でもだめだ。
 聞いてしまった話は自分の中でイメージが増幅されて、必要以上に脅えてしまう。
 しかもグループの中にはそういう話をするのがやたらとうまい奴がいたりするもので、間の取り方なんかが絶妙なのだ。
 おいおい、お前は稲川淳二かよ! とか思うのだけれど、話が上手くてついつい聞いてしまうのだ。

 よく霊スポットに行こうとかいう話になることがあったのだけれど、そういうのは基本的には全部断っていた。
 よくそういうところに行ってエンジンが動かなくなるだとか、窓ガラスに手形がとかいう話を聞くのでそういう目には絶対に逢いたくなかったのだ。

 小学校低学年だった頃には、当時買っていたコロコロコミックとかコミックボンボンとかそういう雑誌の夏の号に恐い話がよく載っていて(よく考えるとすごい雑誌名だ)、それも本気で恐かった。
 中でもひどいのが、この話を聞いた人は一週間以内に○人の人に話さないと、夜中の二時にあなたの家に○○がやってくるといった類のもの。そのページの挿絵には、扉を開けている少年と○○が扉の向こうにいる少年誌にあるまじきリアルな絵が描かれていたりする。
 読んだ後に、速攻でページをとじて読んでなかったことにしようとするのだけれど、その刹那から心臓がばくばくいってとまらなくなる。
 そしてああ誰かに話さないとと思うのだけれど、でも話すとその人に災いが降りかかってしまうーとかかなり真剣に悩んでしまう。
 とりあえず隣でビーズ遊びをしている妹には話そうとか思うのだけれど、ああでもとか躊躇する。
 そして、それから一週間かなり心臓に悪い日々がはじまるのだ。
 どうしよう、どうしようと。
 いま思い出しても、そういうときの一週間は本気で恐かった。
 そしてその○○がやってきても、この呪文を唱えれば大丈夫みたいなことも書いていて、当時小学校低学年だった僕はその呪文に頼るしかなかった。だから眠る前には30分以上もその呪文を○○が来たわけでもないのに唱えつづけないと眠りにつくことができなかった。
 本当にいま思うとおいおいとは思うのだけれど。
 たぶんあれは編集部がでっちあげた話だとも思うのだけれど。
 でも当時は本気で恐かったのだ。


 
 今月27歳になるわけだからいまではある程度の耐性のようなものがついているのだけれど、それでもやっぱり恐いものは恐い。先日も飲み会の中でワンダーフォーゲル部出身の人がある冬の山小屋で体験した話を聞いたのだけれど、冗談抜きで恐かった。あんまり恐くてこれ以上書けない……


 もちろん、恐くないお化けもいる。


 オバQ。


 子供の頃は藤子不二雄ものはかなりテレビで見ていた。ドラえもんは言うに及ばずハットリ君とか怪物君とかパーマンとか。
 そして、オバQで思い出すのは、「劇画・オバQ」のことだ。
 これは書店で売っている「藤子・F・不二雄異色短編集1ミノタウロスの皿」(小学館)に掲載されている話なのだけれど、正ちゃんが大企業に就職して結婚もしているときにオバQが訪ねてくるという話を劇画調の絵で描いているものだ。短い話なんだけれど、いつまでも子供のままではいられないというような話で、子供の頃に見ていた「オバケのQ太郎」を思い出すと、なんとなくせつなくなってしまう話だ。

 話がずれてしまった。
 いずれにしても、いまだに恐い話はあんまり好きじゃない。
 ただ、二十歳を過ぎてもお化けを見たことがない人はもう見ることがないという話を聞くから、それであれば安心だと思ったりはするのだけれど。


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 お知らせ

 Text Sun Set は恐い話お断りです。
 やや、やめてください!
 あーあー!(耳を手で押さえる)
 ラーラーラー!(歌ってごまかす)
 布団をかぶったまま逃げ去りますよ。遠くまで。


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