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2002年03月21日(木) あやうくトラックに轢かれるとこだった。

 今日、トラックに轢かれかけた。自転車で歩道を走っていると、急にトラックがバックで飛び出してきたのだ。あと3秒ほど通過するのが遅かったら轢かれていただろう。トラックの若い運転手があやまっていたが、謝って済む問題じゃなかったかもしれないのだ。
 子供の時にもローラスケートで坂を下って遊んでいて、突然前を車が横切ったことがあった。なぜかそのときは、ふうっと誰かが持ち上げてくれたような気がした。完全にぶつかるタイミングだったのになぜかかすり傷ひとつしなかったのだ。今思い出しても不思議な体験だった。
 定命といって、仏教では人間には与えられた命があるというのを瀬戸内寂聴さんの本で読んだことがあるが、そういう意味では、どういうわけか私自身が生かされているという感覚がすごくする。まだ死んだらあかんよと仏さんか神さんがが手を差し伸べているように思える。

 子供が障害を持ったのも、何か縁があったのかもしれない。子供が障害を持たなければ、夫婦で障害について話をしたこともなかっただろうし、ましてや子育てが夫婦共同で行うものという認識に僕がいかなかっただろう。男は外で仕事をし、女が家庭を守ればいいという古い感覚のまま生きていたことだろう。ひょっとしたら離婚していたかもしれない。
 大学のころボランティアで障害者の世話をしていたのだが、それもどういうわけか自発的にやっていた。誰かに強制されたわけでもなく、友達がやっていたわけでもないのに、やりなさいと空の上から見えざる手が僕を誘導していたような気がする。手話の勉強もしようとしていた。その頃はかみさんと結婚することも、生まれた子が障害児になるということも決まっていなかったはずなのに、すべては予定されていたかのように、自分の経験の中にちゃんと障害児に対する基礎ができていたような気がする。
 子供が障害になったときに読んだ本に、神様はちゃんと見ていて、障害児を育てられる家庭にしか障害児をつれてこない、みたいなことが書かれてあった。
 いろんなことがすべては関係しているのかもしれない。運命論者ではないけれど、人生はあらかじめ予定されているのかもしれない。ただ、選択できる時もあって、そのときどういう選択をするかということで、その後の人生が変わっていくのかもしれない。でも自分が選択した道自体もひょっとしたら神様はお見通しなのかもしれない。

 今回、東京を拒否して大阪に戻ることが人生にどういう影響を与えるのかわからないけれど、これはなるべくしてなったとも思える。これから第3の人生をどう生きるか、真剣に考えたいと思うのだ。
 森毅さんの本に「人生20年説」というのがあって、人生20年ずつ4回あると書いてある。1回目が学生の20年間、2回目が仕事の20年間、3回目と4回目は忘れたけど、40ぐらいから60ぐらいまでの人生に何をするのかというのは大事だと思う。あと3年で40歳。第3の人生に向かって今から準備をしていこう。


Succhii |MAIL

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