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2021年08月28日(土) ■ |
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ケムリ研究室 no.2『砂の女』 |
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ケムリ研究室 no.2『砂の女』@シアタートラム
安部公房の名作(大好き)を、演出=ケラリーノ・サンドロヴィッチ、男=仲村トオル、女=緒川たまきで。ヴィジュアルは勿論、紙やインクの質感迄拘り抜かれていると評判の(KERAさんの手掛ける作品はいつもそうだが)公演チラシは入手することが出来なかった。画像はパンフレット。ハンディサイズで素敵なデザイン。内容も超充実。
その他の登場人物と、黒子ならぬ砂子をオクイシュージ、武谷公雄、吉増裕士、廣川三憲の四人が演じる。男の妻は町田マリー、声とシルエットで出演。小説とも映画(監督:勅使河原宏)とも違う、KERA × 緒川たまき=ケムリ研究室にしか成し得ない作品になった。
原作で「20m」とされる穴の高さを屋内で再現するのは不可能だ。それを再現ではなく、創出するのが舞台。シアタートラムの天井迄張り巡らされた暗幕とそのドレープ(美術:加藤ちか)をスクリーンに、照明(関口裕二)と映像(上田大樹、大鹿奈穂)が流れ積もる砂を観客に体感させる。砂子たちが文楽よろしく人形を操り場のスケール感覚を狂わせ、暗幕や舞台上の女の住居=盆をまわし、砂の表情を変える。『アメリカン・ユートピア』なみにバミリが少ない。演者たちの緻密なステージングに目を瞠る。
こうして「どうにかすれば脱出出来るんじゃないか?(実際一度はよじのぼれたし)」という舞台の実寸は深い深い穴となるのだが、ラストシーンで観客はその浅さを再認識させられる。それが奇妙な感動を呼び起こす。いつでも逃げられるが(今は)逃げないという男の選択が、哀切ともいえる希望と絶望を生む。凡庸に考えるなら、女と連れ立って砂の底から抜け出すことがふたりにとって最良の選択だろう。しかし、男の緩やかな決断に思わず胸を撫で下ろしてしまうのだ。こんな形の幸福がある。
小野寺修二による振付は、男と女のエロティシズムが観客の想像力によって生々しいものとして完成するよう仕掛けられている。触れそうで触れない、触れた瞬間に離れる。すれすれを撫でる。昏い暖色の照明に晒される素肌には体温を、じっとりとした汗の光にはいきものの生命力を。
「これじゃあまるで、砂かきするためだけに生きてるようなものじゃないか」。苦境の原因は政治と社会にあるが、そこをなんとかしようとは思わない。自分の力で状況を変えようなんてとんでもない。これは1962年に書かれたものか? まさに今のことじゃないか。上演構想は随分前からあったそうだが、こうも現在が炙り出されるとは。演出家、演者、そして観客がそれを見つけ出してしまう、ともいえる。優れた作品には多面的であると同時に普遍的な要素があり、時代によって光の当たる場所が変わるだけなのだろう。プリズムのようだ。
ユーモラスであり乍らセクシュアル。仲村さんと緒川さんは、極限状態の男と女にそんな魅力をもたらした。自分の戻るコミュニティはいつでも自分を待っていると信じている男。昆虫採集を穴の底でも始める男。そうして集めた虫を囲炉裏にくべてしまう男。「あたしの家だ!」という台詞が象徴的な、場所に執着する女。都会の女性にコンプレックスを持つ女。ラジオを月賦で買って、娯楽と社会への窓口を手に入れようと夢見る女。雨の幻を見る男とそれを嗜める女のリフレインが、幸福のひとときのように見えてくる。なんて愛らしい、なんて美しい、なんて恐ろしい。原作の印象とは違う肌触りにうっとりする。この座組で観ることが出来てよかった。
男が戻ろうとしている街の様子が描かれる挿話がこれまたユーモラス。オクイさんと武谷さんの掛け合いが絶妙。そこへ絡む吉増さんと廣川さんのリズム感が素晴らしく、ナイロン100°Cで培われるスキルというものに舌を巻く。こうして男の存在は忘れられていく。社会的な死への入口はどこにでも開いている。笑い乍ら、空調が効いた劇場で冷たい汗をかく。
上野洋子の音楽(演奏もライヴ)がまた素晴らしかった。夢に出そう。半鐘を鳴らす高台のように、組み上げられた櫓から舞台を見下ろし演奏する。女声によるヴォイスパフォーマンスは、舞台上に現れない集落の「女たち」を思わせる。音楽といえば、幕間にワーグナー『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」が流れていたのが印象的だった。
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・チラシについてもう少し。 この公演に限らずだが、チラシを手にすることが格段に減った。コロナ禍により劇場に行く機会が減り、タイミングが合わなければ折り込みチラシを受け取れないこと、その折り込みチラシも感染対策のため廃止しているところが少なくないこと、同じく感染対策で劇場に置かれているチラシの殆どが撤去されていることが原因だ。そして、紙のチラシを廃止したハイバイの公演にはぱったり行かなくなってしまった。というか、ハイバイがいつ何を上演しているか、だいたい公演が始まってから(最悪終わってから)知る有様だ。ハイバイの制作が時代に合っているのは間違いない。自分が何を基準に観たい公演を選んでいるか、改めて認識する。 結局『砂の女』を観た翌日、おちらしさんに登録した。これでもランダムな要素はかなり失われてしまう
・おちらしさんについての迷いはこちらに書いています。まあ、贅沢な悩みなんだな
・『砂の女』観てからあー『他人の顔』を河原雅彦演出で観たいなーとか『箱男』をタニノクロウ演出のVR演劇でやったらどうなるかなーとか考えている
・といえば石井(聰亙)岳龍×永瀬正敏の『箱男』は今でも観たかったなあと思っている
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2021年08月22日(日) ■ |
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『八月花形歌舞伎』第二部 |
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『八月花形歌舞伎』第二部@歌舞伎座
きゃ、きゃわー! てなりましたよね。しかも舞踊劇、勘九郎さんが輝くに決まっとろうが。
たぬきが人間に恋をして。『仇ゆめ』は、歌舞伎座で以前勘三郎さんがやったときの舞台写真を見て知りました。確か他の部を観に行って買った筋書に載ってたんだな。これがまーかわいらしいたぬきでね、衣装も、化粧も、仕草も。深雪太夫は福助さんで。次かかったら絶対に観よう! と思っていたら、勘三郎さんが亡くなり、福助さんも長いお休みに入られた。地方の平成中村座ではかかっていたので、遠征してでも行けばよかった。その後中村屋兄弟の錦秋特別公演等にかかっていましたが、なんとなく歌舞伎座でかかるのを待っていました。そしてそのときがやってきた!
発表されたときはこんなテンションですわ。
久しぶりの歌舞伎座、感染対策も変わらずしっかり。まずは三遊亭円朝 口演より『真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち) 豊志賀の死』、こちらも初見。おうおう悲しき怪談噺、今月は恒例の納涼歌舞伎ではなく花形歌舞伎と銘打っていますが、それでも夏らしい演目でにっこり。鶴松さんの新吉かわいい。で、鶴松さんと並ぶと児太郎さんのお久、大きい……体格のよい若者が女型を演じるときの悩みでもありますね。しかし身体をちいさく見せようとする所作の細やかさが感じられ、まあ昔でも高身長の女性はいたわよね、と思いなおすことも出来ます。円朝宜しく怪談を語る噺家さん蝶、勘九郎さんの軽妙な語りが光りました。しかしなんたって豊志賀、七之助さんの達者なこと。我儘エロババアの心根は寂しさで満ちている。幽霊への変化、お見事でした。
さて『仇ゆめ』。「ワタシ、たぬきです」ってな(いや正確にはこんないいまわしじゃないが)自己紹介から始まってもう笑顔。パステルカラーの拵え、かわいー! しかし終始ニコニコ……とはいきません。道ならぬ恋には試練がつきまとう、すなわちどうぶつぎゃくたい。揚屋の亭主ったら、「こらしめてやろう」じゃなくて「殴ってやろう」って笑顔でいうんだもんねー(泣)、扇雀さんいい笑顔ねー(笑)、ニンゲン怖い。「きゃあっ、獣の足跡がこんなに!」って場面には笑ってしまいましたが。気のいいたぬきは正体がバレているとは思いもせず、ニンゲンに踊りを教えて得意顔。深雪太夫の近くにいられてハートはドキドキ、しっぽはぴょこぴょこ。これらを着物の裾や袖を使って表現するのが巧い巧い、かわいいかわいい。
ほんで「千両箱」は中に千両入ってるから価値があるというのをわかっておらず(なにせたぬきですから)、箱そのものを探すってのがもう不憫で笑いを誘いますね。はーかわいい、はーかわいそう、はーかわいいそう。袋叩きの場面も鼓と笛による軽妙な音がつき、すっとぼけているのに哀れを誘うという、なんとも味わいのある演目でした。
一門での上演はもう何度もやっているので、満を持して歌舞伎座に持ってきたという感じでしょうか。阿吽の呼吸の舞踊劇、楽しいやら悲しいやら。七之助さんの女形二態も堪能。かたや嫉妬に狂う年増女の悲哀、かたや畜生に寄り添うやさしい太夫。恋が実らなかったたぬきに、自分の姿を重ねたのかもしれませんね。うぎゃーせつない!
この演目が中村屋ゆかりの、ということも納得。これは愛されますね。観られてよかった、また拝見したいです!
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・仇ゆめ(あだゆめ)┃清元曲辞典┃清元國惠太夫 OFFICIAL WEBSITE 今回の上演にも出演されている浄瑠璃方、清元國惠太夫さんのブログに『仇ゆめ』の解説と歌詞が載っていました。「畜生の身で 身の程知らぬと叱られましょうが」……拝読してまた涙
・一階の木挽町では作品にちなんだ地方のお菓子など売られており、休業している企業を応援しています。木挽町にはチケットなくても入れます、お近くにいらした方は是非……とはいいづらいにがまたつらい
・劇場側もキャパ50%で公演を続けているのでどれだけ利益が出るのかと考え込んでしまいます。歯ぎしりしたくもなる。なんとか踏ん張ってください
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2021年08月14日(土) ■ |
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さいたまネクスト・シアター最終公演『雨花のけもの』 |
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さいたまネクスト・シアター最終公演『雨花のけもの』@彩の国さいたま芸術劇場 小ホール
そぼ降る雨を噛みしめるように、さい芸のへの道を歩く。雨の日に観られてよかった。『真田風雲録』で、泥まみれの役者たちを応援するような気持ちで観たのがついこのあいだのよう。約12年、干支もひとまわり。
ネクストシアターとゴールドシアターの活動が年内で終了するというニュースを知ったとき、どこかで納得している部分はあった。ゴールドに関しては、縁起でもないことだが劇団員の「残り時間」がそう長くなく、舞台に立つ、舞台で語るということ自体も危ういことを感じられていたからだ。公に発表されることはないが、公演の度にメンバーの数が減っていくことからもそれは明らかだった。蜷川幸雄の主導で始まった集団でもあるし維持が難しいのだろう、芸術監督が交替するタイミングでもあるし、とは思った。コロナ禍の影響もあるだろう。
しかし、ゴールドと菅原直樹とのコラボレーション(『よみちにひはくれない』)では「こういうやり方もある」という手応えを感じたし、ネクストに関しては、メンバーたちが積極的に公演の企画を持ち込んでいたことが伝わってきていた。そして、それらの公演がどれも出色の出来だった。小川絵梨子と初タッグを組んだ『作者を探す六人の登場人物』の記憶も新しい。蜷川幸雄の庇護がなくとも、前進していけるのではないかと思っていた。活動停止は正直にいうと悔しい。バンドではないが、このメンバーでしか起こり得ない「ケミストリー」を持つ集団だった。
ネクストシアターの最終公演は、集大成と呼ぶにふさわしい作品になった。数々の古典/名作を通して身のこなし、声の出し方、会話の強弱、間合いと舞台での居ずまいを体得していく彼らを目の当たりに出来たことはこの上ない幸運だった。一朝一夕に出来ることではないのだ。成長した彼らが初めて自分たちのために書き下ろされた作品を、岩松了の演出で上演するとどうなるか、ということを最後に目撃出来たこともうれしかった。
今回の作家・細川洋平が岩松さんとどういうやりとりをして今作を書きあげたのかは想像するしかないが、極めて岩松色を感じる物語だった。居心地の悪い会話、不在の人物が及ぼす影響力、登場人物たちが常に抱えている負い目。水(雨、雪)と階段の存在。チェーホフからの引用。『薄い桃色のかたまり』が桜の花びらのことだったように、宙を舞う綿ぼこりは「ぽよぽよ」という単語で描かれ、雪へと姿を変えていく。そして、目にすることがない惨事(これは演出によっていかようにも表現出来るが)。
不在の「ペット」によると思われる「声」。使用人の声。「がんばれ」「生きろ」、「できそこねえめが!」がまっすぐに届く。破滅に気づかない人物、気づかないふりをしている人物を横目に、ペットたちは外の世界へと駆け出していく。破滅の淵に立つ人物は、ペットに名前を贈る。そしてその場面は舞台上に提示されず、ペットの言葉により明らかになる。不器用で、愚かな、でも愛おしい人間。できそこないの登場人物たちは人間そのものであり、それはつまり、自分のことだ。パドックから出たペットたちへのメッセージは、そのまま自分の心に突き刺さる。
無邪気なペットが似合っていた阿部輝、岩松演出の「不器用な人物」をしっかり表現してくれた内田健司、危うげななかにも芯の強さが光る人物像を見せてくれた佐藤蛍、悪どく浅ましい人物がこうも似合ったか!(ほめてる)鈴木彰紀、演技のさじ加減でDVとSMの微妙な差異を考えさせてくれた鈴⽊真之介、これまた岩松演出における「こわれゆく女」を見事に演じた周本絵梨香、最後の台詞を痛切に響かせてた髙橋英希、緊張と脱力の引き出しが多い竪山隼太、ふとした瞬間に笑いと悲哀を投げ込んでくる續⽊淳平、もはや千両役者のような安心感で観られる手打隆盛、「弱いいきもの」をヴィジュアルと声で表現した中西晶、風格と矮小を併せ持つ人物を優しさに包んで見せれくれた松田慎也、コメディエンヌとしての資質も見せてくれた茂手木桜子。
そして蜷川さんが亡くなったあとネクストシアターの活動を引っ張っていたひとり、堀源起はスケジュールの都合か声だけの出演。不在の声がここにも届いた。その声が、登場人物たちを導くかのように「がんばれ」「生きろ」という言葉を発したことに胸が熱くなる。
役者たちと同様、チーム蜷川で研鑽を積んだスタッフたちの仕事も素晴らしかった。暗転から幕開けを告げる光の美しさ(照明:岩品武顕)、劇場を反響させるかのような音響(金子伸也)、登場人物たちの経済状態だけでなく人格をも滲ませる服、小物(衣裳:紅林美帆)。この劇場へ通う度、ネクスト/ゴールドの作品を観る度、「これをつくったひとは誰!?」と何度となくクレジットで確認した名前だ。勿論、制作を手掛けるひとたちも。これからも観ていきたい、きっと観ていくチームだ。美術の加藤登美子は岩松さんとピッコロシアターの伝手からだと思うが、奥行きで「窓の向こう」を見せる装置と雪を表現する布の転換が素晴らしかった。上に抜けるこの劇場の機構が活かされていた。
集団に執着していない印象だった(まあ、私がそう思っていただけだが)松田慎也や手打隆盛、そして内田健司が、蜷川さんの死後ネクストシアターを離脱しなかったどころか、その活動に積極的に関わっていた(ように見えた)ことは、集団への愛着(実際そうしたものがあったかは当人たちにしか判らないだろうが)だけでなく、この集団が存在する意義を感じていたからこそだろう。外の世界で疾走する彼らを、これからも注目していきたい。ネクストシアターの有志で結成された第7世代実験室は、本公演の千秋楽当日に新作の告知(後述)を打った。彼らは既に歩き出している。
『桜の園』の引用である「できそこねえめが!」。あの台詞を幕切れに持ってきたところに作家、演出家の思いを見る。人間は誰しもできそこない。でも、生まれてきたから生きるのだ。『雨花のけもの』も『フェイクスピア』も「がんばれ」「生きろ」という台詞が印象的に使われていた。この時代にはこうしたシンプルでストレートな言葉が響くし、届くのかもしれない。今は、この言葉たちがただただ愛おしい。
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・ニナガワの子供達をイワマツの養子にという夢は叶わないですか? さいたまネクスト・シアター『雨花のけもの』┃note 「岩松は、登場人物の不器用さが俳優の緊張によって極度に研ぎ澄まされた時、観客に見せうる美しさになると知っている。けれどもそれは、生前に蜷川が、小器用な技術の習得ではなく、不器用さが観客にバレても必死で考え続けることが俳優の仕事だと伝えてきたのと同じだろう。『雨花のけもの』の完成度、スリル、おもしろさは、そこを根幹にしている。」 徳永京子さんによる考察。そう、私も夢想していたところはあったんだ。『薄い桃色のかたまり』も素晴らしい、忘れられない作品だったし、ゴールドもネクストも岩松さんが引き継いでくれないかなって
・さいたまネクスト・シアター、思い思いの稽古着で┃ケイコレ~稽古着ファッションをお届け~ Vol.27┃ステージナタリー ちょっと変わった趣向で面白かった、いい思い出だな
ネクストの卒業生たちも、同世代の若手も集っている。これは唸る面子!
来年の春から近藤良平さんが芸術監督に就任し、同じ年の秋から改修工事に入るそうだけど、リニューアル後も通えるといいな
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2021年08月06日(金) ■ |
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『最後にして最初の人類』 |
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『最後にして最初の人類』[odessa vol+]@ヒューマントラストシネマ渋谷 シアター3
同じ週にNHKで再放送されていた『映像の世紀』を観ていたこともあり、厭世観が募るばかり。人類が絶滅することは明白だが、では「そのとき」が来る迄、私たちは何をすればよいか。それを考えることは希望でもある。登場する巨大な建造物群は「スポメニック」と呼ばれる旧ユーゴの戦争記念碑。
「あなたたちを助けます。私たちも助けてほしいのです」。
20億年先の未来から“最後の人類”が語りかける。2018年に亡くなったヨハン・ヨハンソンの、最初にして最後の長編監督作は、滅亡へ向かう人類へのメッセージだった。
もともとは映像、ナレーション、オーケストラとエレクトロニクスによるライヴパフォーマンスで発表されていたマルチメディア作品。音楽を改定した映像作品を新たに制作している途中でヨハンソンが急逝したため、スコアの改訂協力を依頼されていたヤイール・エラザール・グロットマンが、ヨハンソンが残した多数の作品を参照し、それらに参加していたヨハンソンゆかりの演奏家たち(ヒドゥル・グドナドッティルも参加している!)を召喚しスコアを完成させたのだという。途中何度も「ああ、ヨハン・ヨハンソンマナー!(参照)」とうれしさで身悶えしたくなるような場面がいくつもあったが、それはグロットマンをはじめとしたヨハンソンの仲間たちによる尽力によるものだ。
原作は1930年に発表されたオラフ・ステープルドンのSF小説。映画では主に、その原作の最終章「人類の最後」をとりあげている。邦訳版は現在絶版となっており入手が困難だが、映画でとりあげられている部分は90年前に書かれたとは思えないくらい、過去、現在、未来を捉えている。第二次世界大戦を前にしてこうも見えていたのか、と驚くが、「大量殺戮兵器」が発明された第一次世界大戦がどれ程人類に驚きと恐怖を与えたかを前述の『映像の世紀』で知ったばかりなので、容易に納得も出来る。16ミリのアナログフィルムで撮影された映像は前述のスポメニック(モノクロ)と、ナレーションと同期したオシロスコープの波形(カラー)のみ。カメラワークも、モノリスを思わせる巨大な立体も『2001年宇宙の旅』が連想されるが、そもそもアーサー・C・クラークがステープルドンから多大な影響を受けているのだそうだ。
人間は登場しない。モノクロのため、建造物に生い茂る雑草も死んでいるかのよう。この星にはもはや生命が存在しないのでは、と諦めと納得の入り交じる気持ちで観ていると、空を鳥の群れが横切っていくのが見え安堵する。オシロスコープの波形は無音のときは球状になる。そのちいさな発光体は遠くの、人類が行き着くことの出来ない星に見える。さて、人類はどこ迄行けるやら。未来からメッセージを伝えるナレーションはティルダ・スウィントン。
18期にわたり姿形、能力さえも変化(進化ともいえるのだろうか)させ、海王星に身を寄せてなお絶滅を待つしかなくなった最後の人類。彼らは原作には登場しないスポメニックを(何しろこれらは1960~1980年代に建てられたものだ)意識下で目撃し、それが何を意味するものか知る力を持っている。ヨハンソンはこうしてステープルドンの意志を継ぐ、そして次世代に手渡す。ヨハンソンの死後、サウンドトラックとともに映画を完成させたひとたちもその意志を繋いでいく。打ち捨てられたかのようなモニュメントが朽ち果て、「これは何のために建てられたのだろう?」と思われるくらい遠い未来は確実にある。ただ、そう思う人類は果たして存在しているかわからない。“永遠の視座のもとでは全時間点が常に「終わりにして始まり」である”からだ。
なんというメッセージを残してヨハン・ヨハンソンは旅立ってしまったのだろう。置いてけぼりにされたような気持ちだが、まあまたどこかで会えるよね。肉体の命は有限だが、時間は無限にあるのだ。時間(歴史)を意識により共有出来る人類が語る叙事詩は受難の連続だが、彼らはトライをやめることがない。自分たちもそうありたい。
現在絶版となっている日本語版の序文とエピローグは、パンフレット(『最後にして最初の人類』完全読本)に掲載されています。印象的だったくだりを引用します。
それでも人間は終わりを迎えようとも無ではないでしょう。これまで存在しなかったように無となるわけではないのです。なぜなら人間は事物の不滅の形式に潜む永遠の美だからです。
人間であったとは、なんとすばらしいことでしょう。ですからわたしたちは、心の底からの笑いと平安を胸に、過ぎ去りし日々とわたしたち自身の勇気に感謝を捧げつつ、ともに前進すればいいではありませんか。どのみちわたしたちは、人間というこの束の間の音楽を美しく締め括ることになるでしょうから。
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・「最後の人類から伝えたいことがあります」ヨハン・ヨハンソンによる長編映画が投げかける、人類の未来に残された希望┃TURN
・旧ユーゴスラヴィアの奇怪な「戦争記念碑」が平和について語ること┃WIRED.jp 2017年の記事。 「ヘラウドは、自身の作品を通じ、これらのモニュメントに託されたメッセージが失われていないか確かめたいのだという。『事実、1990年代の内戦によって暴力が復活してしまったことで、平和の象徴としてつくられたこれらのモニュメントの意味は疑問視されてしまうでしょう』とヘラウドは語る。」 時間がある限り、モニュメントの意味は何度でも変わる。ヨハンソンは、これらが再び平和の象徴となるさまをどこかで目撃するだろうか
音が消えた瞬間、暗闇に放り出されたかのような静けさ。宇宙空間には音がない。無意識に、自分の足が地に着いているかを確かめる。boidの爆音上映とboidsound、シネマートのブーストサウンド、シネマシティの極音と、音響に力を入れているいろんな劇場で観てみたくもなりました
・それにしてもヒューマントラスト、『ハイ・ライフ』もここで観たし、なんというか宇宙の広さ、永遠という時間に呆然とするしかないみたいな作品ばっかここで観てるな……これがまた尾を引くんだ。エスカレーターでボヤーっと上って向かう時間も好きな映画館です
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