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2026年05月09日(土)
NODA・MAP『華氏マイナス320°』

NODA・MAP『華氏マイナス320°』@東京芸術劇場 プレイハウス

書き手の胆力と、演じ手の膂力。見えない世界は見ていない世界であり、知らない世界 『華氏マイナス320°』

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— kai (@flower-lens.bsky.social) May 9, 2026 at 23:00

そして、知らない世界は知ろうとしていない世界。

天皇制、太平洋戦争、シベリア抑留、ベトナム戦争、連合赤軍浅間山荘事件、北朝鮮による日本人拉致事件、日航機事故、日野OL不倫放火殺人事件、オウム真理教が起こした数々の事件……特定のフェーズを神話に絡め描くことが続いていた野田秀樹。今回はとりあげた事象が複合的なものになり、その分「謎解き」の要素は減った。それはより多くの問題と、より複雑な社会を浮かび上がらせた。

個人的にはこの「謎解き」になるべく揺さぶられないようにしたいと思っている。インパクトを楽しみたくはないのだ。ただ同時にその「謎解き」を構成すべく膨大な資料にあたっている(筈)の書き手の胆力に脱帽してもいる。知っておかねばならないと、自分もそういった文献を積極的に読むようにしてはいるものの、それでも参ってしまう。しかしやはり、それでも知らねばならない。作品を描くために、ストーリーを立ち上がらせるために、この書き手はどれだけの資料にあたっているのか。そしてその世界を舞台で表現する役者たちは、どれだけその事象に引きずられないでいられるのか。そのことを考えた。

作品のトーンは「祈りの三部作」(『ザ・キャラクター』『表に出ろいっ!』『南へ』)に近いだろうか。『21世紀を憂える戯曲集』のあとの、『21世紀を信じてみる戯曲集』に収められた作品群だ。信じ難いことが次々と起こり、信じたくない未来がよりくっきりと像を結び始めた21世紀。それでも、「信じてみる」。信じてみることで、パンドラの箱のなかには希望が残る。

今作の「史実」は複数ある。実際にあった出来事と、進行形の問題。ガラスの天井とガラスの崖、ルッキズム、命の選別。原木からひとつの形が彫り出されるように、予感が像を結んだときの衝撃は過去の作品よりは弱い。しかし、その弱い衝撃が何から来るかと気付いたときのボディブローは激烈に重い。何故その事件は起こったか。それは自分を含む世間が、そのことを「折衷案の善人」(笑うところですよ、といっていたけどこれ、実に的を射た台詞だ)として知ろうとしなかったことにある。そして名付け。そう名付けたことで、お前たちはわかったような気分になっているのではないか? 痛い指摘だ。見ているけれど知ろうとしていない。それは見ていないことと同じことだ。知ろうとしたとして、未知のものに名前をつけることで安心したり、沈黙したままでいればやはり同じことなのだ。

見えていないものを見ること。知ろうとすること。知らないものの存在を消さないこと。名前を付けたなら、何故その名なのかを考え続け、言葉へと変換すること。広瀬すず演じるメフィストは、「天使」と名付けられている者たちに怒れといった。そして大倉孝二演じるハーメルンの笛吹き男は、お前たちは何をいってるかわからないといった。言葉になっていない、と。では、次はわからない言葉をどうわかるように伝えるかだ。阿部サダヲを演じる阿部サダヲは(阿部サダヲは今作でタスケテと阿部サダヲを演じる)、その言葉をMISAKI演じるMISAKIとともに観客に差し出す。

『ダイアログ・イン・ザ・ダーク』に参加したときのことを思い出した。たった一度の自己紹介で、参加者全員の名前と位置を把握したアテンドの方。脳は100%使っているのだ、ナイトヘッドなんてないのだ。使う環境と状況により、表出する部分が違うだけだ。「信じてみる」などと思わない段階に、それがあたりまえだと誰もが知っている段階へと至る世界を「信じてみる」。

野田さんは「見ようとされていない者たち」を見続けている。忘れられている者たち、気付かれていない者たちを探し当て、見ているぞ、伝えるぞ、と叫ぶ。それはまだ過程であり、途上であり、そして野田さんが書き続ける限り続く。バベルでバラバラになった言語は、あらゆる手段で翻訳、通訳されていく。そこに希望を見る。可能性といってもいい。「信じてみる」に値する可能性だ。「折衷案の善人」には、こういう可能性もある。

これをこの役者にいわせるか、という台詞がいくつかある。役者は世間一般でいうところの「それをいっちゃあおしまいよ」な言葉を、役を通してならいくらでもいえる。その際、その言葉により役者自身が傷つくかもしれないなんてことをこちらが考えるのは野暮なことなのかもしれない。だからこそ役者は超人じゃないとやってられない、超人じゃないならやらない方がいいと迄思わせられてしまう。あの役は大倉さんという超人が演じたからこそ俯瞰で見ることが出来た。心眼を喚起させてくれる役者だ。

森田真和をはじめ、アンサンブルに知った顔が多かった。継続による連携の円熟も感じさせる。彼らは井手茂太による振付の美しさを、随所で存分に見せてくれた。ブレヒト幕に象徴される布は、時間を超え、場所を変える。死者を包む。生まれてくる命をくるむ。新しく生まれてくる命に人類の宿題を押し付けてはならない。音を排したラストシーンに希望を、可能性を「信じてみる」。

MISAKIさんに拍手のハンドサインを送れなかったことを後悔。昨年デフリンピックが東京で開催されたとき、いろいろなメディアで拍手のハンドサインを紹介していて知っていたのに。咄嗟には出ないものだな。字幕をつけてほしかったと思うのは、手話を理解し得ない者の傲慢だろうか。とはいうものの、字幕をつけないことで「わからない言語がある」という状況を示すための演出だったのだろう、とも解釈している。

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・キャシディ・ランドール『華氏マイナス三十度』(国書刊行会)
1970年、女性のみでデナリ登頂を成功させたパーティーについてのノンフィクション。2025年10月に刊行されたものですが、野田さんはいつ知ったのだろう。もともと「山」に対する興味が尽きない印象があるので、とっくの昔に知っていて原書も読んでいるのかもしれない

・余談。広瀬さんの前脛骨筋がすごかった。いや、丁度目線の高さがこの位置だったんですよね……ここに筋肉がつくってどういう? ああ、キックボクシングやってるからか! と思い至る。相当鍛えてるよなあ。とにかく動きにブレがない。キレがよく、どんな姿勢でもバランスが保たれている。それがわかっているから、野田さんは彼女に、自在に身体を動かせていたかつての自身を投影させているのかもしれない。それは継承というものなのかもしれない。そして今の野田さんは、橋爪功が舞台に立つ姿を自分の未来として想像している、のかもしれない

・にしても、橋爪さんの台詞の通りよ……声を張らず、ブツブツ呟く台詞さえ通ること通ること。感嘆