突然ですがわたくし、21世紀を前に、約五年勤めた会社を退職することを決心しました。
会社でもほぼ公表されたし、バッカスやリベンジャーズのみんなにもほぼ伝えられたので、ここで一度、「何故、今、辞めるのか」についてお話しておこうかと思い、久々にペンをとった次第。この間は余裕がなくてなかなか書けなかったからな。
まあ、随分前から考えていたことではあるんだが、年の瀬の今、「そもそも俺はどんな奴で、何に興味を持ち、何を良しとし、実際には何をして生きてきたのか?」、そして「21世紀を目前に控え、20代をあと3年残した今、俺は何をしようとしているのか?」なんてことを、自分の頭の整理も含め、つらつらーっと書いちゃおっかな。「わたくしごと」で恐縮ですが……。
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第一章 マユゲ幼少期〜大学時代
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マユゲ、生える
昭和48年9月5日、神奈川県川崎市にて、「正直」という名の父親と「良子」という名の母親の間に、二男として生を受ける。
AB型の両親から生まれた生粋のAB型、乙女座。後に立派に成長する眉毛は、母親ゆずりであったようだ。二人揃ってあまりにストレートな名前、そしてともに「センセイ」と呼ばれる職業に就く共働きの両親のもと、「間違っても悪いことはできない」というプレッシャーを潜在意識で抱えつつ、同時に、やんちゃを繰り返す三つ上の兄を見て育ち、「こーすると、こんなに怒られるのね」なんて涼しい顔して学習し、あまり怒られることを知らずに幼少期を過ごす。
小さい頃は今と違って、とても積極的・開放的な性格であったらしく、デパートなぞに連れて行こうものなら一瞬にして姿をくらます、迷子の常習犯であったとのことである。当時は広島カープの野球帽をこよなく愛し常に着用していたため、毎回のように「赤い帽子をかぶった四歳くらいの男の子が……」という館内放送にお世話になっていたとのこと。くしくも当時『とこちゃんはどこ?』とかいう幼児向け「ウォーリーを探せ!」系絵本が一部で流通していたらしいが、それは、大勢の人垣の中から、赤い帽子をかぶった主人公「とこちゃん」を探し出すというもの。両親曰く、当時のマユゲは、彼とかなりキャラがかぶっていたらしい。
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NOT「お受験」
小学校に入ると徐々に「おりこうさんキャラ」へのシフトがなされ、高学年になると四谷大塚に通い出すことになる。世の中は受験戦争真っ只中。そして我々の世代は、典型的な第二次ベビーブーマー。世間一般の親は、「有名私立中高→有名大学→一流企業」という、いわゆる"エリートコース"のレールに、競って自分の子を乗せようと必死になっていたときである。一見その世間の趨勢と同じように見えるが、正直と良子は、ちと違った。
子供の幸せを考えてくれるという点では共通するが、彼らの場合、そこには見栄的なものは皆無で、あくまで「今の日本はこんな世の中。この子が将来自分でやりたいことが見つかったときに、大学に行っていなかったことでハンデとならないようにしてやりたい」という思いのもと、実際決して裕福とは言えない状況の中、教育に資金を注いでくれたのである。
そんなわけで、当時のマユゲとしても、やらされている感覚はなく、すんなり、そして客観的にそのレールに乗ることを選択できたのである。四谷大塚では全国トップ賞を獲得するなど、一瞬は「俺は秀才なのか?」と血迷ったこともあったが、第一志望の中学にはあっさりと落とされ、第二志望の私立男子校に入学することとなる。そして同時に、マユゲの青春時代の舞台が、ベイブリッジ建設前の横浜になることが、このときに決まったわけだ。
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たぶんこの頃からが「青春」
中高一貫教育で高校入試がないことに加え、集まっている連中のほとんどが一流中学を落ちた奴らばかりであったこともあり、学園の雰囲気は実にのんびりとしたものであった。ガリ勉が少々、フツーがボリュームゾーンで、ワルがまた少々、といった構成比と言えば分かりやすいか。東大・京大に行く奴もいれば、プータローになっちゃう奴もいるような、教師からの押し付けのない、自由な校風だった。
このなかでのマユゲといえば、ワルのカテゴリーに属しつつ、中学時代はブラスバンドに入部。これはドラムをマスターしたかったという理由からだったわけだが、ここでクラシック、ジャズ、ポップスなど様々なジャンルの音楽に触れることとなった。
中学三年になると、兄の影響で小学五年生の頃から聞き始めた洋楽のコピーバンドを結成。「イカテン」に象徴されるバンドブームによって学園内にも多数あったロックバンドの中でも、一、二を争うイケてるバンドのドラマーとして精力的なライブ活動などを展開した。
高校に進むと、友人の勧誘にサクっとひっかかりブラスバンドを退部、突然アメリカンフットボール部に入部。一見、文科系から体育会系に180度鞍替えしたようだが、もともとマユゲはスポーツ好きでり、体育の授業時間には運動部の連中にまじり即席チームをつくって、体育教官チームとバレーボールの試合をしたりしていたものだ。親は、「これから大学受験に向かっていくときに、こんな危険なスポーツを始めて大丈夫なのだろうか?」と面食らっていたが、潜在的な"運動欲"があったのか、自分的にはこれまた、すんなり、であった。そしてこの後、このスポーツの魅力にずるずると引き込まれ、十年以上続けていくことになる。 あっちのほうはと言えば、恋という恋の思い出は特になく、仲良しだった女子高の子たちとの清いグループ交際を楽しんでいた。そのなかで、三枚目キャラの快感に目覚め、現在に至っているわけである。当時は渋谷チーマーのはしりの頃であったが、当校の生徒はファッションだけ。やってもパーティー(ドラッグなしだった)程度であり、ナイフを持っている奴がいても、それを使って実際にケンカする者はほとんどいなかったと思う。
付き合っていた女の子たちはと言えば、制服のスカートをやや短くはきこなし、ややルーズなソックスを愛用していた頃である。現在のような下品な女子高生ではなかった。みんなちゃんとソフィスティケイトされたセンスを持っていたし、知っている限りではセックスに関してもきちんと自分を大切にしていたと思う。振り返ってもとてもいい時代だったと思う。
学業的には「成績トップが集まるクラス」に出たり入ったりを繰り返しながら学年をあがっていった。高校一年時には、物理のテストで生まれて初めて「0点」というものを経験し、徐々に「俺って文系?」との認識を深め、最終的には「私立文系コース」を選択、予備校も行かず、のほほんと受験をむかえることとなる。しかし、三年の春の大会をもって部活を引退したあとは、運動部の連中は持ち前の集中力を発揮するもの。結局は受けた大学はほとんど合格し、大した苦労もせず現役で意中の大学に入れていただくことになった。そしてこの時、合格体験記などにえらそうなことを書かせていただくなど、人生二度目の有頂天を味わう。
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大学生活、そして卒業後の道は?
大学入学後は、学業には目もくれず(父上、母上、本当にごめんなさい)、再びアメフト漬けの日々。一年時には、合コンも精力的にセッティングし、無事「大学デビュー」を済ませた後は、次々とその面での「悪行」を繰り返す。いざというときになって相手に「どういうつもりなの?」と聞かれ、思わず目をそらしてしまうような、そんな恋愛とも呼べない男女関係がいくつか続いたものだ(その度に、「女の子を泣かせるようなことしては絶対駄目だよ」という良子の声が耳元から聞こえてくるようだった……)。
二年時にはレギュラーポジションを獲得、以後得意の必殺タックルを武器に「ディフェンスの最後の砦」的なポジションで地味な活躍を続けた。ちょうどこの頃、女子大から参加していた同学年のチームのマネージャーと恋に落ち、それまでの悪行を悔い改め、一途な男に変貌を遂げる。以後、社会人2年目頃まで、約3年半に渡って愛を育んだわけである。
三年時にはディフェンス・キャプテンに選ばれ、初めて組織の運営という難題を経験する。しかし、ライバル校にはどうしても勝てなかった……。
四年になると春は就職活動である。景気ドン底、就職大氷河期であったときだけに早々と動き出した周囲に流されながらも、卒業後の「行く先」探しを開始した。それなりの歳になってはいたものの、精神的にはとても子供であったマユゲはこのとき結果的に、単なる「次に行くところ探し」をしてしまったのである。
自分を見つめなおし、将来像を描く、という人生において誰もが一度は経験しなければならない、とても大切な作業を、マユゲは浅く捉えてしまったのだ。ここで人生を俯瞰して見れなかったことが後に大きな問題となるわけだが、当時は高校時代から「なんとなく」頭にあった広告業界に絞った就職活動を展開。志望動機もうすっぺらく、しっかりとした『意志』に基づく自分のビジョンを語ることができなかったマユゲは、電通・博報堂でボコボコ落とされ、ここで再び人生の挫折を味わうことになる。職種については、そう言うともっとも入りやすいといわれていた「営業志望です」と嘘をついて活動を進めた。
しかし縁あって、八月初旬、残っていた「そこそこ大手代理店」の内定をゲット、就職活動の精神的疲労もあり早々に入社を決め、活動をそこで終える決断をした。根底には「まだ社会に出る心の準備ができていない」という思いがずっとあったように思う。今思えば、つくづく甘チャンだったよな。でもそれは自分が蒔いた種。責任は自分でとらなければならない。
そしてすぐに夏のシーズンイン。チームに合流後は猛暑の中、就職活動でなまった体に鞭を入れまくる毎日。一年間務めたディフェンス・キャプテンをはずれ、一プレーヤーとして新鮮な気分で取り組む。役職をはずれると、それまでのプレッシャーから開放され、「プレーに集中できるとこんなにも楽しいものか」とさらにこのスポーツに傾注、学生時代最後となる秋のリーグ戦初戦では、一試合三インターセプトを記録するなど絶好調で走り回った。今年こそ、ライバル校をぶっ潰す。今年の戦力ならそれができる。そう信じていた――。
(つづく)
2000年12月20日(水)
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