即興詩置き場。

2002年03月07日(木) 「談合で逮捕」のニュースを見て、妻がひとこと言いました。


「チャットで談合すればバレないのに」

確かにそのとおり(爆)。



以前から、
架空の職業に就いている人たちへのインタビュー記事
というのを書いてみたくて、
なんていうか、そういうのは訓練になるのかな。
どこまで「リアル」に迫れるのか。そういう訓練。

リアルなファンタジーが書きたいのね。時々。
リアリティの反語はファンタジーじゃないんだよね。もちろん。
“ファンタジー”は“物語”に置き換えてもいいかもしれない。

「実体験でないとリアリティが出ない」と言う人が時々いて、
んー。こういうことを言っていいのかどうか、迷うけど、
それはやっぱり、イメージする能力を磨く必要があると思います。
「実体験しか題材にしたくない」ってのなら、
それは単なるポリシーなので理解はできるけど。

んとね、何をうだうだ書いてるかというと、
フィクションとノンフィクションの区別の無意味さについて語ってるわけですよ。
どうせ区別するなら、リアルかリアルでないかで区別すべきだと思う。


リアルじゃないノンフィクションってのもあるのね。
たとえば9月11日のあの映像。
あんなのはもう、全然“リアル”ではない。
あの映像にはリアリティがまったくない。
テレビの映像にリアリティを求めるのは馬鹿げてる。
「あの映像、映画みたいだった」って、そりゃあたりまえだよ。リアルじゃないんだもの。
(注:映画にリアリティがないと言ってるわけではない)

「あの映像、映画みたいだった」という表現そのものにすでに、
リアルかどうか=ノンフィクションかどうか
という誤解が入ってる。
リアルかリアルでないかに、
フィクションかノンフィクションかってのは、まったく関係ありません。

リアリティを獲得するってのは、
イマジネーションの仕事なんだよな。
イメージする能力。イメージするということ。
たとえば、あの映像から、
音を、匂いを、土埃を、空気の震えを、イメージする。
イメージできる。そこに、リアリティが生まれる。

逆に言えば、あの映像からそこまでイメージせずに、
「なんて酷いことを」とか言ってるのは、
個人的に信用できない。
それは“リアル”を感じているんじゃなくて、
単なる共通認識に過ぎない。


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