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2004年04月14日(水) 言葉の限界…

今まで、公開レッスンの時には、楽譜を沢山持ち込んで、それをひざの上に開いて、もう一冊ノートを開いて沢山の書き込みをしながら聴くのが常でした。
そうしないと、自分自身が落ちつかない…というのもあったのですが、そうやって勉強しないと、自分の中に残らないような気がしていたのも事実です。

でも、今回の公開レッスンで、具体的に勉強したい数曲以外は、楽譜を持たずに聴講してみました。
とはいえ、決して、怠けたくて…ではありません。

理由のひとつには、聴講することに夢中になって、公開レッスンにいらしてくださる皆様への目配りが、不足しているのではないか…という気がしていたことがありますが、これは、まぁ、運営上のことですから、大きな理由ではありません。

もう1つの理由は、楽譜に言葉を書き込むことに、どれほどの意味があるのか…という疑問が強くなってきたからです。

最近、ドビュッシーの『映像第2集』を勉強しているのですが、この曲、4〜5年前に名古屋音楽学校で、ジャン=マルク・ルイサダ先生の公開講座があり、その講座を聴講しながら、克明にメモを取ったつもりだったのです。
ところが、そのメモを見ながら勉強してから、その講座を録音したものを聴くと、文字と自分の記憶からイメージしたのとは、全く違う演奏で、当然のことながら、自分のイメージよりも、実際の音の方がずっと素晴らしく、メモを見ながら必死で考えたのは、何だったのかしら…と思ってしまったのでした。

私は、すぐに言葉に置き換えてしまうので、北川先生によく注意されるのですが、こういう事か…と、ようやく分かった気がして、別の方向での勉強をする必要を感じました。
言葉というのは、どうしても、各々の経験によって想起されるものが違ってしまい、音楽そのものに行き着かないのかも知れません。

…という訳で、公開レッスンでは、しばらくの間、メモを取るのは最小限にして、自分の感覚を研ぎ澄ましてみよう…と思ったわけです。

本当に、勉強の仕方って難しいですね。
一歩間違えると、音楽とは反対の方向に行ってしまいます。
もっとも、このことに気付けたのは、聴講しながら楽譜に書き込み、そして、講座の録音テープを購入し、それらを使って勉強したから…でもあるのですから、全てが無駄だった…という訳ではないとも言える気がしますが…。


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