嘆息の記録



たなかあきお「ボーダー」

2006年05月20日(土)

先日ブックオフに行ったら
100円でボーダーが売っていた。
しかも単行本でなく愛蔵版のほうが・・・・・。

俺の数少ない漫画コレクションのなかでも1,2を争う本なのに
この扱いはひどくないですか

といったことは
古本屋をいくつか回ってみたことがある人は
思うかもしれません

やっぱり自分が好きな漫画とか
この本!っていうのがだれにでもあるわけで

その価値は自分しかないわけで
世間一般にしたら
そんなのその程度だわよ、と
投売り割れてしまうものなんだと
やっぱり思い直しました。

世間のその時代の普通は
現時点での自分の普通には得てしてつながらないことが多い
テレビを見て思ったりするそのときの流行は
そのとき限りで
5年後には古くてダサいものになっている
本を読んで感動したり映画を見て感動したりした
そのときの波動は薄れることなく自分の中に残り続けなければ
自分の血にも肉にもならない

残りかすでも自分の中に残せない人っていうのはいるんだろうか

自己主張なんてしなくて良い

自分を見つめていられる人っていうのは
本当にいるんだろうか

俺の中にあった
昔のひたむきな内向的な悲しさや
憎しみや、感動は
いつまでもあるものでなくなったと言うことに気が付いたとき
恐れを感じる前に
エントロピーというものの言葉の意味を
深く思いつめる

熱量がなくなることがその言葉の本質だろうが
人間の心にも反映されると信じている
変わらないものはなく
なくならないものなんて無く

それなら自分はどうするべきか
勇んで消滅していくモノに対して
何かしらの対抗をするしかない

だからこそ
なにかを常に吸収して
自分だ、自分はこうなんだ、ここにいる
だれでもない。俺はここに居る

そう、確認して生きている

出会いはその確認だ

あらゆる出会いは回り道かもしれないが
あるゴールに向かって続いている
それは見えないゆえに不安になるが
進むことを止めてしまったらそこで消滅してしまう

後ろには戻れない
時間が戻らないから
空間や、質量は飛び越えることができるが
時間だけは無理だ
理論的にというか
この無慈悲な消滅に至る方向は誰にも変えられない
無論感じ方は変えることができるが
進む

進む方向を変えることはできても
進んでいることには変わりは無い
さらに普通の人間であるから故の
進み方は1億が1億同じ方向にしか進まない
人間であるから

だれもが俺は違うと思い
俺はもっと違うんだと願い
願ったところでかなわないと悟り
他人の進んだ方向をみて
うらやましいと思う
そしてそのうらやましいと思われている人間ですらその見ている人を
うらやましいと思う

矛盾ともいえるその価値観は
誰の中にでも存在するもので
まちがってない

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