橋本裕の日記
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今回の京都の旅で、もう一つの収穫は、Kさんと一緒に入った京都現代美術館で、木村伊兵衛(1901-1974)の写真を見たことだ。祇園の料亭を出て、八坂神社に歩く四条通りに、その小さな美術館があり、Kさんに誘われるまま入った。
そこで「昭和を撮る木村伊兵衛の眼」というテーマで写真展を開催中だった。Kさんは一時写真に凝っていたこともあり、木村伊兵衛にくわしかった。パネルを見たり、彼の話を聞きながら、この高名な写真家の写真を見てまわった。
なんだかとても懐かしい昭和の風景や人物がそこにリアルに写し撮られていた。とくに秋田の田舎に取材した写真など、普段着の庶民の表情がよい。写真を見て回りながら、いつにない贅沢な時間を味わった。パネルに梶川芳友さんがこんなことを書いていたが、これに深く共感した。
<木村伊兵衛がのこした「昭和」という時代の日本の風景。それは私の記憶のなかにある懐しい感情を蘇らせる。他者の気持ちと体温が触れあう絶妙な距離感を保ちながら、野暮な一線はさらりとかわす。軽妙洒脱でありながら、出会った瞬間に存在の核心を見通す粋な眼の輝きが、人の心を打つのである>
<木村伊兵衛にとってカメラは肉眼よりもはるかに奥深くを視ることのできる道具であった。優れた資質とたゆまざる努力によって、昭和を撮りつづけた彼は、60歳を越えた頃から、人間を見る眼が非常にはっきりしてきたという>
<それは日常の生活のなかにある、生と死の根源を切り取る写真家の眼である。気に入ったものに出会うと「粋なもんですね」というのが口癖だった木村伊兵衛の生涯には、贅沢な時間が流れている>
木村伊兵衛とならぶ写真家といえば土門拳だが、この二人はその作風が対照的だ。自然体で静かな木村伊兵衛に対して、土門拳はエネルギッシュでダイナミックだ。高峰秀子も著書で二人についてこう書いているという。
<いつも洒落ていて、お茶を飲み話しながらいつの間にか撮り終えている木村伊兵衛と、人を被写体としてしか扱わず、ある撮影の時に京橋から新橋まで3往復もさせ、とことん突き詰めて撮るのだが、それでも何故か憎めない土門拳>
静と動の対照といえば、映画監督でいえば、さしづめ小津安二郎と黒澤明の作風の違いだろうか。黒澤監督の映画はそこにいつも彼の強烈な個性が刻印されている。しかし、小津安二郎の作品は、ふしぎにこのあくの強さはない。実にさっぱりしていて、それでいて深い味わいをたたえている。
木村伊兵衛の被写体になった人は、いつのまにか撮られていて、気付かないこともあった。「なんにもしなくていいです。そこに自然にしていてくれればいいです」というのが口癖で、被写体にことさら演出をしてポーズをとらせてたりはしなかった。
ある人が「どうしたらよい写真が撮れるのか」と質問したところ、「いつもカメラを手から離さずにいることが大事だ」と答えたという。これもまた木村伊兵衛らしい言葉だ。そうして出来上がった彼の写真は、あるがままの日常を何気なく切り取った趣がある。カメラや写真家の存在をほとんど感じさせないほど自然なものだ。
それでいて、そのなんでもない日常が、なんともなつかしく感じられるのはなぜだろう。その答えは、「被写体へのそこはかとない愛情」ではないだろうか。彼自身、何かの著書の中でそのようなことを書いていた。
木村伊兵衛の写真を見ながら、「批評とは愛情である。無私の愛情である」という小林秀雄の言葉を思い出した。「日常性への愛情」もしくは「存在そのものに対する愛情」とでもいうべき精神を木村伊兵衛は天分としてゆたかに持っていたのかも知れない。そしてこのスピリットが彼に写真家としての大道を歩ませたのではないだろうか。
(今日の一首)
乳をやる母が腹ばう囲炉裏端 木村伊兵衛の深きまなざし
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