橋本裕の日記
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2007年12月16日(日) 土門拳と木村伊兵衛

 写真家の土門拳は、木村伊兵衛より、すこし後輩である。そしてこの先輩を相当に意識していた。土門は「打倒木村伊兵衛」と紙に書いて、部屋の壁に貼っていたという。そして、ライフ誌に木村のではなく、自分の写真が採用されたときのことを回想して、こう述べている。

「ぼくはかれを背負い投げでほうりつけたよ。背負い投げでぶっとばしたよ。写真でね。勝ったんだ、ぼくが」(「アサヒカメラ」1975年3月号)

 この前年に木村は心筋梗塞で世を去っている。その木村に対して土門はこれほどの言葉をのこしている。土門の木村に対するライバル意識は、終生変わらなかった。木村も土門を意識していたようだが、これほど激越な言葉は残していない。

 戦争へと傾斜しつつあった1935年に、木村伊兵衛は1ケ月沖縄を訪れ、写真を撮っている。木村は沖縄に本土とはちがった世界を夢見ていた。そしてある日、ひょいと現地に赴き、「夢の国」に生きる庶民の姿を、かろやかなタッチで掬い取った。名作とたたえられる「那覇の芸者」は、このようにしてできた。

そのあとを追うように、土門もまた1939年に沖縄を訪れ、写真をとった。しかし、その作風は木村とはまったく違っている。彼自身、「瞬間的なものよりも、最大公約数のものを出して行こうと思っている」と述べているように、土門の写真の女は、いかにもこれが沖縄の民族文化だというふうに、衣装を調え、それらしいポーズを決めている。

 木村が愛用したカメラは軽量のライカである。これをいつも持ち歩き、機会があればすばやく撮る。そのときの成り行きに身を任せるので、時間をかけて、立ち止まって何枚も同じようなショットをしつこく狙ったりしない。そうして完成した写真も軽やかで風通しがよい。いまにも人や事物が画面をはみ出して動き出しそうである。

 これに対して、土門は重いカメラを持ち歩き、じっくり腰をすえて、粘り強く対象に迫る。そうして出来上がった写真は、あくまで意志的で、力がこもっていて、どっしりとした重量感がある。三島靖さんも「木村伊兵衛と土門拳」(平凡社)の中で、こう書いている。

<木村は、被写体となった人物を、周囲の雰囲気ごと金魚すくいのようにつかまえる。もろい薄紙の上でいきいきとはねる金魚のイメージ。撮られた人物が薄い印画紙の上で動き続き、枠から飛び出してくるように見える。

 一方、土門は対照的に、これと決めた瞬間を鈍器で殴りつけて強引に静止させたかのように撮る。まるでぶ厚い印画紙に焼き込めたかのようだ>

 土門がどのようにして写真を撮ったか。画家の梅原龍三郎を撮ったときの様子を、土門自身が著書「風貌」に書いているので、その部分を三島靖さんの著書から孫引きさせてもらおう。

<念入りにピントを合わせているうちに、梅原さんの一文字に結んだ例の特徴ある口が、わなわな震えているのに気付いた。膝に置いた左手も、木炭を掴んだまま、ブルブル震えているのに気付いた。怒りに震えるという言葉の実際を、僕は目のあたりに見たのである。……

 梅原さんは、むっくり起ち上がった。籐椅子を両手で一杯に持ち上げた。そして「ウン」と気合もろとも、アトリエの床に叩きつけた。すさまじい音だった>

 土門は自分が納得するまで、徹底的に相手にポーズを取らせる。あるいは何枚も写して、そのなかからさらにこれだというものを根気よく選び出す。こうして力ずくで格闘し、もうこれしかないというような完成度の高い、力の漲った作品を作り出す。木村の自然体の写真とはずいぶん違う。

「ねらっている対象の、ごく一部の変化に気づかずにうつしている場合が往々ある。こういう見落としたものがかえって、ねらったものより強い効果を現してくれることがある。私はこれを写真の大きな魅力と思い、またここに写真の面白味もあると考えている」

 これは1953年に「写真の芸術性」というテーマで行われた座談会での木村の発言だが、ここでも土門は、「写真家は真に芸術家として、最も個性的な範囲で、自分の世界観を印画紙の上で充分に出すような写真家にならなければいけないね」と反発している。

 東京育ちで、これという貧乏の経験もなく、子どものころから高価なカメラを手にして、夢中で写真を撮っていたという根っからの写真好きの木村とちがって、土門は山形で育ち、幼い頃に祖母が借金取りに責め立てられている声を障子の陰で聞きながら、「貧乏だからだ」と蒲団を噛んで悔し泣きに泣いた記憶がある。写真家になったのも町の写真屋の下働きからだった。

こうした境遇を背負って「怒りの写真家」になった土門は、仕事に向かう姿勢も常に闘争的だった。とくに戦後になると、おりからの民主主義運動の波に乗って、その目は社会に生きる人々の上に向けられ、九州の炭鉱労働者の子どもたちや安保闘争、広島など、社会的リアリズムの濃厚で迫力のある作品群を生み出した。

しかし土門を有名にしたのは、彼がたんに社会派レアリズムの写真家たるにとどまらず、日本文化の精髄に迫る古寺巡礼のシリーズを生み出したことが大きい。これは芸術性のみならず精神性や思想性を重視する土門ならではの理想主義と、努力忍耐のプロ魂が可能にした壮挙といっていい。

実のところ、私自身は土門拳の重厚な作風がいささか苦手だ。人物像でも、仏像でも、あまりに型にはまっていて、その寸分なく計算された構図の見事さに息苦しさを覚える。どちらかというと、木村伊兵衛のように軽妙で、余分なものやノイズを気にせず、すべてを偶然にゆだねたような大らかな作風が好きだ。しかし、いつかは土門拳の作品もじっくり味わってみたいと思っている。

(今日の一首)

紙芝居見つめる子らのまなざしが
熱線のごとし昔の写真


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