橋本裕の日記
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2007年12月19日(水) 私の人生模様

 大学院の博士課程を1年残して教職についたのは、私が28歳のときだった。大学に残り、物理学の研究を続けていても、将来性がないと考えた。この決断が正しかったか正直わからない。しかし、高校教師になったことを後悔はしていない。

 赴任した高校は山の中にあった。各学年3学級の小さな学校である。私は理科を教えることになった。同時に、女子テニス部の顧問を任された。転任した先生が女子テニス部の顧問をしていたので、その後釜だった。

 私はテニスはほとんど知らない。ラケットを握ってコートに立ってみたが、20人ほどいた部員の中で私が一番へただった。これではいけないと、土曜日の夜、名古屋市名東区藤が丘にあったテニススクールに通うことにした。

 スクールには男性は私の他にもう一人、N君だけで、残りの十数人はみんな女性である。先生も女性だった。テニスがこんなに楽しいものだとは知らなかった。やがて休日になるとN君の他に数名の女性たちを誘って、私の高校でテニスをするようになった。

 私が当時住んでいたのは名古屋市郊外の長久手だった。そこの私のアパート近くに集合し、何台かの車に分乗して、1時間ほど山里の道を走ると学校に着く。猿投山が見えるテニスコートで汗を流した後、学校のプールで一汗流したこともあった。私の大学院時代の友人も合流して、みんなでピクニック気分でテニスを楽しんだ。

 そうしているうちに、私の車の助手席にいつもある女性が座るようになった。その女性が現在の私の妻である。私たちはやがて二人だけでデートするようになった。結婚したのはスクールで知り合って、ほぼ1年後のことである。

 私が妻と出合ったのは、たまたまである。私が名古屋の大学院に進学し、高校教師になり、テニス部の顧問になり、そして藤が丘のスクールに入らなければ、二人がめぐり合うチャンスはなかった。妻のほうにも無数の偶然が重なって、私たちは気の遠くなるような稀な確率で出会い、その後も偶然がたくさん重なって結ばれた。

 思えば私がこの世に存在するのも、私の両親がたまたま出合ったからである。そして私たちが夫婦にならなければ、二人の娘もこの世に存在しないし、私や妻の人生もまったく違ったものになっていた。このように、これからもいろいろな偶然がつみかさなって、私たちの人生模様が作られていくのだろう。

私は自分なりの意志や希望をもっている。しかし、人生は思いとおりには運ばない。この先も自分の人生がどのようなものになるかわからないが、それが人生の面白いところでもある。結局のところ、偶然がおりなす様々な出来事の流れに身を任せながら、そうしたなかで、自分らしさを一筋通していければよいと思っている。

(今日の一首)

 さまざまなご縁がありて出来あがる
 人生模様のおもしろきこと


橋本裕 |MAILHomePage

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