橋本裕の日記
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2007年12月20日(木) |
随処に主となる生き方 |
57年あまり生きて来て、このごろよく考えるのは、「人生は出会いだ」ということだ。さまざまな出会いがあって、私の人生がこのようにかたち作られてきた。
私が妻とめぐり合ったのも偶然の出会いなら、いまここ愛知県一宮市でくらしているのもまったく偶然である。さらにさかのぼれば、私が福井である男女の子供として生まれたことさえも偶然である。
私は別に猫や犬に生まれてもよかったし、アフリカのサルの子どもにうまれてもよかった。あるいは、銀河系のまったく別の惑星にすむ生物としてうまれてもよかった。
そもそもこの地球という惑星が生まれ、そこにはぐくまれた生命が人類に進化したことそのものが多くの偶然の産物だといわなければならない。私の人生は宇宙開闢以来100億年以上続いた、そうした偶然が無数に重なってかたち作られてきたわけだ。
もっとも、偶然としか考えられない現象も、その複雑な因果関係の糸をたどっていくと、それぞれが複雑にむすびついている。全知全能でない私たちにはわからないが、その背後に何らかの運命の糸が張り巡らされているのかも知れない。仏教ではこれを「縁」と呼んで、「袖摺りあうも他生の縁」などという。
私はこの「縁」という考え方が好きだ。人生を動かしがたい必然と見る運命論でもなく、すべてを偶然の産物と見る虚無主義でもない。むしろ、人生は偶然と必然の糸が織り上げる織物だと思って眺めてみると、この人生もなかなか味があって面白い。
偶然と必然の出会いが人生を創る。その出会いをかたちあるものとなし、ゆたかな人生の果実とするためには、私たち自身のこころのあり方も重要になる。ただ必然に縛られるのでも、偶然にもてあそばされ受身で生きていくのでもない。そのせめぎ合いの中でしぶとく自分の生きるスタイルを育てるのである。
そしてできることなら、この人生をさらなる豊かな出会いの場所にしたい。偶然と必然が織り成すこのめまぐるしく変化する世界にあって、「随処に主となる生き方」をして自らを見失わず、人生をおおらかに楽しみたいものだ。
(今日の一首)
なにゆえにここに生きるかたまゆらの 生をたのしみいつか朽ちゆく
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