橋本裕の日記
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2008年01月21日(月) 仏さま、ありがとう

 初詣は毎年近所の神社に参拝することにしているが、今年はそのあと妻と二人で京都の清水寺や知恩院、八坂神社にお参りした。神社仏閣にお参りし、お賽銭をあげて、何か願い事をする。そのとき、いくらあげようか、100円にしようか、10円か20円で済ませようか、財布の中身をのぞきながらいつも迷う。

神様や仏様を前に「こんなに差し上げるのはもったいない」などと考えるのは我ながら恥ずかしい。また神様や仏様に金額で差をつけるのもどうかと思う。そこで、お賽銭としていつも50円を差し上げることにした。こう決めておけば迷わなくてすむ。

お賽銭を上げた後、手を合わせて何かお願い事をするわけだが、これも何をお願いしようか、いろいろと迷う。「家内安全」「世界が平和でありますように」など、いろいろとお願いしたいことは山ほど浮かぶ。しかし50円でこんな大それたことをお願いするのも、ずうずうしいような気がする。

今年も清水寺に参拝しながら、何をお願いしようかと少し迷った。ところが知恩院にお参りしながら、法然上人のことを考えているうちに、高校時代にならった仏教の授業で、「南無阿弥陀仏」は、「仏様、ありがとう」のことだと教えられたことを思い出した。

現世利益ではなく、感謝の気持で唱えるのが本当の念仏である。そして親鸞が法然上人から学んだ大切なこともこれだったはずだ。そうすると、お参りするときも、ただひとこと、「ありがとうございました」と手をあわせればよいのではないか。

将来について何かをお願いするのではなく、ただ現在無事生かされていることに感謝すればよい。これだと神様や仏様によぶんな負担をかけなくてすむ。

 じつのところ、お賽銭も「ありがとう」と感謝しながら差し上げればよいわけだ。こんなことに気づくのに40年もかかってしまった。これも煩悩具足のゆえだろう。

私はこれまで、「感謝の念仏」などと日記に書き、人にも説いていた。それでいて、神社仏閣でお賽銭を上げたあとは、つい参拝の人に押されたりしながら、いそいで何かお願い事をしてしまっていた。

そんな私が、この歳になってこの大切なことに気づかせていただいたのも、知恩院の法然上人の遺徳かもしれない。あるいは旅の道連れに読んだ、藤本義一さんの「歎異抄に学ぶ人生の知恵」(PHP出版)のおかげもあるのだろう。

さて、一昨日の土曜日は穏やかな晴天だったので、妻と次女と私の三人で久しぶりに金華山にのぼった。そしてふもとの伊奈波神社にお参りした。お賽銭を50円さしあげ、無心に手を合わせて、「ありがとうございます」と、さっそく感謝の祈りを捧げた。そうすると、いつになくすがすがしい気持に満たされた。


橋本裕 |MAILHomePage

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