橋本裕の日記
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私は超常現象を信じていない。霊魂も奇跡も信じない。死ねば肉体が滅び、精神もほろびる。こうして私たちは煩悩から解放されるわけだ。
煩悩のない世界は「涅槃寂静」の世界である。つまり死ぬことで、私たちは誰もが仏になることができる。これはありがたい。だから、私は死ぬことは楽しいことだと思っている。
キリスト教だとこうはいかない。人間は死んだ後は墓で眠っている。そして最後の審判の日がやってくると墓から抜け出して、一人ひとりキリストの審判を受けなければならない。そこで地獄へ行くか、天国へ行くか決められる。
キリスト教にもよいところはたくさんあるが、こういう死生観は私にはたえられない。日本に生まれて、仏教の信者になれて、よかったと思っている。
もっとも、私が信仰するお釈迦さんの仏教は、お寺の坊さんたちが説く教えとは違っている。彼らもまた、死後も私たちの霊魂は残り、地獄や極楽があるという。だからキリスト教と本質的にはかわらない。せっかく仏教の国に生まれたのに、もったいないことだ。
私は高校時代に「歎異抄」にであって、親鸞の教えに共感し、これこそ私が求めていた宗教ではないかと考えるようになった。ひとことでいえば、煩悩具足のわたしたちも、死ねば煩悩から解放されて、だれもが極楽浄土に行くことができるということだ。
ところが蓮如上人は「歎異抄」を門外不出にした。「悪人成仏」などとんでもないことである。死んで誰もが極楽浄土などされたら、それころ商売ができない。だから教団としてはこれを封印するしかなかった。
この気持もわからぬではない。生きているうちに善行を積めば極楽往生できるという教えは、人を善人にし、社会を安寧に保つために有効な方法かもしれないからだ。しかし、このことを口実にしてお金儲けばかりに励んでいると組織も人も堕落する。
嘘も方便と言うが、方便も過ぎると見苦しい。しかもその方便がいつか主役になって、真実を覆い隠そうとしている。その最たるものが地獄極楽という幻想であり、地獄に落ちるという脅迫だろう。宗教家は人の弱みや欲につけこんで商売をする詐欺師であってはならない。
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