橋本裕の日記
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私は子どものころから、自然科学的なものに興味があった。小学生の頃は顕微鏡や望遠鏡が好きだったし、中学時代にはSF小説に熱中した。しかし、高校に入り、これに加えて、文学や哲学にも興味を持つようになった。「歎異抄」や「善の研究」「純粋理性批判」など、いろいろと読んだ。
大学では物理学を専攻したが、共産党の下部組織に属して政治活動をしていうるうちに、人生や社会問題について、さらにいろいろと根本的な疑問が湧いてきた。それらの問題は物理や数学を勉強していては解決できそうにない。そこで思い切って、哲学科に転学しようと思った。
ある日、哲学科の主任教授に面会して、「世界の根本的なありかたについて研究したい」と相談したら、「君のような意欲的な学生が欲しかった」と、あっさりと転科を許してくれた。そしてその先生のゼミに出席することになり、論文のコピーや雑誌をいただいた。
インド哲学について書かれたドイツ語の論文を理解しようと辞書を引いているうちに、だんだん辛くなってきた。ドイツ語の壁がどうしても乗り越えられない。結局、哲学科への移籍はあきらめた。そしてふたたび、物理学科に復帰した。
このあと私はすっかり物理や数学についての意欲を失い、留年をくり返した。なにもかも面白くなくなり、やる気もおこらない。生命力がしだに枯渇して、アパシーの状態に陥った。真昼中、いい年をした青年が、部屋にあおむけに寝転んでため息ばかりついているのだから、いわば一種の「引きこもり」だった。
これではいけないと、高校時代に親しんでいた「歎異抄」を読み返した。しかし、以前に感じた感動が蘇らない。小説を読んでみたがこれも楽しめない。物理や数学の勉強も依然としてやる気がしなかった。
それでも私は朝夕新聞配達をし、近所のスーパーに出かけて買い物をし、自炊をしなければならなかった。留年を繰り返したせいで家からの仕送りが絶え、私は学費や生活費を自分で稼ぎだす必要があった。生きていくということは何としんどいことかと思った。
私はあるときロープをズボンのポケットにしのばせて卯辰山に上った。死んだら永遠のやすらぎが得られる。だから死ぬことは怖くないはずだった。しかし、自殺はできなかった。まだ「生きていたい」という煩悩が残っていたようだ。
それからも真昼中、寺の一室でぼんやりとひとりで天井を眺め、無気力に暮らしていたが、夏のある日、たまたま聞き流していたラジオから、犬養孝さんの「万葉の人々」という番組がながれてきた。これを何日かぼんやりと聞いていた。そうすると、こんな歌が聞こえた。
信濃なる千曲の川のさざれ石も 君し踏みてば玉と拾はむ
(千曲川の河原の何でもない小石だけれども、あなたが別れ際に踏んで行ったから、私には大切な石なのです。それを宝物と思って拾います)
この歌に限らず、万葉の人々は全身で人を愛し、愛する人を失った悲しみを全身で歌っている。その人々のたましいの溌剌とした声が万葉集の歌をとおして、私の心にじかに届いた。
そこで私はこんなことを考えた。人間は煩悩具足でよい。この煩悩のゆえに人々は悲しんだり喜んだりする。しかしこの煩悩を、万葉の人々のように、清らかなものに昇華させればよいのだ。そうすればこの世は面白く、人生は味わい深いものになる。
そう考えると、私のまわりの風景が変わってみえてきた。たとえていえば、それまで白黒だった世界が天然色にかわった感じだった。色彩や音や匂いが、いきいきと感じられるようになった。世の中がこんなに美しく、光に満ちているのかと驚いた。
私は高校時代に「歎異抄」にであうことで、「色即是空」の世界を知った。しかし、人生が「空」という認識だけでは私たちは生きてはいけない。そこから「空即是色」と力強く現実世界に立ち戻る必要がある。
私は万葉集に出会うことで、「空」の世界からもういちど現実世界の只中に立ち戻ることができたのだろう。そしてそれと同時に私は活力を取り戻した。物理の勉強もはかどりだしたし、何よりもうれしかったのは、その後は人生をたのしむことを覚え、より味わい深く生きることができるようになったことだ。
私は後年、良寛が好きになった。彼の歌や詩を読むと、私はいつも万葉集と出合ったときの喜びが蘇ってくる。良寛は50歳を過ぎて万葉集を偏愛しているが、彼には私よりはるかに深い「空即是色」の光明体験があったのだろう。
さて、もし私がドイツ語に堪能だったら、おそらく哲学科に進学し、今ごろは大学の先生にでもなって哲学の論文を書いていたかもしれない。しかし、そうすると万葉集や良寛との出会いはなく、私の人生は別のものになっていただろう。ドイツ語が苦手でよかった。これも仏さまのはからいかも知れない。
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