思考過多の記録
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2001年01月20日(土) 「成人」について

 些か旧聞に属するが、今年の成人式では各地で新成人の傍若無人ぶりが目立ったようだ(別に今年が初めてというわけでもないのだが)。特に、新成人が集団で酒盛りしたあげく、挨拶中の市長にクラッカーをぶつけた高松市と、県知事の挨拶中に新成人が「帰れ」コールをして知事に「うるさい!出ていけ!」と一喝され、「お前が出ていけ!」と言い返した高知県の成人式はつとに有名となり、そのシーンはしつこいくらいに何回もテレビで放映された。そしてこの2つの成人式、とりわけ高松の‘事件’をマスメディアは「マナーが悪い新成人」の象徴的な例として好んで取り上げ、スタジオではコメンテーターやキャスターがセオリー通りに眉をひそめてみせたものである。僕はこれについてこの日記でふれようと思っていた矢先に、例のインフルエンザにやられてしまった。時はたったが、それでも敢えて書かせてもらう。
 僕は前々から成人式自体を廃止すればいいと思っている。大体、「大人」(成人)というのは誰かに認定されてなるようなものなのだろうか。しかも、よりにもよって何故地方自治体などにされなければならないのか? 百歩譲って「社会」が祝うということだとしても、その代表が地方公共団体やその長のわけがない。もし彼等が本気でそう考えているのだとしたら、相当な厚顔無恥である。その上、祝辞を述べる地方自治体の長達には「君達は成人になったんだよ。つまり、選挙権を持ったということなんだ。ついては、次の知事(市長・町長・村長)選挙をよろしく。僕の顔を覚えてね」という下心が見え隠れする。そういうことは一切問題にされず、大人達は皆‘厳粛な’成人式にこだわり、「人の話を黙って聞くというモラル」なるものを持ち出す。挙げ句の果てに「こんなマナーの悪い新成人達のために、税金を使って成人式などやってやることはない」などと言い出す始末だ。僕に言わせれば、話は全く逆である。初めからこんな空虚なセレモニーは不必要なのである。それは大人の都合とは関係ない。
 そもそも、20歳を境に子供から大人に変わるという考え方そのものに無理があるのだ。何故なら、もともと「子供」なる存在はそれ程遠くない昔に「作られた」存在だからである。未熟であるが故に、保護され、「大人」の監督の下で教育されるべき「半人前」の存在。そういうものとしての「子供」時代を創造(捏造?)したのはルソーである。それ以前には「子供」「大人」という区別はなく、年齢の比較的低い人間でもみんな役割を与えられていたし、それに伴う責任だって負っていたのだ。当然、「子供」向けの遊びや「子供」向けの情報(童話や児童文学等)といったものもなかった。みんなが「一人前」として扱われていたのである。日本でも、「子供」という思想が輸入され、一般に普及したのはそんなに昔の話ではない。要するに、「子供」は自明の存在ではなく、歴史性を持ったものなのだ。元々ありもしない「子供」=幼年期・青年期という存在として自分達が勝手に規定しておいて、「さあ、もう保護された時代は終わりだ。これからは晴れて我々の仲間入りだぞ」などと「大人」が恩着せがましく言っているのが成人式の正体なのである。先に大人になっていた自分達が「偉い」という状態を見せつけ、それを維持したいがためにやっているだけとも言える。何とも滑稽な話ではないか。
 そんな「大人」の魂胆など、今の新成人達はハナからお見通しなのである。クラッカーを投げつけないまでも、私語や携帯で式を全く無視しているという態度に対して「マナーがなっていない」と目くじらをたてた大人達がいたが、無意味なことに対する素直な反応と考えれば、むしろ当然のことである。「大人」が「大人」なだけで偉い時代は終わったのだ。ついでに言えば、「子供」を「子供」に閉じこめ、「大人」と切り離して扱うのも、いい加減にやめよう(法律を適用すれば「大人」扱いしたということではない)。問題は人間としての中身である。中身が空虚でない、聞く価値があることを話せば、若者だってちゃんと耳を傾ける筈だ。社会の変化についていけていないのは「大人」達の方なのである。
 という具合に新成人達の行動に溜飲を下げていたところ、なんと騒ぎを起こした高松の若者達が自ら名乗り出て逮捕されるという最悪の‘オチ’がついた。「大変なことをしてしまった」と反省していると、これを伝えるニュースは得意げだ。いやはや。彼等も所詮は「子供」だったということか。ともあれ、これでまた暫くの間「大人」達は増長するだろう。その姿の醜さに気付かないのは、他ならぬ「大人」達だけである。


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