思考過多の記録
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2001年01月21日(日) |
性的コミュニケーション |
以前、まだ僕が実際に女性と寝る経験をする前(どの位前の話かは、ことの性質上伏せておく)、ある女の後輩との酒の席で「セックスっていうのも、重要なコミュニケーションの手段の一つだよね」と発言したところ、「そうかも知れないけれど、そんな身も蓋もない言い方はしないで欲しいな」と言われたことがある。その時は意味がよく分からなかったのだが、実際にそういう経験をしてみると、成る程彼女の言いたかったことのニュアンスは理解できる気がする。ただ、それでも僕は、先の自分の発言は間違ってないと思っている。いや、むしろその正しさを再認識した。セックスこそ、ある意味で人と人とのコミュニケーションの縮図であるといえる。 一例を挙げよう。よく取り上げられる女性側のセックスに対する不満として「感じさせてくれない」というのがある。男の側が一方的に高まり、終わってしまうということなのだが、これはしばしば、所謂‘テクニック’の問題と混同される。勿論そういう側面もあるのだが、それだけでは片付けられない。セックスはもっとメンタルなものだ。これは、要するに男が相手の状態を考えていない、ディスコミニュケーションの状態なのだ。男と女とでは、性的な快感に関しての特性がそれぞれ違う。勿論、個人差もある。それを無視して、一方的に自分の快楽のみを追求しようとしてしまう。そして、自分がそれを満たしてしまえば、それで満足してしまう。これは、相手の気持ちを考慮せず、その主張に耳を傾けることもせず、一方的に自分の主張をまくし立てているのと同じだ。当然、こちら側の言いたいことも相手には伝わらない。しかし、自分が言いたいだけ言ったからそれで伝わったと思い込んでしまう。これはとりもなおさず、その相手を対等なコミュニケーションのパートナーとして扱っていないということなのだ。「男性」の持つ「攻撃性」という性的な性質上、また長らく続いた男性優位社会の反映(=ジェンダー)という側面もあり、男の側がかなり自覚的にならないとこういう状態は防げない。勿論、女性側に全く問題がないということではない。大切なことは、お互いが対等なパートナーであるということを認識することである。どちらかが常に我慢を強いられていたり、一方がもう一方の欲望を充足させるための手段にされていたりするのは、関係のあり方としていいとは言えないだろう。 相手に性的な満足を与えるというと、どうしてもテクニック的な話になってしまう傾向がある。確かに、テクニックはないよりあった方がいいだろう。言葉によるコミュニケーションの場合でも、‘話術’というテクニックがある。しかし、上辺だけのテクニックに頼った言葉が人の心をつかまないのと同じように、テクニックだけのセックスでは思うような快感が得られない場合が多い。テクニックは、あくまでも「自分の気持ちを表現する手段」として存在するのだ。気持ちが通じ合っていれば、たとえありふれた愛撫の仕方でもお互いに大きな満足を得られるところは、まさしくコミュニケーションの真骨頂である。 この手の話は「下ネタ」という扱いからも分かるように、ともすると隠されるべき問題とされ、また興味本位で表面的な部分だけ誇張されて語られることが多い。「気持ちよければいいじゃん」というもっともな意見もあろう。しかし、問題はその気持ちよさの中身である。考えてみるとセックスというのは、男と女が生まれたままの姿を見せ合い、一番無防備な状態をさらけ出す営みだ。セックスが軽くなって久しく、別に好きもでない相手とでも寝てしまう人も多い。とはいえ、ある程度以上の信頼を相手に対して持っていないと、そこまではできないと感じる人間がまだまだ多数であろう。それはおそらく、自分にとって全てをさらけ出すことができる、心から信頼できる相手というのはそんなに多くはないということを意味する。であればなおのこと、ベッドの中では相手ときちんと向き合いたい。そして、お互いの愛情を確認したいものである。 セックスというテーマは非常に奥が深く、僕ごときがこんな短い文章で語り尽くせるものではない。今の僕にベッドの中で愛を語り合う相手がいれば、もう少しまともな考察ができるのかも知れないが、まだまだ「身も蓋もない」内容しか書けないのが寂しい限りだ。
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