思考過多の記録
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2001年01月26日(金) |
アマチュアの表現について |
アマチュアの出版が増えているそうだ。自費出版に近いものだが、制作費のいくらか(もしくは殆ど)を「著者」側が負担し、出版社と共同という形で出版する。出版社側は自社の販売ルートで売る。だから、まがりなりにも書店に並ぶわけだ。そして、売り上げ(利益)の何割かを出版社が取り、残りを「著者」が受け取るという仕組みだ。こうして出版される本の中から、ごくたまに何万分という単位で売れるベストセラーが出る。この現象を取り上げたテレビ番組で言われていたのは、「書きたいこと」があるのに、それを表現する手段がなかったり、表現の仕方が分からなかったりする市井の人が結構いるらしいということだ。 アマチュアの書いた本でベストセラーになるものは、大抵「感動的な」内容である。生まれつき、もしくは不慮の事故によって重い障害を持った人が、周囲の支援を受けながら様々なことにチャレンジしてひたむきに生きていくとか、事故で幼い我が子を失ってしまった母親の手記、あるいはその子供の遺した日記や手紙をまとめたものなどである。番組に出演していた初老の大学教授は「プロの人の書いたものに比べて、一般の人が書いた素直な言葉が、読者の心に届きやすかったのではないか」と分析していた。確かにそういう面はあろう。また、所謂プロの著述業の人(作家等)の書いた‘作り物’の言葉の世界ではいかにもと思われてしまう内容でも、実際にそれを体験した人が生の言葉で書くと ‘真実’っぽく見え、その分説得力があるように感じられるだろう。だが、それでは‘作り物’には価値がないのかというと、そうではあるまい。 僕はアマチュアの表現を否定しない。自分もそれをする人間の一人であるからだ。だが、それをどんな形であれ世に問うということになると話は別だ。例えば、不治の病に冒され、幼くして命を落としたある少女の日記には、家族の大切さを彼女が感じていたことが素直な言葉で綴られているという。彼女が亡くなってしまっているために、その言葉は胸を打つだろう。だが、「家族の大切さ」を感じているのは、何も彼女だけではない。また、それを彼女レベルの言葉で表現できる人は、おそらくかなりの数に上る。もしも、日々普通に生活している、本当に一般の人が同じ言葉を書いて世間に発表しようとしても、おそらくその場はないし、見向きもされない。理由は2つ。書き手が全く注目されない、そして、書かれている内容の陳腐さだ。「家族の大切さ」という手垢の付いた内容を、何処にでもいる人が書けば何の価値もないのに、不治の病に冒された人間が書くと注目され、共感を呼ぶ。まるで、人生の真実でも書かれているかのように扱われ、賞賛されもする。考えてみるとおかしな話だ。もっとも、似たようなことはプロの作品にもあって、こちらはもっぱら作家のネームバリューで売れたり売れなかったりするという、まさに「人気商売」といったところだ。 金が取れる表現というのは、本来は技術と内容が勝負の筈である。その昔、「いか天」から始まるバンドブームというのがあった。アマチュアがバンドを作り、自作の曲を演奏するというもので一世を風靡したが、現在残っているバンドは皆無である。自分達の思いをストレートに表現するのは、実はそんなに難しいことではない。問題はそれをエンターテインメント、すなわち金が取れる表現のレベルにまで高め、なおかつそれを持続することである。それができる人間はそう多くない。だからこそ、それをやりおおせる人間は凄いと思うし、その表現に対してはお金を払ってもよいと思えるのだ。そういうわけで、僕はアマチュアよりも、プロの作家の書くもの(作り物)に興味があるし、期待している(期待はずれのことも少なくないが)。 ところで、この日記は僕の自己表現であるが、これで金が取れるとは到底思えない。だから内容が独断と偏見に満ちていて、なおかついい加減だということでは決してないつもりなのだが。勿論、僕も劇作家の卵を名乗る以上、いつかは内容で売れる文章を書けるくらいにはなりたいと思っている。ちょっとストレートすぎる締めではあるが、アマチュアなので勘弁してもらおう。
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