思考過多の記録
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2001年02月02日(金) 話を聞く男、地図が読める女

 「話を聞かない男 地図が読めない女」という本がある。これが結構ベストセラーになっている。この本の著者自身、本に書かれた通りに考えることで夫婦喧嘩をしなくなったという。何とも有り難い本だ。曰く、男と女はそもそも脳の作りが違うのだから、それぞれに適正があり、感覚も違う。「理解できない」とお互いが思う部分があるもの当然である。そのことを分かっていれば、お互いの無理解から衝突を起こすということはなくなるだろう。…なるほど、もっともな主張に思える。しかし、こんなもので目から鱗が落ちたり夫婦が円満になったりするのだろうか。もしそういう人達がいるとしたら、一体彼等はそれまでパートナーの何を見てきたというのだろう。
 人間に限らず、生物の雄と雌には性差がある。これは当然のことだし、否定することはできない。雌雄それぞれに役割が分担されていて、それをこなすことでお互いに生き延び、子孫を残している。それはDNAの中にプログラミングされている営みだ。人間の場合、それに加えてジェンダー、すなわち文化的に規定された性別役割というのがある。この2つがしばしば混同されるのでやっかいなことになるわけだが、ここではそのことには深入りしない。いずれにしても、男女それぞれが認識や感覚の一定の傾向性を持つことは事実であろう。問題なのは、性別による特性や差異ばかりが強調され、個体差が無視されているということだ。「脳」だの「原始の生活」だのを引き合いに出してくると、まるでそれは反論を許さない絶対的なものであり、僕達の存在のあり方を完全に規定しているかのように感じられてしまう。だが、本当にそうなのか。
 例えば、ある時期まで男性の就く職業と女性がつくそれとははっきり区別されていた。だが現在ではその境界線はかなり曖昧になっていて、男性の「保母」=保育士や「看護婦」=看護士がいたり、女性の医者や弁護士、重機の運転士、兵士までいる。家庭を持たずにキャリアを重ねる女性がいるかと思えば、仕事よりも家庭を選ぶ‘主夫’がいたりする。スポーツの種目なども然りである。いずれもかつては男女の性差によって適性が異なると思われていたものだ。だが、その定説に大した根拠がなかったことは、実際の数多くの事例から明らかである。脳における認識の働きを司る部分の構造が如何に違っていようと、育った環境や受けた教育、文化の違い等でそれはいかようにも変わっていく。そこに個体差が生まれ、それがさらに多様な人間の営みや文化を形成していくのだ。
 自分とパートナーとは違う感覚・認識の傾向性を持つのだと認識することは大切なことである。しかしそれは「男と女」だからということではない。人間はどうしても自分の価値観や認識の枠組みに当てはめて物事を見がちだ。そうすると、当然相手の行動や言動が理解不能な場合が出てくる。その時、力関係によって自分の価値観を押しつけたり、無理矢理自分の認識の枠組みに相手を当てはめて理解したような気になったりすることで事態に対処したとすれば、それは思考停止である。これは根本的には何もしていないに等しい。「話を聞かない男 地図が読めない女」的理解および対処法とは、「男と女」という別の枠組みを導入し、それによって全てを解釈しようとしているだけである。言うまでもなくこれは思考停止状態であり、本当の意味で相手(や自分)を理解することにはならない。何故なら、この枠組みからこぼれる人間に対しては、結局は自分固有の認識にあてはまらない人間に対するのと同様の対処法をとるしかないからである。
 基本的に物事は複雑である。ましてや「人間」に関することとなればなおさらだ。それ故僕達は、ついつい単純な図式による理解を求めたがる。「男はこういうもの」「女はこういうもの」と言っていれば、それ以上考えずにすんで楽だからである。そのことに自覚的であるうちはまだよいが、図式が全てだと本気で思い込み始めるとたちが悪い。異性であるパートナーを本当に理解しようと思ったら、そうした図式を捨て、自分の認識の枠組みにできるだけ縛られない状態で相手と向き合うことである。これは言葉で書く程容易いものではない。だが、コミュニケーションとは本来そういうものである。そのことがあらゆる困難を伴いながらも同時に喜びでもあり得るような相手こそが、自分にとっての真のパートナーなのではないだろうか。
 僕の知り合いには「地図を読むのが好きな女」が存在する。そして、僕は「話を聞く男」をでありたいと思っているし、そのためにできるだけ自覚的であろうとしているつもりである。それが「男らしくない」と思われてパートナー不在が続いているのだとすれば、これは僕の認識の枠組みでは対処不能な事態である。


hajime |MAILHomePage

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