思考過多の記録
DiaryINDEXpastwill


2001年02月07日(水) 雪と日常

 先週末大雪に見舞われた首都圏は、その後1週間概ねよい天気に恵まれた。にもかかわらず、雪がほぼ完全に溶けきるのに1週間以上を要した(まだ残骸が残っている場所もある)。あの雪による交通や生活の混乱と大騒ぎがメディアで大きく報じられ、雪国の人達は「またか」とうんざりしたことだろう。
 都市部で生活する人間にとって、雪はいわば‘非日常’の出来事だ。たとえ積雪2,3センチの「うっすらと雪化粧」程度であっても、僕達の周囲の風景は一変する。あの見慣れた、雑然として何処といって特徴のない街並みがまるで別世界のようになる。夜であれば、月明かりや街の灯が降り積もった雪を照らし出し、まさに「夜の底が白くなった」という『雪国』の描写そのままに、夜の闇の下からぼうっと光を放っている。その天の暗闇から吐き出されるように白い雪が次々と現れ、地上に舞い降りてくる様は圧巻だ。日が昇れば太陽の光を浴びた雪は白く輝き、その照り返しは強烈である。雪外の大抵のものは黒ずんで見え、空の青もその濃さを増す。「銀世界」という言葉はゲレンデだけのものではない。街全体が銀色に輝くのだ。
 こんな風であるから、雪はある特別なイベントのための‘小道具’としては最適だ。クリスマスイブに雪が舞うのと舞わないのとでは、結ばれるカップルの数が一桁は違うのではないかと思われる。ドラマも映画も舞台も、ここぞという場面になると雪を降らせてみせる。‘ベタ’な処理なのだが、それだけでそのシーンが感動的になるから不思議だ。そういえば、桜田門外の変も2.26事件も雪が降っていた。それだけで何かただならぬ悲壮感が漂う。主人公たちが直面する日常とは違うシチュエーション。雪はそれを象徴する。雪はあらゆる錯覚を誘発する薬のようでさえある。
 しかし、都市部の雪景色は1年に数えるほどしか現れず、どんなに頑張っても3日くらいしかもたない。雨でも降ろうものなら、一夜限りで終わりだ。日常は何事もなかったかのように我が物顔で戻ってくる。だから都市部の雪は、儚さの象徴でもあり得る。初恋も、夢も、欲望も、人の命さえ、淡く消えてゆく雪のようだ。僕は空き地や家々の屋根を覆う雪を見る度に、夢は儚く消えゆくもの、この世に常なるものはない、という感慨にとらわれる。だからせめて、できるだけ長い間雪が降り続き、日常への帰り道を遠ざけてほしいと願ってしまうのだ。
 だが、これは僕が太平洋側の都市部の住人であるからこその感慨である。雪国の人々にとっては、おそらく雪は全く違う存在であろう。いつもの風景のちょっとした飾り付けにとどまらない。雪は世界の全てを凌駕する。その時点までの人間の日常生活の都合などお構いなしだ。しかも、容赦はない。あっという間に人間の背丈を遙かに超えて降り積り、吹雪は視界を奪い、生き物たちの動きを封じる。雪国に暮らす人々にとって、一面の雪景色はある時期におけるもう一つの日常風景である。放っておけば道を消し、建物をも押し潰す‘ならず者’と辛抱強く付き合わねばならない人々の多くは、「雪」という言葉に甘美な響きを感じないだろう。むしろ、雪を溶かして流れ出す川の音や、雪の下から芽吹いてくる草花達を、また雪の間から黒々と現れるアスファルトの日常の訪れを待ち焦がれながら、白い日常を黙々と過ごしていることと思われる。
 とはいえ、雪が文学や絵画など芸術一般に多くの素材やインスピレーションを提供し、今も多くの人達の心を動かしているのは、雪が「白い」ことに起因しているのではないかと僕は考えている(雪が黒や赤だった場合を想像してみてほしい)。どんな色にも染まり、純粋さの象徴でもある「白」。決して純粋ではあり得ない僕達の日常を白く覆ってくれるのは、天の仕業以外不可能なことではある。
 今週半ば、首都圏は再び雪の予報が出ていた。が、今回は残念ながら雨になりそうである。


hajime |MAILHomePage

My追加