2009年01月25日(日) |
日本語の構造についての新しい視点 |
仕事がら、国語の入試問題やそのタイプの問題集を扱わなきゃならない。 自身の高校時代も浪人中も、ぜんぜん解いたことがなかった。 たまにやりかけても、うっとうしいのでやめてしまった。 模擬テストや実力テスト(定期テストも)の時は、 しょうがないから解かざるを得ない、、でやっていただけだ。
今も嫌いなんだけど、要請があるので仕事上扱わなきゃいけない。 でも、時々おもしろい文章に出会う。 教科書に載ってるものよりよほどおもしろい文章が多い。 読書時間がままならないので、案外ありがたいことでもある。
きょう某大学の過去問を見ていたら、 加賀野井秀一という人(仏文学・思想、言語学)の 「日本語は進化する」という本からの一節に出会った。
手紙の宛名の書き方は、日本流と西洋流のどちらが優れているか? 大きなカテゴリーから小さなものへ限定し、最後に名前が来る、 この日本流の方が理にかなっていると、フランス人も認めている、 という話題から始めている。
そして、主語 - 述語論争で有名な例文だった「象は鼻が長い」。 その主語はどれかという議論は今はやめておいて、、、
「今はこの表現の論理展開だけに注目していただきたい。 まずこの表現は『象は』と言って語るべき主題を提示し、 さらにこの主題の中で『鼻』を限定することによって、 順次その内実を語っていく。つまり、 日本語の論理のプロセスも、基本は宛名書きと同じく、 大きなカテゴリーから次第に小さなものへと。 絞りこんでいくプロセスなのである」
ははぁん、、確かに。。 「象について言うとね、先端の鼻がね、長いんだよ」ということだから。
日本語は西欧語に比べて、主語が不明確で曖昧な言語だとか、 述語が最後に来るので言いたいことがわかりにくい、とか、 だから西欧語に比べてきわめて非論理的であるとか、 そもそも日本語には「主語」なるものは存在しないとか、、、 そういう論点とはまったく別の観点で私も日本語を考えて来たのだが、 この人の指摘はまたとても新しい感じがした。
・・で、そもそもの我々の物事の認識というところを考えてみている。
「私たちが、べつにこれといった注意を払わなければ、 世界はぼんやりとしたまどろみの中にあるのだが、 ひとたびそのどこかに注意を向けるならば、 とたんに世界もそれに応じた表情を見せるようになってくる」
「ある時ふいに、曖昧模糊とした促しのようなものが生じる。 この促しは、少しずつ意識化のプロセスをたどり、 それが次第に形をとって、ついには命名というレベルに達する。 そこで私たちは、『〜は』という言い回しによって、 言語表現への決定的な第1歩を踏み出すことになるわけだ」
つまり、「日本語の論理のプロセス」は「明確化の歩み」であり、 「帰納的」で、すぐれて「探索的」「発見的」である、と言う。
おもしろい見方だと思われたので、メモしてみた。 「これは、、、恐竜の骨、、です、、、、、か?」みたいに、 最後の最後に疑問文になってしまうのも、 「これは、、、恐竜の骨、、で、、、、、はない」みたいに、 最後の最後に否定文になってしまうのも、 認識のプロセス、明確化の歩み、、ということと一致していそうだし。。
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